2019年8月29日木曜日

何の段の九九

2014年5月に、小3の、割り算の単元テストの採点答案の一部を写した写真がツイッターにアップされその採点が正しいのか間違っているのかについて、ツイッター上で大論争に発展した。そして、この論争はそのあと何度もぶり返すことになる。


(砂女氏 2014/05/14 18:29)、 

問題の設問は、「次のわり算の答えは、何の段の九九を使って求めればよいですか。(1)21÷7  (  のだん)」となっていて、ツイートした砂女氏の子どもは、3の段と答えてバツになり、7の段と赤で訂正させられている。これについて、砂女氏は、「小3次男の割り算のテスト。学校だけに任せておくと大変なことになるよ...。」とコメントしている。

2018年9月、2019年7月にも、今度は、それぞれ別の人物が、同じタイプの設問について、子どもが学校から持ち帰ったバツ採点の答案をツイッターにアップして、疑問を呈している(七氏 2018/09/08 20:50、遠藤氏 2019/07/15 08:47)。そのうち後者には、「子供がショックを受けて隠していた教育同人社の算数のテストを発見。どうみても算数教育がおかしい。」と書いている。厳しい母親から叱られるのを恐れて、100点未満の返却テスト答案を隠していたのではなく、その子自身がその設問の理不尽さにショックを受けて、答案を母親に隠していた、というのであるが、本当なのか。

3人とも、自分の子どもの解答は正解なのにバツされていると見なして、自分の子どもの答案をアップしている。つまり、子どもが「おかしな」採点をされて、トンデモ算数教育の被害を受けた、と訴えているのである。もう信頼して子どもを学校に預けられない、と言うのだ。だが、実際には、彼女らは、自分の子どもの誤解答をネットに晒してしまっているだけなのではないのか。


1.小3の割り算学習の文脈

21÷7の割り算を解くのに使う九九と言えば、3×7か7×3だが、3×7は三の段、7×3は七の段なので、三の段でも間違っていないように見えるかもしれない。この設問をそれだけで見ると、たしかに、そうであろう。だが、この設問が作られ解かれている文脈(コンテキスト)を知れば、三の段という解答が間違いであることがわかる。

割り算は小学校では3年ではじめて習う。割り算が、お菓子を子どもたちに平等に配るときに、配る人数や1人分の個数を求めるものであることが説明されたあと、割られる数が1~2桁の整数、割る数が1桁の整数の簡単な割り算を、覚えたての九九を使って、簡単に解ける方法が説明されている。

それによると、「わり算の答えは、わる数のだん九九をつかってもとめられ」るのである。21÷7 を例として使うならば、割る数の段(七の段)を、7×1=7, 7×2=14…と走査して、答えが割られる数21のところ(7×3=21)で止まり、そのときのかける数3が答えである。それに続いて、実際に、割り算を割る数の段を走査して求める練習問題がそのあとに続いている。表現は少しずつ異なるものの、どの教科書も、同様の説明・構成になっている。



注意しなければならないのは、「何の段の九九を使って求められるか」というこの設問は、わり算の答えを求めるのではなく、答えを求めるときに使う九九の段を尋ねるものだ、ということである。いわば、割り算の答えという目的そのものではなく、目的にいたるための手段を尋ねているのである。その点で、ちょっと変わった設問ではある。単元テストの他の設問が、軒並み、割り算の答えを求めるものなのに、ここだけは、割り算の答えを書いたらバツなのである。そのために、授業やドリルでやったことを忘れて、割り算の答えである3を使い、「三の段」と答えてしまう児童が少なからずいる。バツになったのなら、もう一度、教科書を読んで復習すべきであろう。

教科書には、割り算の答えは【割る数】の段で求めるとあるのだから、それがわかっているかを試す単元テストで、21÷7の例で【割る数】は7なので、七の段と答えればよいのである。同様にして、56÷8は八の段で、21÷3は三の段で、40÷5は五の段で答えを求める。

その設問の趣旨やそれが置かれた文脈からすれば、これは「割る数の段」を答える問題なのである。設問には「何の段の九九を使って求めればよいですか」とあるが、それは、言い換えれば、「授業やドリルでは、次の割り算の答えは九九の何の段を使って解くと習いましたか」という意味なのである。教科書に書かれていることををほぼ再現するだけのそのような設問は、出す価値がないように思えるが、単元テストは授業でやったことの確認なので、原則、平易で基本的な設問ばかりである。それは基礎の基礎の確認なのである。それでも、〈何の段の九九〉の設問は、目的ではなく手段を尋ねる変わった設問なので、バツになることは多い。

そのような趣旨は書かれておらず、文面だけからは、そのようなことは引き出せない、と言われるかもしれない。だが、それは授業を受けていない保護者やネットユーザーたちにとって、そうなのである。しかし実際には、この単元テストの対象者は、そのような人たちではなく、学校の授業で割り算を学習し始めた小学生である。児童は、よく授業に参加していれば、授業やドリルで同じ問題を解き、その設問の趣旨もわかっている。児童は、教師の意図や教科書の執筆者の意図を忖度する必要はない。



採点答案の一部がネットにアップされると、そのような授業の文脈が脱落してしまうので、「段を使って」という言葉が、段を走査せずに、21を因数分解して頭に浮かんだ7×3のような掛け算が、どこの段に属すのかを探す、といったような意味に曲解されてしまうのである。

砂女氏は、2016年3月には、同じ画像を再掲して、次のように述べる。

「「21÷7」の答えを出すために「3×7と7×3のどちらを想起するかは自由」なのに、「7×3でもとめられる、と授業でやったからそれ以外は認めない」という採点と指導が“問題”です。」

割り算を解く方法は1つではない。割られる数から割る数を何回引けるのかと考えても、4年に習う筆算でも、電卓でも、もちろん、三の段の九九3×7を使っても、解くことはできる。わり算に限らない。2年で習うかけ算(2×3)の問題は、1年で習う足し算(2+2+2)でも解ける。他の方法があることは、わかっている。だが、すべての解法、すべての考え方を教えることはできないし、したとしても、消化不良となる。そのうち一部は、難しすぎる。だから、そのうち、その学年のその段階にふさわしい適切な解法を選んで教えるのである。

そして、その選ばれた方法を宿題や単元テストで繰り返し練習したうえで、最後に単元テストで、それが定着し、習得されているかのチェックを行うのである。答えの段を答えてしまってバツになったなら、そのバツは、他の解法の存在を否定しているのではなく、単に、「授業でやったことができていないね、復習しよう」という意味である。


