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2025年10月5日日曜日

現代化以後の算数教科書における図形の包摂関係の扱い

 「正方形は長方形である」といった、三角形や四角形のあいだの包摂関係は、現代化の時代(1970年代)に、集合概念や、その関係を表す記号(⊂)やヴェン図を用いて、小学校で教えられた。


正方形が長方形の、正三角形が二等辺三角形の、長方形が平行四辺形の特殊な場合であることが教えられていたが、理解できない児童がかなりの割合でいた。

たとえば、読売小町の図形のトピにレスをした、赤熊(redbear)氏は、小4のときにクラスで勃発した、「長方形は平行四辺形である」問題について述懐している。そのとき、小学生の赤熊(redbear)氏だけは「長方形は平行四辺形だ」と主張したが、クラスの他の同級生はすべて、これに反対した、という。

翌日、その説明を考えてきた赤熊氏は、クラスでその理由を発表し、数学を専攻した教師によって、赤熊氏が正しいという裁定が下ったのだという。「長方形は平行四辺形である」と教えられていた現代化の時代なので、教師がそのような裁定を下したのは、当然である。私が注目したいのは、クラスで、赤熊氏以外の同級生たちが、それに同意しなかったことである。

現代化時代は、集合や位相などの、現代数学の抽象的な概念を採り入れられ、教える内容が形式化し、同時に、他の既存の学習項目が削られなかったために詰め込み主義ともなった。このため、算数の授業が理解できず、算数がきらにいなる児童が割合が増えた

このような過酷な現代化算数に対する反動と反省から、1980年代(ゆとり第1期)になると、基礎に帰ろうとする運動が鮮明になった。集合概念や記号やヴェン図は用いられなくなったが、しかし、図形の包摂関係については、教科書に「~は…の特別な場合である」などと、はっきり書かれていた。たとえば、「ひし形は、平行四辺形のうち、隣接2辺が等しい特別なもの」とされている。

そのことを納得させる方法として、東京書籍は、上の画像のように、色が違う合同な平行四辺形の形の紙をずらしていく直観的な方法を用いた。学校図書は同様に、長方形型の紙を封筒から少しずつ出して見せた。封筒から外に出た長さがその長方形の幅と同じになった瞬間に、長方形は正方形となる。


定義に訴える論理的な方法で納得させようとする、教育出版のような教科書もあった。

正三角形が二等辺三角形の、平行四辺形が台形の特別な場合であることは、次のような、巻末の穴埋め練習問題を通しても、教えられた。台形【のうち】、もう1組の対辺も平行であるという、条件が加わることで特殊化したものが、平行四辺形なのである。

だが、直観的な方法には、限界があった。というのも、長方形の紙を封筒から少しずつ出していく方法では、外に出た部分がちょうど正方形になる瞬間があるが、そのとき、それが依然としては長方形なのか、それとも、その瞬間だけ長方形をやめるのかが、不明である。

1990年代には、包摂関係は、直観的な仕方で示唆されることはあっても、「~は…の特別な場合である」という表現で、はっきり言われることがなくなった。

ただし、啓林館のように、平行四辺形を描くときに決める角度や長さの調整によっては、平行四辺形が、長方形やひし形になることを示す教科書はあった。学校図書も、平行四辺形を描かせる課題で、隣接2辺のあいだの角を90°にしたときの図形の名称を問うている。

2000年代(ゆとり第3期)は、東京書籍や日本文教を見るかぎり、示唆さえない。包摂関係は、まったく教えられていないようだ。

算数教育指導用語辞典(第3版)には、2000年代の教科書の規準となる「新学習指導要領(平成10年改訂)では,正方形と長方形とは別の形として指導するように決められ, 小学校では図形の包摂関係については取り扱われないことになった。」とある。

2010年代は、ゆとりに対する最初の反動であった。比の値や倍数、反比例、文字を使った式、場合の数などが、中学からふたたび戻ってきた。ただし、包摂関係は、わずかに示唆されるだけに留まっている。1990年代のレベルに戻ったと言える。

東京書籍は、1990年代の学校図書と同様に、平行四辺形を作図させる課題で、角度を90°にするとどんな四角形になるかを問うている。その答えは長方形であるが、その長方形が依然として平行四辺形なのか、それとも、もはやそうでないのかは、何も言われていない。だから、示唆に留まる。

また、学校図書にだけは、必修ではない発展的な学習項目のコラムとしてであるが、現代化時代と同じ(ただし、洗練されたデザインの)、四角形の包摂関係を表すヴェン図が載っている。だが、それについての説明は何もなく、本文との関係も不明である。2020年代も同様の図が載っている。

2020年代(現行)は、2010年代よりも、さらに、示唆が増えたように思われる。画像は、頂点を円の中心に、底辺両端を円周上に置く二等辺三角形について、中心角の設定によっては、正三角形になることが示唆されている。直観的な仕方でだが、包摂関係が示唆されている。


しかし、1990年代と同様に、「正三角形は二等辺三角形の特別な場合である」というような書き方をしていない。

現在、算数では、包摂関係は、明確には教えられていないのである。では、正方形と長方形、正三角形と二等辺三角形の関係が排反的だと積極的に教えられているかというと、そういうわけでもない。生活世界では、「今度買うこたつの形は正方形がいい?それとも長方形?」という言い回しに見られるように、排反的に図形が分類されている。児童は、学校で図形を習う以前から、生活言語の使用を通じて、そのような、素朴な図形分類に従っており、小学校の教育は、とくに、それに手を加えることはないのである。

