現代化以後の算数教科書における図形の包摂関係の扱い
帯分数主義と仮分数主義の相克
Y君は順序指導の被害者か?
算数に証明なし、算数に定義なし
「正方形は長方形である」といった、三角形や四角形のあいだの包摂関係は、現代化の時代(1970年代)に、集合概念や、その関係を表す記号(⊂)やヴェン図を用いて、小学校で教えられた。
正方形が長方形の、正三角形が二等辺三角形の、長方形が平行四辺形の特殊な場合であることが教えられていたが、理解できない児童がかなりの割合でいた。
たとえば、読売小町の図形のトピにレスをした、赤熊(redbear)氏は、小4のときにクラスで勃発した、「長方形は平行四辺形である」問題について述懐している。そのとき、小学生の赤熊(redbear)氏だけは「長方形は平行四辺形だ」と主張したが、クラスの他の同級生はすべて、これに反対した、という。
翌日、その説明を考えてきた赤熊氏は、クラスでその理由を発表し、数学を専攻した教師によって、赤熊氏が正しいという裁定が下ったのだという。「長方形は平行四辺形である」と教えられていた現代化の時代なので、教師がそのような裁定を下したのは、当然である。私が注目したいのは、クラスで、赤熊氏以外の同級生たちが、それに同意しなかったことである。
現代化時代は、集合や位相などの、現代数学の抽象的な概念を採り入れられ、教える内容が形式化し、同時に、他の既存の学習項目が削られなかったために詰め込み主義ともなった。このため、算数の授業が理解できず、算数がきらにいなる児童が割合が増えた
このような過酷な現代化算数に対する反動と反省から、1980年代(ゆとり第1期)になると、基礎に帰ろうとする運動が鮮明になった。集合概念や記号やヴェン図は用いられなくなったが、しかし、図形の包摂関係については、教科書に「~は…の特別な場合である」などと、はっきり書かれていた。たとえば、「ひし形は、平行四辺形のうち、隣接2辺が等しい特別なもの」とされている。
そのことを納得させる方法として、東京書籍は、上の画像のように、色が違う合同な平行四辺形の形の紙をずらしていく直観的な方法を用いた。学校図書は同様に、長方形型の紙を封筒から少しずつ出して見せた。封筒から外に出た長さがその長方形の幅と同じになった瞬間に、長方形は正方形となる。
定義に訴える論理的な方法で納得させようとする、教育出版のような教科書もあった。
正三角形が二等辺三角形の、平行四辺形が台形の特別な場合であることは、次のような、巻末の穴埋め練習問題を通しても、教えられた。台形【のうち】、もう1組の対辺も平行であるという、条件が加わることで特殊化したものが、平行四辺形なのである。
だが、直観的な方法には、限界があった。というのも、長方形の紙を封筒から少しずつ出していく方法では、外に出た部分がちょうど正方形になる瞬間があるが、そのとき、それが依然としては長方形なのか、それとも、その瞬間だけ長方形をやめるのかが、不明である。
1990年代には、包摂関係は、直観的な仕方で示唆されることはあっても、「~は…の特別な場合である」という表現で、はっきり言われることがなくなった。
ただし、啓林館のように、平行四辺形を描くときに決める角度や長さの調整によっては、平行四辺形が、長方形やひし形になることを示す教科書はあった。学校図書も、平行四辺形を描かせる課題で、隣接2辺のあいだの角を90°にしたときの図形の名称を問うている。
2000年代(ゆとり第3期)は、東京書籍や日本文教を見るかぎり、示唆さえない。包摂関係は、まったく教えられていないようだ。
算数教育指導用語辞典(第3版)には、2000年代の教科書の規準となる「新学習指導要領(平成10年改訂)では,正方形と長方形とは別の形として指導するように決められ, 小学校では図形の包摂関係については取り扱われないことになった。」とある。
2010年代は、ゆとりに対する最初の反動であった。比の値や倍数、反比例、文字を使った式、場合の数などが、中学からふたたび戻ってきた。ただし、包摂関係は、わずかに示唆されるだけに留まっている。1990年代のレベルに戻ったと言える。
東京書籍は、1990年代の学校図書と同様に、平行四辺形を作図させる課題で、角度を90°にするとどんな四角形になるかを問うている。その答えは長方形であるが、その長方形が依然として平行四辺形なのか、それとも、もはやそうでないのかは、何も言われていない。だから、示唆に留まる。
また、学校図書にだけは、必修ではない発展的な学習項目のコラムとしてであるが、現代化時代と同じ(ただし、洗練されたデザインの)、四角形の包摂関係を表すヴェン図が載っている。だが、それについての説明は何もなく、本文との関係も不明である。2020年代も同様の図が載っている。
2020年代(現行)は、2010年代よりも、さらに、示唆が増えたように思われる。画像は、頂点を円の中心に、底辺両端を円周上に置く二等辺三角形について、中心角の設定によっては、正三角形になることが示唆されている。直観的な仕方でだが、包摂関係が示唆されている。
現在、算数では、包摂関係は、明確には教えられていないのである。では、正方形と長方形、正三角形と二等辺三角形の関係が排反的だと積極的に教えられているかというと、そういうわけでもない。生活世界では、「今度買うこたつの形は正方形がいい?それとも長方形?」という言い回しに見られるように、排反的に図形が分類されている。児童は、学校で図形を習う以前から、生活言語の使用を通じて、そのような、素朴な図形分類に従っており、小学校の教育は、とくに、それに手を加えることはないのである。
三角形間、四角形間の包摂関係を理解するには、定義に従って概念的に考える能力が必要だが、小学生は概念的思考が発展途上で、図形を定義からよりも、視覚的イメージで捉えようとする。包摂関係は中2で教わるので、急いで無理に教える必要はないと思われる。
図形については、他にも小学校で学ぶことが多数あって、それをしっかり習得できるように、指導すべきであろう。小学校算数では、封筒などを用いた直観的な方法による、示唆に留まる指導で十分であると思う。
(2025/02/23のtwitterの連ツイに基づく)
A.変遷
小学校算数では、昔から、帯分数どうしのたし算・ひき算は、整数部分どうし、分数部分どうしを足し引きする(必要に応じて繰り上がり繰り下がり)、という計算方法が教えられてきた。
