2018年12月28日金曜日

アレイ図の2つの理解

「かけ算の順序」論争にもしばしば登場し、かけ算の交換法則の説明に使われるアレイ図。🌑や✕のような印やアイコンの、縦横の列がそろった、長方形状の配列である。

 
かけ算には、〈一つ分×いくつ分〉と〈因数×因数〉、小学校で習う非対称的なかけ算と、中学以降の数学で習う対称的な掛け算、という2種類のかけ算があるが、それに応じて、アレイ図にも、2つの理解の仕方がある。


A.グループを作るアレイ図理解

1つ目の解釈は、算数の教科書に見られる理解の仕方である。小学校では、かけ算は、複数の同数グループがあるとき、各グループの構成員数(一つ分)とグループの数(いくつ分)から、全部の数を求める演算として習う。



かけ算の交換法則は、小2のときに、一つ分の数といくつ分の数を取り替えても、答えは同じだと学ぶ。このことは、アレイ図で説明できる。縦列を1まとまりと見ると1つ分が3で、そのまとまりが4列あるので、式は3(一つ分)×4(いくつ分)となる。🌑の数は全部で12個である。

今度は、横列を1まとまりと見て、それが縦に何列あるかと考えると、4(一つ分)×3(いくつ分)となる。3×4と比較すると、一つ分の数といくつ分の数が入れ替わった関係にある。しかし、同じアレイ図であり、外部との🌑の出入りはなく、全部の数は同じ12個である。

4(一つ分)×3(いくつ分)=12(全部の数)
3(一つ分)×4(いくつ分)=12(全部の数)

ここで注目すべきは、どちらの式でも、かけ算の順序は、一つ分-いくつ分だということである。だから、小学校で教えられている交換法則はかけ算の順序と矛盾しない。

この2つのものは同じアレイ図の異なる解釈にすぎない、1つ分の数は見方を変えればいくつ分の数に、いくつ分は一つ分とも容易に解釈できる、という理由から、「一つ分といくつ分の区別は無意味」という帰結を引き出すならば、非対称なかけ算は、対称的なかけ算へと高められる。

しかし、小学校では、非対称なかけ算に留まり、単価×数量とか、基準量×倍(割合)とか、速さ×時間とかいった、非対称なかけ算のさまざまなヴァリエーションを学習することに専念する(注1)。位取記数法や分数もまた、この考え方の応用である(例、9億は1億の9個分、2/3は1/3の2つ分)。


B.直積としてのアレイ図理解

アレイ図のもう1つの理解は、因数×因数の対称的な掛け算に対応するものである。ここでは、一つ分という、まとまりないしグループ、を作らない。アレイ図の縦と横の個数から、グループ化を経ずに、直接、全部の数を引き出す。


ここでは、3と4の2つの数が、同じ因数の資格で対等に掛け合わされて、12を構成する。書くときは2つの数字のうちのどちらかを先に書かなければならないが、どちらを先に書くかはまったく、非本質的な問題である。

かけ算の順序の「どうでもよさ」の感覚は、中高で学ぶこの対称的なかけ算の学習において、養われる。だが、小学校で学ぶのは非対称なかけ算なので、小学校のかけ算の問題を議論するときには、その感覚を不用意に持ちこんでしまうことについて、十分に慎重でなければならない。

「かけ算の順序」に関する論争で、自由派が、順序を固定してかけ算を教える教授法を理不尽だと感じるのは、この感覚を持ちこんでいるからで、その感覚をまだ持たない小学生には、実は、理不尽でもなんでもないのである。だから、かけ算の順序で大騒ぎしているのは、大人であり、子どもではない。

この12を3と4に分解する逆の過程が、因数分解である。素数に分解することは素因数分解と呼ばれる。この考え方で、割り算も教えられる。割り算は一種の因数分解である。つまり、割り算は、元の数と因数のうちの1つが知られているとき、もう一つの因数を求める演算である。つまり、割られる数12個の🌑は、縦(横)4個(割る数)のアレイ図にしたときの横(縦)の個数が、割り算の答え(商)である。

対称的な掛け算に対応するこのようなアレイ図理解では、等分除と包含除の区別は生じない。というのも、等分除と包含除の区別は、一つ分×いくつ分を前提とした考えかだからである。小学校では、学ぶかけ算が、一つ分×いくつ分の非対称なかけ算であることに対応して、割り算は等分除と包含除で導入される。

等分除は、全部の数といくつ分が知られているときに1つ分を求める割り算、包含除は、全部の数と一つ分の数が知られているときにいくつ分を求める割り算である。たとえば、12÷4は、等分除では、12個の菓子を4人で平等に分けたときに1人何個菓子がが与えられるか、包含除では、12個の菓子を1人4個ずつにしたとき何人に分けられるかを表す。

グループを作らずに縦と横の個数から直接総数を引き出すアレイ図が前提としているのが、直積である。集合Aと集合Bからそれぞれ1つずつ要素をとってできる組み合わせ(順序対)の集合は、直積集合と呼ばれ、A×Bと表現される。かけ算は、Aの要素の個数とBの個数からA×Bの個数を求める演算である。集合Pの要素数をn(P)と表現すると、かけ算は、

n(A)×n(B)=n(A×B)

と定義される。集合による説明はわかりづらいが、たとえば、ズボン3着と上着4着の組み合わせの総数を求める、ということを考えればよい。


しかし、こうした組合せを考えることは、小学生には難題である。ズボンと上着の組合せのような文章題は、高学年でも、正答率が低い。オーストラリアで、かけ算や割り算の文章題をいくつものタイプに分類して、正答率がどうななるかについて調査がなされた。それによると、直積(Cartesian product = CP)タイプの文章題は、3年生になっても正答率は15%である。これに対して、同数グループ(equal group =EG)タイプの文章題は、2年生ですでに52%に達している(注2)。


直積タイプのかけ算文章題(組合せの問題)の正答率が低い理由は、同じものを何度もカウントしなければならない、ズボンaと上着Aを組み合わせたとき、他の組合せは、潜在化している、つまり、簞笥にしまわれている、からであろう。

潜在化している分をすべて視覚化したものが、アレイ図だと言える。〈因数×因数〉で理解されたアレイ図の根底には、実は、直積が隠れている。🌑の1つ1つは、4つの欄と3つの列の順序対を表しているのである。



すべての組合せが現前して、目に見えているので、組合せの文章題に比べると、「校庭に児童が列を揃えて縦7人横8人で整列しているとき児童は全部で何人?」といった文章題の正答率は、たしかに、低くない。しかし、これにはトリックがある。正答率が低くないのは、アレイ図には、縦列ないし横列をまとまりと見ることで、一つ分×いくつ分の非対称なかけ算が容易に適用できてしまうからである。

しかし、これは裏を返せば、純粋に直積的に理解されたアレイ図は、小学生には難しいのである。算数でのアレイ図の多用には慎重でなければならない。ましてや、かけ算の順序教育に反発するあまり、同数グループではなく、アレイ図でのみかけ算を導入しよう、などとは考えるべきではない。




注1
小4で学ぶ長方形の面積を求める式〈縦×横〉に使われる掛け算は、本当は、因数(長さ)×因数(長さ)の対称的な掛け算であるが、小学校では、求積で使われるかけ算は、長さという次元からかけ算で新しい次元を作り出すものではない。小学校では面積は、1cm^2の単位正方形のいくつ分で、つまり、一つ分×いくつ分で、考えられている。

単位正方形がいくつあるかを数えるのにも、一つ分×いくつ分が使われる。すなわち、単位正方形3つを縦に積んで、幅1cmの棒を作る。これがもう一つの一つ分となる。そして、この棒が横に3本くっついて並んでいるので、単位正方形の数は、3×4で求められることがわかる。だから、小学校では、長方形を求める公式は、本当は、次のようになる。ここでは、一つ分×いくつ分が2回使われている。

1cm^2×(縦個数×横列数)

ところで、アメリカなどの算数の授業で、教師が作成して壁などに掲示する、かけ算のポスターには、同数グループ(equal groups)や同数累加(repeated addtition)、数直線(number line)とともに、アレイ図(array)が載っている。

(Teachertrap, multiplication strategies)

しかし、このアレイ図は、同数グループと実質上、変わらないのではないか。図では、"3 rows of 5"とあり、多くの場合、横列(row)だけが1まとまりにされている。同数グループとの違いは、🌑が横一列に配列されていることだけである。つまり、ここで言われているアレイ図は、一つ分×いくつ分に対応するアレイ図理解である。

注2
出典は
Lynne Outhred, "Representations of multiplicative word problems", in: Proceedings of the Eighteenth Annual Conference of the Mathematics Education Research Group of Australasia (Darwin, Jyly 7-10, 1995), ed. by Bill Atweh & Ateve Flavel, Galtha, 1995; pp.434-439.
この論文は、シドニーの1~4年の小学生115人を対象としたOuthredの調査を報告している。この論文では、掛け算文章題のタイプは、同数グループ(EG)、アレイ(AR)、直積(CP)の3つである。

同様の調査はほかにもある。

Mulliganは、シドニーの8つのカトリック系スクールの2年生女子児童70名に対して面接調査を行った。面接は2年間にわたって、4回、行われた。4回目の前に、児童は掛け算を学校で学習している。
Joanne Mulligan, "Childrens' Solutions to Multiplication and Division Word Problems: A Longitudinal Study", in: Mathematics Education Research Journal, Vol. 4 (1992), No. 1, pp. 24-41; p. 30.

調査の目的は、児童が掛け算や割り算の文章題を理解する際に、学習前にもっていたインフォーマルな直観がいかに働くかである。しかし、本ブログでは、文章題のタイプ別の正答率に注目したい。直積タイプの文章題は、正答率が著しく低いという結果が出た。

かけ算文章題のタイプは、この論文では、1.同数累加、2.値段、3.因数、4.アレイ、5.デカルト積(直積)に分類されている。著者は、のちに(1997年)、同じ実験を分析し直しているが、そこでは、次のようにタイプの名称が変更されている。文章題そのものは同じである。

Joanne T. Mulligan & Michael C. Mitchelmore, "Young Childrens' Intuitive Models of Multiplication and Division", in: Journal for Research in Matheamtics Education, Vol. 28 (1997), No. 3, pp. 309-330.

1.同数グループ(Equivalent groups)「教室にある2つのテープルに4人ずつ子どもが座っているとき、子どもは全部で何人?」(a)
2.値段(Rate)「糊1個5セントなら、糊2つ買うときいくら必要?」
3.比較(Comparison)「ジョンは3冊本をもっているが、スーはその4倍の数の本をもっている。スーは何冊もっている?」
4.アレイ(Array)「子どもたちが4列になって並んでいる。各列は3人いるとき、全部で何人?」
5.直積(Cartesian product)「ポテトチップにはチキン味とプレーンがあり、箱のサイズには大中小3つある。選び方は全部で何通り?」
(以上は、文章題に現れる数字が小さい数字の場合)

正答率は、問題のタイプによって大きく異なる。同数グループと値段とアレイは、一番易しく、正答率は面接の回数を重ねるにつれて、45%から86%に上がって行った。比較タイプは中程度で、直積タイプはとても難しく、面接1~3では1%、4回目でようやく14%であった。

次の論文はブラジルの『教育と現実』43巻第1号に掲載されたものである。
「小学生によって解かれたデカルト積の諸問題」[Problems of Cartesian Product Solved by Elementary School Students] 『教育と現実』43巻第1号
Sandra Maria Pinto Magina & Alina Galvão Spinillo. Lianny Milenna de Sá MeloII, "A Resolução de Problemas de Produto Cartesiano por Alunos do Ensino Fundamental" , in: Educação & Realidade, 43-1
http://www.scielo.br/scielo.php?pid=S2175-62362018000100293&script=sci_arttext

ポルトガルは読めないが、その英文要旨によると、直積の文章題をサンパウロの3年生と5年生の269人に解いてもらったという。問題は掛け算と、逆向きの直積である割り算の問題である。具体的には、入口2つ出口4つの遊園地に、入って出る方法は何通りか、という組合せの問題である。このかけ算で解く組合せの問題に対応する割り算の問題は、「入口2つで、入って出る方法が12通りあるとき、出口の数はいくつ?」というもの。こちらは正答率がゼロかそれに近かった。割り算ではなく、掛け算を使って、12×2=24 24通り、と解答する答案もあったという。

結論では、掛け算の問題の解決では進歩があったが、直積の割り算は小学生には異常に難しく、進展はなかった、ということである。つまり、小学生は直積を掛け算ではある程度理解できるが、直積の割り算をまったく理解できない。



(flute23432 twitter  2018/12/27 18:31に基づく)
 

2018年11月3日土曜日

被乗数と乗数

「掛け算で、例えば3×2 どちらを「乗数」「被乗数」にするかは任意。順番も「乗数」×「被乗数」でも、逆順でもかまわない。…順番を変えても答えも、「式の意味」も変わらない。」(中二氏 Twitter 2018/10/23 23:19)

日本の算数教育では、かけ算は、明治以来、同数累加の簡略算として教えられ、緑表紙時代に基準量×倍で教えられた。生活単元学習時代に一度、同数累加に戻ったものの、系統学習時代と現代化算数時代は、ふたたび、基準量×倍で教えられた。だが、1980年代以降は、どの教科書もかけ算は、現在にいたるまで、一つ分×いくつ分、で教えられている。