三角形間、四角形間の包摂関係を理解するには、定義に従って概念的に考える能力が必要だが、小学生は概念的思考が発展途上で、図形を定義からよりも、視覚的イメージで捉えようとする。包摂関係は中2で教わるので、急いで無理に教える必要はないと思われる。

図形については、他にも小学校で学ぶことが多数あって、それをしっかり習得できるように、指導すべきであろう。小学校算数では、封筒などを用いた直観的な方法による、示唆に留まる指導で十分であると思う。


(2025/02/23のtwitterの連ツイに基づく)

2023年5月21日日曜日

算数に証明なし、算数に定義なし

A.算数に証明なし

証明は、中2で学ぶので、算数は証明は使わない。論理的思考が未発達な児童を前に、証明を行っても、無意味であろう。児童は、具体的な事物に即してしか思考できない具体的な操作期にある。そのような児童に、証明を教えようとしても、無理である。

証明の定義

証明がないなら、小学校では、児童に「どうしてそうなるのか」ということを理解をさせずに、天下り式に算数を教え込んでいるのかというと、そういうわけではない。具象的で直観的な仕方で、あるいは、帰納的な仕方で、納得させ、根拠づけている。

たとえば、二等辺三角形の底角が等しいことは、中2で証明されるべき最初の定理であるが、算数では、2等辺三角形の形の紙を、左右に半分に折って底角部分どうしを重ね合わせるという操作的で直観的な方法で、確認する。また、頂角と片方の底角が一致しないが、正三角形では一致することも、同じようにして、確かめる。

二等辺三角形の底角は等しい

また、三角形の内角の和が180°になることは、下の画像のように、紙で作った三角形の角の部分をハサミで切り離して、3つの角部分を、重なり合わないように頂点を合わせて放射状に配列すると、平ら(180°)になることにより、示している。

三角形の角を切り取って、頂点を集めて並べる

中学では、同じことを平行線の性質を使って証明する。小学校の段階では、証明はなく、上の画像のような直観的な例示によって、三角形の内角の和が180°になることを、納得させる。

平行線の定理を使って、三角形の内角の和を証明

算数では、三角形の面積が、〈底辺×高さ÷2〉で求められることを習うが、底辺を横、高さを縦とする長方形の面積の半分になることは、つまり、÷2となることは、画像のように、回してぴったり重ねる、という仕方で示される。このとき、回す部分が移動先と同じ面積であることは、方眼からわかる。

鈍角三角形の場合、頂点から下ろす垂線が底辺上ではなく、底辺の延長上に下りるために、別の説明が必要となる。しかし、この場合もやはり、「回してぴったり重ねる」という操作的・直観的手法で、長方形の面積の半分になることを示している。

空氏(Twitter @musorami)は塾で小学生に、無謀にも、三角形の求積公式が〈底辺×高さ÷2〉となることを、中点連結定理などを使い、証明して見せた(202/12/31 09:47AM)。これによって、「算数の先にある数学の面白さを「感じてもら」」った、という。

カリキュラムや発達心理学への配慮がまるでない空塾ならでは許されることであるが、空氏の自己満足になっていないかどうか、検証が必要である。

算数では、定義や定理から演繹的に定理を証明するようなことはしないが、しかし、帰納的に定理を裏付けることはする。たとえば、たし算の交換法則は小2で学ぶが、交換法則の証明は、もちろん行わない。交換法則の証明は、中学や高校でも行わない。

算数では、たし算の可換性を児童にどうわからせるのか。それは、さまざまな組み合わせの2数のたし算を、+記号の前後の数を入れ替えて筆算させることで、納得させている。つまり、たし算が可換であることを、帰納的に確かめさせているのである。

数学を学ぶことで論理的思考が養われるというのは間違いないが、それは主に、公理・公準や定義から、ある命題を演繹的に引き出す証明を行うせいであろう。これは算数には当てはまらない。


B.算数に定義なし

証明だけでなく、定義についても、それが何であるかは中学ではじめて習う。中学では、「用語や記号の意味をはっきり述べたもの」のように定義されている。難しい言い方をすると、定義とは概念の内包を言葉で明確にしたものである。

定義とは

たとえ、定義を与えても、定義が何であるか知らない小学生は、それを定義として受け取ることはない。たとえば、台形や倍数が何かということについての、なんらかの説明としては、理解するかもしれないが。

たしかに、「~を…といいます」というのは、定義を与えるときに使う言い回しで、算数の教科書にも使われているが、~の部分が定義だとしても、括弧付きの(定義)だと言うべき。というのも、定義としては、いろいろな点で不完全だからである。

第1に、算数教科書における(定義)は、単なる例示に留まっているか、かなり例示に依存した説明になっている。つまり、ちゃんとした定義になっていない。定義未満の(定義)である。

たとえば、次の「上の28のような数を、わり算の商と言います」という商の(定義)は、純粋に例示で、あまりに特殊。定義は当然、一般性をもたなければならない。

次のかけ算の(定義)も単なる例示になっている。ただ、かけ算については、これに先立って、いろいろ説明があるので、この箇所だけを取り上げるのは公平ではないが、「~を…といいます」という、形式上定義である部分に限ると、このようになっている。


角柱の(定義)であるが、ここには、「○サ、○シ、○ス、○セのような立体を角柱といいます」と書いてある。「立体」だと言われているが、かぎりなく例示に近く、児童による理解は、描かれた見取り図に依存している。絵と文が一体となって、その立体の(定義)となっている。