2.瞬時因数分解する子どもたち

この設問について、21÷7で、三の段(3×7)でも求められる、三の段という答えは間違っていないと主張して、教師の採点を批判する者たちは、教科書を丁寧に読めば理解できる設問の趣旨を捉え損なっているだけなのではない。彼らの多くが、割り算をしているというより、瞬時に因数分解をしているらしいのである(注1)。

そのように主張する人たちは、どうも、逆引き九九が児童の頭に入っていて、児童が21を瞬間的に、3と7に因数分解するのは普通だと見なしているのである。割られる数21を因数分解すると、3×7または7×3となるが、これらが九九のどの段に属しているかと言えば、前者が三の段、後者が七の段である。もし、3×7を使ったなら、三の段でも正しいはずだ、というのである。

「数21を見ただけで数3と7が勝手に心の中に思い浮かんでしまい、続けて÷7と書かれているのを見た瞬間に答えが3だとわかってしまうような人達の存在を認識できているかどうか」(黒木氏 2014/05/20 17:20)

「総当りでもなく偶然でもなくドタマの中に「21のほうから引けるindex」が付いてるちゅうねん。除数*1から線形探索してる場合やないやろ。」(A犯氏 2017/01/14 17:51)

三の段でもよいと主張するこれらの人たちのなかには、かけ算の順序論争では自由派と呼ばれる人たちがいる。自由派の多くにとって、3×7と7×3は意味も計算結果も同じ、同一物の別の表現にすぎない。3と7が対等に同じ因数の資格で、21という積を構成しているのである。だから、21÷7という割り算を解くのに、7×3(七の段)が正しいのなら、3×7(三の段)も同じように正しいはずなのである。

だが、そうだとしたら、設問は、「その割り算の答えを求めるのに、九九のどの【句(1×1=1, 3×8=24などの、九九の1つ1つ)】を使いましたか」ときけばよいのである。ところが、「何の【段】の九九を用いましたか」と、【句】ではなく【段】を答えさせるのはなぜかといえば、7×1=7, 7×2=14, 7×3=21と, 九九のある段を走査(線形探索)することを想定しているからである。

2年生は九九を【段】ごとに習い、基本的に、掛けられる数と掛ける数から、答えを出す一方通行でのみ習う。暗唱する際に、7×1=7, 7×2=14...のように、掛ける数の小さい順に唱えるのが基本であるが、大きい順でも唱える。ときにはアトランダムでも、練習する。

たしかに、答えが18になる九九を探しましょうといった、答えから掛けられる数と掛ける数を答えさせる設問がないわけではないが、逆引きが瞬間的に出てくるまで、練習するわけではない。九九の逆引きがとくに必要となるのは、中学で多項式の因数分解のときである。だが、上記の単元テストを受けると想定されている対象者は、中3の生徒ではなく、小3になったばかりで、その前の年度にかけ算の最初の学習をはじめた小学生なのである。

たしかに、馴れてくれば、32÷4は、割る数四の段を、4×1=4, 4×2=8, 4×3=12...と、段の先頭(×1)から順に走査しなくても、あたりをつけて、4×5=20から始める児童も出てくるであろう。あるいは、段の末尾(×9)から遡及して(つまり、掛ける数の大きい順に)走査してもよい。さらに練習を積めば、最終的には、4×8に瞬時に到達するレベルに達するであろう。だが、3年の前半は、児童の大半はまだ、九九の瞬時逆引きができるレベルではない。それどころか、3年生後半になると、九九を忘れ始める児童が出るために、2年の復習が必要なのである(注2)。

小3前半というこの学習段階の児童にふさわしい割り算の方法として、割り算の筆算に先立って教えられるのが、簡単な割り算の答えを、学びたての九九を使って出すこの方法、九九の、割る数の段を走査して、答えを見つける方法、なのである。この方法に習熟することによって、児童はともかくも割り算ができる、という感覚をもつことができる。この方法は、たしかに、直接的には、桁数が少ない割り算にしか使えないものだが、同じ3年で学ぶ、あまりの出る割り算にもそのまま使える。4年で学習する割り算の筆算においても、数字の桁数が増えて複雑にはなるが、この方法と同じ発想が使われており、その意味で、この方法は割り算筆算の基礎となっている。


3.目的と手段、既知と未知

割り算をするとき、割られる数(条件1)をa、割る数(条件2)をb、割る数の段の走査(答えを得るための手段、方法)をc、答え(解、目的)をdとすると、条件と手段と目的の関係は、次のように、表現できる。

a, b ―(c)→d

割る数の段の走査に必要な条件は、割る数b、それから、2年で暗記した九九の知識である。割られる数aも最後には必要になる。割る数bは走査すべきの九九の段を与える。21÷7の例では、割る数は7なので、七の段を走査して、答えが割られる数aとなる7×3=21にまでいたる。aとbと九九の知識から、答えdが得られたのである。

もし、三の段でもいい、ということになると、その3はどこから得られたのであろうか。3はこのわり算の答えdなのである。であるから、三の段と答えた時点で、すでに、答えが出てしまっている、ということになる。三の段でもいいとする人は、ある種の「論点先取の誤謬」のようなことを犯してしまっている。答えを得るための手段として答えそのものを使ってしまう誤謬を犯している。答えが出てしまっているのなら、答えdを獲得するための手段cとしての段の走査は、そもそも不要ではないか。

三の段と答えたのでは、与えられた条件(既知)が何で、何がで問われているか(未知)、ということの理解がまったくできていないのである。この設問は、21と3という2つの数字を見たときに「想起」(砂女氏)する九九の句(7×3=2のような、九九の1つ1つ)を問うているのではない。未知の答えdを得るための手段cとしての走査する段を尋ねているのである。「割り算の答えをその答えの段を使って求める」という驚異的な不合理を何とも感じない鈍感な人だけが、三の段でも正解だと主張できるのである。

三の段でも正しいという人は、すでに述べたように、段の走査などはしておらず、1)まず3×7=21または7×3=21を思いついて、2)次に、それがどの段に属すのかを考えている。三の段でもいいと主張する人は、1)の段階で、すでに、手段の7も目的(答え)の3も得てしまっている、とも言える。つまり、手段と目的、条件と解を同時に、一体的にまず獲得してしまっている。

でも、設問は、あくまで、目的を達成するための手段、それ自身では目的ではない手段、を尋ねているのである。そこで、三の段でも正しいと主張する人は、もし3×7を思いついたのであれば、目的と手段が一体化した3と7のうち、3を目的(答え)とし、7を手段(割る数の段の走査)に、あとから割り振って、答えているのである。つまり、手段と目的を分離して、再構成しているのである。