どの時期にも、「かけられる数」(被乗数)と「かける数」(乗数)という語は使われている。そして、それぞれの時期で、かけ算を定義する際の中心的な概念によって、被乗数と乗数は、その意味内容を変えてきたのである。



しかし、かけ算は元来、同数累加で教えられていたから、「かけられる数」(被乗数)とはもともと、ある数をある数だけ繰り返し足すときの、繰り返しの対象となる数のことであり、「かける数」(乗数)とは、繰り返しの数である(注1)。たとえば、3×5は、3+3+3+3+3の簡略表記であり、3を5回足している(寄せている)ので、3が被乗数、5が乗数である。

A)文脈が与えられないとき

文脈なしに、単に3×2という式が与えられても、どちらが被乗数か乗数は決められない。決められるといえば勝手に決めることはできるが、まったく勝手に決めることになる。

勝手に3を乗数2を被乗数と決めるなら、2つのものが3つ分あるという意味であり、3を被乗数2を乗数と決めるなら、3つのものが2つ分という意味になる。両者では答え(総数、計算結果)は同じで、だから、かけ算は可換であると言えるが、しかし、意味は違っている。

ところが、中二氏は「「式の意味」も変わらない」と述べている。これは、かけ算を、被乗数と乗数ではもはや考えないということである。中二氏は定数氏と同様に、被乗数×乗数や一つ分×いくつ分ではなく、因数×因数=積でかけ算を理解し、それを自明視・絶対視している、と思われる。

因数×因数のかけ算では、3と2が同じ因数の資格で掛け合わされて、6という積を構成する。逆に6を3と2に分解することは、因数分解である。書くときは3と2のどちらかを先に書かなければならないが、それはまったく瑣末で表面的なことである。順序は「どーでもいい」(定数氏)のである。

この意味でのかけ算は、中高の数学で習うことになる。しかし、小学校で学ぶかけ算は、被乗数×乗数という、×記号の前後で非対称なかけ算である。被乗数と乗数とでは意味が違うので、位置も固定するのが普通である。日本の算数の教科書では、式は被乗数×乗数の順序で統一されている。

被乗数×乗数には、一つ分×いくつ分、基準量×倍(割合)、単価×数量、速さ×時間、比例定数×xなどの、さまざまなヴァリエーションがある。これらはどれも小学校で学ぶべき重要な学習内容である。被乗数×乗数のかけ算が学ばれている算数教育を、因数×因数を基準に評価すべきではない。

1960年代のアメリカで、New Math運動が起こり、集合や位相、公理主義のような現代数学の概念が、初等数学教育に導入された。その結果、基本的な計算もできない数学嫌いの生徒がたくさん出て、運動は潰えた。当時のSMSG教科書では、かけ算は因数×因数で(直積で)教えられた。

「数に対する演算とは、2つの数について考え、ただ1つの数を得る方法である。4と5を考えて、20を得るとき、われわれはかけ算をしている。/かけ算を理解するのに役立つので、アレイ図を使おう。/ここに、4つ要素からなる集合と、5つの要素から成る集合との、すべての要素の組合せのを可能にするアレイがある。組合せは20ある。」

「われわれが、2つの因数に演算を施して、1つの積を得るとき、われわれはかけ算をしているのである。」

中学・高校・大学の数学で学ぶ正しく論理的な知識だからといって、数学のより高度で抽象的な概念を初等数学教育に持ちこむのは、無思慮の極みである。算数教育は数学であるとともに教育でもある。定数氏や中二氏は歴史に学ぶことなく、ふたたび、初等数学教育を混乱の渦の中に引き入れようとしている。


B)文脈が与えられたとき

3×2に文脈が与えられると、どちらが被乗数であるかは、任意には決められなくなる。文脈には、1)その地域・分野での表記慣習と、2)現実や文章題文章が描く事態がある。

1)乗数×被乗数の順で書く慣習がある文化圏でならば、3×2の3が乗数である。日本の算数教育のように、被乗数×乗数で書くことになっている領域では、3は被乗数である。かけ算の可換性は自明の前提として、文化圏や分野により、書式として順序が定まっていることが多い。

2)もう一つの文脈は、現実や文章題である。プリンが3つ連なったパックを2つ購入するとき、あるいは、「購入したとき全部でいくつ?」という文章題を解くときは、3が被乗数で、2が乗数である。3が一つ分の数で、2がいくつ分である。

他社製2個入りパックを3つ買う場合は、総数は同じ6個でも、式の意味が違う、というだけではない。他社製のパック単価は2/3というわけではないので、合計金額や味も違ってくる。この場合は、3が乗数で2が被乗数である。

既述のように、3個入りパックを2つ購入する場合は、3が被乗数で、2が乗数である。だが、こう言っただけでは、まだ、3(被乗数)×2(乗数)なのか2(乗数)×3(被乗数)なのか決まらない。しかし、もし1)で言われた、表記慣習があれば、どうであろうか。

乗数×被乗数の順にかけ算の式を書くのが習慣である文化圏や分野では、「3個入りパックを2つ」の文章題が与えられたとき、2(乗数)×3(被乗数)という式になる。1)と2)の両方があって、順序が定まるのである。

日本の算数教育では、被乗数×乗数の順序とする慣習が明治期以来あり、式は3(被乗数)×2(乗数)と書かれる。小学校では、この表記慣習に従って、式を立てられているかどうかで、被乗数と乗数の違いを意識しているかがチェックされる。九九の暗唱だけで満足し、この違いを意識しない児童は多い。

だから、「プリンのパックで2つあり、1パックには3つずつプリンが入っています。全部でプリンは何個?」という、文章中に乗数が先に現れる文章題で、少なからぬ児童が、この順序に誘導されて、九九を機械的に適用し、2×3と書いて、バツにされる。

だが、バツを付けてそれて終わりではなく、児童はマルになるまでやり直しする。つまり、テスト直しで、式を一つ分×いくつ分の基本図式の意味に従って立てることにより、一つ分といくつ分の意味の違いを改めて意識するのである。

かけ算の順序が違ってバツになるのは、基本的に、文章題の立式に限られる。文章題という文脈が与えられているとき、一つ分といくつ分が定まるが、文章題の立式では、一つ分を先にするように、児童は期待される。これに対して、計算問題や文章題立式後の計算(筆算など)など、計算では、意味はあまり重要ではないから、実際、交換法則などを適用して、計算を簡単にする方法が、「計算の工夫」という題目で、教えられている。

それゆえ、日本の学校算数では、「かけ算は可換でない」というトンデモが教えられている、というのはデマである。黒木氏や定数氏、中二氏、鶴氏らの「超算数」批判は、このデマの流布に大いに加担している。



注1

同数累加によるかけ算の定義は、ユークリッドの『幾何学原論』にすでに見られる。当時、「被乗数」「乗数」という用語が確立していたかどうかは、わからないが、同数累加の定義が含んでいる概念としては、あった。

「数に数を掛けるといわれるのは、後者の中にある単位の数と同じ回数だけ前者、すなわち【掛けられる数】が加え合わされてなんらかの数が生ずるときである。」(原論第7巻定義16 中央公論新社、ギリシアの科学 p.331)

19世紀前半に出版されたノエルの『算術初歩』(1835年)には、「被乗数(multiplicande)」と「乗数(multiplicateur)」という言葉が使われている。「被乗数」、「乗数」は、日本の教育家が1950年代に発明したもの、という志村五郎氏の推測は完全に誤っている(『数学をいかに教えるか』p.45)。


かけ算(multiplication)は被乗数(multiplicande)と呼ばれる数を、乗数(multiplicateur)と呼ばれるもう一つの数に含まれた単位の数だけの回数、選ぶ(prendre)、または繰り返す演算だとされている(p. 14)。ここでは、かけ算は同数累加と見なされているのである。

J.N. Noël, Arithmétique élémentaire raisonnée et appliquée, Luxembourg, J.Lamort, 1835. Google Books



(Twitter 2018/10/29のツイートなどに基づく)

2018年10月27日土曜日

「超算数」批判に対する反駁

ツイッターで、黒木氏や定数氏らが、「超算数」と名づけて、小学校の算数教育を批判している。批判の対象となったのは、次のようなものである。

かけ算の構造としての一つ分×いくつ分(被乗数×乗数)
文章題立式時のかけ算の式の順序
ゼロを含まない倍数概念
足し算での合併・増加
引き算での求残・求差
わり算での等分除・包含除
文章題の式欄・答欄
公式を使った説明や公式に従った立式
さくらんぼ計算
二重数直線図の使用
場面の翻訳としての式
など

〈かけ算の順序〉教育はその中核であるが、これは、彼らによると、超算数と彼らが呼ぶ問題群の全体から見ると、氷山の一角にすぎない。

さらに昂ずると、彼らの批判は「馬鹿」「クズ」という罵詈雑言が飛び交う非難とヘイトツイートに転化し、「小学校がトンデモ化している」、「数学ができない小学校教師が、算数教育の権威たちに植え込まれた嘘を、子どもたちに教えている」、「子どもたちを避難させないと危ない」といった、あらぬ方向に議論が暴走してしまう。ネットではこのようなことが起こりやすいが、すでにネットでのこうした議論を保護者が信じてしまい、学校と教師への信頼を失い、子どもが基本的な事柄を学び損ない、学年が進んで算数が分からなくなって不登校になる、などの弊害が起き始めている。

だが、騙されてはならない。こういった批判に根拠らしい根拠はない。彼らの批判は、多くは、高等数学で学ぶような概念や定義を、初等中等の数学教育にそのまま無思慮に持ちこむことで起きる誤解に発している。だが、初等中等の数学教育は、単に低レベルの数学なのではなく、同時に教育でもある。彼らにはこのことが理解できない。自分たちが知らない、算数教育固有の概念、古い数学の概念に出会うと、ただそれだけで、彼らはいかがわしいと思うらしいのである。


1) かけ算の説明に出てくる一つ分といくつ分だが、アレイ図を使えば(使わなくても、各皿のリンゴにa, b, c, d..と記号が書かれたラベルを貼れば)、一つ分はいくつ分と、いくつ分は一つ分といつでも解釈できるので、そのような概念や区別は無意味である。


 ― そのとらえ方を進めていくと、直積(Cartesian product)としてかけ算に行き着くが、直積は小学生には理解が難しい。これに対して、複数の同数グループ(equal groups)は、教室での配布物配布や班編成を例に使えるなど、小学生には一番分かり易いかけ算モデルである。同数グループタイプの文章題は正答率がとても高いが、直積タイプの文章題はとても低い。

各皿に4つずつとあれば、物理的近接性に基づいて1まとまりを4つとするのが自然な解釈で、トランプ配りやラベルを貼って、いくつ分を一つ分、いくつ分を一つ分とすることは、掛け順論争に参加してでもいない限り、大人でも思いつかない、かなりうがった解釈である。かけ算を学ぶ小2が自発的に思いつくものではない。

たしかに、教科書でも交換法則の説明に使われるアレイ図は、コマが縦横等間隔に並んでいるので、縦にも横にも列をとることができる。しかし、その場合でも、一つ分×いくつ分の枠組みは保持されるのである。つまり、縦の列でグループを作ると、それが横に4列あるので3×4,横に列を作ると、1列が4つで、列は3列あるので、4×3である。直積主義のように、グループを作らずに、縦と横の個数から直接、総数を求める、というところまでは行かない。




2) かけ算文章題の式を一定の順序(一つ分×いくつ分)で書くことを求め、もし逆順で書くとバツにして、掛け算の交換法則(可換性)を否定している。これは嘘を教えることで、悪い影響を残す。

 ― 1つ分といくつ分をそれぞれ押さえているかどうかチェックのために、書式として順序を固定しているだけで、この固定はかけ算の可換性を否定するものではない。

数量欄左、単価欄右の見積書を採用する会社で、新入社員が数量欄に単価を、単価欄に数量を入れたミスを上司が訂正させても、かけ算の可換性という数学的な原理を否定しているとか、かけ算は非可換であると社員に嘘を教えている、とは言えないが、それと同じである。

また、かけ算の順序に従って式を書くことは、基本的に、文章題の立式でのみ求められ、計算問題や、文章題の立式の語の計算(筆算など)は、求められない。

かけ算の可換性は、小学校では、繰り返し(小2,小3,小4で)教えられている。国際的なテストTIMSSで、加乗の可換性、減除の非可換性の理解を問う設問では、日本の中学生は比較上位で、かけ算の順序教育が、かけ算の可換性の理解を妨げる、とするのは、間違い。



3) 文章題では、与えられた数値だけを用いて立式することが求められ、文章中にない数値を用いると式がバツにされる。与えられた文章には25%とあるのに、式で÷4と書けば、バツになってしまう。むしろ、そのように言い換えられる児童のほうが、割合を理解できている。

 ― 小学生はまさに立式の仕方を学んでいるのであり、文章題からどのように、答えを求める式をどう立てたのかを、教師に診てもらう必要がある。そのためにも、文章題の数値を使って、文章題文章と式とのつながりを示すことが求められるのである。

ただ、これは原則であり、1ダース→鉛筆12本、テントウ虫の足→6本、5割→0.5などは、単位や生物、割合表現についての基本的知識から、計算に必要な数字を引き出す必要がある。