小学校算数は、伝統的には、帯分数主義なのである。だが、教科書をこの60年間くらい遡って調べると、それほど単純でないことがわかる。上の画像は1950年代の東京書籍の算数教科書から、下の画像は1960年代の啓林館教科書からのものだが、いずれも、帯分数のまま計算している。
ところが、現代化の時代(1970年代)になると、式に含まれる帯分数をすべて、最初にまず仮分数に言い換えてから、計算に入るという方法に、変わった。大日本図書の教科書には、仮分数にする方法のみで、従来の方法が載っていないのである。
啓林館も同様である。
しかも、(帯分数とは限らない)一般の分数どうしの計算でも、その最終結果を、仮分数のままにするのが標準になった。それどころか、そこには「1 2/3でもよい」(帯分数にしてもよい)という、(帯分数主義の伝統からすれば)ふざけた注釈が入っているのである。
分数の計算問題の結果を、帯分数で出して、ただし、「仮分数のままでもよい」と注記が入る、のではない。メインとサブが逆転していて、仮分数のままにするのが、メインになっているのである。これは帯分数主義からの大きな転換であった。
いな、大きな転換となる【はず】であった。というのも、集合概念や公理主義を無理に導入して、初等中等数学教育を高度化、形式化しようとする、現代化というこの無謀な試みは、早々と頓挫したからである。
児童・生徒の思考の発達に対する恐ろしい無知から、大量の算数嫌いと数学が苦手になった子どもたちの遺骸を校舎の暗い裏手に積み残して。
こうして、基礎と伝統への回帰が1980年代から始まった。1980年代の大日本教科書は、帯分数どうしのたし算・ひき算において、帯分数のままで計算する方法をメインとし、仮分数に変換する方法を、「することもできる」と追記するようになった。
現代化時代に追放された「帯分数のまま」の方法が復権し、成り上がっていた「まず仮分数に」の方法が、独裁者の地位から転落して、その従者に身を落としたのである。それどころか、同じ1980年代の東京書籍の教科書では、帯分数のままの方法しか書かれていない。
教育出版も、帯分数のままの方法のみである。
1980年代はゆとり第1期とすると、1990年代はゆとり第2期である。ゆとり第2期も、学校図書の教科書を見ると、帯分数のままで計算する伝統的な方法しか、載っていない。
ゆとり第3期の2000年代は、真正ゆとり期と呼べる時期であった。この時期には、小数の最初の単元が小3から小4に、分数のたし算ひき算が小4から小6に、5年で学ぶ倍数・約数が6年になど、学ぶ内容が上の学年に回された。
比の値や場合の数、反比例、文字式のような、小学校で学ぶことが中学に回された。この真正ゆとり期は、帯分数どうしの加減の点でも特異だ。というのも、整数±分数や整数-真分数は出てくるが、帯分数どうしのたし算・ひき算が、そもそも出てこないからである。
2010年代は、ゆとりに対する反動の最初の時期となった。帯分数どうしの加減の説明が回復された。同時に、しばらく追放されていた、まず仮分数にする方法が復権し、「帯分数のまま」と「まず仮分数に」が併記されるようになった。
大日本図書教科書も「両論併記」。
続く、2020年代現在は、現行の学習指導要領は現代化指導要領に次ぐ難しさと言われるが、現行の教科書でも、2つの方法が併記されている。これは東京書籍。
大日本図書。
以上のように、教科書の記述を年代順に追うと、伝統的には、小学校の算数教育は帯分数主義であったが、それほど単純ではなく、現代化のときに、仮分数主義が帯分数主義を、一気に一掃しようとしたものの、現代化の失敗で、仮分数主義が失墜し、帯分数主義が復活し、その後、ゆとりに対する反動のなかで、仮分数主義がぶり返し、今は、ほぼ対等に扱われている。
B.仮分数主義の台頭?
最近、帯分数主義の塾講師から、塾生たちが、5.2-3と1/3のような計算も、仮分数にして計算するので、手を焼いているが、これは、小学校の教師の誤った指導のせいではないか、という声があった(c_kun20august氏 twitter 2025/02/10 00:43PM)。
また、家庭教師のKabuTaro氏からは、入試では帯分数のまま計算したほうが楽な場合もあるので帯分数のままの方法を教えているが、教えなければ、ほとんどの子はまず仮分数に直して計算する、という。Kabu氏は、小学校では仮分数主義の方法しか教えられていないのではないかと疑っている。
だが、小学校算数の教科書は、このところ10年以上は「両論併記」なので、小学校で仮分数法しか教えていない、というのは、ありそうもないことである。教科書以外に、学習指導案やドリルの解答などを見ても、小学校で両方とも教えている事実は動かないようにみえる。
だが、こういうことはあるかもしれない。小学校では2つとも教えるが、どちらでもよいと教師から教わるので、児童がくり上がり繰り下がりがない、手順が単純な仮分数主義を圧倒的に好む、ということが。好んでよく使うから、仮分数法には習熟するが、逆に、ほとんど使わない帯分数法には、いつまでたっても慣れず、そのうち、やり方を忘れてしまうのである。
それに、帯分数のかけ算・わり算も、まずは仮分数に直すので、まずは仮分数で直す仮分数主義の方法のほうが、加減だけでなく乗除も含めた分数の計算の方法としては、一貫している。
加えて、最近は、計算結果が仮分数のままでもよいとされるようになったことが、これを後押しした可能性もある。以前は、分数の計算問題や分数を使う文章題では、最終的な答えは、仮分数のままにしてはならず、帯分数にしなければならなかった。
だが、今は、「帯分数は中学以降の数学では使わない」などの理由からか、それを言わなくなった。ドリルの解答でも、答えを帯分数に直したものと仮分数のままとが併記されるようになった(注1)。まずは帯分数を仮分数にして計算し、仮分数のまま計算を終えてもよいのである。「帯分数のままの方法には、仮分数を帯分数に直す手間がない」という利点があったが、それが失われた。
上で言及した塾講師(c_kun20august)氏は、「大手塾で……全て仮分数に直して通分、計算させる算数講師が増えてきて」いるせいだとも述べていた。だとすると、塾界で、仮分数主義が帯分数主義に対して、その支配域を拡げつつあるのかもしれない。今見てきたように、伝統的には帯分数主義の算数教育にも、全体の流れとして、同様の仮分数主義の台頭の傾向があり、仮分数主義が帯分数主義と相並ぶようになった。
分子が大きくなっても、計算力があるなら、手法が単純で例外がない仮分数主義のほうが受験には都合がよいのであろう。しかし、受験を目的とせず、基礎をしっかりと学ぶ小学校算数では、既習の整数との関係を示す帯分数主義をメインとする指導が適切だと思う。