「三の段」という誤った解答を正解に仕立て上げるために、かなり無理な事後的合理化・再構成が行われていることに注意すべきである。しかし、設問は、もともと、そのような手の込んだ解釈を、児童には要求していない。教科書に「割り算の答えは割る数の段を使って求められます」とあるので、「何の段の九九」の設問は、それに正確に対応する設問で、ただ、割る数の段(三の段)を答えればよいのである。瞬時に因数分解する方法は、大人が思いつく方法としては正当だが、やはり、小3向けのこの設問の趣旨にまったく対応していないのである。


4.あまりがある割り算

あまりがある割り算を見る前に、因数分解の仕方がもっと多い場合を考えてみよう。

瞬時因数分解する人は、たとえば、18÷3という割り算はどうするのであろうか。というのも、21を因数分解する方法は、九九の範囲では、三の段3×7と七の段7×3の2通り(または、数え方によっては1通り)しかないが、18だと、次の4通りあるからである。

1) 2×9=18 二の段
2) 3×6=18 三の段
3) 6×3=18 六の段
4) 9×2=18 九の段

だが、この場合は、1)二の段や4)九の段という答えは、不適切である。それらでは、答えの6を得ることができない。6を得るためには、3が因数に含まれている2)または3)に絞り込まれなければならない。何の段かときかれたなら、三の段ないし六の段と答えればよいことになる。だが、この絞り込みにおいて、割る数3を使っているのである。割られる数が21のときは、意識しなくてもよかったことだが、ここで、瞬時因数分解する人も、割り算の答え6を出すためには、3という割る数を使わざるをえないのである。あるいは、瞬時因数分解する同じ瞬間に、割る数3を算入しているのである。そして、答えは、割る数でないほうの因数6である。積が18で、因数が3であるときのもう1つの因数が何かを求めているのである。

だが、因数分解する人たちは、割る数3を使っているとしても、三の段を走査しているとは、依然として、言えない。そもそも、「何の段の九九を使って」と段数をきかれているのだから、何かおかしいと思わなければならない。だいたい、かけ算を被乗数×乗数ではなく、因数×因数で考える人には、段という概念がないはずなのである。

3年のうちに、小学生はあまりがある割り算も学ぶ。あまりがある割り算の答えは、どのように得るのか。これも、あまりがない割り算と同じ手法で得られるのである。



たとえば、27÷4の割り算の答えは、割る数は4なので四の段を走査する。

4×1=4, 4×2=8, 4×3=12, 4×4=16, 4×5=20, 4×6=24◯, 4×7=28×...

×7まで行ってしまうと、答えが割られる数27を超えてしまうので、1つ手前の 4×6=24まで戻る。これが停止句となる。答えが割られる数になるところで走査を停止するのではなく、答えが割られる数を超えないギリギリのところを狙うのである。このときの停止句の掛ける数8が答えであり、あまりは、割られる数27から、停止句3×8=24の答え24を引いて得られた3である。

このとき、九九の1つの段を走査しながら、いわば行きつ戻りつする。4年になって、割り算の筆算の学習が始まると、割られる数や割る数の桁数が増える。大きな数で、掛けてギリギリで超えない積を見積もる能力が求められる。あまりがある割り算での「行きつ戻りつ」の規模を拡張した形で、行きつ戻りつが必要となる。これが、足し算・引き算・かけ算になかった、割り算固有の難しさである。

では、瞬間因数分解する人は、27÷4のような、あまりがある割り算をどのように解決するのであろうか。27は3×9または9×3に因数分解できる。では、三の段ないし九の段を使うのであろうか。だが、三の段でも九の段でも、ただしい答えにたどりつけない。答えは6であり、「三の段→答え9」でも、「九の段→答え3」でもない。瞬時因数分解ではなく、4を因数の1つとする積27のもう1つの因数を求めるのだと考えたとしても、正しい答えを得られない。

正しい答えに到達するには、aが割る整数で、bがあまり(整数)、cが割られる整数であるとき、ax+b=c (b<a)となるようなxを求めることだ、と考えなければならないであろう。その場合、27÷4では、4x+b=27 (b<4)となるxとbを求める。bがゼロのとき、27は4の倍数ではないので、そのままでは、27にならない。そこで、bを1すづ増やしていく、つまり、27を1つずつ減らしていく。段の走査ではないが、ある種の走査を行うのである。26も25も4の倍数ではない(4で割り切れない)が、24ならば、4の倍数なので、因数に4を含めて因数分解できる。

24で止まり、これを4×6ないし6×4に因数分解する。4×6は四の段、6×4は六の段なので、四の段または六の段を使うということになるが、この場合も、段の走査は行っているわけではないので、「走査する段はどれか」を答えることは無意味である。4x+b=27 (b<4)を満たすxは6で、bは3である。

このように瞬時因数分解は、そのままでは、あまりがある割り算の問題を正しく解けない。ax+b=c (b<a)となるようなxを求めることだと考えても、これを瞬時にできるのであろうか。少なくとも、あまりがない割り算よりも少し時間がかかりそうだし、何と言っても、小学生にそのような方程式を解くことを期待すべきではない。小学生にふさわしいのは、やはり、割る数の段を走査する方法である。



歴史的補遺

簡単な割り算は九九を使って答える方法について、昔から教えられてきた。19世紀のリットの『新算術』(1887年)という算術書には、設問ではないが、同様の考え方が書かれている。
Nouvelle arithmétique des écoles primaires, par G. Ritt, Paris, 1887.

それによると、割る数が1位数、割られる数が2位数の簡単な割り算の商は、九九表で、簡単に求められる、という。つまり、九九表の割る数の段を水平に走査して、割られる数を見つけたら、そこから上方に遡及すると、商が発見できる。


42÷7の例では、割られる数42と割る数7か与えられ、商6を求めるのである。割る数の7の段を水平に右へと移動し、割られる数42にぶつかったところで、垂直上方に移動し、ぶつかった端にある6が商である。つまり、七の段を走査して答える。



掛け算では、被乗数と乗数が与えられ、積を求める。被乗数の7から水平に右に移動し、乗数の6から垂直に下降して、交点にあるのが積(答え)である。割り算は、掛け算との関係で言えば、被乗数と積がわかっているときに、乗数を求める演算である。

1900年の樺正董『算術教科書上』(p.45)には、次のように書かれている。この時代は、国定教科書では九九は半九九だったので、九九の段を走査するということはできなかったはずである。しかし、38÷7は、大きい順ではあるが、7に9から大きい順に掛けて、積が割られる数を割った(切った)直後で止まり、その際のもう1つの因数7が、答えとなる。段の走査ではないが、ある種の走査を行っている。