25%を÷4とするとバツになるのは、その文章題が、授業で習った、基にする量×割合=比べられる量の公式を使って答える設問であった、そしてまた、同時に、百分率を正しく小数に変換できるか、ということが問われていた可能性が高い。


4) 足し算には合併と増加があるとして両者をブロックの操作で区別させているが、同じ足し算であり、区別は無意味。区別するのは数学の抽象性を否定するもの。

 ― 足し算の意味は、足し算が適用できる体験可能な、具体的な状況や操作からはじめて理解される。数字や演算などの理解には、その生活世界的な意味基盤として、体験的な状況や行為への関係づけが不可欠である。このことの理解が、超算数批判論者には欠けている。

その状況や操作の基本的な類型が合併と増加である。合併は金魚がいない水槽に、左から2匹、右から3匹の金魚を同時に入れること、増加は、すでに2匹いる水槽に、金魚3匹を追加することである。

もちろん、小学生はこの2つの状況に、どちらも足し算が適用できることを学ぶ。もし、合併しか習わないなら、3年生になって、手持ちの530円に、今月のお小遣い800円もらったという、増加の状況で、足し算が使えるのかどうかがわからない。

引き算の求残と求差も同様である。ただし、合併と増加に比べて、求残と求差では意味の隔たりが大きく、求残で引き算を学び始めた児童は、どうして求差に引き算が適用できるのか、わからない。こういった困難はあるが、多くの児童はこの困難を乗り越えて、どちらの状況・操作タイプにも引き算が適用できることを理解するようになる。


5) 同じわり算なのに、等分除と包含除の2種のわり算があるかのように言っている。

 ― 超算数批判論者は、一つ分/いくつ分の区別を認めないので、一つ分を求めるわり算(等分除)といくつ分を求めるわり算(包含除)の区別も、理解できない。1)を参照のこと。


6) 算数教科書ではでは、倍数からゼロを除外しているが、これは「ゼロはすべての数の倍数」という常識に反する。

 ― 「ゼロはすべての数の倍数」は確かに高校で学ぶが、常識とは言えない。倍数や約数、自然数、素数など、ゼロや負の数を知らなかった古代ギリシアの数論の伝統に由来する諸概念には、多くの場合、ゼロや含める定義と、正の整数内で考えてゼロを含めない伝統的な定義があり、算数は含めない定義を採用している。定義が違うだけ。含めない定義でも、十分に実用的である。


7) 正方形を、特殊な長方形ではなく、長方形とは別の図形として教えている。

 ― 両者の包摂関係は、現代化算数の時代に教えられたが、多くの小学生がこれを理解できず、教育現場に大混乱を来した。だから、現在では、その関係はあえて教えられていない。

描かれた図形から長方形を選ぶ設問は、その名称の図形の(教科書に例示されているような)典型的な形を選ぶもので、包摂関係を前提としていない。したがって、包摂関係を否定してもいない。

算数では、正方形の面積の公式を、長方形の面積の公式とは別に学ぶが、これも、長方形の特殊な場合である正方形専用の公式を学んでいると見なせば、包摂関係を否定している、とは言えない。布は汎用のハサミでも切れるが、布バサミのほうが切りやすい、というのと同じ。


8) 繰り上がりがある1位数どうしの足し算は、さくらんぼ計算なくても答えは出せる。

 ― さくらんぼ計算を行った答案は、式の周辺に数字や線が書かれているので、確かに、大人には、異様に、そして複雑怪奇に見え、もっと簡単にできないものかと感じられるが、これは、大人が足し算九九をマスターしていて、すぐに答えが出せるからである。公文や珠算に通っている児童は、答えがすぐに出せるので、さくらんぼの描き方を覚える動機がない。

だが、さくらんぼ計算で、10のまとまりができると1つ上の位が1つ増える10進法の位取記数法の仕組みを理解することができる。足し算九九をマスターしている子も、今一度、原則に立ち戻る価値がある。

8+5 =8+(2+3) =(8+2)+3 =10+3 =13




9) 文章題の解答欄に式欄が答欄とは別に設けられ、教えられた方法に従う式でないとバツにされる。数学では、同じ問題にも解き方が複数ある。教えられた以外の解法を使った解答にバツをするのは、新しい解法を発見するという数学の醍醐味を否定するもの。

 ― 小学生はまさに、はじめて四則演算の立式の仕方を学んでいる最中で、同じ問題をさまざまな仕方で解決できる方法を提案したり発想したりする段階にはまだない。だから、教わった立式の仕方が習得できているかどうか、教師が診る必要があるので、式は答えとは独立に、採点・評価の対象となっている。文章題での式欄と答欄の用意は、フランス語圏やドイツ語圏でも見られる。それに、式を書くことで、答えが間違った理由が、単なる計算ミスなのか、それとも、割る数と割られる数を取り違えているためなのかがわかり、いわば診断結果を治療に生かすことができる。

単元テストのように、授業の一環として実施される確認・達成度テストでは、しばしば、教えた解法が習得できているかどうかをチェックするのが目的である。だから、教えたのとは別の方法で書いてバツになったり減点されたりする、ということが起きる。

だが、これは、けっして、他の解法が存在しない、ということではない。かけ算を学ぶ小2は、それが足し算でも電卓でもできることを知っているが、かけ算の文章題で、足し算の式を書けば、やはり、バツにされて、式の書き直しとなる。


10) 学校の算数は、割合や速さなどを公式を使って説明しており、公式暗記主義に陥っている。

 ― 教科書を見れば分かるように、なぜそのような公式になるのか(なぜ三角形の求積では2で割るのか、など)の理由・背景も、小学生は学んでいる。単なる公式暗記主義では公式は使いこなせない。このことを留意の上、学習事項のエッセンスを表す公式の暗記は肯定されるべき。
(東京書籍教科書5下, 2014, p.36より)


11) 割合や速さがくもわ図やみはじ図を用いて教えられている。くもわ図やみはじ図の使用は、思考せずに、機械的に正しい答えを出せる安直な方法である。

 ― これは事実誤認である。たしかに、使う小学校教師もいるようだが、メインにはなっていない。小学校の算数教科書や、ネットで見つかるPDFの指導案には、そのようなものは載っていない。メインは二重数直線図である。

それに、くもわ図やみはじ図で機械的に解決できる、割合や速さの文章題は、かなり単純なパターンのものに限られるのではないか。


12) 割合の問題に、児童は、理解を阻害する二重数直線図の描き方のようなつまらないこともまで学習し、それができるかどうかで評価される。

 ― 割合の文章題に含まれた、a:b=c:1という、2つの比とその対応関係を線の長さの割合などで視覚化する点で、二重数直線図はとても優れている。教師が二重数直線図を黒板に描くだけでなく、児童も書くように指導するのであれば、その描き方も学ぶことになる。確認テストでは、それが教えられたように描けるかどうかがチェックされる、ということは出てくる。もちろん、慣れてくれば描かなくて済むようになるが。


13) 21÷7の答えを求めるときに使う九九の段を尋ねる、単元テストの設問では、答えは割る数である7の段だというのだが、7×3を思い浮かべようが3×7を想起しようが、自由だ。

 ― 小3になるとわり算を習いはじめる。わり算の単元の最初のほうで、簡単なわり算の答えは、九九の割る数の段を使って(走査して)答えを見つける、と習う。21÷7は、7×1=7, 7×2=14, .. と、割る数7の段を走査して、答えが割られる数の21になったところで止まる(7×3=21)。その際の乗数3が答え。使った九九の段は、三の段である。

ドリルや単元テストには、次のわり算はどの段を使って答えを求めますか、という設問がある。この設問は、教科書・授業のこの教え方を前提とし、それを習得できているかどうかチェックするものである。

どの単独の九九を「想起」するのか、などとは尋ねていない。



14) 等号は両辺の式や数の大きさの等しさを表す記号なのに、算数では、計算結果を導く記号として用いている。

 ― 低学年生は、等号を、結果を導く記号と理解する傾向があるが、これは教え方に依存しないようで、外国でも見られ、そのような等号理解は、操作的(operational)と呼ばれる。両辺の同時的等量性の理解、つまり、関係的(relatinal)な理解は、大人が思うほど児童には簡単ではなく、一気にたどりつけるものではない。代数学を学びはじめる中学においてはじめて完成する。実際、等式の性質とそれを活用した方程式の学習は、中1で学ぶ事項である。


15) 式を、場面の翻訳するものと考えるのは、数式の抽象性を誤るものである。4×3と書いただけでは、4個ずつが3つなのか、3個ずつが4つなのかは、わからない。

 ― 文章題で式を立てることは、自然言語から数式を抽出することである。翻訳は、自然言語どうしで行うものなので、「翻訳」の比喩は、確かに、不適切である。

計算ができるのに文章題ができない児童は多い。文章題ができないということは、学んだ数学を生活や仕事に活用できない、ということである。そこで、算数では、文章題と式との対応関係が重視される。小学生は、文章題の文章から、どのように、複数の同数グループのような数的関係を引き出して、それに基づいて式を立てるのかを学ぶとともに、逆に、想像力を使って、式から文章題を作る、ということもやらされる。

文章題と式の対応を学んでているというこの状況では、初学者がつまずかないように、文章の表現を限定したり、式のヴァリエーションを制限したり、かけ算の順序を固定したりするなど、単純化やパターン化、制限などが必要となる。これが、抽象的な式が文章と1対1に対応すると見なされている、と誤解されやすい背景である。


16) 児童たちは、AIがなかった時代のロボットのように、思考せずに機械的なパターンマッチングで問題を解かされている。

 ― 授業参観を一度でもすれば、授業・学習が、整然粛々とした機械的な作業の連続ではなく、児童のトンデモ発言や、試行錯誤、混迷、気晴らし、うまく解決できた喜び、消しゴムの落下、などに満ちていることが分かる。


17) 3.9+5.1=9.0の筆算で、9.0のゼロを斜線を引いて抹消させるのは、有効数字を否定するもの

 ― 算数数学で使われる数値は、多くは、測定値ではなく厳密値であり、もともと有効数字が適用できるようなものではない。それに、小数の足し算の筆算は3年生で学ぶが、数値の精度を桁で表す有効数字の学習は中1になってからはじめて学ぶ。

(単元テスト 正進3年11.小数)

抹消していないとバツにされた採点答案は、小学校で9と9.0が等しくないと教えられていることを示しているように見える。だが、事態はむしろ逆で、小数9.0が既習の整数9と等しいことが分かる子だけが、.0を抹消できるのである。

ここには、単に小数の足し算の筆算だけでなく、小数点以下が0しかない小数は整数と見なせるという、小数と整数の関係の学習も、含まれていると考えるべき。分数の計算で、答えを既約分数にしなければならない、というのも、単に分数の計算だけでなく、約分の練習を含んでいるからである。


18) 超算数は、日本の算数教育の権威が、教師たちに布教しているトンデモ理論である。

 ― 「超算数」には、日本独自のもの(かけ算の順序)もあるが、ゼロなし倍数、合併・増加、図形の包摂関係の省略、みはじ図・くもわ図、一つ分/いくつ分、等分除/包含除、答えを導く等号、文章題との式欄/解答欄など、日本の専門家の権威が及ぶと考えにくい外国の数学教育でも、見られるのである。

次の2つの画像にうち、上は、みはじ図の英語版である。みはじ図と違い、形が円ではなく2等辺三角形になっている点は異なる。下の図は、アメリカの算数自習書SaxonMathからの引用である。偶数はゼロを含むが、倍数はゼロを含まない(ある数の倍数は、一倍であるその数そのものから始まる)。

(h3maths.edublogs.org, 2013/06/27)



(twitterに2018/10/17に投稿したツイートに基づく。)

2018年3月1日木曜日

表記ルールとしての掛け算順序


小学校と中学での「順序違いでバツ」

算数の掛け算文章題では、順番が違っている、という理由で式がバツになる。だが、掛け算には交換法則が成り立つので、順序は関係がないのではないか。疑問に思った保護者が、答案を写真に撮って、ネットにアップする。カメラ機能をもつスマホが普及した現在、SNSを使って、疑問を発信することは容易である。

(光文書院 2011単元テスト 最初5×3と書いてバツになり、訂正して青丸が付いた。バツにして終わりにすべきではないという批判が的外れであることを示している。) 

だが、これが、ネットにたむろする塾講師や数学屋の、学校算数教育に対する批判に燃料を提供することになり、「日本の小学校では、掛け算の可換性も知らない、レベルの低い教師が、嘘デタラメを子どもたちに教えている」、「日本の学校教育が酷いことになっている」、「子どもたちが虐待されていて、かわいそうだ」、といった現実を無視した議論が起きる。ときには、それは、エセ科学やオカルトの一種として取り上げられることさえある。だが、もし日本の算数教育が、彼らが言うほど酷くデタラメなら、PISAやTIMSSのような国際的な数学テストで日本が上位を維持している理由が説明できない。

「掛け算の順序が逆でバツにするのは嘘でたらめを教えることだ」というのは、誤解であって、実は、式は一つ分×いくつ分で書くという、表記上・教育上のルールに反するのでバツになっただけであり、掛け算の可換性が否定されているわけではない。そのバツは表記レベルに留まるもので、原理レベルにまでは及んでいない。表記と原理、しばしば混同されるこの2つのレベルを区別して考えるべきである。