例示と説明が混じっている(定義)もある。たとえば、次の倍数の(定義)。「整数倍してできる数」とあって、単なる例示ではない。だが、この(定義)を文字通り受け取ると、7の倍数以外の倍数は倍数ではない、ということになってしまう。


第2に、算数における(定義)は操作的である。

たとえば、円は、中学数学では、「1点からの距離が一定である点の集まり」(東京書籍 数学3 2016年 p158)とされるが、算数では、「コンパスでかいたようなまるい形」となっている。円はコンパスを活用して描けるような図形なのである。


対称軸とは、教科書によると、ぴったりと重なるように二つ折りに折り合わせたときの折り目となる直線のこと。児童にもわかるように、折り紙を折るときの感覚に訴えているが、それだけに定義らしくない。


第3に、算数における(定義)は、定義としては、厳密さを欠き、日常的である。面積も広さのことだと書かれているが、これは日常語で言い換えただけである。「ながしかくのことを長方形と言います」と言っているようなものである。

算数におけるこのような(定義)の実態、単なる例示や方法の解説になっているような、未発達な(定義)は、しかしながら、児童の発達段階にふさわしいものとして、積極的に捉えるべきである。算数教科書では、児童の思考の発達や学習段階に応じた(定義)がなされている。

小学生は、まだ、小学生は概念語だけで論理的に考えることはできない。だから、算数における(定義)も、彼らが親しんでいる日常的な自然言語や、「折る」といった日常的な操作・動作、目に見える具体的なものに拠って、数学の言葉を導入するのである。


C.長方形の(定義)

数学では、長方形は「4つの角がすべて直角である四角形」、正方形は「4つの角がすべて直角で、4辺が等しい四角形」と定義される。短く言えば、長方形は等角四角形、正方形は等辺等角四角形である。この定義に従えば、正方形は等辺である長方形、つまり、特殊な正方形である。

内包が増えると外延は減る、という論理学の原則がある。正方形は、1)四辺性と2)等角性に加えて3)等辺性をもっている。正方形は1)と2)を満たすので、長方形だが、3)を備えることで、3)の等辺性を備えない長方形が排除されることで、外延が長方形よりも狭まる。ヴェン図では、正方形の集合を表す円は、長方形の円の内部に描かれる。

算数教科書に載っている長方形や正方形の(定義)について、黒元氏は、定義として正確だと言っているが(Twitter 2021/01/31 03:27PM)、それらの(定義)が本当に定義なのか疑わしい。

それとも、他の(定義)は定義未満だが、長方形や正方形の定義だけは立派な定義である、なんていうことがあるのだろうか。まず、「かど」という日常的な言葉を使っている点では、定義らしくない。それは定義ではなく(定義)にすぎないのではないか。

長方形については、「4つのかどがみんな直角になっている四角形」と書いてあるが、実は、「角がすべて直角である【が、隣り合う辺が異なる】四角形」という排反的な定義の、【 】内の細かい部分を小学生向けに省いた(定義)である可能性もないとは言えない。

実際のところ、その定義の脇に長方形の例として描かれているものは、すべて、縦と横の長さが異なる長方形なので、このような推測は的外れだということはないであろう。文章による説明と描かれた図形とが一体となって、長方形を(定義)している。

長方形の定義とその例示

だとしたら、ここから「正方形は長方形である」ことを導き出すことはできないであろう。もしそれが本当に定義だとすれば、そこからはそのような帰結が引き出せても、定義未満の単なる(定義)からは引き出せないのである。

算数教科書では、A)長方形の定義は包摂的なのに、B)いくつかのタイプの設問や言い回しから、「長方形」は排反的に理解されていて、そのあいだに矛盾があると言う者もいる。

その設問の代表は、描かれたさまざまな図形から長方形を記号で選ぶ設問。その模範解答には、正方形の記号は含まれていない。

また、縦横が同じ長さで高さが異なる直方体の面の形とその数を答える設問では、模範解答は、長方形が6つでそのうち2つが正方形なのではなく、長方形が4つ正方形が2つ、となっている。

直方体の面の形と数に関する設問

しかし、A)とB)のあいだには、本当は、矛盾はない。というのも、これまで見てきたように、A)で言われている「定義」は実は、定義ではなく、(定義)にすぎないからである。かりに定義であるとしても、小学生のほとんどは、そこから「正方形は長方形である」、「正方形は長方形の特殊な場合である」という、正方形と長方形の包摂関係を引き出せないであろう。

現代化の時代(1970年代)には、小学生に、集合概念やヴェン図を用いて、図形の包摂関係が教えられた。長方形の(定義)は現在と同じである。しかし、ほとんどの児童はその包摂関係を理解できなかった。

というのも、小学生はまだ、定義から論理的に推論する論理的思考力が発展途上だからである。小学生は、図形を多分に、視覚的イメージや日常的自然言語で把握しようとする。児童は(定義)よりも、教科書の長方形の(定義)文の脇に描かれた図形を手がかりに、長方形を把握している。

長方形の定義とその例示

イメージとしては、正方形と長方形は、かどが直角で似たところもあるが、一方は長いが他方は長くないといった異なるところもある、2つの異なる四角形である。日常語でも「インスタの写真は正方形がいい?それとも長方形?」のように言われ、両者は排反的。排反的ではあるが、論理的に排反としてはっきり規定されているのではなく、前論理的に排反的なのである。

論理的な包摂関係の理解は、小学生に一般に難しいので、論理的な思考が発達する中学生になってはじめてその関係は教えられている。現在の小学校では、教えられていないので、小学生は視覚的イメージや日常言語の用法に従って、両者の関係を前論理的な仕方で、排反的に考えている。

そして、教科書の記述や設問も、それを前提として作られているのである。算数教科書では、「正方形は長方形である」とも、「正方形は長方形ではない」とも、はっきり、書かれていない。ただ、その表現や設問において、前論理的な排反性が暗に前提とされていると読み取れるだけである。










2022年3月26日土曜日

猫が動物であるように、正方形は長方形である?