9×7=63, 8×7=56, 7×7=49, 6×7=42, 5×7=35

「1位数にてその10倍未満の数を割る場合 37. この場合は、別に法則と言うべきものはなく、ただ、乗法九九を用いてこれを被乗数に比較するまでのことである。たとえば、38を7で割るには、九九を用いて、9, 8, 7, 6, 5と7との積を38と比較すれば、38は5と7を掛けたものに3を加えたものに等しい。すなわち、商5、あまり3を得る。」

昭和初期の緑表紙教科書(1937年)にも、冒頭に掲げた「何の段の九九」型の設問が載っている(2下 p.9)。この時代には、総九九が採用されていたが、「段」という言葉は使われていない。「12÷2を計算するときには、二六12という九九を使いましょう。12÷4には、どんな九九を使いますか。※四三12」



次は、1956年の例である。ここではじめて、「段」が使われている。50÷6の答えは、六の段を走査する。「宏くんは50人を6つの班に分けるには、50÷6の計算をすればよいと考えて、六の段の九九を使って答えを探してみました。答えを7とすれば、六七42で、8あまります。」  もちろん、宏君は次の六八48まで行かなければならない。



次は1969年の教科書から。「30÷6の計算は、6×⬜=30 か ⬜×6=30の⬜に当てはまる数を見つけることです。六の段の九九を使います。」(学校図書3上 1969 p.23)



次は、1985年の例である。「割り算の答えは、割る数の段の九九を使って見つけます。」



以上のように、簡単な割り算の答えを九九を使って求める方法は、外国も含めて、古くから算数で教えられてきた。この設問を批判する砂女氏や定数氏、黒木氏、A犯氏も、割り算をこのようにして、習い始めたのである。






注1

「因数分解」と言えば、多項式の因数分解がまず思い浮かぶが、数の因数分解というのも存在する。自然数をこれより小さな自然数の積の形に変形することも、因数分解なのである。素因数分解はその特殊な場合と言える。英語では、とくに素数にこだわらない数の因数分解は、Wikipediaによると、"Integer factorization"と呼ばれている。この因数分解の因数を素因数(素数)に限定すると、"prime factorization"(素因数分解)となる。


Integer factorization: "In number theory, integer factorization is the decomposition of a composite number into a product of smaller integers. If these integers are further restricted to prime numbers, the process is called prime factorization." (Wikipedias)


注2

1939年に出版された清水甚吾『尋常小学校算術心指導書3下』には次のように書かれている。


「割り算で一番困難なところは、商の発見である。商を一挙に決定させようとすると、学級の優等児だけならそれでよいが、能力の低い児童には困難で、このため、割り算の劣等児を作ることになる。それで、最初のあいだは、割る数の段の九九を、割る数を先に呼び、小さい方から順に唱えていき、被乗数を超えたときにやめ、ひとつ少ない数を商とする。こうして経験を積むあいだに、一挙に商を発見し、あるいは、九九を大きいほうから逆に唱えた方が便利なことや、商を5として見るほうが便利なことなどを適用させるようにする。」(現代風に改めて引用した)

この引用によれば、割る数の段を走査せずとも、商を一挙に発見できる優秀な児童はいるにはいるが、並みの能力のその他大勢の児童には、それができない。だから、割る数の段を乗数が小さい方から順にたどって、対応する九九の句を発見させるのである。

練習を重ねているうちに、児童たちは、段の最初からではなく、途中から始めたり、あるいは、乗数が大きな方から段を遡ったりできるようになっていく。最終的に、あまりがない割り算で、当該の九九が瞬時に発見できるようになれば、この設問をやるようなレベルは卒業となる。

優秀な児童の能力を前提とした授業を強行するなら、割り算がわからない児童がたくさん出てしまう。これでは、義務教育終了までに、国民の算術的な能力を一定以上まで高めるという公教育の目的が果たせない。


(flute23432 2017/01/23 23:48, 2017/01/26 07:40, 2017/01/31 16:18, 2017/02/05 03:23, 2018/06/17 04:29, 2018/09/09 00:57, 2019/07/15 09:03, 2019/07/26 18:33, などのツイートに基づく)


2019年8月19日月曜日

現代化時代の算数教科書の紹介(あるいは、数学教育のアウシュヴィッツ)


ソ連のスプートニク成功に衝撃を受けたアメリカは、巻き返しを図るべく、旧態依然としていた数学教育を改革に乗り出した。この結果、1960年代に、数学教育のなかに現代数学の成果をとり入れて教育内容を高度化するNew Math運動(「新数学」運動)が起きた。この運動は、他の国々にも波及した。

日本は、欧米より少し遅れて、他国よりもはるかに穏健な仕方であるにしても、1970年代にその余波を受けることになった。1968年に、新しい学習指導要領が採択され、小学校では1971年から、中学では1972年から、高校では1973年から、現代化学習指導要領に沿った算数・数学教科書が使われた。

現代化算数は、集合や位相など、現代数学の成果を初等数学教育に採り入れて、より抽象的・形式的な学習内容や教え方を増やした。たとえば、ある教科書では、図形を、身近に見られるお菓子等の箱などの形からではなく、位相的な図形の異同から導入した。比例と反比例については、別のある教科書には、次のように書かれている。

(東京書籍6下 1977 p.20)

「a×b=cの式では、aの値がきまった数のとき、bとcは比例し、bの値が決まった数のとき、aとcとは比例します。また、cの値が決まった数のとき、aとbとは反比例します。」

自然現象などに発見できる、2つの量のあいだの相関関係ではなく、式の形式的な性質から、比例と反比例を導き出している。比例定数(決まった数)というのは、そもそも、aとbどちにらも任意に設定できるものであっただろうか。これも、当時の算数教育における形式主義を象徴している。

内容を高度化しただけではない。従来なら上の学年で学ぶはずであった学習項目を下の学年に下ろした。学習内容の低学年化である。中学で学ぶような学習事項が、小学校の高学年で教えられるようになった。


1.集合

現代化算数と言えば、やはり、集合の概念である。それは単に、集合の単元が設けられただけというだけでなく、図形など他の学習事項の説明の原理としても用いられた。集合は、算数教育の現代化の目玉であり、同時に、現代化批判においてもっとも激しくやり玉に挙げられたものでもあった。

現代化算数では、小4で既に、集合の考えや用語、記号法({ },⊂)が教えられていた。

(大阪書籍4下1977 p.4)

集合という概念が現れるのは、4年の教科書である。大阪書籍(1977年)では、集合は「ある事柄に当てはまるものの全体を、1つの仲間と考えたとき、その集まり」(p.4)と定義されている。

だが、この集合概念が、小4の小学生にどれほど理解されていたであろうか。小学生はその発達段階(具体的操作期)からして、事物に即して考える傾向がある。「集まり」が1つの場所への物理的な集積を意味しないこと、「仲間」は知り合いどうしである必要はないこと、ヴェン図の、集合を表す円は校庭に集合した自分たちの周囲の描かれた白線のことではないこと、こうしたことが、当時の小学生に理解されていたかどうか、疑問である。

