2019年8月19日月曜日

現代化時代の算数教科書の紹介(あるいは、数学教育のアウシュヴィッツ)


ソ連のスプートニク成功に衝撃を受けたアメリカは、巻き返しを図るべく、旧態依然としていた数学教育を改革に乗り出した。この結果、1960年代に、数学教育のなかに現代数学の成果をとり入れて教育内容を高度化するNew Math運動(「新数学」運動)が起きた。この運動は、他の国々にも波及した。

日本は、欧米より少し遅れて、他国よりもはるかに穏健な仕方であるにしても、1970年代にその余波を受けることになった。1968年に、新しい学習指導要領が採択され、小学校では1971年から、中学では1972年から、高校では1973年から、現代化学習指導要領に沿った算数・数学教科書が使われた。

現代化算数は、集合や位相など、現代数学の成果を初等数学教育に採り入れて、より抽象的・形式的な学習内容や教え方を増やした。たとえば、ある教科書では、図形を、身近に見られるお菓子等の箱などの形からではなく、位相的な図形の異同から導入した。比例と反比例については、別のある教科書には、次のように書かれている。

(東京書籍6下 1977 p.20)

「a×b=cの式では、aの値がきまった数のとき、bとcは比例し、bの値が決まった数のとき、aとcとは比例します。また、cの値が決まった数のとき、aとbとは反比例します。」

自然現象などに発見できる、2つの量のあいだの相関関係ではなく、式の形式的な性質から、比例と反比例を導き出している。比例定数(決まった数)というのは、そもそも、aとbどちにらも任意に設定できるものであっただろうか。これも、当時の算数教育における形式主義を象徴している。

内容を高度化しただけではない。従来なら上の学年で学ぶはずであった学習項目を下の学年に下ろした。学習内容の低学年化である。中学で学ぶような学習事項が、小学校の高学年で教えられるようになった。


1.集合

現代化算数と言えば、やはり、集合の概念である。それは単に、集合の単元が設けられただけというだけでなく、図形など他の学習事項の説明の原理としても用いられた。集合は、算数教育の現代化の目玉であり、同時に、現代化批判においてもっとも激しくやり玉に挙げられたものでもあった。

現代化算数では、小4で既に、集合の考えや用語、記号法({ },⊂)が教えられていた。

(大阪書籍4下1977 p.4)

集合という概念が現れるのは、4年の教科書である。大阪書籍(1977年)では、集合は「ある事柄に当てはまるものの全体を、1つの仲間と考えたとき、その集まり」(p.4)と定義されている。

だが、この集合概念が、小4の小学生にどれほど理解されていたであろうか。小学生はその発達段階(具体的操作期)からして、事物に即して考える傾向がある。「集まり」が1つの場所への物理的な集積を意味しないこと、「仲間」は知り合いどうしである必要はないこと、ヴェン図の、集合を表す円は校庭に集合した自分たちの周囲の描かれた白線のことではないこと、こうしたことが、当時の小学生に理解されていたかどうか、疑問である。

集合の表し方や、集合と集合の関係を表す記号もまた、算数の教科書に載っていた。{ }記号は、ある集合を、それを構成する要素の列挙で表現するときに用いられる。⊂の記号という記号は、包含関係を表す。

(大阪書籍4下 1977 p.7 2箇所の抜粋部分を結合)

ヴェン図(ベン図)やオイラーの図も出てくる。これらの図で、複数の集合のあいだの重複関係や包含関係を表すことができる。ただし、ヴェン図という名称や交わり(積集合)、結び(和集合)を表す記号は、見当たらない。

(学校図書4年上1975 p.22)

そこには、有限集合だけでなく、倍数(ゼロは含まず!)や図形など、無限集合も躊躇なしに、扱われている。下は、啓林館6下(1973) に掲載されていた、さまざまな四角形の包含関係を表すオイラーの図である。

(啓林館6下1973 p. 86)

この図によれば、正方形の集合は、長方形とひし形の交わりにあたる。長方形は等角四角形、ひし形は等辺四角形であり、正方形は等辺等角四角形なのである。長方形もひし形も、ともに対辺が平行であり、平行四辺形の部分集合である。そして、平行四辺形は台形の、台形は四角形の部分集合である。