 「正方形は長方形だ、とか立方体は直方体だ、となぜ教えないのかと言うと、小学生には難しいという先生は、猿も人間も動物だとか、日本人はアジア人だとか色々困らないのか認識できてないだけなのか #小一時間ほど問い詰めたい。」(Twitter 月光氏 2014/10/28 11:35AM)

小学生は、猫が動物であること、きゅうりが野菜であること、カツカレーがカレーであること、はわかるのだから、「正方形が長方形である」こと、「正方形が特殊な長方形である」ことも理解できるはず。児童は一般の包摂関係がわかるので、【図形の】包摂関係も理解できるはず、である。


A)図形の包摂関係の困難さ

そのはずなのに、実際には、【図形の】包摂関係の理解は、小学生には、不可能でないとしても、とても難しいことが知られている。図形の包摂的理解とは、具体的には、「正方形が長方形である」こと、「正方形が長方形の特殊な場合である」こと、「正方形の集合が長方形の集合の部分集合である」こと、の理解である。

現代化算数の時代(1970年代)には、図形の包摂関係がヴェン図を使って積極的に教えられたが、理解できた子も少数いたものの、ほとんどの児童が理解できなかった。当時の小学校のあるクラスでは、長方形は平行四辺形かの論争が勃発、平行四辺形だと主張した1人が、クラスの他の全員から集中砲火を浴びた(注1)。


当時の調査では(注2)、現代化当時の小6は、その学習を終えているはずだが、包摂関係の理解を試す問いに正しく答えられた児童の割合はとても低かった。学年が上がるほど、正答率は高くなっていくが、中3になっても、正答率は39%に留まっていた、という(p.59)。小中学生の思考の発達を無視して無理に教えようとしても、うまくいかないのである。このため、現在の日本では、図形の包摂関係は、中2数学の証明の単元で教えられていて、算数では教えられていない。

小学生の、図形の包摂関係の理解に問題があることは、日本だけでなく、外国でも知られている。次の引用で、「四角形の階層的分類 (a hierarchical classification of quadrilaterals)」というのは、長方形や正方形を包摂的に定義することを意味する。

「多くの国際的な研究が示してきたのは、「多数の学習者が、四角形の階層的分類やそれと関係する図形の定義の問題に納得しない」ことである。とくに明白なのは、「学習者がしばしば、図形の形式的な定義に手こずっていること、さらには、彼らの幾何学的な推論は、しばしば、彼らの心的な図形イメージにかなり影響されていること」である。たとえば、モナガン(2000)の報告によると、イギリスの11歳の児童は、正方形が長方形であることを認めようとしない。」(注3)

歴史的にも心理学的にも示されてきたこうした困難にもかかわらず、一部の人たちは、「小学生は図形の包摂関係を難なく理解できるので、小学校から包摂関係を教えるべきだ」と主張する。彼らは、今の小学校では、包摂関係は教えられていないにもかかわらず、「正方形は長方形ではない」と教えられていると言い、因果関係の調査もせずに、中高数学における包摂関係指導上の困難の原因を、小学校の教育の仕方に帰している。

彼らは、指導・学習ですべてが決まる、と考え、発達ということを無視している。だが、国によって、図形の教え方は違うのに、世界中の児童や生徒が、包摂的定義の理解に困難を抱えているというのだから、図形の包摂性の理解の困難さは、むしろ、論理的思考の発達の段階に起因する、かなり普遍的なものだ、と考えるべきなのである。

たしかに、先に言及した現代化時代の調査によると、包摂関係の理解は、中1と証明を学ぶ中2とのあいだに、相対的に著しい差がある、ということだが、これは、学習が図形の包摂理解に役立つ、ということを示唆する。証明の学習がなかったら、包摂関係の理解はほとんど進まないであろう。学習が包摂関係の理解をより容易にするのである。包摂関係の理解が発達段階から一方的に決まるのではなく、学習と発達は互いに他を制約し促進するのである。


B)定義に基づく論理的思考

図形の包摂関係が児童に難しいのは、それを理解するには、猫やきゅうりやカツカレーのような具体物と違い、定義から論理的に推論する思考力が必要だからである。ところが、児童にはまだ、その力が十分でない。証明では、定義や公理公準から演繹的に推論する論理的思考力を使う。中2での証明の学習が、図形の包摂的な関係の理解を促すのだとしたら、それは、証明の学習が論理的思考力を高めるからにほかならない。

現代では、算数教科書も含め、長方形は包摂的に定義されている。すなわち、簡潔に表現すれば、長方形は等角四角形、正方形は等辺等角四角形なのである。一般に、概念の内包が多いほど、その外延は狭い。この2つの図形に共通する属性は、等角性と四辺性である。正方形の定義には、これらに加えて、等辺性が加わっている。正方形は、長方形より1つだけ性質が多く、その分、長方形より範囲が狭い。