集合の表し方や、集合と集合の関係を表す記号もまた、算数の教科書に載っていた。{ }記号は、ある集合を、それを構成する要素の列挙で表現するときに用いられる。⊂の記号という記号は、包含関係を表す。

(大阪書籍4下 1977 p.7 2箇所の抜粋部分を結合)

ヴェン図(ベン図)やオイラーの図も出てくる。これらの図で、複数の集合のあいだの重複関係や包含関係を表すことができる。ただし、ヴェン図という名称や交わり(積集合)、結び(和集合)を表す記号は、見当たらない。

(学校図書4年上1975 p.22)

そこには、有限集合だけでなく、倍数(ゼロは含まず!)や図形など、無限集合も躊躇なしに、扱われている。下は、啓林館6下(1973) に掲載されていた、さまざまな四角形の包含関係を表すオイラーの図である。

(啓林館6下1973 p. 86)

この図によれば、正方形の集合は、長方形とひし形の交わりにあたる。長方形は等角四角形、ひし形は等辺四角形であり、正方形は等辺等角四角形なのである。長方形もひし形も、ともに対辺が平行であり、平行四辺形の部分集合である。そして、平行四辺形は台形の、台形は四角形の部分集合である。

だが、学習心理学の諸研究は、四角形のあいだのこのような包摂関係の理解が、小学生にはとても困難であることを証言している(注1)。

集合は、現在では、高校の数学Ⅰになって始めて学ぶ内容である。

(東京書籍数学A2019 pp.4-5)



2.位相

下の画像は、学校図書教科書1年1974年版からのものである。

(学校図書11974 p63)

位相(topology)は、現代化算数が現代数学から採り入れ、小中学校で学ばせたものの1つである。上の図は、驚くことに、1970年代に、日本の小学校1年生が位相幾何学の初歩を学ぶことを強制されていたことを示している。

位相幾何学では、形や長さや凹凸を変えても、線や面のつながり具合が同じならすべて同一の形だと見なす。だから、好んで取り上げられる例だが、取っ手付きのマグカップとドーナツは、同じ形なのである。同様にして、円と三角形と平行四辺形、球と正多面体とグラスは同じ形である。

上の図の問4は「鼠が線を跳び越えずに出られるか」を問うている。これは、閉じているかどうかによる線の分類である。既述のように、位相では、長さや曲がり具合、形ではなく、線がつながる仕方が重要となる。線が閉じているかどうかは、ポイントの1つとなる。

問4は、閉じているかどうかを、鼠が線を跳びこえずに外に出られるかに着目させて、両者を区別させようとしている。①と③は閉じておらず、鼠は図形の中にいるように見えて、線に閉じこめられていることはない。これに対して、②は閉じており、鼠はその中にいるので、線を踏み越えずには外に出られない。

次の画像は、2年下からの抜粋である。p.12から「三角形と四角形」の単元が始まるが、その第1ページは再び、位相である。マル「あ」は閉じた線、マル「い」は閉じていない線である。

(学校図書2下1975 p12)

問1は、1~6の形が、「あ」と「い」のどちらの仲間に属すかを答えさせるもの。1,2,6は閉じているが、3,4,5は閉じていない。その上で今度は、マル「あ」の、輪になった糸から、ちょうど、コルクボードに針を刺して、この閉じた糸を、糸が垂れ下がらないように、針から針へと張る。
3点で引っ張ると三角形となるが、4本の針にあいだに糸を渡すと四角形になる。三角形と四角形は、同じ閉じた線のヴァリエーションなのである。そして、その糸を針で引っ張ってぴんとなった糸の形は、「直線」と呼ばれる(p. 13)。

(学校図書2下1975 p13)

位相概念を図形学習に取り込むという点で、学校図書は特別かもしれない。東京書籍はこの点では、もっと穏健で、位相概念を採り入れたと解せる例は1つあるが、基本的には、現在と同じように、身の回りに見られるいろいろな物体の形から、四角形や円を発見させることで、図形学習を導入している。大日本図書も同様である。


3.関数

現代化時代の中学の教科書では、関数概念は、集合間の要素の対応関係(多→1、1→1)として、定義されている。これに対して、小学校の教科書では、現在も当時も、関数は、「ともなって変わる量の関係」と言われていて、変わりないように見える。
関数は、現代化時代の算数教科書では、小4から、「変わり方調べ」のような題で、扱われている。そこで取り上げられているのは、

・ある商品の購入個数と代金の関係
・水槽に溜まる水の体積と時間との関係
・兄の年齢と弟の年齢の関係
・同じ個数のものを姉と妹で分けるときの姉妹のそれぞれの取り分の関係
・おはじきで辺を描いた正方形の1辺の個数と全部の個数の関係
・面積が一定の長方形の縦と横の関係(反比例)
……

現在の教科書でも、ほぼ同じ種類の関数的関係が、「変わり方」のような、類似したタイトルの章で取り上げられている。違うのは、現代化時代は、1)5年ですでに、2つの値をa,bという、文字を使った式で表していることである。また、2)現在の教科書は、関数のグラフについては禁欲的なのに、現代化時代は、そのような禁忌はなかったようである。さらに、3)現代化の教科書では、年齢と体重、時刻と地面の温度との関係も、関数と一緒に取り上げられているが、このような関係は、現在の教科書では、資料の整理に関する別の章で取り上げられている。

比例は関数の一種である。比例と反比例が6年に扱われていて、

y=(決まった数)×x

という式で表されること、正比例ではグラフが原点O(オー)を基通る直線になると言われている点も、現在と同じである。

ただし、比例の定義が、当時と現在では違っている。現在は、一方の値が2倍、3倍、…になると、対応するもう一方の値も2倍、3倍、…になる関係が比例とされる(たとえば、啓林館2014年 p.130)。しかし、1970年代の教科書では、定義としては、2つの値の「商」が一定のとき、2つの量は「正」比例する、と言われている。教科書によっては、「商」の代わりに、「比の値」、「割合」となっている。2倍、3倍、…のことも言われているが、あくまで補足的にである。

(啓林館6下 1976 p.21)

反比例では、正比例と違い、2つの値の積が一定である。正比例では商が、反比例では積が一定で、その一定の数が「決まった数」と呼ばれている。「決まった数」というのは、比例定数のことである。