だが、学習心理学の諸研究は、四角形のあいだのこのような包摂関係の理解が、小学生にはとても困難であることを証言している(注1)。

集合は、現在では、高校の数学Ⅰになって始めて学ぶ内容である。

(東京書籍数学A2019 pp.4-5)



2.位相

下の画像は、学校図書教科書1年1974年版からのものである。

(学校図書11974 p63)

位相(topology)は、現代化算数が現代数学から採り入れ、小中学校で学ばせたものの1つである。上の図は、驚くことに、1970年代に、日本の小学校1年生が位相幾何学の初歩を学ぶことを強制されていたことを示している。

位相幾何学では、形や長さや凹凸を変えても、線や面のつながり具合が同じならすべて同一の形だと見なす。だから、好んで取り上げられる例だが、取っ手付きのマグカップとドーナツは、同じ形なのである。同様にして、円と三角形と平行四辺形、球と正多面体とグラスは同じ形である。

上の図の問4は「鼠が線を跳び越えずに出られるか」を問うている。これは、閉じているかどうかによる線の分類である。既述のように、位相では、長さや曲がり具合、形ではなく、線がつながる仕方が重要となる。線が閉じているかどうかは、ポイントの1つとなる。

問4は、閉じているかどうかを、鼠が線を跳びこえずに外に出られるかに着目させて、両者を区別させようとしている。①と③は閉じておらず、鼠は図形の中にいるように見えて、線に閉じこめられていることはない。これに対して、②は閉じており、鼠はその中にいるので、線を踏み越えずには外に出られない。

次の画像は、2年下からの抜粋である。p.12から「三角形と四角形」の単元が始まるが、その第1ページは再び、位相である。マル「あ」は閉じた線、マル「い」は閉じていない線である。

(学校図書2下1975 p12)

問1は、1~6の形が、「あ」と「い」のどちらの仲間に属すかを答えさせるもの。1,2,6は閉じているが、3,4,5は閉じていない。その上で今度は、マル「あ」の、輪になった糸から、ちょうど、コルクボードに針を刺して、この閉じた糸を、糸が垂れ下がらないように、針から針へと張る。
3点で引っ張ると三角形となるが、4本の針にあいだに糸を渡すと四角形になる。三角形と四角形は、同じ閉じた線のヴァリエーションなのである。そして、その糸を針で引っ張ってぴんとなった糸の形は、「直線」と呼ばれる(p. 13)。

(学校図書2下1975 p13)

位相概念を図形学習に取り込むという点で、学校図書は特別かもしれない。東京書籍はこの点では、もっと穏健で、位相概念を採り入れたと解せる例は1つあるが、基本的には、現在と同じように、身の回りに見られるいろいろな物体の形から、四角形や円を発見させることで、図形学習を導入している。大日本図書も同様である。


3.関数

現代化時代の中学の教科書では、関数概念は、集合間の要素の対応関係(多→1、1→1)として、定義されている。これに対して、小学校の教科書では、現在も当時も、関数は、「ともなって変わる量の関係」と言われていて、変わりないように見える。
関数は、現代化時代の算数教科書では、小4から、「変わり方調べ」のような題で、扱われている。そこで取り上げられているのは、

・ある商品の購入個数と代金の関係
・水槽に溜まる水の体積と時間との関係
・兄の年齢と弟の年齢の関係
・同じ個数のものを姉と妹で分けるときの姉妹のそれぞれの取り分の関係
・おはじきで辺を描いた正方形の1辺の個数と全部の個数の関係
・面積が一定の長方形の縦と横の関係(反比例)
……

現在の教科書でも、ほぼ同じ種類の関数的関係が、「変わり方」のような、類似したタイトルの章で取り上げられている。違うのは、現代化時代は、1)5年ですでに、2つの値をa,bという、文字を使った式で表していることである。また、2)現在の教科書は、関数のグラフについては禁欲的なのに、現代化時代は、そのような禁忌はなかったようである。さらに、3)現代化の教科書では、年齢と体重、時刻と地面の温度との関係も、関数と一緒に取り上げられているが、このような関係は、現在の教科書では、資料の整理に関する別の章で取り上げられている。