集合で言い換えると、次のようになる。長方形の集合は、1)四角形の集合と、2)等角なものの集合と、の交わりである。正方形の集合は、1)四角形の集合と、2)等角形の集合と3)等辺形(ひし形や正方形など)の交わりである。1)と2)の重複部分(長方形)のうち、さらに3)が重複する部分が、正方形の集合である。だから、正方形の集合は長方形の集合の部分集合である。

そのかぎりでは、「猫が動物である」というのと同じ意味で、「正方形は長方形である」と言える。長方形の集合の要素はすべて長方形であり、正方形がその部分集合なら、正方形の集合の要素もすべて、長方形であると言える。正方形は特殊な長方形、等辺であるような長方形なのである。これは、猫の集合の要素が、この集合が動物の集合の部分集合であるなら、すべて動物であるのと同じである。

しかし、これは長方形を包摂的に定義した場合に言えることであり、ユークリッド風に「非等辺な等角四角形」と排反的に定義したら、正方形は長方形ではない。次の引用はルジャンドルのものからだが、ここでは、長方形は「角は直角だが、辺は等しくない」と定義されている。正方形の集合と長方形の集合は、どちらも四角形の集合の部分集合だが、両者の交わり(論理積)は空である。四角形の集合のなかで、長方形と正方形は、重複分がない集合として表される。

長方形と正方形の関係は、長方形を包摂的に定義すれば包摂的、排反的に定義すれば排反的である。つまり、正方形と長方形の関係が包摂的であるかどうか、正方形は長方形であるのかそうでないのか、という問題は、定義次第なのである。だから、「正方形は長方形である」は、けっして自明な数学的真理ではない。それは、包摂的な定義が現代では支配的であること、いわば定義の政治学、を前提としてはじめて成り立つ命題なのである。


C)前論理的な理解

だが、図形を学習する者が、その定義から推論する論理的な能力を、まだもたないとしたら、どうであろうか。当然、包摂的な定義から正方形と長方形の包摂関係を引き出すことも、排反的な定義から両者の排反的な関係を引き出すことも、できない。では、両者の関係について、小学生は何も考えていないかというと、そういうわけではない。というのも、人は論理的な思考を始まるまえに、いつもすでに、前論理的で素朴な生活世界に生きているからである。

児童は、論理的な思考力が未発達なので、図形を定義や概念からではなく、視覚的なイメージで把握しようとする。視覚イメージで考える児童にとって、長方形は、縦横の長さが異なる典型的な長方形(prototype)なので、正方形との関係は排反的(exclusive)である。子どもが生きる前論理的で素朴な直感的な世界では、正方形は長方形とともに四角形の仲間であり、しかも、角が直角なので、長方形の兄弟のようである。

ただし、この排反関係は素朴なもので、まだ論理的ではない。「インスタの写真は正方形にする、それとも長方形?」のような、大人も日常使うような自然言語の用法でも、正方形は長方形ではない。自然言語のこの用法は、生来的なイメージにもとづくものであろうが、視覚イメージにおける素朴な排反関係を強化する。

児童は、算数で正方形と長方形を学ぶ前に、素朴な理解のなかに生きている。この素朴な排反的理解を修正するのは中学数学で、算数ではない。

長方形であるものを図から記号で選ぶ設問で、正方形の記号を模範解答に含まされていない(または、解答欄が正方形ではない長方形の分しか用意されていない)のは、このような素朴な理解を前提としているから。この設問は、素朴な排反関係を追認し、利用して、児童が図形の名称を正しく覚えているか、正方形と長方形を逆にして覚えていないか、をチェックするもの。長方形と正方形の関係が包摂的か排反的か、のような難しいことを教えようとしているのではない。この設問の存在をもって、算数で「正方形は長方形ではない」と教えられている、とするのは、無理筋であろう。

縦も横も2cmで高さが6cmの直方体の面は、長方形がいくつ(4つ)、正方形がいくつ(2つ)?という設問も、同様である。模範解答は、「長方形が4つ、正方形が2つ」であり、「長方形が6つ、そのうち2つが正方形」なのではない。


「正方形の折り紙を2回折って、正方形と長方形どちらも2つずつを作るには、どのように折り紙を折ればよいか」という問題では、両対辺の中点どうしを結ぶ折り方だと、正方形が4つできてしまうので、中点からずれたところで折らないといけない。

小学校教員は、このような設問によって、排反的な関係を教え【込】もうとしているわけでは、けっしてない。ただ、図形の名称や直方体の特徴を教えようとしているのであり、その際、視覚イメージと日常言語の用法を容認し、使っているだけである。もし、教え【込】もうとしているなら、教科書にはっきりと「正方形は長方形ではない」と書けばよいし、定義も排反的な定義にすればよい。「次の2つのヴェン図のうち、正しいのはどちら?」という設問を作って、2つの集合が重なり合わない関係(排反的関係)を表したものを、正解とすればよい。


D)具体物の包摂関係

図形の包摂的理解が難しいのに、猫やきゅうりやカレーの包摂関係が比較的容易なのは、なぜなのか。それは、図形とは違い、猫が動物であることは、猫と動物の定義を知らなくても、猫の形や動作・しぐさ、出産などの生態などから、動物(けもの)であることが、児童にもわかるから、である。それは、外見の類似性に基づくかなり素朴で皮相で直感的な包摂性の理解なので、クジラを魚類だと誤認することも招いてしまう。エラがなく肺があるといった解剖学的知識や、出産して子どもを乳で育てるとかの生殖について知識を学ぶことで、この素朴な分類は、より学術的な分類に修正される。