ただし、現代化時代の学校図書の教科書には、「決まりの見つけ方」と題する、次に示すような設問がある。それは、何らかの工程を含むボックスの、一方から数値を入れると、何らかの処理がなされて、もう一方から出てくる、ということを表している。そして、入る数値(インプット)と出る数値(アウトプット)のいくつかの例から、どのような処理がなされているかを、推測する問題である。ここでは、関数は写像ではなく、ブラックボックスとして扱われている。

(学校図書4下1979 p.87)


4.等式・方程式

画像は、学校図書の1979年版小学校教科書4下のp.14とp.18からのもの。現在なら、中学で学ぶような式の取り扱い方が、この時代の小4教科書に載っているのである。ただし、ここではまだ、xやyなどの文字は使われておらず、代わりに□が使われているのだが。

(学校図書4下1979 .4, 18)

この同値変形において利用されているのが、今は中1で習う「等式の性質」である。「等式の性質」は、等式の両辺に同じ数量を足しても引いても、掛けても、で割っても、等式の両辺の等しさは保持される、ということである。このことが、天秤の喩えを用いて説明されている。等式のこの性質を利用して、式の中にある□(四角、空欄)を求めることができる。「等号の両がわに、16を足した式を書きましょう」とある。左辺に□だけが来る形に変形して、方程式を解くことができる。現代化時代は、方程式の解き方が小4ですでに教えられていたのである。

現在でも、□を使った式は、小2から使われているが、□を求めるのは、テープ図などを使って、□を求める演算を引き出す方法が採用されている。6年になると、中学数学の準備として、□の代わりにxのような文字(記号)が使われる。6年でも、xの値の求め方は、現在の教科書では、未習の「等質の性質」が利用されることはなく、テープ図を利用する方法のほか、引き算が足し算の、割り算がかけ算の逆演算であることを使う方法で、□を求め縷々演算を発見させる。


ここには、同値変形という新しい計算の進め方の理解に対する困難さもある。それまでは式は、

A =A' =A''

と、数量的同一性を保持しながら、等号を重ねて式を言い換えていったのに、方程式を習うと、

A=B, A'=B', A''=B''

のように、等式を連ねて同値変形していく、ということが行われるようになる。ここでは、A=BならばA'=B'、という推論を行うのである。現代化時代は、こうした論証的・演繹的な思考を、小4に強いていたのである。

等しさの理解の問題もある。等号=はすでに、小1のときから用い、一応、小学生には、両辺が等しいことを表す記号として導入される。これは、等号の関係的な(relational)な意味と呼ばれる。

(学校図書3上 2016 p.19)

しかし、関係的な意味での等号の理解は、子どもには、大人が思うほど、すんなりいくわけではない。小学生の多くは、実際には、等号を、まずもって、計算結果(答え)を導き出す記号として用いている。このようにとらえられた等号の意味は、「操作的 operational)」と呼ばれる。数だけの計算では、それが自然なのである。3+2=5は「3たす2は5」と読まれるが、等号が「は」と読まれることは、このことを象徴している。

児童は関係的な意味でよりも操作的な意味で理解しているので、

10÷2 =5 +3 =8

のような破格式を、児童は書いてしまいがちである。また、

26÷7 =3 あまり2

のような、余りがある割り算の式は、教科書にも書かれているが、この式では、両辺は数量的に等しくない。つまり、関係的な意味は後退しているだけでなく、否定されてもいると言える。

四則演算の計算が学習内容のメインである算数では、操作的な理解で十分である。というのも、計算では、等号=の前にあるのは、まだ計算されていない、遂行されるべき演算子を含んだ計算式であり、等号=のあとに来るのは、計算という作業を行うことによって得られた結果だからである。算術的・計算的な理解では、等式の両辺は同時的ではなく、タイムラグがある。このような理解では、両辺に同じ数を足す、という操作は理解できないものであろう。ただし、高学年になって、分数の計算をするようになると、等号は1回では足りずに、等号=を繰り返して、等量性を保持しながら、式を言い換えながら次第に短くしていくことに馴れるようになる。これは、等号の関係的意味の理解につながっていく。

関係的(relational)な意味での等号、等式の両辺が同時的に等しいという概念は、大人にとっては自明で単純なことかもしれないが、子どもにとっては、大いなる課題であり、できて当たり前のように考えてはならない。量的に同時的に等しいという概念の理解は、子どもにとって、それほど簡単なことではない。前操作期の年長児や1年生には、同じ数のおはじきであっても、配列を変えるだけで、大きさが変わってしまうと考える傾向がある。たとえば、粘土の塊を、丸くしても平たくしても、細かい塊に分けても、重さは変わらない、ということは、3,4年になってはじめて学ぶことなのである。


5.かけ算

かけ算は、現在の算数では、〈1つ分×いくつ分=全部の数〉という言葉の式で導入されているが、現代化算数の時代は、〈もとの数×かける数(倍)=答え〉という言葉の式で、説明されていた。このかけ算の定義は、現代化の1つ前の時代である系統学習時代における定義を継承し、緑表紙教科書の定義を復活するものであった。それによれば、かけ算とは、ある数(量)を2倍、3倍(ばい)…にすることなのである。テープを切って半分にしたとき、もとのテープの長さは、その半分の2倍の長さをもつ。

だが、倍(ばい)は事物やその量ではなく、関係・働きである。このようなかけ算定義は、事物に即してしか考えられない小学生には、高度だったであろう。それに比べると、〈1つ分×いくつ分〉による定義では、いくつ分は働きではなく、実際の量を表している。一皿4個で3皿分のみかんを考えるときは、実際に、皿3枚とみかん12個を用意しなければならない。そして、1皿分のみかんは3皿分のみかんの一部である。しかし、倍では、もとにする量と全体量は同一物である必要はない。次の図では、ウマはカメの何倍かと尋ねられているが、この場合は、倍は比・割合を表している。それは関係なのである。ここでは、カメはウマの一部ではない。

(学校図書2下1975 p.34)

現代化時代のかけ算の単元について、興味深い事例を1つ挙げよう。現代化時代の教科書のうち、東京書籍のものには、ゼロ(0)の段がある掛け算九九表を掲載されていた。

(東京書籍3上1974 p.17)

現在のカリキュラムでも、ゼロ×や×ゼロの答えがゼロになることは、3年になってから、輪投げの得点計算などの例を用いて学ぶ。「入ったら3点」の得点の輪投げが1回も入らなかったら、3×0で〇点である。だが、普通の九九表では、一の段または二の段から九の段までが載っていて、ゼロの段があるのは、異例である。ただし、2位数×の掛け算へのステップとして、九九表を十二の段まで拡張することはあるが。ところが、上記の九九表には、ゼロの段(ゼロ×)も、×ゼロも存在する。
九九の各段は、かけられる数の倍数を表しているが、この九九表を用いて掛け算を学んだ子どもたちは、当然、5年生になって、倍数にゼロ倍のゼロが含まれない定義に対して強い疑念を抱くであろう。そして、卒業して40年以上経過しても、算数の倍数定義に抗議し続けている者もいる。