注
注1
画像のように、帯分数の答えをメインにして、仮分数の答えが括弧内に書いてある。ところが、模範解答をこのような書き方にしたために、=帯分数でも=仮分数でもどちらでもよい、というのではなく、=帯分数(仮分数)のように、一方を括弧に入れて両方とも書かないとバツにされる、というような、ドリル・ワークの模範解答執筆者の意図をとらえ損なっていように見えるおかしな採点も、小学校では起きている。
だが、結果として、児童に、答えを帯分数と仮分数の両方で書かせることになっており、安易に仮分数主義に流れるのを防ぐ役割をはたしている、と言える。帯分数表記のほうが整数との関係が見えるので、出てきた答えがどのくらいの大きさなのかが、わかりやすい。とくに、分数が使われ分数で答えを出す文章題では、答えは是非とも帯分数で書くべきである。だから、児童が分数の概念とその四則演算を習い始める小学校算数では、帯分数の需要がどうしてもある。このような括弧付きの表記にしないとバツの採点は、その抑えきれない需要の結果なのではないか。
(2024/02/23のtwitterに基づく)
「支援教室でかけ算をできるようになっていたYちゃんが、小学校でかけ算順序固定強制指導を受けたせいでかけ算の問題を解けなくなってしまった。」(黒元氏 Twitter 2025/10/04 10:49AM)
黒元(genkuroki)氏が誤用する論文は
宮田佳緒里・蛯名正司・工藤与志文「かけ算の意味理解を促すための問題状況の図示の試み――学習支援教室に参加する児童への教授活動を事例として――」『教育ネットワークセンター年報』(東北大学大学院教育学研究科)11(2011年)pp.53-60
この論文は、2011年に発表され、黒元氏が翌年に取り上げて以来、順序指導がかけ算の理解を阻害することを示す論文として、自由派のあいだで、引き合いに出されてきた。だが、この論文に出てくるY君の学習支援は、本当に、順序指導の弊害を示しているのか。
「掛算の文章題を解けるようになっていた小2のYさんが自信を無くしていたのは、学校で「かけられる数とかける数」の順序を指導されたことが原因【らしい】。まさに掛算の順序強制の被害者。」(黒元氏 Twitter 2014/10/16 11:18AM)
「11月中旬には掛算に関する文章題も絵の問題もY君は解けていた。しかし12月になると意気消沈してしまう。その原因はどうも学校での掛順こだわり教育【らしい】。」(黒元氏 Twitter 2014/12/18 11:59PM)
2014年の段階では、正直に「原因は……【らしい】」「どうも……原因【らしい】」と言われていたが、「らしい」がのちに消滅して、断言に豹変していく(不都合な)事実に注意しよう。
「例のYちゃんは、支援教室ではかけ算の問題を解けるようになっていたのに、小学校でのかけ算順序固定強制指導のせいでかけ算の問題を解けなくなってしまった。」(Twitter 2023/12/18 01:13PM)
「支援教室のお陰でかけ算の問題を解けるようになっていたYちゃんが、小学校でのかけ算順序固定強制指導のせいで自信を無くして問題を解けなくなった件」(Twitter 2024/11/25 08:32PM)
論文は、仙台市内の小学校児童Y君が、市内の私立大で受けた学習支援に関する報告である。「支援」という言葉は使われているが、別に、Y君に学習障害や発達障害があるというわけではないようだ。
Y君が教室に通ったのは、2010年10月~2011年1月までの5回。
1回目(10月初旬)計算問題 正答
2回目(10月初旬)文章題 解けず
3回目(11月中旬)文章題・絵問題 できた
4回目(12月初旬)Y君「わからない」
5回目(1月初旬)発問I~IV 絵問題・文章題ほぼできた
Y君は、文章題を絵で表すことに抵抗があるY君の特性に合わせて作られたこの5回の支援プランによって、最終的には、〈かけ算の順序〉も含めて、かけ算の問題を解けるようになった。
著者によれば、5回目の発問IからIVにかけて、Y君は、式の順序とかけ算の意味との対応付けを確固とすることができた。学習支援は成功したのである。ただ、Yのその後は、続編となる論文で扱われている。続編では、今度は小3で学ぶわり算がテーマである。
宮田佳緒里・蛯名正司「わり算の式の意味理解を促す図示の試み――学習支援教室に参加する小学生への教授活動を事例として――」『教育ネットワークセンター年報』12(2012年)pp.37-45
小学校の担任は、Y君の保護者によると、順序指導を徹底させる教師である。かけ算の単元は、年度の後半の初め(10月)から始まる。これに対して、学習支援教室では、順序を意識した支援は、5回目(1月)まではなかったと推測される。
Y君は、第1回目の計算問題は全問正解であったが、2回目の文章題がまったく解けなかった。計算はできるが、文章題ができない、というのは、よく見られる傾向である。式を与えられれば、計算できるが、文章題が描く状況から、その状況を解決する式を立てられない。
Y君が、学校でかけ算の学習が始まる10月初旬においてすでに、かけ算の計算問題を全問正解できたのは、九九を家ですでに学んでいたから、と考えられる。3回目(11月)では、Y君は文章題と絵問題を解けた。喜んで解いたと言う。
ところが、4回目(12月)になると、Y君が「わからない」と言って、問題を解けなくなった。保護者によると、「Yはかけられる数とかける数がわかっていないらしい」から、ということであった。
そこで、スタッフが、4回目までにY君が取り組んだ問題について、Y君が書いた式を支援スタッフが見直すと、問題文の登場順で式を立てていたことがわかる。これは、そのときまで、支援は、どちらかかけられる数かを意識せずに、行われていたことを意味する。
3回目は、Y君は問題を解けたが、ここではまだ、スタッフは、順序が逆でも「できた」、と判断していたと思われる。かけ算の意味の理解としては、Y君はまだ、不十分なレベルにいたのである。
ところが、4回目では、3回目では解けていたのに、Y君は急に「わからない」と言い始める。なぜそうなったのか。
保護者の「見立て」では、「「かけられる数とかける数」について、よく分かっていないらしい」から、というもの。支援スタッフも、4回目のこの後退は、式の順序とかけ算の意味の対応付けの段階で、一度つまずいたのだ、と考えた。