猫やきゅうり、カレーは、無数のさまざまな性質をもつ自然物や人為物である。これらは決定的な仕方で定義するのが、不可能でないとしても、難しい。それがもっている多数の属性のうちどの属性に注目するか(重視するか)により、さまざまな定義と分類が可能になる。

これに対して、図形は、目に見える形をもっているという点では具体的であるが、定義的には、2~3の性質から構成された、かなり抽象的な存在である。児童は、定義のようなものが教科書に書かれていても、それをほとんど無視して、視覚的に把握される形だけに注目し、正方形と長方形を排反的に分類するのである。

しかし、前論理的な理解は、何層にも積み上げられた包摂関係の階層を抱擁する能力はないかもしれないが、何でも排反的とするではなく、一定限度で包摂関係も容認できる。長方形と四角形の関係は、論理的にだけではなく、前論理的にも、包摂的である。視覚的イメージとしては、未就学児の目にも、正方形や長方形、台形などは、二等辺三角形や正三角形などとは区別された、同じ四角形の仲間に見える。

だが、それは素朴で前論理的な関係であるゆえに、論理的な包摂関係のように、上位概念と下位概念は明確に区別されて整理されていない。長方形の集合が四角形の集合の部分集合としてとらえられているというよりは、「長方形は四角形の仲間である」という表現のほうが、よく事態を表している。


このような理由から、「児童は、猫が動物であることを容易に理解できるのだから、正方形が長方形であることも容易に理解できるはず」というのは、間違っている。


注1 読売新聞発言小町「小学校 正方形が長方形でないのはなぜ?(駄) 」 redbear 2014/11/15 20:31


注2 小林敢治郎「図形の包摂関係の指導――包摂関係を適用する能力の実態把握を中心にして――」『日本数学教育学会誌』

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsme/59/4/59_10/_pdf/-char/en

「この包摂関係を理解するのはなかなか大変なようで,例えばある調査では,中学校二年,三年生の約半数の生徒が,平行四辺形と長方形を別のものだと認識しているようです」(国宗進「図形の豊かなイメージを育てよう」blogs.yahoo.co.jp/taroinuk/38047565.html リンク切れ)


注3 T.Fujita and K. Jones, ,”Leaner’s Understanding of the Difinitions and Hierarchical Classification of Quadrilaterals: Towords a Theoretical Framing, in: Research Mathematics Education, 9 (1&2), pp. 3-20. 2007; p.4.


(Twitter @flute23432 2022/03/11 00:42AM, 0:59AM などに基づく)

2018年10月27日土曜日

「超算数」批判に対する反駁

ツイッターで、黒木氏や定数氏らが、「超算数」と名づけて、小学校の算数教育を批判している。批判の対象となったのは、次のようなものである。

かけ算の構造としての一つ分×いくつ分(被乗数×乗数)
文章題立式時のかけ算の式の順序
ゼロを含まない倍数概念
足し算での合併・増加
引き算での求残・求差
わり算での等分除・包含除
文章題の式欄・答欄
公式を使った説明や公式に従った立式
さくらんぼ計算
二重数直線図の使用
場面の翻訳としての式
など

〈かけ算の順序〉教育はその中核であるが、これは、彼らによると、超算数と彼らが呼ぶ問題群の全体から見ると、氷山の一角にすぎない。

さらに昂ずると、彼らの批判は「馬鹿」「クズ」という罵詈雑言が飛び交う非難とヘイトツイートに転化し、「小学校がトンデモ化している」、「数学ができない小学校教師が、算数教育の権威たちに植え込まれた嘘を、子どもたちに教えている」、「子どもたちを避難させないと危ない」といった、あらぬ方向に議論が暴走してしまう。ネットではこのようなことが起こりやすいが、すでにネットでのこうした議論を保護者が信じてしまい、学校と教師への信頼を失い、子どもが基本的な事柄を学び損ない、学年が進んで算数が分からなくなって不登校になる、などの弊害が起き始めている。

だが、騙されてはならない。こういった批判に根拠らしい根拠はない。彼らの批判は、多くは、高等数学で学ぶような概念や定義を、初等中等の数学教育にそのまま無思慮に持ちこむことで起きる誤解に発している。だが、初等中等の数学教育は、単に低レベルの数学なのではなく、同時に教育でもある。彼らにはこのことが理解できない。自分たちが知らない、算数教育固有の概念、古い数学の概念に出会うと、ただそれだけで、彼らはいかがわしいと思うらしいのである。


1) かけ算の説明に出てくる一つ分といくつ分だが、アレイ図を使えば(使わなくても、各皿のリンゴにa, b, c, d..と記号が書かれたラベルを貼れば)、一つ分はいくつ分と、いくつ分は一つ分といつでも解釈できるので、そのような概念や区別は無意味である。


 ― そのとらえ方を進めていくと、直積(Cartesian product)としてかけ算に行き着くが、直積は小学生には理解が難しい。これに対して、複数の同数グループ(equal groups)は、教室での配布物配布や班編成を例に使えるなど、小学生には一番分かり易いかけ算モデルである。同数グループタイプの文章題は正答率がとても高いが、直積タイプの文章題はとても低い。