比例は関数の一種である。比例と反比例が6年に扱われていて、

y=(決まった数)×x

という式で表されること、正比例ではグラフが原点O(オー)を基通る直線になると言われている点も、現在と同じである。

ただし、比例の定義が、当時と現在では違っている。現在は、一方の値が2倍、3倍、…になると、対応するもう一方の値も2倍、3倍、…になる関係が比例とされる(たとえば、啓林館2014年 p.130)。しかし、1970年代の教科書では、定義としては、2つの値の「商」が一定のとき、2つの量は「正」比例する、と言われている。教科書によっては、「商」の代わりに、「比の値」、「割合」となっている。2倍、3倍、…のことも言われているが、あくまで補足的にである。

(啓林館6下 1976 p.21)

反比例では、正比例と違い、2つの値の積が一定である。正比例では商が、反比例では積が一定で、その一定の数が「決まった数」と呼ばれている。「決まった数」というのは、比例定数のことである。

ただし、現代化時代の学校図書の教科書には、「決まりの見つけ方」と題する、次に示すような設問がある。それは、何らかの工程を含むボックスの、一方から数値を入れると、何らかの処理がなされて、もう一方から出てくる、ということを表している。そして、入る数値(インプット)と出る数値(アウトプット)のいくつかの例から、どのような処理がなされているかを、推測する問題である。ここでは、関数は写像ではなく、ブラックボックスとして扱われている。

(学校図書4下1979 p.87)


4.等式・方程式

画像は、学校図書の1979年版小学校教科書4下のp.14とp.18からのもの。現在なら、中学で学ぶような式の取り扱い方が、この時代の小4教科書に載っているのである。ただし、ここではまだ、xやyなどの文字は使われておらず、代わりに□が使われているのだが。

(学校図書4下1979 .4, 18)

この同値変形において利用されているのが、今は中1で習う「等式の性質」である。「等式の性質」は、等式の両辺に同じ数量を足しても引いても、掛けても、で割っても、等式の両辺の等しさは保持される、ということである。このことが、天秤の喩えを用いて説明されている。等式のこの性質を利用して、式の中にある□(四角、空欄)を求めることができる。「等号の両がわに、16を足した式を書きましょう」とある。左辺に□だけが来る形に変形して、方程式を解くことができる。現代化時代は、方程式の解き方が小4ですでに教えられていたのである。

現在でも、□を使った式は、小2から使われているが、□を求めるのは、テープ図などを使って、□を求める演算を引き出す方法が採用されている。6年になると、中学数学の準備として、□の代わりにxのような文字(記号)が使われる。6年でも、xの値の求め方は、現在の教科書では、未習の「等質の性質」が利用されることはなく、テープ図を利用する方法のほか、引き算が足し算の、割り算がかけ算の逆演算であることを使う方法で、□を求め縷々演算を発見させる。


ここには、同値変形という新しい計算の進め方の理解に対する困難さもある。それまでは式は、

A =A' =A''

と、数量的同一性を保持しながら、等号を重ねて式を言い換えていったのに、方程式を習うと、

A=B, A'=B', A''=B''

のように、等式を連ねて同値変形していく、ということが行われるようになる。ここでは、A=BならばA'=B'、という推論を行うのである。現代化時代は、こうした論証的・演繹的な思考を、小4に強いていたのである。

等しさの理解の問題もある。等号=はすでに、小1のときから用い、一応、小学生には、両辺が等しいことを表す記号として導入される。これは、等号の関係的な(relational)な意味と呼ばれる。

(学校図書3上 2016 p.19)

しかし、関係的な意味での等号の理解は、子どもには、大人が思うほど、すんなりいくわけではない。小学生の多くは、実際には、等号を、まずもって、計算結果(答え)を導き出す記号として用いている。このようにとらえられた等号の意味は、「操作的 operational)」と呼ばれる。数だけの計算では、それが自然なのである。3+2=5は「3たす2は5」と読まれるが、等号が「は」と読まれることは、このことを象徴している。

児童は関係的な意味でよりも操作的な意味で理解しているので、

10÷2 =5 +3 =8

のような破格式を、児童は書いてしまいがちである。また、

26÷7 =3 あまり2

のような、余りがある割り算の式は、教科書にも書かれているが、この式では、両辺は数量的に等しくない。つまり、関係的な意味は後退しているだけでなく、否定されてもいると言える。