つまり、Y君は、かけ算の意味の理解に必要なものとして学校で求められていた、かけられる数とかける数(1つ分の数といくつ分)の理解が、まだ不十分であったである。
ところが、黒元氏は、10月からかけ算の学習が始まり、Y君が順序指導徹底派の教師から、順序指導を受けたせいだ、と考えたのである。Y君の理解の後退は、学校での順序指導が原因だと黒元氏は言う。ものはとりようである。
では、2回目の後退(Y君は文章題が解けなかった)はどうなるのか。同じ順序指導のせいではないのか。2回目では解けなかった文章題が、3回目で解けるようになったのは、順序指導のせいではないのか。
順序を意識した支援が行われた5回目には、Y君はふたたび問題が、順序を含めて、解けるようになった(これは順序指導のせいではないのか)。2回目と4回目にできなかったのは、一時的なものであった。
それは、新しいものを学び始めたときに、途上で起こりがちな理解の一時後退なのであろう。学習と理解は、いつでも、漸進的・直線的に進むわけではない。行きつ【戻】つりがあり、2回目と4回目はちょうど【戻】った時期だったのであろう。
5回目では、教師からの徹底した順序指導に加えて、順序を意識した学習支援もあり、Y君は、式の順序を含めて、かけ算の文章題や絵問題が解けるようになった。論文は、順序指導が最終的には成功したことを示しているのである。
この論文が扱う事例は、順序指導を受けると、児童が混乱して、かけ算が理解できなくなった例ではない。そこでは、Y君が、順序指導のもとで、小学校と支援教室で、小2で学ぶかけ算を理解するにいたるまでの経過が記述されている。
Y君は、たしかに、かけ算にとって基本的な、かけられる数とかける数の理解で、短期間つまづきはしたが、最終的には、かけ算の文章題を解けるようになったのである。Y君は、順序指導の被害者ではなく、受益者だったのである。
「かけ算順序固定強制指導を受けたせいでかけ算の問題を解けなくなってしまった」という黒元氏の表現は、つまづいて、その後もずっと解けていないかのような印象を与え、5回目にはY君が問題を解けるようになった事実から注意をそらそうとする、不適切で不当な表現である。
もとの論文を読まずに、【らしい】が脱落した黒元氏のポストだけを読んで悪影響を受けたチルドレンたちが、順序指導がかけ算の理解を阻む証拠として、黒元氏の赤字入りのこの論文文面をさかんに引用することで、デマと論文の誤用がますます拡散することになった。
自由派のデマに騙されないように注意しよう。
(2025/10/04のtwitterに基づく)
A.算数に証明なし
証明は、中2で学ぶので、算数は証明は使わない。論理的思考が未発達な児童を前に、証明を行っても、無意味であろう。児童は、具体的な事物に即してしか思考できない具体的な操作期にある。そのような児童に、証明を教えようとしても、無理である。
証明がないなら、小学校では、児童に「どうしてそうなるのか」ということを理解をさせずに、天下り式に算数を教え込んでいるのかというと、そういうわけではない。具象的で直観的な仕方で、あるいは、帰納的な仕方で、納得させ、根拠づけている。
たとえば、二等辺三角形の底角が等しいことは、中2で証明されるべき最初の定理であるが、算数では、2等辺三角形の形の紙を、左右に半分に折って底角部分どうしを重ね合わせるという操作的で直観的な方法で、確認する。また、頂角と片方の底角が一致しないが、正三角形では一致することも、同じようにして、確かめる。
また、三角形の内角の和が180°になることは、下の画像のように、紙で作った三角形の角の部分をハサミで切り離して、3つの角部分を、重なり合わないように頂点を合わせて放射状に配列すると、平ら(180°)になることにより、示している。
中学では、同じことを平行線の性質を使って証明する。小学校の段階では、証明はなく、上の画像のような直観的な例示によって、三角形の内角の和が180°になることを、納得させる。
算数では、三角形の面積が、〈底辺×高さ÷2〉で求められることを習うが、底辺を横、高さを縦とする長方形の面積の半分になることは、つまり、÷2となることは、画像のように、回してぴったり重ねる、という仕方で示される。このとき、回す部分が移動先と同じ面積であることは、方眼からわかる。
鈍角三角形の場合、頂点から下ろす垂線が底辺上ではなく、底辺の延長上に下りるために、別の説明が必要となる。しかし、この場合もやはり、「回してぴったり重ねる」という操作的・直観的手法で、長方形の面積の半分になることを示している。
空氏(Twitter @musorami)は塾で小学生に、無謀にも、三角形の求積公式が〈底辺×高さ÷2〉となることを、中点連結定理などを使い、証明して見せた(202/12/31 09:47AM)。これによって、「算数の先にある数学の面白さを「感じてもら」」った、という。
カリキュラムや発達心理学への配慮がまるでない空塾ならでは許されることであるが、空氏の自己満足になっていないかどうか、検証が必要である。
算数では、定義や定理から演繹的に定理を証明するようなことはしないが、しかし、帰納的に定理を裏付けることはする。たとえば、たし算の交換法則は小2で学ぶが、交換法則の証明は、もちろん行わない。交換法則の証明は、中学や高校でも行わない。
算数では、たし算の可換性を児童にどうわからせるのか。それは、さまざまな組み合わせの2数のたし算を、+記号の前後の数を入れ替えて筆算させることで、納得させている。つまり、たし算が可換であることを、帰納的に確かめさせているのである。
数学を学ぶことで論理的思考が養われるというのは間違いないが、それは主に、公理・公準や定義から、ある命題を演繹的に引き出す証明を行うせいであろう。これは算数には当てはまらない。
B.算数に定義なし
証明だけでなく、定義についても、それが何であるかは中学ではじめて習う。中学では、「用語や記号の意味をはっきり述べたもの」のように定義されている。難しい言い方をすると、定義とは概念の内包を言葉で明確にしたものである。
たしかに、「~を…といいます」というのは、定義を与えるときに使う言い回しで、算数の教科書にも使われているが、~の部分が定義だとしても、括弧付きの(定義)だと言うべき。というのも、定義としては、いろいろな点で不完全だからである。
第1に、算数教科書における(定義)は、単なる例示に留まっているか、かなり例示に依存した説明になっている。つまり、ちゃんとした定義になっていない。定義未満の(定義)である。