かけ算の可換性(交換法則)については、現在も現代化の時代も、かけ算では被乗数と乗数を交換しても答えは同じだと習う。交換法則はアレイ図で例証されている。現代化の時代に固有なのは、3年と5年では、交換法則の定義が違うことである。3年では交換法則は、グループを縦列にとってその列の個数と列の数からかけ算をしても、横列にとっても全部の数は同じなので、被乗数と乗数は交換しても答えは同じだということを意味する。

(学校図書3上1976 p.7)


かけ算の交換法則は、現代化時代の5年生の教科書では、a×b=b×aという文字式で、ふたたび取り上げられる。やはりアレイ図が使われているが、ここではもはや、基準量となるグループ(縦列または横列)は作られない。縦と横の個数から、直接的に、全部の数を引き出している。ここには、〈基準量×倍〉のような非対称なかけ算から、中学高校で学ぶ〈因数×因数〉の対称的な掛け算への乗り越えが始まっているのである。

(大阪書籍5上1972 p.96)


6.整数の課

事物を数えたり,事物を測定したりして得られる数は,事物や状態を把握するための数であり,事物とのつながりを保持している。しかし,偶数・基数・倍数・約数・素数のような数論的概念は,数そのものを対象とすること,数体系そのものを扱うことであり、より抽象的で,児童には難しく感じられる。

現代化時代、小5の教科書の、整数に関する章は、驚くことに、剰余系から始まっている。3で割ったときの余りがゼロなのか1なのか2なのかによって、整数は3つの集合に分類される、とある。

(東京書籍5下 1979 p.53)

剰余系は今は、高校の数学Aで学ぶ内容である。現代化時代の中学教科書は倍数を剰余系から導き出しているのだが、そのさわりの部分が、小5の教科書にすでに出ているのである。

(第一学習社数学A2019 p.72)

偶数・奇数は、剰余系から説明されている。すなわち、偶数は2で割ったときに余りがゼロの整数の集合、奇数はあまりが1の集合である。整数(ゼロと正の整数)の集合は偶数か奇数かにより2分される。ゼロは2で割ると余りがゼロなので、偶数に分類される。

ところが、当時でも、倍数については、現在と同様に、ゼロが除外されているのである。倍数は剰余系、つまりわり算ではなく、あくまで、整数(ゼロ除く)の整数倍(ゼロ倍は除く)として、かけ算で定義されているのである。

整数に関する章は剰余系から始まり、剰余系で偶数・奇数を説明したあと倍数・約数を導入する、という流れからすれば、倍数は、偶数と同様に、ゼロを含めて定義されてもよさそうなのだが、されてないのである。これは最小公倍数との兼ね合いからであろう。

現代化時代に算数を学んだ、黒木氏や定数氏らといった者たちが、実年になって、子どもが使っている現在の算数の教科書を見て、倍数がゼロを含める形で定義されていないことを発見して、激しく批判するという今起きている出来事の芽は、現代化時代の偶数・奇数、倍数の章に胚胎していたのではあるまいか。

偶数・基数・倍数・約数についての、このような先走った学習内容の課が独立して設けられたのが,現代化時代であった。たとえば,大阪書籍の小5教科書下巻(1972年)には,「整数の性質」(第13課),東京書籍5上(1976年)では,「整数と集合」という課がある。1つ前の系統学習時代の教科書を見ると,そのように独立した章はない。

ただ、現在と違い、公倍数,公約数という言葉は出てくるが,「最小公倍数」,「最大公約数」という用語は出てこない(ただし,「いちばん小さな公倍数」という表現は出てくる。大阪書籍 p.11)。大阪書籍では,その次の課が「分数」で,ここで分数のたし算に必要な通分に,ふたたび,公倍数が使われている。


6.その他

1)負の数

現在なら中学で学ぶが、この時代に小学校で学ばれていた学習項目は、等式の性質・方程式の解き方以外には、負の数や回転体、2図形線対称、有効数字、確からしさ(確率)などである。
現代化時代は、負の数を6年生のときに学習した。負の数は、数直線を左(ゼロ以下)に延長するという仕方で導入される。「負の数」という言葉は使われていないが、「マイナス1,マイナス2……」という表現は学ぶ。そして、3-1, 3-2, 3-3, 3-4などの、答えがマイナスにいたる引き算を行う。

(学校図書6下1976 p.50)

中学で学ぶ項目を小6の算数での先取り的に学習することは、現在の教科書にも、あるにはある。たとえば、xやyといった文字を使った式や、決まった数(比例定数)、場合の数などである。ただし、文字は導入しても、演算記号×÷の省略などは行わない。比例はグラフを描いても、定数と傾きの関係は言わない。場合の数は樹形図は描いても、かけ算の式は使わず、また、確率には結びつけない。

実は、負の数(ゼロより小さい数)のことはも、現行の小6教科書にも載っている。ただし、それは、東京書籍だと「算数卒業旅行」という巻末の付録に書かれていて、正式な学習項目ではないのである。ただ、そこに書かれている内容は、現代化時代の6年の教科書における負の数についての説明と、ほとんど変わりない。現代化時代でも、負の数は本格的には扱われていなかったのである。負の数を本格的に導入してしまうと、負の数の四則演算がどうなるかも説明が必要になるからであるが、負の数を負の数に掛けるとどうして正の数になるのかも、納得させなければならない。


2)2図形線対称

現在では、6年時に線対称・点対称を学ぶが、その線対称は同じ1つの図形の線対称に限られている。ここでは、線対称な図形とは、半分に折ると重なる形であり、点対称な図形とは、回転させると重なる図形のことである。2つの図形のあいだの線対称、つまり対称移動は中1ではじめて学ぶ。しかし、現代化時代は小5の教科書に、2つの三角形の線対称、2つの台形の点対称が取り上げられているのである。

(学校図書5下1976 p.87)


3)有効数字

有効数字は現在は、中1の数学で学ぶ。現代化時代は、画像のように、小5で有効数字の考え方が少しだけ出てくる。たしかに「有効数字」という言葉は使われないが、計算結果の精度(桁数)は、計算の基になる測定値の精度を考慮すべきだ、とされている。

(学校図書5下1976 p.99)


4)確率

確率は算数では、「確からしさ」と呼ばれている。現在は中2で学ぶようなことを、当時は小6で学んだ。コインを投げたとき表と裏が出る場合で起こりやすさに違いはないので、表が出る確率は1/2。何十回と投げて結果の記録をとると、表が出た回数の割合は、次第に1/2に近づいていく。