四則演算の計算が学習内容のメインである算数では、操作的な理解で十分である。というのも、計算では、等号=の前にあるのは、まだ計算されていない、遂行されるべき演算子を含んだ計算式であり、等号=のあとに来るのは、計算という作業を行うことによって得られた結果だからである。算術的・計算的な理解では、等式の両辺は同時的ではなく、タイムラグがある。このような理解では、両辺に同じ数を足す、という操作は理解できないものであろう。ただし、高学年になって、分数の計算をするようになると、等号は1回では足りずに、等号=を繰り返して、等量性を保持しながら、式を言い換えながら次第に短くしていくことに馴れるようになる。これは、等号の関係的意味の理解につながっていく。

関係的(relational)な意味での等号、等式の両辺が同時的に等しいという概念は、大人にとっては自明で単純なことかもしれないが、子どもにとっては、大いなる課題であり、できて当たり前のように考えてはならない。量的に同時的に等しいという概念の理解は、子どもにとって、それほど簡単なことではない。前操作期の年長児や1年生には、同じ数のおはじきであっても、配列を変えるだけで、大きさが変わってしまうと考える傾向がある。たとえば、粘土の塊を、丸くしても平たくしても、細かい塊に分けても、重さは変わらない、ということは、3,4年になってはじめて学ぶことなのである。


5.かけ算

かけ算は、現在の算数では、〈1つ分×いくつ分=全部の数〉という言葉の式で導入されているが、現代化算数の時代は、〈もとの数×かける数(倍)=答え〉という言葉の式で、説明されていた。このかけ算の定義は、現代化の1つ前の時代である系統学習時代における定義を継承し、緑表紙教科書の定義を復活するものであった。それによれば、かけ算とは、ある数(量)を2倍、3倍(ばい)…にすることなのである。テープを切って半分にしたとき、もとのテープの長さは、その半分の2倍の長さをもつ。

だが、倍(ばい)は事物やその量ではなく、関係・働きである。このようなかけ算定義は、事物に即してしか考えられない小学生には、高度だったであろう。それに比べると、〈1つ分×いくつ分〉による定義では、いくつ分は働きではなく、実際の量を表している。一皿4個で3皿分のみかんを考えるときは、実際に、皿3枚とみかん12個を用意しなければならない。そして、1皿分のみかんは3皿分のみかんの一部である。しかし、倍では、もとにする量と全体量は同一物である必要はない。次の図では、ウマはカメの何倍かと尋ねられているが、この場合は、倍は比・割合を表している。それは関係なのである。ここでは、カメはウマの一部ではない。

(学校図書2下1975 p.34)

現代化時代のかけ算の単元について、興味深い事例を1つ挙げよう。現代化時代の教科書のうち、東京書籍のものには、ゼロ(0)の段がある掛け算九九表を掲載されていた。

(東京書籍3上1974 p.17)

現在のカリキュラムでも、ゼロ×や×ゼロの答えがゼロになることは、3年になってから、輪投げの得点計算などの例を用いて学ぶ。「入ったら3点」の得点の輪投げが1回も入らなかったら、3×0で〇点である。だが、普通の九九表では、一の段または二の段から九の段までが載っていて、ゼロの段があるのは、異例である。ただし、2位数×の掛け算へのステップとして、九九表を十二の段まで拡張することはあるが。ところが、上記の九九表には、ゼロの段(ゼロ×)も、×ゼロも存在する。
九九の各段は、かけられる数の倍数を表しているが、この九九表を用いて掛け算を学んだ子どもたちは、当然、5年生になって、倍数にゼロ倍のゼロが含まれない定義に対して強い疑念を抱くであろう。そして、卒業して40年以上経過しても、算数の倍数定義に抗議し続けている者もいる。

かけ算の可換性(交換法則)については、現在も現代化の時代も、かけ算では被乗数と乗数を交換しても答えは同じだと習う。交換法則はアレイ図で例証されている。現代化の時代に固有なのは、3年と5年では、交換法則の定義が違うことである。3年では交換法則は、グループを縦列にとってその列の個数と列の数からかけ算をしても、横列にとっても全部の数は同じなので、被乗数と乗数は交換しても答えは同じだということを意味する。

(学校図書3上1976 p.7)