掛け算の可換性が否定されているどころか、小学生は掛け算を学び始めると間もなく、掛け算の可換性についても学ぶのである(画像参照)。「交換法則」「可換性」という用語は出てこないし、九九表に見られる規則性として、つまり被乗数・乗数が1~9までの自然数という限定された範囲の内で妥当する規則として、ということはあるが、「掛け算では、被乗数と乗数を入れ替えて計算しても、答えは同じだ」と学ぶ。

(画像は学校図書2下(2016) p.41)

文章題の立式において要求される掛け算の順序が、掛け算の可換性という原理と矛盾しないことは、中学校の文字式の採点を見ると、よく分かるかもしれない。文字式で答える設問でも、式の順序が違っていたという理由で、減点されたり、バツになったりすることがある。画像は公立中学1年数学の期末試験から。
 

というのも、文字式では、積は数字、文字の順で、文字の間ではアルファベット順に書くルールになっているからである。この表記ルールに反して、テストで、7(a+b)と書くべきところを、(a+b)7と逆に書けば、減点される。次の画像は、定数氏(ツイッター 2017/12/03 16:47)が近隣の中学から入手した、期末試験の答案の一部である。5(x+60)となるべきところが(x+60)5となって、(減点ではなく)バツにされた。



逆順式でバツや減点にしたからと言って、中学の数学教師が、掛け算の可換性を否定しているとか、知らないとか、ということではない。可換性は、掛け算という演算が足し算、論理学の連言・選言、集合の和・積などと共通してもつ、基本的な性格である。あまりに基本的なので、原理と言ってよいであろう。(算数では、行列だとかベクトルだとか、高校や大学で学ぶ非可換なかけ算のことをとりあえず、考慮の外に置いてかまわないであろう。)

ab=ba

a+b=b+a (算術・代数学)
(p∨q)≡(q∨p) (命題論理)
P∩Q=Q∩P (集合算)
 
これに対して、「積では×記号を略し、数字を前、文字が後、文字間ではabc順」という文字式の表記ルールは、式を書くときには等号を揃えるとか、べき数は記号の右肩に小さな文字で書くとかいったものと同類で、数学には関わるが、純粋に数学的な内容ではなく、数学で使われる記号や式の書き方、書式に属している。このような書き方(書式、表記)に属すものは、普遍的・絶対的なものではなく、時代や地域によって違っていることが多い。

細かく見ると、そのルールはしばしば侵犯されている。たとえば、交換法則を式で表現するとab=baであるが、その右辺のbaは、アルファベット順ではない。文字式の計算の途中では、文字式の順序ルールは守られないことも、よく起こる。守らないと、コミュニケーションのレベルで障害が生ずるかもしれないが、数学的に深刻な事態は生じない。7(a+b)と書くべきところを(a+b)7と書いてしまっても、aとbに具体的な数値を代入して、計算して得られる結果は同じである。純粋に数学的な観点からは、順序の違いなどの表記ルールの問題は副次的な問題ではある。

しかし、中学1年生は、初めて文字式を学ぶが、そのとき、文字式の書き方も学習事項の1つであることには変わりない。だから、もし、これができていなければ、ワークブックでも小テストでも中間試験でも、バツや減点になる。授業で学んだことが、実際に、習得されているかどうかという観点から、減点されたのである。だが、繰り返しになるが、このバツや減点は、表記レベルのルールに反しているという理由で付けられたものであり、けっして、掛け算の可換性を問題としているのではない。


(東京書籍中1教科書 2016 pp.56-59)

小学校の算数でも同様である。「掛け算の文章題では、一つ分×いくつ分の順序で式を書きましょう」というルールがある。言い換えれば、一つ分×いくつ分=全部の数、という言葉の式(公式)に従って立式するように、児童は求められている。それに従って式を書いていないとバツになるが、このバツは、表記に関わるその指示に従っていないことに対するバツなのであり、掛け算の可換性のような原理的なレベルに及ぶものではない。掛け算の可換性は当然なものとして、その上で、表記上、一つ分、いくつ分の順序で書きましょう、ということなのである。だが、かりにそうだとしても、なぜ、そんな「勝手な」ルールを設定し、意味がない指示を守らせようとするのか、という疑問を抱く人もいるであろう。
 

文字式のルールと掛け算の順序の違い

文章題の立式が逆順でバツになっている算数のテスト答案がネットに公開されると、冒頭で述べたように、表記ルール違反のバツが可換性否定だと誤解されて、小学校の教師や教科書が激しく叩かれる。ところが、中学の試験答案では、不思議と、文字式の順序が違って減点やバツになっても、中学の数学教師は非難されないのである。なぜであろうか。算数の掛け算の順序も、文字式の順序も、ともに表記上のルールなのではあるのだが、いくつかの点で違っている。

第1の相違は、文字式のルールが純粋に形式的であるのに対して、算数の掛け算の順序が、内容にも関わっていることである。文字式では、先に書くか後に書くかは、数字や記号が何を表しているかではなく、数字か記号かの文字の種類というまったく形式的な違いに基づいている。だから、純粋に形式的なものによる順序であることが、文字式では明白である。この形式性のせいで、それが表現のレベルにしか関わらないことが、誰にでも分かるのである。ところが、一つ分×いくつ分の順序で書くという算数ルールでは、一つ分もいくつ分も、その数値が表している内容であるので、文字式の場合のように、その間の順序が表記ルールであることが、分かりづらくなっている。

第2に、中学の文字式の表記ルールが国際的で普遍的であるのに対して、算数のルールは日本の学校算数教育に固有である。文字式のルールは、国際的なので、数学そのものに属しているように見える。日本でもブラジルでも、平成でも江戸時代でも、3+4=7と言える点で、数学は内容的には普遍的で国際的、超時間的である。文字式の表記ルールは同じく国際的なために、数学の普遍的な内容に溶け込んでしまうことで、それが慣習として際立たされることがなく、表記ルールの慣習性が見えなくなっている。だから、文字式ルールが勝手なルールだと批判されることはない。しかも、中学・高校で学ぶので、保護者やネット上の数学屋も含めた大人は、このルールを知っている。

これに対して、小学校の掛け算の順序は、日本の学校算数に固有なローカルルールである。数学なのに、ローカルであことは、疑わしいことであろうか。たしかに、数学の内容がローカルであったら困る。3+4の答えが地域や文化圏によって違うというのは、とてもまずい。しかし、それが数式表記上の慣行であれぱ、ローカルであっても、それほど問題はないであろう。実際、国によって、÷の代わりにコロンを使ったり、乗法記号として×の代わりに・を使ったりすることはある。割り算の筆算の書き方にしても、原理的には皆同じでも、数字を書く位置や線などが、国によって違っている。もしそれが教え方・教授法であれば、人によって違うことさえある。

掛け算の順序は、小学校の算数教育のローカルルールであるために、小学生の保護者やネット民には共有されていない。そのルールは、教科書に書く順序としては、明治時代から続いているのだが、保護者たちも、小学校では習っているものの、使わなくなって久しいために、すっかり忘れてしまっている。さらに、ネットのデマゴーグたちの影響を受けて、「いつのまに算数はこんなにおかしくなってしまったのか」という間違った感想を持ちさえする。

ともかく、ルールを忘れた保護者は、子どもが持ち帰った逆順バツの答案を、そのようなルールない空間で目の当たりにする。ネットにアップされると、順序ルールが妥当している教室から式が完全に遊離してしまう。文脈から切り離されることで、そうした順序を「初めて」知ったネット民などから、「掛け算の可換性に反するように見える、そのような勝手なローカルルールを作って、それを児童に押しつけているのはけしからん」と非難される。

中には、「もしその順序で書かせたいなら、問題文に書くべきだ、そうでないと、児童は教師の言われざる意図を、悩んで推測しなければならない」と主張する人も出てくる。マルをもらうために、「空気を読んだり忖度したりすることを児童が強いられている」というわけである。しかし、授業を受けている児童は、むしろ、式はその順序で書くことを、すでに繰り返し教わっているのである。

たとえば、下記のような、教科書の例題で、3個ずつケーキが載った皿が4つある絵と、(4×3ではなく)3×4という式とを線で結ぶ練習をしている。単元テストを受ける前に、授業中に黒板やノートに書いた解答で直され、ドリルや宿題プリントで、順序を間違えれば訂正されている。単元テストはその延長と反復にすぎない。文章題の文章中に現れる数値の順序に惑わされて、逆順になってしまいがち、ということはあるにしても、児童たちは、単元テストの答え合わせになって初めて、掛け算の順序のことを知る、というわけではないのである。

(東京書籍2下 2015 p.12)

掛け算の順序は、日本の算数教育のローカルルールだと述べたが、実は、教科書などに式を揃えて書く順序としては、元来は、欧米のものである。日本が明治時代に欧米から数学教育を受容しようとしていた時期に、お手本とした欧米の算術教科書が、基準量×倍(回)の順序を採用していた。ところが、そのうちに、欧米で、倍×基準量という逆順式が支配的になってしまったために、結果として、日本の算数教育が式の順序で孤立しているような状況になってしまったのである。

日本は車が左側通行であるが、イギリスの影響のような歴史的な要因はあるにしても、左側通行であることに合理的な根拠はない。右側通行でもよかったのである。掛け算の順序も同様で、一つ分×いくつ分の順序で書くというのは、欧米の教育のシステムを受容する過程で、一緒に受け入れた慣行である。逆の順序でもよかったのである。車は左側通行といった交通規則と同じで、どちらかの順序で統一しておくのことが重要である。円滑な意思疎通の必要から、この会社とか算数教育とかいった限定的な範囲では、統一する意味はあるであろう。(注1)

第3の違いは、文字式のルールが単なる表記ルールであるのに対して、一つ分×いくつ分の順序ルールは、教育的な意味が与えられていることである。それは表記上のというだけでなく、教育上のルールでもある。

たとえば、文章題の答え欄では、数値に単位(L,km)ないし助数詞(人、本、匹……)を付けて書く、というのは教育上のルールである。このルールには、その答えが文章題が提示する問題状況に対する答えであることを児童に意識させる、という教育的な意味がある。4年生までは、分数や筆算の線は定規を使って描く、というルールを学校単位や教師単位が決めているのもまた、教育的である。というのも、低学年生では、まっすぐな線を書くのが難しく、そうでないと、数字が乱れて計算ミスが起こりやすく、また、児童が書いた字が教師に判別できない、という問題点があるから。

掛け算の順序には、どのような教育的な意味があるのだろうか。それは1つには、教科書や黒板に、いつも、一つ分×いくつ分の順序でそろえて書いておければ、児童は、教師がいちいち数字の意味を注釈しなくても、×記号の前の数字は一つ分を表している、と理解できることである。逆に、不規則に一つ分×いくつ分で書いたりいくつ分×一つ分で書いたりするのは、教育的には、嫌がらせ以外のものではない。

掛け算の順序の一層積極的な教育的意味は、文章題問題にある。掛け算の順序が違ってバツになるのは、文章題問題においてこそ、起きる。だから、掛け算の順序の問題は文章題と切り離せない関係にある。掛け算の順序の設定は、どのようにして、文章題問題を解決するのに役立つというのだろうか。文章題問題とは、文章解析力が劣るため、計算はできても文章題が不得意な児童が、多いことである。これは日本だけでなく、グローバルな問題なのである。

文章解析力がまだついていない低学年児童は、文章をよく読まずに、授業の文脈から想定される演算を、文章題が含む数値に適用して問題を解こうとしがちである。2年生・3年生の掛け算文章題は単純で、九九を覚えていれば、文章を読まなくとも、文章題の文章中の数値をともかく掛ければ、答えが出てしまう。それが足し算でも引き算でもなく掛け算の文章題であることは、その文章題が掛け算の単元にあることから、予測できる。だから、文章題問題は、低学年ではそれほど目立たない。

しかし、高学年になり、もっと複雑な文章題や割合の問題が出てきたときに、このようなやり方をしている児童は、立ち往生してしまう。割り算を使う文章題も、低学年では、大きな数を小さな数で割ればよかったのだが、分数・小数を習うと、それも通用しなくなる。だから、文章題の文章をよく読んで、割られる数と割る数を把握しなければならいない。

高学年で出てくる割合の文章題は、掛けることも割ることもある。文章を分析的に読解できない児童は、掛けたらよいのか、割ったらよいのか、分からない。これは日本だけでなく、外国語の質疑応答サイトにも、どこから割り算を使うとわかるのかとか、使うべき演算の種類はどれかとか、いった生徒の相談が掲載されている。

割り算の文章題では、文章を解析して数値の意味を把握し、そこから a:b = c:dのような数的関係を抽出しなければならない。200gの544円の牛肉を350g購入するときの代金を求める問題では、重量比 200 : 350 = 金額比 544 : □のような数的関係を読み取り、そこから、答えである□を求める式を構成しなければならない。