たとえば、次の「上の28のような数を、わり算の商と言います」という商の(定義)は、純粋に例示で、あまりに特殊。定義は当然、一般性をもたなければならない。
次のかけ算の(定義)も単なる例示になっている。ただ、かけ算については、これに先立って、いろいろ説明があるので、この箇所だけを取り上げるのは公平ではないが、「~を…といいます」という、形式上定義である部分に限ると、このようになっている。
例示と説明が混じっている(定義)もある。たとえば、次の倍数の(定義)。「整数倍してできる数」とあって、単なる例示ではない。だが、この(定義)を文字通り受け取ると、7の倍数以外の倍数は倍数ではない、ということになってしまう。
第2に、算数における(定義)は操作的である。
たとえば、円は、中学数学では、「1点からの距離が一定である点の集まり」(東京書籍 数学3 2016年 p158)とされるが、算数では、「コンパスでかいたようなまるい形」となっている。円はコンパスを活用して描けるような図形なのである。
対称軸とは、教科書によると、ぴったりと重なるように二つ折りに折り合わせたときの折り目となる直線のこと。児童にもわかるように、折り紙を折るときの感覚に訴えているが、それだけに定義らしくない。
第3に、算数における(定義)は、定義としては、厳密さを欠き、日常的である。面積も広さのことだと書かれているが、これは日常語で言い換えただけである。「ながしかくのことを長方形と言います」と言っているようなものである。
算数におけるこのような(定義)の実態、単なる例示や方法の解説になっているような、未発達な(定義)は、しかしながら、児童の発達段階にふさわしいものとして、積極的に捉えるべきである。算数教科書では、児童の思考の発達や学習段階に応じた(定義)がなされている。
小学生は、まだ、小学生は概念語だけで論理的に考えることはできない。だから、算数における(定義)も、彼らが親しんでいる日常的な自然言語や、「折る」といった日常的な操作・動作、目に見える具体的なものに拠って、数学の言葉を導入するのである。
C.長方形の(定義)
数学では、長方形は「4つの角がすべて直角である四角形」、正方形は「4つの角がすべて直角で、4辺が等しい四角形」と定義される。短く言えば、長方形は等角四角形、正方形は等辺等角四角形である。この定義に従えば、正方形は等辺である長方形、つまり、特殊な正方形である。
内包が増えると外延は減る、という論理学の原則がある。正方形は、1)四辺性と2)等角性に加えて3)等辺性をもっている。正方形は1)と2)を満たすので、長方形だが、3)を備えることで、3)の等辺性を備えない長方形が排除されることで、外延が長方形よりも狭まる。ヴェン図では、正方形の集合を表す円は、長方形の円の内部に描かれる。
算数教科書に載っている長方形や正方形の(定義)について、黒元氏は、定義として正確だと言っているが(Twitter 2021/01/31 03:27PM)、それらの(定義)が本当に定義なのか疑わしい。
それとも、他の(定義)は定義未満だが、長方形や正方形の定義だけは立派な定義である、なんていうことがあるのだろうか。まず、「かど」という日常的な言葉を使っている点では、定義らしくない。それは定義ではなく(定義)にすぎないのではないか。
長方形については、「4つのかどがみんな直角になっている四角形」と書いてあるが、実は、「角がすべて直角である【が、隣り合う辺が異なる】四角形」という排反的な定義の、【 】内の細かい部分を小学生向けに省いた(定義)である可能性もないとは言えない。
実際のところ、その定義の脇に長方形の例として描かれているものは、すべて、縦と横の長さが異なる長方形なので、このような推測は的外れだということはないであろう。文章による説明と描かれた図形とが一体となって、長方形を(定義)している。
だとしたら、ここから「正方形は長方形である」ことを導き出すことはできないであろう。もしそれが本当に定義だとすれば、そこからはそのような帰結が引き出せても、定義未満の単なる(定義)からは引き出せないのである。
算数教科書では、A)長方形の定義は包摂的なのに、B)いくつかのタイプの設問や言い回しから、「長方形」は排反的に理解されていて、そのあいだに矛盾があると言う者もいる。
その設問の代表は、描かれたさまざまな図形から長方形を記号で選ぶ設問。その模範解答には、正方形の記号は含まれていない。
また、縦横が同じ長さで高さが異なる直方体の面の形とその数を答える設問では、模範解答は、長方形が6つでそのうち2つが正方形なのではなく、長方形が4つ正方形が2つ、となっている。
しかし、A)とB)のあいだには、本当は、矛盾はない。というのも、これまで見てきたように、A)で言われている「定義」は実は、定義ではなく、(定義)にすぎないからである。かりに定義であるとしても、小学生のほとんどは、そこから「正方形は長方形である」、「正方形は長方形の特殊な場合である」という、正方形と長方形の包摂関係を引き出せないであろう。
現代化の時代(1970年代)には、小学生に、集合概念やヴェン図を用いて、図形の包摂関係が教えられた。長方形の(定義)は現在と同じである。しかし、ほとんどの児童はその包摂関係を理解できなかった。
というのも、小学生はまだ、定義から論理的に推論する論理的思考力が発展途上だからである。小学生は、図形を多分に、視覚的イメージや日常的自然言語で把握しようとする。児童は(定義)よりも、教科書の長方形の(定義)文の脇に描かれた図形を手がかりに、長方形を把握している。
イメージとしては、正方形と長方形は、かどが直角で似たところもあるが、一方は長いが他方は長くないといった異なるところもある、2つの異なる四角形である。日常語でも「インスタの写真は正方形がいい?それとも長方形?」のように言われ、両者は排反的。排反的ではあるが、論理的に排反としてはっきり規定されているのではなく、前論理的に排反的なのである。
論理的な包摂関係の理解は、小学生に一般に難しいので、論理的な思考が発達する中学生になってはじめてその関係は教えられている。現在の小学校では、教えられていないので、小学生は視覚的イメージや日常言語の用法に従って、両者の関係を前論理的な仕方で、排反的に考えている。
そして、教科書の記述や設問も、それを前提として作られているのである。算数教科書では、「正方形は長方形である」とも、「正方形は長方形ではない」とも、はっきり、書かれていない。ただ、その表現や設問において、前論理的な排反性が暗に前提とされていると読み取れるだけである。