各皿に4つずつとあれば、物理的近接性に基づいて1まとまりを4つとするのが自然な解釈で、トランプ配りやラベルを貼って、いくつ分を一つ分、いくつ分を一つ分とすることは、掛け順論争に参加してでもいない限り、大人でも思いつかない、かなりうがった解釈である。かけ算を学ぶ小2が自発的に思いつくものではない。

たしかに、教科書でも交換法則の説明に使われるアレイ図は、コマが縦横等間隔に並んでいるので、縦にも横にも列をとることができる。しかし、その場合でも、一つ分×いくつ分の枠組みは保持されるのである。つまり、縦の列でグループを作ると、それが横に4列あるので3×4,横に列を作ると、1列が4つで、列は3列あるので、4×3である。直積主義のように、グループを作らずに、縦と横の個数から直接、総数を求める、というところまでは行かない。




2) かけ算文章題の式を一定の順序(一つ分×いくつ分)で書くことを求め、もし逆順で書くとバツにして、掛け算の交換法則(可換性)を否定している。これは嘘を教えることで、悪い影響を残す。

 ― 1つ分といくつ分をそれぞれ押さえているかどうかチェックのために、書式として順序を固定しているだけで、この固定はかけ算の可換性を否定するものではない。

数量欄左、単価欄右の見積書を採用する会社で、新入社員が数量欄に単価を、単価欄に数量を入れたミスを上司が訂正させても、かけ算の可換性という数学的な原理を否定しているとか、かけ算は非可換であると社員に嘘を教えている、とは言えないが、それと同じである。

また、かけ算の順序に従って式を書くことは、基本的に、文章題の立式でのみ求められ、計算問題や、文章題の立式の語の計算(筆算など)は、求められない。

かけ算の可換性は、小学校では、繰り返し(小2,小3,小4で)教えられている。国際的なテストTIMSSで、加乗の可換性、減除の非可換性の理解を問う設問では、日本の中学生は比較上位で、かけ算の順序教育が、かけ算の可換性の理解を妨げる、とするのは、間違い。



3) 文章題では、与えられた数値だけを用いて立式することが求められ、文章中にない数値を用いると式がバツにされる。与えられた文章には25%とあるのに、式で÷4と書けば、バツになってしまう。むしろ、そのように言い換えられる児童のほうが、割合を理解できている。

 ― 小学生はまさに立式の仕方を学んでいるのであり、文章題からどのように、答えを求める式をどう立てたのかを、教師に診てもらう必要がある。そのためにも、文章題の数値を使って、文章題文章と式とのつながりを示すことが求められるのである。

ただ、これは原則であり、1ダース→鉛筆12本、テントウ虫の足→6本、5割→0.5などは、単位や生物、割合表現についての基本的知識から、計算に必要な数字を引き出す必要がある。

25%を÷4とするとバツになるのは、その文章題が、授業で習った、基にする量×割合=比べられる量の公式を使って答える設問であった、そしてまた、同時に、百分率を正しく小数に変換できるか、ということが問われていた可能性が高い。


4) 足し算には合併と増加があるとして両者をブロックの操作で区別させているが、同じ足し算であり、区別は無意味。区別するのは数学の抽象性を否定するもの。

 ― 足し算の意味は、足し算が適用できる体験可能な、具体的な状況や操作からはじめて理解される。数字や演算などの理解には、その生活世界的な意味基盤として、体験的な状況や行為への関係づけが不可欠である。このことの理解が、超算数批判論者には欠けている。

その状況や操作の基本的な類型が合併と増加である。合併は金魚がいない水槽に、左から2匹、右から3匹の金魚を同時に入れること、増加は、すでに2匹いる水槽に、金魚3匹を追加することである。

もちろん、小学生はこの2つの状況に、どちらも足し算が適用できることを学ぶ。もし、合併しか習わないなら、3年生になって、手持ちの530円に、今月のお小遣い800円もらったという、増加の状況で、足し算が使えるのかどうかがわからない。

引き算の求残と求差も同様である。ただし、合併と増加に比べて、求残と求差では意味の隔たりが大きく、求残で引き算を学び始めた児童は、どうして求差に引き算が適用できるのか、わからない。こういった困難はあるが、多くの児童はこの困難を乗り越えて、どちらの状況・操作タイプにも引き算が適用できることを理解するようになる。


5) 同じわり算なのに、等分除と包含除の2種のわり算があるかのように言っている。

 ― 超算数批判論者は、一つ分/いくつ分の区別を認めないので、一つ分を求めるわり算(等分除)といくつ分を求めるわり算(包含除)の区別も、理解できない。1)を参照のこと。


6) 算数教科書ではでは、倍数からゼロを除外しているが、これは「ゼロはすべての数の倍数」という常識に反する。

 ― 「ゼロはすべての数の倍数」は確かに高校で学ぶが、常識とは言えない。倍数や約数、自然数、素数など、ゼロや負の数を知らなかった古代ギリシアの数論の伝統に由来する諸概念には、多くの場合、ゼロや含める定義と、正の整数内で考えてゼロを含めない伝統的な定義があり、算数は含めない定義を採用している。定義が違うだけ。含めない定義でも、十分に実用的である。


7) 正方形を、特殊な長方形ではなく、長方形とは別の図形として教えている。

 ― 両者の包摂関係は、現代化算数の時代に教えられたが、多くの小学生がこれを理解できず、教育現場に大混乱を来した。だから、現在では、その関係はあえて教えられていない。

描かれた図形から長方形を選ぶ設問は、その名称の図形の(教科書に例示されているような)典型的な形を選ぶもので、包摂関係を前提としていない。したがって、包摂関係を否定してもいない。