掛け算の文章題もまた、文章をよく読んで、そこに、〈同数グループが複数ある〉という数的構造を見て取るべきである。そのような数的構造が発見され、全部の数を求めべきことが知れれば、掛け算を使うことがわかる。「クラスに7つの班があり、各班の人数が4名のとき、児童の数は全部で何名か」という文章題では、構成員数が4のグループが7つあるという数的構造が発見できる。何算を使うかは単元からではなく、文章そのものから決められるべきである(もし、児童の全員の数と班数が決まっていて、各班の人数が不明なら、割り算を使う)。そして、どの数値が各グループの構成員数(一つ分)で、別のどの数値がグループの数(いくつ分)であるかを理解する。

その上で、今度は、一つ分×いくつ分という掛け算の順序に従って、式を立てるのである。とくに、掛け算の習いたてでは、□(一つ分)×□(いくつ分)=□(全部の数)という言葉の式の□に適切な数値を入れて埋めるような仕方で、立式するように指導される。だから、順序を伴う立式は、「一つ分の数は何ですか」「いくつ分の数は何ですか」という問いに対して答えることを含んでいる。もし、ここで順序を設定せずに、一つ分×いくつ分でも、いくつ分×一つ分でもいいとすれば、現在の算数ように式に単位を付けないスタイルでは、児童が、一つ分といくつ分をそれぞれ正しく捉えているのかどうかが、教師には分からない。
 

(公立小学校2年のプリント。かけ算の習い初めに、まず絵から式を立てる練習をする。この段階では、全部の数は、九九ではなく、まだ、おにぎりの絵を数えて出す。のちに学ぶ文章題では、問1と問2が問3(式)に統合される。これが立式である。)


欧米にも、掛け算の順序の表記ルールはあるが、しかし、教科書や黒板に教師が書くときに従う慣行に留まっていて、文章題を児童が解くときに書く式にまで、そのルールは適用されない。次の画像は、K5-Learningという、算数学習サイトのプリントの模範解答であるが、1つ分やいくつ分お構いなしに、文章に現れた順に式が書かれている。

(K5 Learning, multiplication wordproblem, a1)

しかし、日本では、一つ分×いくつ分の順で書くという表記ルールの遵守を、児童にも求めている。日本の算数教育が掛け算の順序に「こだわる」と言われるのが正しいとすれば、この意味においてである。しかし、こだわるのは、それなりの理由がある。一つ分、いくつ分として把握した数値を、それぞれ×記号の前と後に配置させることで、児童は一つ分といくつ分を意識せざるをえないし、教師は児童が書いた式を見て、それぞれを正しく把握しているどうかをチェックできるのである。掛け算を1つ分×いくつ分で教えたのであるから、それができているかどうかを、授業中に書くノートやドリル、単元テストの採点でチェックすることは、教えたことの効果を確かめるフィードバックととして当然、行うべきことであろう。




注1 実は、掛け算の表記順序は日本と外国と逆、というほど単純ではなく、外国でも、日本と同じ表記上の順番を採用しているところもある。たとえば、フランスでは、下記のバロンの論文にあるように、小学校では教師によって、倍(回)×基準量と書く場合も、基準量×倍(回)と書く場合もあるが、バロン自身は、中学の数学との接続を考えて、倍(回)×基準量のほうが適切だ、としている。takehikom氏の指摘で挙げられた資料によれば、ブラジルでは、倍(回)×基準量である。イギリスでは、黒木氏がしばしばツイッターで、BBCの算数サイトで例を挙げているが、基準量×倍(回)の順が使われることもある。日本でも、学校算数の外部では、請求書やレシードなどで、数量×単価の順番を見ることができる。こうした多様性と不統一は、そのルールが表記上の慣習だからこそ、起こりうることなのである。

Jeanne Balon, "Deux fois trois et trois fois deux sont-ils égaux?", in: Grand N, 54, 1994, 21-25.
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwjvnaHf8f7XAhXHfLwKHYVYB3EQFggqMAA&url=http%3A%2F%2Fwww-irem.ujf-grenoble.fr%2Fspip%2Fsquelettes%2Ffic_N.php%3Fnum%3D54%26rang%3D3&usg=AOvVaw2lmhrCwlj8KPWjyeCv7jD5

(2017/11/29 0325, 2017/12/02 09:10,  2017/12/22 06:46,  2018/01/21 21:44などのツイートに基づく。)

ツイッターでのtakehikom氏の指摘に基づき、数値を訂正する、掛け順の慣習について例を追加する、などした(2018/03/01)。

2018年2月16日金曜日

正方形は長方形でない? ― 現代化算数の失敗と亡霊

New Math運動の失敗

1957年にソ連が世界初の人工衛星を飛ばすことに成功すると、米国には激震が走った。スプートニックショックと呼ばれる出来事である。科学技術において米国は最も先進的だという信念が、崩れ去ることになったのである。当時の米国の数学教育が旧態依然であったことは、米国がソ連に追い越された原因の1つと見なされ、1960年代、New Math運動と呼ばれる、数学教育の「改革」運動が起きた。現代の数学の発展を受けて、数学教育を現代化しようという運動であった。

現代化の時代、小中学校の数学では、集合概念や、写像としての関数、位相幾何、公理主義化された代数が教えられた。集合論や公理主義は、単に、新しい単元として加えられたのではなく、数学の基礎、枠組みとして、採用されたのである。New Math運動の主要な担い手の1つであったSMSG (School Mathematics Study Group)の教科書を見ると、小1から、数や足し算が集合で定義されている。その初っ端が集合概念の導入である。果物の集合(set)には、リンゴの集合やナシの集合など、部分集合(sebset)がいくつもある。リンゴの構成員(members)の数は5である。つまり、数は集合の要素の数なのである。マルで囲って、リンゴ2つと梨3つの部分集合を作ることも可能である。


(SMSG, Mathematics for the Elementary School,  p. 2)注1

足し算は、後のほうのページで数直線を使って説明されるが、最初は、やりは集合から説明される。4つのボールから成る集合と2つから成る集合があって、両者を合わせてできた集合(union)の要素は6である。そこから、4+2=6, 2+4=6という足し算の式が導かれている。

(p. 9)

集合概念を使って足し算を考えると、物がそれが置かれている場所と時間から抽象され、頭の中で、同じ定義を満たすものとして集められる。このような理解をすると、算数教育学で言う合併(あわせて)と増加(ふえると)の違いは、無意味なものとなる。特定の場所に最初からあったかどうか、追加されるものは最初からあるものより後という時間的な前後関係は、捨象されるからである。

New Math批判の書『ジョニーはなぜ足し算ができないのか』には、New Math教育がどんなものであったかを示す例が、冒頭に書かれている。

「現代の数学のクラスを覗いてみましょう。……教師は「6と9のあいだにある整数は、正しくは、どう表現するの?」ときくと、ある生徒が「なぜ? 7と8だよ」と答える。教師は「いいえ、6より大きい整数の集合と、9より小さい整数の集合の交わりとなる整数の集合よ」と答えた。」 (注2)

New Mathの数学のテキストや授業は、こんなものなのである。数学者の小平邦彦は米国滞在中に娘が、SMSGの実験クラスに配属されるという災難に見舞われた(注3)。彼はその宿題の手伝いをやらされ、その馬鹿らしさに呆れて、現代化数学に批判的な論者の1人となった。

小平は言うのだが、集合の考えは数学者には分かりやすく基本的だと感じられるが、それは専門的訓練の結果であって、小中学生にとってそうではない。集合論が現代数学の基礎であるからと言って、集合論が数学「教育」の基礎ということにはならない。集合論は19世紀末になって初めて出てきたものだが、数学はそれより2000年以上も前からある。つまり、歴史的に見れば、数学が集合概念を基礎に再構成されたのは、数学にとって、偶然的な出来事なのである。現在の近いほど数学は抽象的であり、小中学校では、直観的にわかりやすい過去の数学から学んでいくべきだと言う(注4)。

New Mathで算数を学んだ子どもたちがどうなってしまうかを、象徴的に示す例を2つ挙げよう。1つ目は、スヌーピーで知られる、シュルツ(Ch. M. Schulz)の4コマ漫画である。チャーリーブラウンの妹サリーは、New Math時代の教科書を教室で読んでいる。「集合、一対一対応・・・等価な集合・・・集合を結びつけて1つにすること・・・」  しかし、最後に(4コマ目で)こう叫ぶ。「私が知りたいのは、ただ、2たす2はいくつか、ということだけよ!」。


2つ目は、先ほど言及した『ジョニーはなぜ足し算ができないのか』に描写されている、New Mathで算数を習う子どもと親とのあいだの、よく知られた会話である。

「子どもの算数の学習の進度を心配した両親は、子どもに尋ねる。ある父親が、8歳になる自分の子どもに、「5たす3は何?」と尋ねた。親が受け取った答えは、「交換法則により、5 + 3 = 3 + 5 」というものであった。面食らった親は、同じ質問を言い換えて、「5つのリンゴと3つのリンゴ、併せると全部でいくつ?」ときく。子どもは、「と」がプラスの意味なのかよく理解できなかったので、親に「5つのリンゴ、プラス 3つのリンゴ、ということ?」ときき返す。急いで「そうだ」と答えて、期待して子どもの答えを待った。子どもが答えて言うには、「リンゴだろうが、ナシだろうが、本だろうが重要じゃないよ。どの場合でも、5 + 3 = 3 + 5だよ」」(注5)

このように、New Mathで算数を学ぶと、集合の用語・記号法や交換法則は知っていても、九九を覚えられず、基本的な計算ができなくなってしまう。New Mathの数学教育がいかに偏っていたかが分かる。


現代化算数と集合概念

このNew Math運動は世界的に波及するが、日本もその波をかぶることになった。1964年にはSMSGが数学教育会や雑誌で紹介され、セミナーも開かれた(注6)。穏健化された形ではあるが、10年ほど遅れ、1970年代の日本の小中学校で、現代化のカリキュラムが実施された。図のように、小4の教科書には、集合に関する単元が出てくる。

(大阪書籍算数教科書4下、1977年、p. 4)

この集合概念に基づいて、さまざまな四角形の集合のあいだの包摂関係が、ヴェン図で示された。それによれば、正方形の集合は長方形の集合の部分集合である。というのも、等辺等角四角形である正方形には、等角四角形である長方形の性質が完全に当てはまるから。つまり、正方形は長方形の特殊な場合なのである。

さらに言えば、正方形の集合は、等角四角形である長方形と、等辺四角形であるひし形という2つの集合の交わり(積集合)に当たる。長方形の集合は、これはこれで、平行四辺形の集合の部分集合である。このように、さまざまな四角形のあいだには、現代化時代の教科書に載る次のようなヴェン図で示される包摂関係が成り立つのである。

(啓林館算数教科書6下、1973年、p.86)


 集合とは、大阪書籍の教科書によれば、「ある事柄に当てはまるものの全体を、1つの仲間と考えたとき、その集まり」と定義される。

だが、小学生が集合概念をどれほど理解できたであろうか。「集まり」ということで、小学生は、一箇所に寄せ集められてできた玩具の山のようなものを、まず連想していないであろうか。ある小学生は、運動場に足で大きく円の形に線を引いて、同級生とともにその中に入り、「全員集合!」と叫んで、これが集合だという理解を示した。また、「なかま」という言葉が集合の説明に使われているが、仲間だったら普段よく遊び、互いによく知っているものどうしの関係でないといけないであろうか。もし、当時の児童たちの集合概念の理解がこんなものであったら、無限集合の理解はおろか、有限集合の理解でさえも、不可能である。(注6b)

集合の要素は、実在物でも空想物でもよく、過去・未来のものでも、数や図形でもよい。たとえば、血液型がRhマイナスの人の集合では、血液型がRhマイナスであるという条件を満たしていれば、すべて自動的に、その集合の要素である。頭のなかで考えられた集まりなので、Rhマイナスの人は、互いに相知らず、隔たったところに居住していても構わないのである。100年前に死んでいても構わない。200年後に生まれるRhマイナスの人も含まれている。人間の部分集合であれば、弁理士だとか、~小4年1組で兄がいる人だとかいった、決まった特徴を共通してもち、それを持たない者と区別される諸個人のグループを頭のなかで想定するとき、それがすでに集合である。集合は、要素間の物理的な近接性や緊密な関係の有無とは関係なしに、人間の頭のなかで自由に構成されるものなのである。

しかし、小学生は、目の前のお皿の上の青森産のリンゴが数えると5つあるとか、自分が自宅の近くの小学校の4年1組に属し、誰々と一緒の班に属しているとかいった、実在の融通が利かない具体的な状況に即して、物を考える。物理的遠近や実際の具体的な関係から独立に、ある特徴や観点に基づいて事物や人、項目を自由にグループ化し、それらの間の関係を考察するような、高度な抽象的思考力を、最初からもっていない。むしろ、そのような能力は、小学校・中学校の勉強などを通じて、次第に養われていくものである。


現代化時代の児童たちの悲惨

正方形が長方形であること、正三角形が二等辺三角形であることに、教えられずに自発的に気づく子どもがいるであろうか。いても、きわめて稀であり、無視してよいと思う。しかし、現代化の時代には、それが教科書に書かれ、教えられていた。図形の包摂関係を理解できた児童は、少数にしてもいたのであるが、ほとんどの児童は理解できず、混乱が広がった(注7)。