Ⅰ 文字式による式と値の同時化
文字式は、求め方とともに求めた結果を、計算のプログラムとともに計算の結果を、表す。たとえば、54円の消しゴムをx個買って、レジで1000円札を出したときのおつりを求める式は、1000-54xで、求められた結果であるお釣りそのものも、(1000-54x) 円である。これは、数だけの式と違うところである。
文字を含まない数だけの式では、単一の数になるまで、括弧や演算子の優先順位に従って、部分式の計算を積み重ねて演算を実行していく、つまり、計算という作業を行う必要がある。
その計算には、たいていは、一定の時間と労力が必要であり、等号のあとに出てくる答えは、そのような時間と労力をかけた作業のあとにはじめて、その結果として出てくるものである。作業前の式には、まだ、結果は現れていない。
このように、数だけの式では、等号の左右で、時間と労力の差があり、不均衡である。等号の前後は非対称で、左辺と右辺は同時ではない。3×4=12という式の左辺の3×4は式、つまり、計算のプログラムであり、そのプログラムを実行した結果、つまり計算結果、が右辺の12である。左辺3×4はまだ答え12ではない。
等号は小学校算数の1年のときから使われている。最初のたし算の学習では、1+2=3という式は、「1たす2【は】3」と読ませている。ここでは、等号=は日本語の「は」に相当する。「は」は「の答えは」ということである。こう読ませることで、等号を、そのあとに計算結果を書くための記号と理解させているのである。このように、小1では、等号は、足し算や引き算の計算結果をその直後に書くための記号として、つまり、答えを導くための記号として、導入される。
Ⅱ 算数における等号の関係的意味の学習
計算結果を導くという等号の機能は、等号の操作的(operational)な意味と呼ばれるが、計算しかしないかぎりでは、等号の操作的意味だけで十分である。操作的意味に対するのは、等号の関係的(relational)意味である。これは等式の両辺は等しいということである。
小学校算数では、画像のように、この関係的な意味も、教えられている。小学生はすでに小3において、等号が操作的な意味とともに、関係的な意味をもつことを、学んでいるのである。
a)電卓式
「3人乗っていたバスに、最初の停留所で4人、次の停留所で5人乗った。今は何人?」という問題は、小1の問題なので、まだ関係的な意味は学んでいないから当然だか、次のような式を書いてしまう児童がいる。
3+4=7+5=12
ここでは、最初の等号の左辺は3+4=7であるが、右辺は7+5=12で、左右が等しくない。等号の関係的意味が無視されている。
このような式を、私は電卓式と呼んでいる。というのも、関数電卓ではない普通の電卓は、このような仕方で、3つ以上の数のたし算をするからである。すなわち、電卓では2つ以下の数の計算しかできず、最初の2つの数のたし算をするとその答えが出て、その答えに、3つ目の数を足す。
等号の意味が操作的意味に尽きるならこれでもよいが、1年生の教科書において、すでに、電卓式は「おかしいね」と、注意が与えられている。等号の左右は等しくなければならないのである。だが、まだ、小1は、関係的な意味を正式に教えられていない。ここでは、3+4=7, 7+5=12のように分けて書くか、3+4+5のような、最初から3つの数字を含む式を立てて、2つずつ計算するか、するように指導される。
b)不等号の学習
関係的意味の理解には、不等号の学習が役立つであろう。等号の意味を不等号の意味との対比において学ぶことで、等号の関係的意味が際立つ。2つの大きな数、2つの小数、2つの分数、分数と小数などのあいだの空欄□に、等号ないし不等号を記入させて、大小や等しさを判断させる設問は、学年を通して、くりかえし現れる。
これは大きな数どうし。
これは分数と分数、分数と小数のあいだの比較。
ここで比較されるのが単一の数どうしで、かつ、不等号ではなく等号が選ばれるとき、等式になるが、左辺は式になっていない。左辺が式で右辺にその計算結果としての単一の数が来るという、等号の操作的な意味はここで破綻している。
片方ないし両方が式になっていることもある。下の画像は同じタイプの設問で、比較される対象が、両方とも式になっている。
c)式と式のあいだの等号
上の画像は小6教科書の練習問題であるが、実は、小2の教科書には、7×8=8×7という、式どうしを等号で結んだ等式が載っている。これは、右辺の左辺の式の計算結果を書くという、操作的な意味で理解された等号とは、用法が明らかに違っている。
小2の児童が、等号の関係的意味をまだよく理解しておらず、もっぱら操作的に理解していることを考慮するなら、
7×8 =56
8×7 =56
と書いて、答えが同じになることを示すほうが、7×8=8×7と書くよりも、小2にはわかりやすいであろう。そのように2つに分けた書き方のほうが、「かけ算では、かけられる数とかける数を入れ替えて計算しても、答えは同じ」と定式化される交換法則を、素直に表現している。
しかし、4年生の教科書になると、答えが等しい式どうしは、等号で結ぶことができる、と書かれている。A×B=C, D×E=Cならば、A×B=D×Eなのである。A×B=D×Eのような等式で使われる等号は、もはや、等号の操作的意味を超えている。ここでは、同じものの異なる2つの表現が左右に配置されている。
d)結合的意味
さて、学年が上がると、計算式で使う=は1回では済まず、=を重ねて、式を言い換えながら連ねることになる。一度に全部を計算するのではなく、最終的に単一の数になるまで、部分式の計算を積み上げていくのである。小5小6になると、分数の四則演算などで、途中式で通分約分、仮分数・帯分数の言い換えなどをする必要から、そのように=を重ねて続けるのが、普通になる。
21.3+51.5÷(24.3-3.7)÷5/31
=21.3+51.5÷20.6÷5/31
=21.3+2.5÷5/31
=21.3+2.5×31/5
=21.3+2.5÷5×31
=21.3+0.5×31
=21.3+15.5
=36.8
こうなると、等号は、右辺に答えが出てくるものというよりは、式と式を結ぶという意味をもつようになる。これを等号の結合的(connective)意味と呼ぼう。最終的には、等号のあとに答えが出てくるので、これは、操作的な意味で理解された等号が、言わば、引き延ばされている、と見ることもできる。