かけ算の交換法則は、現代化時代の5年生の教科書では、a×b=b×aという文字式で、ふたたび取り上げられる。やはりアレイ図が使われているが、ここではもはや、基準量となるグループ(縦列または横列)は作られない。縦と横の個数から、直接的に、全部の数を引き出している。ここには、〈基準量×倍〉のような非対称なかけ算から、中学高校で学ぶ〈因数×因数〉の対称的な掛け算への乗り越えが始まっているのである。

(大阪書籍5上1972 p.96)


6.整数の課

事物を数えたり,事物を測定したりして得られる数は,事物や状態を把握するための数であり,事物とのつながりを保持している。しかし,偶数・基数・倍数・約数・素数のような数論的概念は,数そのものを対象とすること,数体系そのものを扱うことであり、より抽象的で,児童には難しく感じられる。

現代化時代、小5の教科書の、整数に関する章は、驚くことに、剰余系から始まっている。3で割ったときの余りがゼロなのか1なのか2なのかによって、整数は3つの集合に分類される、とある。

(東京書籍5下 1979 p.53)

剰余系は今は、高校の数学Aで学ぶ内容である。現代化時代の中学教科書は倍数を剰余系から導き出しているのだが、そのさわりの部分が、小5の教科書にすでに出ているのである。

(第一学習社数学A2019 p.72)

偶数・奇数は、剰余系から説明されている。すなわち、偶数は2で割ったときに余りがゼロの整数の集合、奇数はあまりが1の集合である。整数(ゼロと正の整数)の集合は偶数か奇数かにより2分される。ゼロは2で割ると余りがゼロなので、偶数に分類される。

ところが、当時でも、倍数については、現在と同様に、ゼロが除外されているのである。倍数は剰余系、つまりわり算ではなく、あくまで、整数(ゼロ除く)の整数倍(ゼロ倍は除く)として、かけ算で定義されているのである。

整数に関する章は剰余系から始まり、剰余系で偶数・奇数を説明したあと倍数・約数を導入する、という流れからすれば、倍数は、偶数と同様に、ゼロを含めて定義されてもよさそうなのだが、されてないのである。これは最小公倍数との兼ね合いからであろう。

現代化時代に算数を学んだ、黒木氏や定数氏らといった者たちが、実年になって、子どもが使っている現在の算数の教科書を見て、倍数がゼロを含める形で定義されていないことを発見して、激しく批判するという今起きている出来事の芽は、現代化時代の偶数・奇数、倍数の章に胚胎していたのではあるまいか。

偶数・基数・倍数・約数についての、このような先走った学習内容の課が独立して設けられたのが,現代化時代であった。たとえば,大阪書籍の小5教科書下巻(1972年)には,「整数の性質」(第13課),東京書籍5上(1976年)では,「整数と集合」という課がある。1つ前の系統学習時代の教科書を見ると,そのように独立した章はない。

ただ、現在と違い、公倍数,公約数という言葉は出てくるが,「最小公倍数」,「最大公約数」という用語は出てこない(ただし,「いちばん小さな公倍数」という表現は出てくる。大阪書籍 p.11)。大阪書籍では,その次の課が「分数」で,ここで分数のたし算に必要な通分に,ふたたび,公倍数が使われている。


6.その他

1)負の数

現在なら中学で学ぶが、この時代に小学校で学ばれていた学習項目は、等式の性質・方程式の解き方以外には、負の数や回転体、2図形線対称、有効数字、確からしさ(確率)などである。
現代化時代は、負の数を6年生のときに学習した。負の数は、数直線を左(ゼロ以下)に延長するという仕方で導入される。「負の数」という言葉は使われていないが、「マイナス1,マイナス2……」という表現は学ぶ。そして、3-1, 3-2, 3-3, 3-4などの、答えがマイナスにいたる引き算を行う。

(学校図書6下1976 p.50)

中学で学ぶ項目を小6の算数での先取り的に学習することは、現在の教科書にも、あるにはある。たとえば、xやyといった文字を使った式や、決まった数(比例定数)、場合の数などである。ただし、文字は導入しても、演算記号×÷の省略などは行わない。比例はグラフを描いても、定数と傾きの関係は言わない。場合の数は樹形図は描いても、かけ算の式は使わず、また、確率には結びつけない。