まずは教師の側からの証言を見よう。ブログ「身勝手な主張」のブログ主Y.H氏は、現代化算数時代に新任教師として小学校で教えていた。当時、ブログ主が「正三角形が二等辺三角形のなかまである」と児童に教えたら、児童のあいだで大混乱になったと言う。

 「私が小学校の新任教師をしていた頃は、数学教育の現代化の時代であったから、当然「正三角形は二等辺三角形のなかまである」と教えていた。……私の教え方がよくなかったのかどうかわからないが、「正三角形は二等辺三角形のなかまである」が児童の間で大混乱になった記憶がある。」(注8)

図形の集合論的な分類方法は、明らかに、小学生の図形イメージとそれに基づく自然な分類に反するものであった。だから、Y.H氏は平行四辺形については、次のように書いている。「第一、無限にある長方形をどのように「長方形の集合」として閉曲線で囲まれたベン図に押し込めるのか?こんな冗談みたいな思いを持っていた。実際、児童の混乱もひどかった。
 長方形を平行四辺形として見よと言われても、児童は長方形と平行四辺形のそれぞれの図形としてのイメージがあって、別のものと思うのが自然な思考であって、無理な話であった。長方形や平行四辺形が数学的にきちんと定義されていない算数では、このような見方は飛躍がある。」 (注9)

次に、現代化算数を受けた児童の側からの証言を聞こう。読売オンラインの発言小町で、2014年に、「小学校 正方形が長方形でないのはなぜ?(駄) 」というトピが立てられたことがある。(注10)

そこにredbearという人が投稿していて(2014/11/15 20:31)、自身の40年以上前(1974年以前)、つまり、現代化算数が教えられ始めた時代の体験について語っている。redbearさんが小学生のとき、算数の時間に「長方形は平行四辺形である」という問題が勃発した、というのだ。redbearさんだけが「長方形は平行四辺形である」と主張し、他の全員が反対で、redbearさんは集中砲火を浴びる。反論できなかったredbearさんは、翌日、反論の仕方を考えてきて発表した。そして、数学が専門の担任によって、redbearさんの主張が正しいという裁定が下されたのである。

これは、現代化算数が始まって日本全国の教室で起きていた混乱の1コマに過ぎない。琉球大学の色物氏も、readbearさんと同じ年代で、「「正方形は長方形に入るか」で議論して同級生を泣かしたことがあった」と、いじめを告白している(ツイッター 2010/11/13 09:24)。理解できた極めて少数の児童と、理解できない多くの児童に対立と分断が起きたのである。授業についていけない多数の落ちこぼれと算数嫌いの児童が続出したのは、言うまでもない。

redbearさんのクラスでは、redbearさん1人を除くと、児童は、「長方形は平行四辺形である」という命題を理解できなかった。図形の包摂関係の理解は、小学生の知的枠組みを超えており、小学校で教えるには、明らかに不適切であった。外国での流行に乗って、小学校で集合を教える現代化カリキュラムを導入し失敗した事件は、日本の教育政策史上の汚点となっている。小学生に対する知的虐待が制度的に遂行されたのである。当時小4で教えられていた集合の概念は、今は、高校生が学んでいるのである。(注11)


集合論的観点の持ち込み

四角形のあいだの多層的な包摂関係は、その理解が小学生の知の地平を超えているので、算数で教えるのは不適切である。では、どう教えるかと言えば、中学では包摂関係を教えるので、円滑な小中接続のことを考えれば、小学校では、現行のように、四角形間の包摂関係を曖昧なままにせざるをえないであろう。では、正方形と長方形の包摂関係についてとくに何も述べなければ、小学生は両者の関係について皆目わからないかというと、そうではなく、児童の頭の中では、常識と日常言語に基づいて並列的に解釈されるであろう。

日常的な理解では、正方形(真四角)は長方形(長四角)とは別のものである。断面が正方形と長方形の2種類のレールがあるとき、「長方形のほうを取ってきてくれ」と頼まれれば、あえて正方形のほうを持ってくる人はいないであろう。児童たちは、生活のなかで獲得されたこの常識的な理解に従って、正方形と長方形を、さまざまな四角形のなかの2種類として、あい並んでいるものとして理解している。教科書では、たとえば、正方形の面積の公式(一辺×一辺)は長方形(縦×横)とは別立てになっているのであるが、これも日常的言語の用法に従うもので、長方形を「等角だが等辺ではない」とするユークリッド的な定義(注12)を積極的に主張しているわけではない。

算数では、さまざまな形の四角形を図示して、たとえば、長方形と呼べるものの記号を全部挙げよという、下のような設問がしばしば出る。このような設問では、正方形の記号を選ぶ可能性は、考えれておらず、模範解答でも、正方形の記号は書かれていない。このことから、小学校では、「正方形は長方形ではない」と教えられている、といった解釈がなされ、批判されることがある。だが、これは図形の包摂関係についての理解と知識を基準に、小学生向けのこの設問を理解したために生じた歪んだ解釈である。問題作成者はそのような包摂関係を前提としてこの設問を作成したのではない。

(光文書院3年生夏休みドリル p.3から)

 確かに、小学教科書では、長方形は4角が直角の四角形、正方形は4角が直角で、4辺が等しい四角形と定義されている。この定義に従えば、算数でも、正方形の集合が長方形の集合の部分集合になるのではないのか。だが、定義から集合的包含関係を引き出すためには、定義と真の命題の違い、内包を増やすと外延が広がるといった概念の内包と外延の関係などを理解していないといけない。だが、そのような論理学的知識は、2年生にはまだない。ましてや、主語概念の集合が述語概念の集合の部分集合のとき命題が真と言えることを知っていて、「正方形は長方形である」と言える小学生は、まずいない。「正方形は長方形である」ときくと、小学生は、正方形=長方形と理解するであろう。

(東京書籍算数教科書2下、2014年、p.104, 105)

だから、上記のような、図形の記号を記入する問題が出ても、長方形の欄には、正方形ではない長方形のみを「全部」選んで入れるのが正解である。もし、正方形の記号(○ア、○ク)を含めれば、それは、「「正方形は長方形」と理解していたからマル」なのではなく、両者の区別さえついていないからバツになるだけである。

四角形の集合の包含関係が既知・既習で自明であるような後知恵的・鳥瞰的な視点から見ると、たしかに、その名称の四角形を選ぶ設問、および、その採点方針は、正方形を長方形の一種とする定義を否定しているように見える。しかし、包摂関係はここでは一切、問題にされていないと銘記すべきである。この設問を評価するとき、その知識の適用は一時停止しなければならない。

ところが、このことを理解せずに、中学で学ぶ図形の集合的包摂関係を金科玉条のように振り回して、「算数では嘘が教えられている」と、算数教育を批判する者がいる。彼らは、中高で学ぶ図形理解を、小学校の算数教育に関する話の中にそのまま持ちこんで、これを基準に、小学校の授業や設問を批判してしまう。だが、そこで、図形についての集合的理解に基づいて、長方形はどれかという設問に正方形を含めて解答する子どもと想定されているのは、実は、彼ら自身にほからない。これは何度でも強調されるべきだが、算数の問題は小学生が解くべく与えられたものであり、数学が趣味の大人や数学塾講師のために作問されたものではない。小学校では、四角形の仲間として、正方形や長方形、ひし形、平行四辺形、台形があることを知り、それらの主な特徴を知り、その典型的なイメージに基づいて互いに識別し、その典型的な形をノートに描ければ、それで十分である。

算数の採点答案がネットで論争を呼ぶ多くの場合、その原因の多くは、上の学年や高等数学で学ぶことを、無意識に持ち込んでしまうことにある。小学生にも容易に理解しうる、理解されていると安易に前提してしまうのである。ツイッターの"掛算"、"超算数"タグで批判されている多くの場合が、これである。小数の足し算の筆算の採点を、中学で学ぶ有効数字を根拠に子どもへの虐待だと騒いだり、小学教科書での偶数・倍数の定義を、高校数学や初等整数論の定義に基づいて「ひどい」と評したり、小2のかけ算の式の書式の順番を、直積的なかけ算の意味を基準に可換性の否定と断じたり、といった倒錯的なことが起きている。

小学校の教科書の、長方形を初めて説明するページに、長方形の例として描かれているのは、縦横の長さがはっきり違う典型的な長方形である。正方形が長方形の特別な場合だとしても、そこに、正方形が描かれることはない。

(上図)東京書籍2上104、(下図)、4上64

同様にして、台形を定義し説明する箇所では、台形の例として図示されているのは、やはり、上辺と下辺の長さが異なる典型的な台形であり、正方形やひし形、平行四辺形ではない。上辺と下辺が平行といった図形の特徴とともに、こんな図形が台形だというイメージが捉えられていればよい。

描かれたさまざまな図形から、その名称の図形を選ぶ、上記のような問題において試されているのは、単純なことで、教科書に載っていたような典型的な四角形のイメージが頭に入っているかどうか、言い換えれば、教科書に載っていたような形の図形は、何と呼ばれていたか、である。さまざまな四角形の集合のあいだの包摂関係など、微塵も問題にしていない。

 「児童は長方形と平行四辺形のそれぞれの図形としてのイメージがあって、別のものと思うのが自然な思考」(Y.H氏)なのである。


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注1 SMSG, Mathematics for the Elementary School, Book 2, Studtent's Text, New Haven / London, Yale University Press, 1965.
https://archive.org/stream/ERIC_ED173089#page/n9/mode/2up

注2  Morris Kline, "Why Johnny Can't Add"
http://www.marco-learningsystems.com/pages/kline/johnny/johnny1.html
 Morris Kline, Why Johnny Can't Add: The Failure of the New Math, St. Martin's Press, 1973. 日本語訳『数学教育現代化の失敗』(柴田録治訳、黎明書房、1976年)

注3  「SMSGの濫觴時代に私の長女がアメリカのプリンストンの中学校でその教育実験の級に編入され、私は奇妙な宿題の手伝いをさせられる破自になった。おかげでSMSGの馬鹿らしきは身にしみているのである。」
 小平邦彦、『怠け数学者の記』(岩波書店、2000年)、p. 117. Vgl. p. iv, 110.


 注4 小平邦彦、『怠け数学者の記』、p.120. 小平によると、集合論は有限集合に限定するなら、一見易しく見えるが、これが間違いのもとである、という。集合論や公理主義代数のうち、子どもたちも理解できる非本質的な部分、とてもつまらない部分が教えられた。子どもたちには、それはとてもつまらない、無意味なものに見えた。ともかく、そのような非本質的な部分に多くの時間と労力が無駄にかけられることになったために、子どもたちは、この年齢期に基礎的な計算力を身に付けてしかるべきなのに、それを得る機会を逸してしまったのである。

「現代の数学は集合論の影響を強く受けていて、集合論が数学の基礎であると考えるが、集合論が創まったのは一九世紀も終りに近くなってからであって、数学は集合論が創まる二〇〇〇年も前から存在していたことを忘れてはならない。」 p. 111
「進歩発展するものの典型的なものは生物であるが、生物の「個体発生は系統の進化を繰返す」ということがある。同様に、数学の教育も数学の歴史的発展の順序に従って行われるべきであろう。」 p. 111
「数学者は集合が基本的なわかり易い概念であると考えるが、それは多年の専門的訓練の結果であって、それを忘れて、物の数を数えるという操作は集合の一対一対応に基づいている等と言っても、子供は仲々納得してくれないのである。」 p. 112
「new math流の教科書には現実の子供よりも数学者の頭の中に描かれた子供、言わば公理化された子供を対象としている傾向があると思う。子供から見た数学の難易の順序は、その論理的順序よりも歴史的発展の順序によると思うのである。」 p. 115

注5  Morris Kline, "Why Johnny Can't Add"

注6 竹村弘・小川庄太郎・安達徳治、「数学教育の現代化について(Ⅰ)」 『奈良学芸大学教育研究所紀要』第1巻(1965年)、pp. 36-55.
http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/6094/1/ier1_36-55.pdf (奈良教育大学学術リポジトリ)

注6b  教師が黒板に大きく丸を描いて、そのなかにいくつかの形が違う三角形を描き、これが三角形の集まりだと言ったところ、ある1年生は、そのマルをはみ出るさらに大きな三角形を描いて、三角形の集合に入っていない三角形の存在を指摘した。山本忠「昭和40年代の小学校算数科における現代化教材に対する再評価の観点」『名古屋女子大学紀要(人文・社会編)』第63号 pp. 207-216; p.210.
ある子どもは、自分と自分の兄弟の周囲に括弧{ }がないから、集合ではない、と主張した、という。小平『怠け者の記』 p.111
どちらも、運動場に大きな円を描いてその中に同級生とともに入って「これが集合だ」と言った小学生と同様に、ベン図の囲い線や列挙法の括弧などを、集合の要素と同じ実在の平面で理解しようとしている。

注7 数学者の松崎克彦氏は、「「ましかく」も「ながしかく」」という短い伝記的文章のなかで、現代化算数との出会いについて、印象深い文章を書いている。
http://www.math.ocha.ac.jp/~matsuzak

氏は1963年生まれということなので、ほぼ、現代化時代に算数を学んだ世代である。当然、当時は、正方形は長方形の一種として教えられていた。さまざまな図形が描いてあって、「その中から長方形を選べ」という問題が出たら、正方形も含めなければならなかった。松崎氏は「指導要領が小学校低学年の子供にこのようなことを要求していたとも思えない」と書いているが、しかし、集合概念を組み込んだ当時の現代化カリキュラムは、まさに、小2にそれを要求していたのである。当時の指導書には、正方形を等辺の長方形として教えるということが書かれている。