単に2つの式を結びつけているのではなく、あくまで、2つの式の値(計算結果)が等しいことを根拠に、結んでいくのである。関係的意味が堅持されている限りでは、式を大きさを保持しながら変形していく過程である。最初の式と次の式は、値が等しく等号で結ばれているが、形が違う2つの式である。このことは、等号の関係的な意味の理解に児童を近づかせるものである。ところが、その根拠となる関係的意味が脱落して、単に、式と式をつなげるのが役割を果たすものだと、浅薄に理解さてしまっている場合も多い。
21.3+51.5÷(24.3-3.7)÷5/31 = 21.3+51.5÷20.6÷5/31
e)左辺に計算結果
操作的な意味では、計算結果は右辺に来るが、算数では、そうとは限らない。高学年になると、〈平行四辺形の面積=底辺×高さ〉の公式のように、左辺にくる場合が出てくる。小6では、y=(決まった数)×xという、比例の式も現れる。計算結果、つまり、単一の数字となるものが、左辺に来ることも、普通になることで、操作的な意味で理解された等号の、左右のアンバランスが是正される。
計算の工夫ということで、25×32の32を4×8に因数分解することが教えられているが、これも、等号の関係的意味の理解に有益である。
25×32 =25×(4×8) =(25×4)×8 =100×8 =800
25に、そのうちの因数4をまず掛けて、100を作り、計算を簡単にするのである。単一の数32を、ここではあえて、等号のあとで4×8という式に変換している。単一の数字になるように短くすることだけが、計算なのではないのである。5=3+2, 1+4=3+2, 3×4=6×2のような言い換え練習をするのも、関係的意味の理解に役立つであろう。
f)あまり
算数の学習で、等号の関係的な意味に違反している唯一の例は、あまりがある割り算での等号の使用である。ここでは等号は、明らかに、等号の左辺と右辺が等しい、という関係的な意味を否定している。たとえば、
11÷3=3 あまり2
のような使い方である。11÷3 (=3.666...)と3とは等しくない。
Ⅲ 電卓式と中学数学
このような例外はあるが、算数では、原則、等号の関係的意味は、直接間接、くりかえし教えられている。だから、算数で、関係的な意味が教えられていない、と言うのは、事実に反する。しかし、小学生にとって、四則演算の計算をすることが学習のメインなので、関係的意味は、なかなか理解されず、小学生の意識のなかでは、依然として、操作的意味が幅をきかせている。
そのため、小1だけでなく、高学年の児童も、しばしば、すでに述べたような電卓式を書いてしまうことがある。たとえば、320円のファイルを2つ、消しゴム70円のものを1つ買ったときの代金は?という文章題で、式が、
320×2 =640+70 =710 710円
となってしまう(注1)。操作的な意味では、このような等号の用法は、不自然ではないが、小学校では直されるであろう。等号の関係的な用法を守ることは、小学校でも、原則いつでも、求められている。
中学に入学して、生徒たちは、1)文字式を習い、式が同時にその値を表すことを学び、式とその値が同時的であること、等式の左辺と右辺の同時性を、理解するようになる。左辺が式で、等号の後(右辺)がその結果ではなのでは、もはやない。左辺も右辺も、式でかつ値なのである。2つの式が等しいとは、その値どうしが等しい、ということである。この同時化は、等号の操作的な意味を排除する働きをするであろう。
中学生は、次に、この同時性の理解に基づいて、2)天秤の比喩を用いて等式の性質とその適用(方程式)を学ぶ。両辺は等しく、同じ量のものに、同じ数で割るなどの同じ演算操作を施しても、その結果は等しく、等号が成り立つ、というわけである。右辺と左辺は、鏡像関係のようなもので、いわば、同じものが異なる角度から見えているだけなので、同じ操作をしても、同じことがつねに同時に起きる。だから、1)の同時性の理解が不十分だと、等式の性質は活用できないであろう。
こうして、ようやく等号の関係的な意味が、等号の意味のなかで、中心的な役割を果たすようになるのである。
Ⅳ 等号の関係的意味の理解の困難さ
このように見てくると、「等号の左右が等しい」という、大人にはとても単純なことに見えるが、それを習得するまでにはとても時間がかかる、ということが、わかってくる。
初等数学ではまず算術(計算)を習い、代数(文字式)は中等教育になってから、というのは、外国も同様であろう。小学生に、等号を操作的な意味で理解する傾向が見られるのは、日本だけではない。英語圏の調査では、等号の中心的な意味を問われて操作的(operational)な意味を答える生徒の割合は、小6相当でGrade 6で58%、中2のGrade 8でも、45%もいる。
ところが、高校・大学の数学教師や中高生を教える塾の数学講師のなかは、「中学生が、等しくもないのに等号を用いる生徒がいるのは、小学校の算数で、等号の真正な意味である関係的な意味が、教えられていないからだ」、「馬鹿な小学校の教師が、等号の意味が間違って教えている」と、短絡的に考えて、算数教育を批判する人がいる。
だが、上で見てきたように、関係的な意味は、算数でも、くりかえし教えられているので、「両辺が等しいという等号の意味が教えられていない」と言うならば、それは事実に反する。等号の関係的は、聡明な教師が一度が児童たちに言い渡せば、その後は問題なしに等号を使えるようになる、というものではない。習得するのに時間がかかるものなのである。
等号の操作的な意味は、数学では意味がなくても、計算操作的・算術的には意味があり、別に間違っているわけではない。だから、操作的な意味で使われていても、嘘が教えられている、とは言えない。あまりがある割り算の例を除けば、等号の操作的な意味は関係的な意味と両立可能である。関係的な意味を損なわないという条件で、操作的な意味や結合的な意味は、同時に教えられてよい。
Ⅴ 等式の性質と等号の意味
中学に入学して、文字式を学んだとたんに、生徒の等号理解は完成するのではない。等しいものではないのに等号で結んでしまう生徒・学生がいると指摘されるとき、2つの場合が考えられる。1つは、すでに述べた、電卓式を書いてしまっている場合、もう1つは、等号の性質を使った等式の言い換えで、等式どうしを等号で結んでしまうもの。
「等しくないものに=を使う人がいて…何かの演算をしたら=を書く程度の認識しか持っていない……」(joseph_henri氏 2020/01/05 21:06)「鈍い高校生ですと、両辺を同じ文字で割ったのに、=の印を付けてつなげてしまいます。」(21:16)