実は、負の数(ゼロより小さい数)のことはも、現行の小6教科書にも載っている。ただし、それは、東京書籍だと「算数卒業旅行」という巻末の付録に書かれていて、正式な学習項目ではないのである。ただ、そこに書かれている内容は、現代化時代の6年の教科書における負の数についての説明と、ほとんど変わりない。現代化時代でも、負の数は本格的には扱われていなかったのである。負の数を本格的に導入してしまうと、負の数の四則演算がどうなるかも説明が必要になるからであるが、負の数を負の数に掛けるとどうして正の数になるのかも、納得させなければならない。


2)2図形線対称

現在では、6年時に線対称・点対称を学ぶが、その線対称は同じ1つの図形の線対称に限られている。ここでは、線対称な図形とは、半分に折ると重なる形であり、点対称な図形とは、回転させると重なる図形のことである。2つの図形のあいだの線対称、つまり対称移動は中1ではじめて学ぶ。しかし、現代化時代は小5の教科書に、2つの三角形の線対称、2つの台形の点対称が取り上げられているのである。

(学校図書5下1976 p.87)


3)有効数字

有効数字は現在は、中1の数学で学ぶ。現代化時代は、画像のように、小5で有効数字の考え方が少しだけ出てくる。たしかに「有効数字」という言葉は使われないが、計算結果の精度(桁数)は、計算の基になる測定値の精度を考慮すべきだ、とされている。

(学校図書5下1976 p.99)


4)確率

確率は算数では、「確からしさ」と呼ばれている。現在は中2で学ぶようなことを、当時は小6で学んだ。コインを投げたとき表と裏が出る場合で起こりやすさに違いはないので、表が出る確率は1/2。何十回と投げて結果の記録をとると、表が出た回数の割合は、次第に1/2に近づいていく。

(大阪書籍6下1973 p.74)


5)十進数

ドゥアンヌの『数覚とは何か?』によれば、フランスの当時の教科書には、五進法を掲載するものがあったという。日本では、幸いなことに、この形式化はフランスほど徹底して起こらなかった。日本の小4・小5の現代化算数教科書に、説明は短いが、「十進数」という用語が現れる。十進数ではない記数システムの例としては、60進法の時刻が挙げられている。

(学校図書4上1975 p.5)

上は4年上の教科書から、下は5年上の算数教科書から。

(大阪書籍5上1972 p.7)

現在の小5の教科書にも、「整数と小数のしくみ」(日本文教5上 2017 pp.10ff.)という章があり、そこで、10倍、100倍するとゼロが1つ2つ増えたり、小数点が1つ2つ位を移動したりする、記数システムことは、説明されている。

ただ、やはり、「十進数」とか「位取り記数法」といった用語は、現れない。中学ではむしろ、現在の教科書にはn進法や位取り記数システムのことは何も載っていないようである。高校の数学Aではじめてn進法について学ぶ。ところが、現代化数学時代には、中1で、五進法などの非十進法、十進法との変換の仕方を学んでいた。



6)延べ

ところで、現代化時代は、小学生は小5で,平均と延べをセットで学んでいた。現在も、小6で平均やデータの散らばり(柱状グラフ)は学ぶが、しかし、そこには、延べ人数のことは出てこない。

(東京書籍5上1979 p.91)

延べ人数は、ニュースなどでよく出てくる言葉である。2019年6月に,プログラミングのキャンプやスクールについて報じる新聞記事があったが,そこにも「延べ」が使われている。複数のキャンプに参加している中高生がいても、具体的に誰がどれとどれのキャンプ等に重複して参加したのかということは、名簿照合でもしないかぎり,なかなかわからない。各スクールから得た参加者数の人数を機械的に合計したものが,延べ人数である。

延べ人数とは、重複をいとわず(重複を無視して)カウントして得られた人数なのである。


7)角錐・円錐

現代化時代の6年生教科書には、その前の系統学習時代の教科書を継承して、立体図形に関して、かなり詳しく書いた章がある。

現在の教科書では、5年に角柱と円柱を学び、6年でその体積の求め方を学ぶが、角錐や円錐は扱われない。現代化時代には、角錐や円錐を含めて、種類(三角柱、四角柱……)や部分の名称(底面、側面……)、展開図、投影図、面と頂点の数、多角柱の三角柱への分解、角柱・円柱の表面積・体積の求め方を学んでいた。