「正方形については、長方形のうちで、四つの辺の長さが等しいものであるという見方もとれるようにするなど、将来、それらの包摂関係を理解するのに妨げにならないように注意していることもたいせつなことである。」(『小学校指導書算数編』 文部省 1969年5月 p.67)

ところが、算数のテストでほとんど百点以外をとったことがなかった松崎氏は、この設問で正方形を挙げずに、減点をくらってしまう。その理由が分からず、先生にきいたところ、長方形は「すべての角が直角であるような四角形」と定義されるが、これは正方形にも当てはまる、というのであった。このことは松崎氏にとって、思考発達上の重大な出来事となったようだ。それ以降、氏は用語の定義やルールの明確化ということに注意深く、そして神経質になった。松崎少年は、主にイメージで図形を理解する思考から脱却して、定義に基づいて図形間の関係を考える論理的な思考を獲得したのである。

 ここでは、算数のテストは百点以外が稀で、しかも、のちに数学者になった松崎氏さえ、図形の問題で正方形を挙げずに減点された、という事実が重要である。それほど、図形間のあいだの集合的包摂関係の理解は、小学生に負担を与える、ということなのである。

注8 Y.H氏「新しい算数教科書『たのしい算数』2 ~三角形・四角形の取り扱い」(2015/4/17)、ブログ「身勝手な主張」内
http://blog.goo.ne.jp/mh0920-yh/e/fc74b3c22515e31359e53733bc4ae0c2

注9 Y.H氏「数学教育の現代化の時代 ~現在の算数教育で、「集合」教材の追放はどうであろうか?」(2013/11/22)、、ブログ「身勝手な主張」内
http://blog.goo.ne.jp/mh0920-yh/e/7bd57bda04a22c1052150495202267ac

「無限にある長方形をどのように「長方形の集合」として閉曲線で囲まれたベン図に押し込めるのか?こんな冗談みたいな思いを持っていた。」というところを見ると、Y.H氏自身が、集合概念を理解していなかったということであろうか。だとしたら、氏から教わった小学生はますますわからない。

図形の包摂関係を教えて児童に混乱が起きたという、この経験から、ブログ主のY.H氏は、児童のレベルを無視してすべての児童に一律に、そう教えることに反対している。しかし、正三角形が二等辺三角形であることに気づく児童の発想まで、バツを付けることで否定すべきではないとも、書いている。また、集合概念自体は、有限集合に限定するなら、小学生にとって理解可能としていて、それを算数の教材から排除したのは誤りとしている。

私の考えでは、包摂関係に気づく児童を想定することは、まさに、「数学者の頭の中に描かれた子供」、自分自身の能力を投影して創作された子どもを想定することである。また、集合概念は、有限集合に限っても、小学生にはその理解が難しいであろう。

注10 「小学校 正方形が長方形でないのはなぜ?(駄) 」(トピ主:たぬき)、読売オンライン発言小町内
 http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/1114/689149.htm?o=0&p=0

注11 集合の概念を学ぶのは高校の数学Aにおいてだが、中学の教科書にすでに、自然数・整数・有理数、正方形・長方形・平行四辺形などのあいだの包摂関係を示すヴェン図が載っている。だが、中学校で、これが理解できない生徒が多数いて、数学教育に困難を来している、という話はきかないので、中学生くらいになると、図形間の包摂関係はわかる、ということであろう。小5,小6くらいに、論理的な思考が発達するためだと思われる。


(修正的追加)[と書いたのだが、次の論文を読むと、どうも、中学生にとっても、四角形の階層的分類は難しいらしいことが分かった。
Masakazu Okazaki and Taro Fujita, "Prototype Phenomena and Common Cognitive Paths in the Understanding of the Inclusion Relations Between Quadrilaterals in Japan und Scotland"
http://www.emis.de/proceedings/PME31/4/40.pdf

この論文の著者に限られないが、教育心理学者たちは、理解するのが困難な図形の包摂関係を、いかに効果的に教えるのかということに関心がある。私としては、それらの研究の出発点となる「理解するのが困難な」というところに注目したい。
van Hieleによると、図形の理解は5つの段階を踏む。第2段階では生徒は、各図形の諸特徴をつかみ、第3段階で各四角形の定義と特徴に基づいて、長方形は平行四辺形の特別な場合であることを演繹できるようになる。

ところが、研究では、第2段階から第3段階への歩みは遅く、中3でも多くの生徒が、第2レベルに留まったままなのであるという。中二氏の言っていることは誤っている。図形の包摂関係は中学生にとってさえ難しいのである。

"the classification of quadrilaterals by inclusion has been shown to be a difficult task (de Villiers, 1990, 1994)." p. 4-41. 「包摂による四角形の分類は、難しい課題であることが示されてきた。」ただし、ある包摂関係は他より理解しやすい、といった図形による違いはあるという。

T. Fujitaらが参照しているde Villiersの文献の1つは
De Villiers, M. , "The role and function of a hierarchical classification of quadrilaterals", For the Learning of Mathematics, 14(1994), pp. 11-18.

De Villiers自身も、ここで、先行研究を示しながら、次のように言う。「過去何年にも渡って行われてきた、Van Hiele理論についての多くの研究が、多く生徒が、四角形の階層的分類について困難を感じている、ということを、明白に示してきたのである。」(p. 17)

"Many studies on the Van Hiele theory over the past number of years have clearly shown that many students have problems with the hierarchical classification of quadrilaterals [e.g. Mayberry, 1981; Usiskin 1982; Burger & Shaughnessy, 1986; Fuys, Geddes & Tischler, 1988]." p.17]

学習指導要領が改訂され、現代化カリキュラム(1971-1979年)の時代が終わると、集合についての章や集合概念を使った記述は教科書から消滅したが、図形の包摂関係については、第2次ゆとりカリキュラムまで残った。1985年の学校図書の教科書には、封筒から長方形の色紙を少しずつ出していくという直観的な例示に基づいて、正方形は長方形の特殊な形と言われている。正三角形と二等辺三角形、長方形と平行四辺形の関係についても、似たような仕方で、示されている。




注12 ユークリッド原論では、長方形は、「すべての角が直角だが、ただし、等辺でない四角形」とされている。原論は西欧では永く、幾何学の教科書として使われていたので、西洋人にとって、長方形は正方形とは別物であった。だが、彼らは永いあいだ、ずっと間違ったことを信じていたのであろうか。

(The First Six Books of The Elements of Euclid, trans. by Oliver Byrne, London, 1847; xxi. URL: publicdomainreview.org)

しかし、これは定義の違いの問題にすぎない。もちろん、ある定義は多くの人が採用していたり、学界で確立したものであったりするであろう。あるいは、その定義のほうが都合がいい、ということで採用されていることもある。そのような、支配的ないし都合がいい定義がわかっているかどうかが試されているという学習的状況では、それと違う定義を挙げることは、「間違っている」と判断される。

しかし、原則を言えば、定義は、任意に決めることができるので、根本的には、定義に正しいもまちがいもない。確かに、「すべての角が直角な四角形」という定義のほうが、「すべての角が直角な、ただし、等辺でない四角形」よりも、但し書きがないので、シンプルで、数学者が好むであろう。ただやはり、正方形との関係が複雑になるという欠点はある。正方形である長方形と正方形でない長方形が存在することになる。これに対して、ユークリッド的定義はこの問題点がなく、正方形や他の図形は、重複なしに、明確な境界線ではっきりと区切られている。

だから、集合論が基礎となっている現代数学のスタイルの定義と、ユークリッド的定義のどちらが優れているかは、簡単には決められない。



補遺

定数氏の掲示板へのTaKu氏の書き込みから知った論文
三木崇正他「算数を学び続ける児童を支える授業に関する研究 : 定義から図形を捉える活動を通して」(「鳴門教育大学授業実践研究」16, 2017.5)
http://8254.teacup.com/kakezannojunjo/bbs/t47/317

著者たちは、付属小4年生を対象として、正方形に長方形やひし形の定義(決まり)が当てはまるかどうか確かめさせることで、正方形を単に長方形またはひし形とは別の四角形としてとらえる理解を超えさせることに成功した。 実験的授業では、正方形が長方形の決まりを守っているかという問いに対する反応で、わずか児童の20%しか肯定しなかったが、正方形がひし形の決まりを守っていると答えた児童は80%もいたという。この違いは、長方形に関する質問のあとでのディスカッションで、児童たちのあいだで、定義から図形を判断する能力が養われたからである、という。

しかし、これによって、正方形がひし形と関連づけられただけである。つまり、著者たちの考えでも、こうした授業にもかかわらず、児童たちは、正方形の集合をひし形の集合の部分集合とするような包摂関係までは理解したとは言えない。だから、論文の結論には、次のように書かれている。

「(※現在の算数教育では教えていないので)児童は定義と性質を区別することができておらず,正方形,長方形,ひしがたの3つの図形の包含関係を正確に理解するまでには至らなかった。」(p. 69)

TaKu氏は、なぜかこの論文を、包摂関係を理解する児童がいることの証拠として挙げている。包摂関係を教えた現代化算数の時代でも、理解した児童はいたにはいたであろう。理解できない級友をからかっていた色物氏はその例である。しかし、この論文によって示されたのは、むしろ小学生には図形の包摂関係の理解が難しい、という真実の再確認である。

(2018年1月19日18:16  などのツイートに基づく)

2018年1月29日月曜日

掛け算の順序の狙い

小学校の算数で、毎年冬になると、子どもが、かけ算の文章題で、式の順序が違うという理由でバツになり、やり直しをさせられた採点済み単元テストを持ち帰る。保護者は、かけ算には順序は関係がないから式は正しいのではと思い、その写真をネットにアップする。すると、かけ算に順序はあるかのどうかを巡って論争が起きる。

 (光文書院2011 単元テストより)

かけ算は可換なのに、なぜ、算数では、かけ算に順序があるかのように指導するのであろうか。教科書を見ると、かけ算は2年生で習うが、習い始めてまもなく、児童は交換法則を学習する。かけ算の順序と交換法則、この2つのことは、両立できないように感じられる。

(東京書籍教科書2下2015 p. 41より)

教科書には、交換法則について、画像のように、被乗数(一つ分)と乗数(いくつ分)を交換しても計算しても答え(全部の数)は同じ、と書かれている。つまり、かけ算には交換法則が妥当する。しかし、意味まで同じだとは言っていないことに注意すべきである。

計算問題のように、式や数値を数量的にのみ扱うときは、6×7と7×6はまったく等しいと見なしてよい。しかし、テストで逆順式がバツになるのは、いつも文章題である。文章題は、さまざまな設問形式の1つ以上のもので、現実に起こりうるケースを想定して、数学を現実に橋渡しする(応用する)訓練、一種のシミュレーションである。ほとんどの児童は、将来、数学者や数学教師になるのではなく、ただ、生活や仕事で数学を使うだけの社会人になるのだから、こうした訓練は数学教育で重視されてしかるべきであろう。

文章題が描く事態は、現実そのものではないが、現実に近い具体性をもつ。現実や文章題が描く事態の中では、被乗数と乗数の数値が入れ替わると、意味が大きく違うことが、しばしば起こる。6000円の高級折り紙140セットを買うのと、140円の低級折り紙を6000セット買うのでは、意味が違う。1日3錠の薬を2週間分処方されたとき、かけ算は交換法則が成り立つという理由で、1日14錠3日で飲み干したら、健康に関わる。

長いすが7脚あり、各長いすに6人の子どもが座わるとき、座れる子どもの人数を問う文章題(冒頭画像参照)では、答えを求める式としては、次のようなものが考えられる。

a)6人(一つ分)×7脚(いくつ分)=42
b)7人(一つ分)×6脚(いくつ分)=42
c)7脚(いくつ分)×6人(一つ分)=42
d)7×6=42

a)は、一つ分といくつ分を正しく捉えている式である。b)は1つ分を7と解しており、文章題で与えられた事態には対応しておらず、誤りである(注1参照)。c)はどうかと言えば、a)と同じく1つ分を6と捉えているので、これも正しいと言える。

d)は、(一つ分)(いくつ分)が書き込まれていないが、これは文章を読まずに、かけ算の単元の問題だからという理由で、文章中の数値を、現れる順に拾って掛けた式だからである。九九を覚えてしまうと、低学年向けの単純なかけ算文章題は、このやり方で、簡単に解けてしまう。

このように解く児童は、一つ分もいくつ分も意識していない。当然、数値の意味も、付く単位も考えていない。文章解析力が未だ弱い低学年には、このようにかけ算の文章題を安直に解く児童が多く、これは、教師が演算を教えるうえで直面する主な問題点の1つとなっている。

この問題点は、他の国の児童にも見られる。放置しておくと、高学年になって、掛けることも割ることもある割合の文章題で、躓いてしまう。外国の質疑サイトで、「掛けるのか割るのか分からないから教えてくれ」と投稿者が質問しているスレッドが発見できる。文章題は、小学生にとって、国際的に見ても、鬼門なのである。