(大阪書籍6下1973 p.74)


5)十進数

ドゥアンヌの『数覚とは何か?』によれば、フランスの当時の教科書には、五進法を掲載するものがあったという。日本では、幸いなことに、この形式化はフランスほど徹底して起こらなかった。日本の小4・小5の現代化算数教科書に、説明は短いが、「十進数」という用語が現れる。十進数ではない記数システムの例としては、60進法の時刻が挙げられている。

(学校図書4上1975 p.5)

上は4年上の教科書から、下は5年上の算数教科書から。

(大阪書籍5上1972 p.7)

現在の小5の教科書にも、「整数と小数のしくみ」(日本文教5上 2017 pp.10ff.)という章があり、そこで、10倍、100倍するとゼロが1つ2つ増えたり、小数点が1つ2つ位を移動したりする、記数システムことは、説明されている。

ただ、やはり、「十進数」とか「位取り記数法」といった用語は、現れない。中学ではむしろ、現在の教科書にはn進法や位取り記数システムのことは何も載っていないようである。高校の数学Aではじめてn進法について学ぶ。ところが、現代化数学時代には、中1で、五進法などの非十進法、十進法との変換の仕方を学んでいた。



6)延べ

ところで、現代化時代は、小学生は小5で,平均と延べをセットで学んでいた。現在も、小6で平均やデータの散らばり(柱状グラフ)は学ぶが、しかし、そこには、延べ人数のことは出てこない。

(東京書籍5上1979 p.91)

延べ人数は、ニュースなどでよく出てくる言葉である。2019年6月に,プログラミングのキャンプやスクールについて報じる新聞記事があったが,そこにも「延べ」が使われている。複数のキャンプに参加している中高生がいても、具体的に誰がどれとどれのキャンプ等に重複して参加したのかということは、名簿照合でもしないかぎり,なかなかわからない。各スクールから得た参加者数の人数を機械的に合計したものが,延べ人数である。

延べ人数とは、重複をいとわず(重複を無視して)カウントして得られた人数なのである。


7)角錐・円錐

現代化時代の6年生教科書には、その前の系統学習時代の教科書を継承して、立体図形に関して、かなり詳しく書いた章がある。

現在の教科書では、5年に角柱と円柱を学び、6年でその体積の求め方を学ぶが、角錐や円錐は扱われない。現代化時代には、角錐や円錐を含めて、種類(三角柱、四角柱……)や部分の名称(底面、側面……)、展開図、投影図、面と頂点の数、多角柱の三角柱への分解、角柱・円柱の表面積・体積の求め方を学んでいた。

(学校図書6上1976 p.43)

また、立体に関する章には、現在は中1で学ぶ回転体が取り上げられている。回転体は、点や線ではなく、面の回転の軌跡である。割り箸に、厚紙で作った半円を付けて、両手でこするように割り箸を回転させて、どんな立体ができるかを確認する。ただし、壺のように立体が中空の場合は、面ではなく線となる。

(学校図書6下1976 p.38)

現代化の1つ前の時代の教科書(東京書籍6上 1962 p.38f.)にも、回転体のことは載っているので、回転体を学習項目として扱うことが、現代化時代に固有だった、ということではない。現代化時代になって、集合や位相などの新しい学習項目が採り入れられたのに、既存の学習項目がよく整理されなかったために、詰め込み教育となったのである。



現代化後

アメリカのNew Math運動も、その影響で少し遅れた始まった日本の現代化算数も、短期間で失敗し、薄暗くジメジメとした校舎裏に、累々と積み上げられ放置された、多数の落ちこぼれと算数嫌いの児童たちの遺体の山だけが残されただけだった、ということを忘れてはならない。

1)抽象性が高い中等高等数学の内容を小学校で教えれば、その発達段階からして事物に即してしか考えられない、抽象化の途を歩み始めたばかりの小学生の多くは、ついて行くことができずに、落ちこぼれる。中学・高校の数学の内容を消化済みの大人の感覚では、単純明快であっても、それを小学校の数学教育に、安易に持ちこむならば、数学エリート教育にはなるかもしれないが、義務教育としては、算数教育が失敗してしまう。現代化批判は、決して、小学生の能力を過小評価しようとするものではない。

フランスでも、ブルバキズムの名の下に、数学教育の現代化が遂行された。ドゥアンヌは『数覚とは何か』のなかで、数学を抽象的な記号の形式的操作に還元しようとしたブルバキズムを批判している。算数の理解には、具体的な直観と心的モデルが必要なのである。たとえば、心のなかにパイを切り分けるイメージがある子どもは、1/2+1/3 が1(丸1枚)を越えないことがわかる(p.255)。ブルバキズムは、一世紀にわたり、子どもたちのそうした数的直観を破壊してしまった、という。何のための数学教育なのか。

2)それ以前から学ぶべき多くの事項があり、これらを整理しないまま、中学で学ぶ内容を小学校に下ろせば、当然、詰め込み教育になる。いわば、(底が空いている筒ではなく)空いてない袋に、より多くのものが詰め込まれることになる。学習事項が増えて、詰め込み教育、新幹線授業となって、ついて行けない落ちこぼれが増えた。岐阜県の教育研究所が行った調査では、5年生クラスの3分の2近くが、6年の約半分が、算数の勉強は半分以上わからない、と回答したという。

中高で学ぶ高度な事項の理解に困難があるというだけでなく、本来小学校で学ぶべき基礎的な事項の学習に、十分に時間が割けない、ということになる。だから、生徒たちは、交換法則はよく知っているのに、九九を満足に言えないことになる。現代化数学が失敗した後に、「基礎に帰ろう」という運動が起きたことは、自然なことであった。

こうした不適切な算数カリキュラムが、失敗するということは、必然的であった。


関連記事


注1
flute23432「正方形は長方形でない? ― 現代化算数の失敗と亡霊」
http://flute23432.blogspot.com/2018/02/


〈参考文献〉

大日本図書「教科書いまむかし 数学教育現代化時代小学校」
https://www.dainippon-tosho.co.jp/math_history/history/age03_el/index.html

京都情報大学院大学江見圭司製作「戦後教育 生年と学習指導要領・使用教科書」

高橋正「数学教育論 A2.数学教育の歴史的変遷 8.現行指導要領」
http://www2.kobe-u.ac.jp/~trex/hme/index8.html

現代化時代の算数の教科書(大阪書籍、学校図書、東京書籍、啓林館など)

S・ドゥアンヌ『数覚とは何か?』(早川書房 2010年)


(Twitterで、「現代化算数教科書紹介シリーズ」として2017~2019年に断続的に掲載したツイートに加筆・修正して掲載 2020/03/30改訂)