(学校図書6上1976 p.43)

また、立体に関する章には、現在は中1で学ぶ回転体が取り上げられている。回転体は、点や線ではなく、面の回転の軌跡である。割り箸に、厚紙で作った半円を付けて、両手でこするように割り箸を回転させて、どんな立体ができるかを確認する。ただし、壺のように立体が中空の場合は、面ではなく線となる。

(学校図書6下1976 p.38)

現代化の1つ前の時代の教科書(東京書籍6上 1962 p.38f.)にも、回転体のことは載っているので、回転体を学習項目として扱うことが、現代化時代に固有だった、ということではない。現代化時代になって、集合や位相などの新しい学習項目が採り入れられたのに、既存の学習項目がよく整理されなかったために、詰め込み教育となったのである。



現代化後

アメリカのNew Math運動も、その影響で少し遅れた始まった日本の現代化算数も、短期間で失敗し、薄暗くジメジメとした校舎裏に、累々と積み上げられ放置された、多数の落ちこぼれと算数嫌いの児童たちの遺体の山だけが残されただけだった、ということを忘れてはならない。

1)抽象性が高い中等高等数学の内容を小学校で教えれば、その発達段階からして事物に即してしか考えられない、抽象化の途を歩み始めたばかりの小学生の多くは、ついて行くことができずに、落ちこぼれる。中学・高校の数学の内容を消化済みの大人の感覚では、単純明快であっても、それを小学校の数学教育に、安易に持ちこむならば、数学エリート教育にはなるかもしれないが、義務教育としては、算数教育が失敗してしまう。現代化批判は、決して、小学生の能力を過小評価しようとするものではない。

フランスでも、ブルバキズムの名の下に、数学教育の現代化が遂行された。ドゥアンヌは『数覚とは何か』のなかで、数学を抽象的な記号の形式的操作に還元しようとしたブルバキズムを批判している。算数の理解には、具体的な直観と心的モデルが必要なのである。たとえば、心のなかにパイを切り分けるイメージがある子どもは、1/2+1/3 が1(丸1枚)を越えないことがわかる(p.255)。ブルバキズムは、一世紀にわたり、子どもたちのそうした数的直観を破壊してしまった、という。何のための数学教育なのか。

2)それ以前から学ぶべき多くの事項があり、これらを整理しないまま、中学で学ぶ内容を小学校に下ろせば、当然、詰め込み教育になる。いわば、(底が空いている筒ではなく)空いてない袋に、より多くのものが詰め込まれることになる。学習事項が増えて、詰め込み教育、新幹線授業となって、ついて行けない落ちこぼれが増えた。岐阜県の教育研究所が行った調査では、5年生クラスの3分の2近くが、6年の約半分が、算数の勉強は半分以上わからない、と回答したという。

中高で学ぶ高度な事項の理解に困難があるというだけでなく、本来小学校で学ぶべき基礎的な事項の学習に、十分に時間が割けない、ということになる。だから、生徒たちは、交換法則はよく知っているのに、九九を満足に言えないことになる。現代化数学が失敗した後に、「基礎に帰ろう」という運動が起きたことは、自然なことであった。

こうした不適切な算数カリキュラムが、失敗するということは、必然的であった。


関連記事


注1
flute23432「正方形は長方形でない? ― 現代化算数の失敗と亡霊」
http://flute23432.blogspot.com/2018/02/


〈参考文献〉

大日本図書「教科書いまむかし 数学教育現代化時代小学校」
https://www.dainippon-tosho.co.jp/math_history/history/age03_el/index.html

京都情報大学院大学江見圭司製作「戦後教育 生年と学習指導要領・使用教科書」

高橋正「数学教育論 A2.数学教育の歴史的変遷 8.現行指導要領」
http://www2.kobe-u.ac.jp/~trex/hme/index8.html

現代化時代の算数の教科書(大阪書籍、学校図書、東京書籍、啓林館など)

S・ドゥアンヌ『数覚とは何か?』(早川書房 2010年)


(Twitterで、「現代化算数教科書紹介シリーズ」として2017~2019年に断続的に掲載したツイートに加筆・修正して掲載 2020/03/30改訂)