割合の文章題なら、a:b=c:1のような数的関係を把握した上で、未知の数値を求めるにはどうしたらよいかを考えるべきである。割る場合でも、割られる数と割る数を間違える例が、高学年で多発している。というのも、高学年で小数や分数のかけ算・割り算を習うと、それまでは使えていた「割られる数は割る数より大きい」というヒントが使えないからである。

かけ算の文章題でも、同様に、複数の同数グループという数的関係を、文章から抽出したうえで、かけ算が適用できると判断し、適用すべきなのである。言い換えれば、文章をよく読んで、文章中の数値の意味、つまり、どれが各グループの構成員数(一つ分)で、どれがグループの数(いくつ分)なのかを把握することが、児童には求められている。

昔と違い、算数では式には単位を付けないので、教師から見たとき、b)c)d)は、実際には、判別がつかない。かけ算の順序を設定していない場合は、どれを一つ分どれをいくつ分ととらえているかの情報が式にはなく、a)のように6×7でも、b)~d)のように7×6でも、間違いとすることはできない。確かにb)は誤りだが、解答欄には7×6としか書いておらず、b)かどうかはわからない。

a)6人(一つ分)×7脚(いくつ分)=42
b)7人(一つ分)×6脚(いくつ分)=42
c)7脚(いくつ分)×6人(一つ分)=42
d)7×6=42

外国では、児童が書く式について、一部の例外を除くと、順序はどちらでも構わないと考えて採点していることが多いようだ。英語圏の学習サイトやプリントサイトの模範解答では、何と、グループ数×各グループの構成員数という書式を無視して、文章中に現れる順で式が立てられている。


 (k5learning, multiplication, wordproblem, a1)

ところで、日本の算数教育では、教科書を見ると分かるが、昔から、一つ分×いくつ分、基準量×倍、単価×数量の順で式を表記する慣習がある。外国にも、このような表記慣習はあるが、英語圏では、日本とは逆に、いくつ分×一つ分の順の式が、多く見られる。



 ("Multiplication Strategies Anchor Chart", by HoppyTimes)

日本が外国と違うのは、順序が逆ということだけではない。日本では、上記の文章題問題に対する対策として、児童が文章題に答えるときも、一つ分×いくつ分の順序で式を書くことを求めている。

かけ算の式を、算数の表記慣習で書く約束にしておくと、正しい式はa)だけになる。というのも、正しく6を一つ分、7をいくつ分ととらえていて、かつ、一つ分×いくつ分の順で書かれた式は、a)だけからである。c)は一つ分といくつ分の把握では問題はないが、約束に反している、順序が違うから、バツになる。

a)6人(一つ分)×7脚(いくつ分)=42
b)7人(一つ分)×6脚(いくつ分)=42
c)7脚(いくつ分)×6人(一つ分)=42
d)7×6=42

b)1つ分を取り違えている児童、1つ分の数といくつ分の数をそれぞれいくつ分、一つ分と逆に理解している児童は、理論的には考えられても、実際には、いない(注1参照)。c)いくつ分×一つ分の逆順で書いている児童は、もしかしたら帰国子女のなかにいるかもしれないが、これも非常に少ない。いるのは、d)の、数字の意味を考えずに、文章中の数字を出てくる順に掛けている児童である。これが、まさに、先述の文章題問題なのである。

なぜd)の児童が多いと分かるのか。1枚の宿題プリントに、かけ算の文章題ばかりが5問載っているとする。そのなかの4問は、文章中に数値が現れる順序で、一つ分が先いくつ分が後の正順の文章題で、残りの1問だけは、文章でいくつ分が先に現れる逆順の文章題とする。この一問は、いわゆる引っ掛け文章題である。

すると、c)の児童は、式をいくつ分×一つ分の順で書くと思っているので、すべての設問で、いくつ分の数×一つ分の数の順に書いて、バツになるはずである。b)の児童は、もしトランプ配りでお菓子をもらう児童だとすると、同様に、すべての設問で、逆順でバツになる。この児童は一つ分×いくつ分の順序で式を書くが、一つ分の数といくつ分の数が、普通と逆だからである。だが、5問全滅のようなことは、滅多に起こらない。d)の児童だけは、文章中に現れる数値の順に式を書くので、1問だけ、つまり、逆順文章題だけがバツになる。ネットにアップされるのは、ほとんどが、このケースである。

いくつ分が先に現れる逆順文章題では、一つ分といくつ分を意識していないと、この現れる順序に誘導されて、式を7×6と書いてしまいがちなのである。それで、答え欄の答えは合っているのに、式がバツになる。この、現れる順序というのは、低学年の児童にとって、かなり大きな誘因になるようで、引き算でも、引く数が先に現れる文章題では、式が、引く数-引かれる数と、逆順になってしまう。一つ分といくつ分を意識しない児童は、一つ分が先に現れる正順文章題では、式に現れる順にやはり誘導されるが、結果として、式を一つ分×いくつ分の順序で書くので、式はバツにならないのである。

6と7をそれぞれ、一つ分といくつ分、各グループの構成員数とグループの数として意識している児童のみが、文章に現れる順に抗して、6×7と立式できる。このように、文章題問題に対する対策として、つまり、教育的な環境設定として、かけ算の順序という表記ルールを設定しているのである。このルールによって、かけ算が適用できる数的関係を意識しないでかけ算の問題を解こうとする児童を発見できる。式をバツにして書き直させることで、ひとつ分といくつ分を正しく把握させることが可能になるのである。これがかけ算の順序を設定する狙いである。

これは表記上のルールに過ぎないので、かけ算の可換性のような原理とレベルを異にし、したがって、可換性とは矛盾するようなものではない。この点を誤解している人は多い。中学で習う文字式で、3abのように、項の内部では、数字を前に、文字は後、文字どうしではabc順に書く表記上の慣習がある。中学の期末試験で、この順序を間違えると減点される。だが、もし、かけ算の順序の設定がかけ算の可換性に矛盾するとすれば、文字式の表記ルールも矛盾してしまうことになるが、自由派も他の人も、そうは考えない。なぜなのか。これは、文字式のルールが、まったく表記上のもの、形式的な規則にすぎないことが明白で、かつ、国際的なルールだからである。これに対して、かけ算の順序は、日本の算数教育固有のローカルルールで、保護者やネット民には共有されていない。これが誤解されやすい原因である。

誤解を誤解と認識できても、毎年のように、かけ算の順序をめぐって、ネットで大騒ぎになる。一つ分といくつ分を正しく把握しているかどうかのチェックに、かけ算の順序という表記慣用を使う、というのが間違っているのであろうか。逆順式にバツは、可換性の否定と受け取られやすく、日本の小学校では嘘でたらめが教えられているといった、間違った発言がなされる。毎年のように繰り返される誤解を回避するために、一つ分といくつ分を把握しているかのチェックの方法として、かけ算の順序を使わずに、文章題の立式では、一つ分に下線を引く、という新しいルールを導入してもよいかもしれない。児童が一つ分といくつ分の把握に問題がなくなったら、下線を引くのは辞めればよい。これは私の提案である。



※注1
実は、b)は、各長いすに座る6人の子どもたちに、A~Fの記号が書かれた札6枚を一枚ずつ渡せば、Aをもっている子どもは7人、それはB~Fについても言えて、札の種類はA~Fの6つある。同じ記号の札を持っている子どもどうしで、グループを考えるのである。こうすると、7×6という逆順式で、(一つ分)×(いくつ分)の順に従うことは、可能と言えば可能だと言える。数学が好きな人が好む解釈である。

トランプ配りと呼ばれる順番の座り方をした場合も、同様の解釈が可能になる。つまり、長いすに座るときに、まず、1人目は一番前の長いすの左端に1人が座り、次に、2人目は前から2番目の長いすの左端に座り、7人目が一番後ろの長いすの左端に座ったあと、今度はふたたび一番前に戻り、8人目が、左から2番目に座り、次に、9人目が前から2番目の長いすの左から2番目に座る。このような仕方で子どもが順次座っていく場合は、1巡で7人の児童が座る。子どもはみな、長いすの左端に座っている。2巡目でも7人。この子どもたちはみな左端から2番目に座っている。これを6巡目まで続ければ、全員が座れる。この場合は、1つ分が1巡の7人となり、6巡あるので、7(一つ分)×6(いくつ分)の式が成り立つ。

このように解することは、完全に可能であり、間違っていない。だが、しかし、低学年生にはまず思い浮かばない解釈だし、説明しても低学年生は理解できないであろう。空間的な近さやまとまりを無視して、ある観点で物事を分類し直すような、抽象的思考力は、低学年児童はまだもっていない。というより、小中での学校の勉強を通して、こういった能力を身に付けて行くのである。こういった解釈は、大人でも、言われないと気づかない。かけ算の順序論争でしか聞かない、かなり曲芸的な解釈である。

1971年に、大阪府の小学校で、子どもが逆順バツになった保護者が、トランプ配りの例を挙げて、バツの採点は誤りだと主張した。しかし、学校は「Kさんのような考え方は認めるが、現実に授業のなかでそういう考え方をするこどもはいなかった。6×4と式をたてた子に聞いてみると、文章題のなかで6という数字が先に出ているから、というにすぎなかった。」と述べている(朝日新聞 1972.1.26)。6という数字が先に出ているからそう式を書いたというのだから、これは、d)の児童である。現実問題として、逆順文章題で逆順式を書くのは、d)の児童に限られるのである。だから、2年生の教室では、上記の曲芸的な解釈は無視してよいと思われる。

ただし、教室に机が縦に6つ、横に7つ、縦にも横にも等間隔で整然と配列されているようなとき、つまり、アレイ図状に配置されているとき、机は全部でいくつあるのか、という問題では、児童にとって、縦列にも横列にも、一つ分をとることが容易である。グループの取り方は2つ(以上)あり、どちらも同程度に可能なので、次のどちらの式も可能である。

  6個/列(一つ分)×7列(いくつ分)=42
  7個/列(一つ分)×6列(いくつ分)=42

この場合は、式の順序を理由に、バツにすることはできない。同様に、7袋あって、どの袋にも梨、林檎、蜜柑、柿、バナナ、キウイ6種類の果物がそれぞれ1つずつ詰めてあるとき、全部の果物の数を求める問題でも、同じ袋に詰めてあることで作られているグループだけでなく、果物ごとにグループを作ることも、比較的容易で、高学年生だったらできるであろう。

また、各長いすに6人、そして長いすの数も6脚だとすると、式に単位・助数詞を付けない今のスタイルでは、式は6×6となるが、これでは、どちらが一つ分かが判断できないので、この場合も、逆順でバツは起こらない。


※注2
a)6人(一つ分)×7脚(いくつ分)=42
b)7人(一つ分)×6脚(いくつ分)=42
c)7脚(いくつ分)×6人(一つ分)=42
d)7×6=42
e)7(因数)×6(因数)=42

冒頭文章題に対する5番目の可能な式として、e)7(因数)×6(因数)という式が考えられる。数学がよくできる人たちは、このように理解していることが多いと思われる。因数×因数=積で定義されるかけ算は、中高で習うもので、因数分解の逆演算である。かけ算をこう理解する人たちにとって、7と6が対等の資格で集まって、42という積を構成している。×記号の前後は完全に対称的で、どちらが一つ分だとかいくつ分だとかはありえず、したがって、順序もありえない。

答え欄の答えには単位・助数詞を付ける、漢数字ではなく算用数字を使う、数字は10進法で表記する、分数の計算では答えは既約分数にする、といった表記上のルールは多数あるにもかかわらず、数学系の人たちがかけ算の表記ルールだけに「虐待だ」とか「強制だ」とか激しく反発し抵抗するのは、かけ算をこのように因数×因数で、つまり、直積的な意味で理解しているからであろう。一つ分×いくつ分で理解している人にとって、かけ算の順序は、形式を整える、自然な傾向に従うものである。

掛け算を直積の意味で理解する人たちは、文章を読んで、かけ算が適用できる状況だと直観すると、文章中に現れる順に、掛け合わせるべき数字を拾って掛け合わせ、その積42を求める。しかし、気づいたと思うが、これはd)ととてもよく似ている。

だから、自由派数学者は、一つ分といくつ分を意識せずに式を書いてバツをもらったd)の児童は、むしろ、「かけ算の本質を分かっているのだ」、「かけ算の可換性を知っているのだから、むしろ褒めてやるべきだ」と、主張する。「もし式にバツをつけたら、子どもが数学が嫌いになってしまう」と言うのである。しかし、これはd)をe)と勘違いしているために起きた誤解である。掛け算の意味を十分に理解していない児童が、掛け算ができると見なされる、という倒錯的な事態が生じてしまう。

掛け算の単元テストで、低学年生がe)の意味で式を書いていることは、想定されていないし、想定する必要はない。それは、低学年生がまだ学習していないものだし、低学年生にはまだ抽象的すぎる。数学系自由派は、自己自身の直積的な掛け算概念を、低学年の児童の脳に投影して、もし自分自身だったら掛け算の順序は思考の自由の著しい制限だ、と言っているにすぎない。一つ分×いくつ分で掛け算を学び始めた児童にとっては、それは、立式のためのよきガイドであっても、虐待や強制ではない。その問題は、小学生が解くために与えられているのであり、彼らに向けられた設問ではない。