1) A =A' =A'' =A''' 算術的・数学的
2) A=B ⇔ A'=B' ⇔ A''=B'' 論理的
小学校までは、1)のように、大きさ(値)を維持しながら、式を短くしていく(計算する)ことしか知らなかったのに、中学に入ると、1)に加えて、2)等式の性質を使って等式を次々と言い換えていくことを学ぶ。
1)には、数だけの計算以外に、中学以降の数学で学ぶ、式の計算や因数分解・展開も含む。ここでは、値(数量的な大きさ)を維持しながら、式を変形する。変形のうち、式を短くするものは「計算」と呼ばれる。
a)4.7+6×(7.4-3.8) =4.7+6×3.6 =4.7+21.6 =26.3
b)4ab²-3a+ab²-5ab+2a+2ab² =(4ab²+ab²+2ab²)-(3a-2a)-5ab =7ab²-a-5ab =7ab²-5ab-a
c)x²+2x-15 =(x+5)(x-3)
2)は、下記のように、等式の性質を使って、方程式を解くときに現れる。ここでは、等式が上下に並んでいて、上下の等式は ⇔ 記号で結ばれている。小学校では、□×3=15 □=15÷3くらいはやるが、等式の性質を駆使しているとまでは、とても言えない。
5x-4 = 2x+5 (両辺から2xを引く)
⇔ 5x-2x-4 = 2x-2x+5
⇔ 3x-4+4 = 0+5+4 (両辺に4を足す)
⇔ 3x = 9 (両辺を3で割る)
⇔ x = 3
ここでは、上下の等式どうしの関係は、「真理値が等しい」という意味での等値関係である。このことは、⇔ という記号で表現されている。それは、値(大きさ)が等しいという算術的な関係ではなく、論理的な関係である。3xとx、9と3は等しくないので、数の値は上下の等式で等しくない。3x = 9ならばx = 3であり、かつ、x = 3ならば3x = 9である、という双条件的な関係が、上下の等式のあいだにはある。等値は双条件とも呼ばれる。
4×3とか2x-1といった式は、命題ではないが、2×4=8や3x-2=5といった等式は、命題である。それは、左辺と右辺が大きさにおいて等しいと主張する命題である。ところで、命題は真理値(真、偽)をもつ。命題「2は素数である」は真だが、命題"3+4=8"は偽である。2つの命題の真理値がいつも一致するとき、その2つは等値(同値)と言う。たとえば、P⊃Qという条件命題とその対偶~Q⊃~P、ab=acとb=c(a≠0)は等値である。5x-4 = 2x+5 という等式と 3x=9という等式は、等値である。
だから、ここで、⇔記号の代わりに、等号を用いることはできない。ところが、等号を、単に式と式を結びつけるものといった浅薄な理解をしていると、つまり、等号に結合的意味しか認めていないと、次のように、等式どうしを等号を用いて結んでしまう、という失敗をしてしまう。これだと、等式の関係的意味が損なわれる。
3)誤り A=B = A'=B' = A''=B''
A=Bの両辺から2を引いてA'=B'となったなら、AとA'は等しくないので、これは誤りである。この等値という論理的関係は小学校ではなく、中学・高校で学ぶものなので、もし、ここでこのような等号の誤った使い方をする生徒が多数いるならば、その責任は小学校の教師ではなく、中学・高校の数学教師に帰すべきものである。
このように、中学に入学して等式の左右同時性を学び、等号をその関係的な意味で理解できるようになっても、等号の用法を誤らないとは限らない。論理的な言い換えなのに、それを等号で表してしまったり、逆に、1)のタイプの計算なのに、等式の性質を誤って適用し、0.1a+0.3=a+3などとしてしまうケースが出てくる。この論理的な関係という、等号の使用に関わる新しいことを学ぶことによって、等号が使える範囲が、一度、揺らいでしまうのである。しかし、算術的関係と論理的な関係の区別がつくようになることで、等号が論理的等値には使えないことが、わかってくる(等号を論理的等値に使う例は、あるといえばあるのだが)。生徒の等号理解は、中学で数学を学び始めた以降も、試され続ける。
Ⅵ かけ算の順序と等号の意味
最後に、等号の意味と〈かけ算の順序〉との関係について述べる。
〈かけ算の順序〉をめぐる論争で自由派の多くは、「4個入りの袋が3つのときキャンディーは全部で何個?」という文章題の式として、3×4と4×3は、計算結果が同じ12であるという理由で、意味も含めて、まったく同じもので、両者のあいだに区別はない、と主張する。それにもかかわらず、小学校算数のテストでは、そのような文章題の式としては、一方が正しいとされ、他方がバツにされる。
定数氏のように、式は2×6でも、13-1でも、24÷2でも、√144でも、よいという急進的な主張をする、要注意人物もいる。急進的なものも含めて、このような主張をする人たちは、式をその値に還元してしまっている。彼らは、「小学生ではまだ、等式の左右同時化・対称化が完成していない」という基本的なことを、理解していないのである。算数教育は、子どもの発達段階・学習段階を考慮して行われなければならない。
算数では、同時化は完成しておらず、4×3はまだ、その答え12ではない。4×3は式で左辺にあり、12は右辺にその答えとして出てくるもの。では、4×3は何を意味するかと言えば、4個のものからなるまとまりが3つあることを意味する。というのも、算数では、かけ算は〈1つ分×いくつ分〉で教えられているから。3×4は、3個のものが4つのことなので、キャンディーの文章題の文章が表すグループの分け方と違っており、つまり、意味が違っており、その文章題の式としては不適なのである。
以上の考察からわかるように、大人には自明であるように見える等号の適正な使用は、小1からかなり中学・高校にいたるまで、くりかえし訓練を積んではじめて、獲得されるものなのである。
注
注1
「算式で=の記号を使いまくる小学生の存在がずっと疑問だった」(matho2019)
「計算式で=の記号を使いまくる」というのは、どんな使い方ですか?」(flute23432)
「最近見かけたのは速さの変換(時速→分速など)の計算過程ですね。
例えば時速30kmを分速に直すとき
……
30×1000=30000÷60=500
のように書く場合です。」(matho2019)
(flute23432 2022/05/05 11:55AM, 2018/10/14 10:51AMなどに基づく)