算数では、正方形の面積の公式を、長方形の面積の公式とは別に学ぶが、これも、長方形の特殊な場合である正方形専用の公式を学んでいると見なせば、包摂関係を否定している、とは言えない。布は汎用のハサミでも切れるが、布バサミのほうが切りやすい、というのと同じ。


8) 繰り上がりがある1位数どうしの足し算は、さくらんぼ計算なくても答えは出せる。

 ― さくらんぼ計算を行った答案は、式の周辺に数字や線が書かれているので、確かに、大人には、異様に、そして複雑怪奇に見え、もっと簡単にできないものかと感じられるが、これは、大人が足し算九九をマスターしていて、すぐに答えが出せるからである。公文や珠算に通っている児童は、答えがすぐに出せるので、さくらんぼの描き方を覚える動機がない。

だが、さくらんぼ計算で、10のまとまりができると1つ上の位が1つ増える10進法の位取記数法の仕組みを理解することができる。足し算九九をマスターしている子も、今一度、原則に立ち戻る価値がある。

8+5 =8+(2+3) =(8+2)+3 =10+3 =13




9) 文章題の解答欄に式欄が答欄とは別に設けられ、教えられた方法に従う式でないとバツにされる。数学では、同じ問題にも解き方が複数ある。教えられた以外の解法を使った解答にバツをするのは、新しい解法を発見するという数学の醍醐味を否定するもの。

 ― 小学生はまさに、はじめて四則演算の立式の仕方を学んでいる最中で、同じ問題をさまざまな仕方で解決できる方法を提案したり発想したりする段階にはまだない。だから、教わった立式の仕方が習得できているかどうか、教師が診る必要があるので、式は答えとは独立に、採点・評価の対象となっている。文章題での式欄と答欄の用意は、フランス語圏やドイツ語圏でも見られる。それに、式を書くことで、答えが間違った理由が、単なる計算ミスなのか、それとも、割る数と割られる数を取り違えているためなのかがわかり、いわば診断結果を治療に生かすことができる。

単元テストのように、授業の一環として実施される確認・達成度テストでは、しばしば、教えた解法が習得できているかどうかをチェックするのが目的である。だから、教えたのとは別の方法で書いてバツになったり減点されたりする、ということが起きる。

だが、これは、けっして、他の解法が存在しない、ということではない。かけ算を学ぶ小2は、それが足し算でも電卓でもできることを知っているが、かけ算の文章題で、足し算の式を書けば、やはり、バツにされて、式の書き直しとなる。


10) 学校の算数は、割合や速さなどを公式を使って説明しており、公式暗記主義に陥っている。

 ― 教科書を見れば分かるように、なぜそのような公式になるのか(なぜ三角形の求積では2で割るのか、など)の理由・背景も、小学生は学んでいる。単なる公式暗記主義では公式は使いこなせない。このことを留意の上、学習事項のエッセンスを表す公式の暗記は肯定されるべき。
(東京書籍教科書5下, 2014, p.36より)


11) 割合や速さがくもわ図やみはじ図を用いて教えられている。くもわ図やみはじ図の使用は、思考せずに、機械的に正しい答えを出せる安直な方法である。

 ― これは事実誤認である。たしかに、使う小学校教師もいるようだが、メインにはなっていない。小学校の算数教科書や、ネットで見つかるPDFの指導案には、そのようなものは載っていない。メインは二重数直線図である。

それに、くもわ図やみはじ図で機械的に解決できる、割合や速さの文章題は、かなり単純なパターンのものに限られるのではないか。


12) 割合の問題に、児童は、理解を阻害する二重数直線図の描き方のようなつまらないこともまで学習し、それができるかどうかで評価される。

 ― 割合の文章題に含まれた、a:b=c:1という、2つの比とその対応関係を線の長さの割合などで視覚化する点で、二重数直線図はとても優れている。教師が二重数直線図を黒板に描くだけでなく、児童も書くように指導するのであれば、その描き方も学ぶことになる。確認テストでは、それが教えられたように描けるかどうかがチェックされる、ということは出てくる。もちろん、慣れてくれば描かなくて済むようになるが。


13) 21÷7の答えを求めるときに使う九九の段を尋ねる、単元テストの設問では、答えは割る数である7の段だというのだが、7×3を思い浮かべようが3×7を想起しようが、自由だ。

 ― 小3になるとわり算を習いはじめる。わり算の単元の最初のほうで、簡単なわり算の答えは、九九の割る数の段を使って(走査して)答えを見つける、と習う。21÷7は、7×1=7, 7×2=14, .. と、割る数7の段を走査して、答えが割られる数の21になったところで止まる(7×3=21)。その際の乗数3が答え。使った九九の段は、三の段である。

ドリルや単元テストには、次のわり算はどの段を使って答えを求めますか、という設問がある。この設問は、教科書・授業のこの教え方を前提とし、それを習得できているかどうかチェックするものである。

どの単独の九九を「想起」するのか、などとは尋ねていない。



14) 等号は両辺の式や数の大きさの等しさを表す記号なのに、算数では、計算結果を導く記号として用いている。

 ― 低学年生は、等号を、結果を導く記号と理解する傾向があるが、これは教え方に依存しないようで、外国でも見られ、そのような等号理解は、操作的(operational)と呼ばれる。両辺の同時的等量性の理解、つまり、関係的(relatinal)な理解は、大人が思うほど児童には簡単ではなく、一気にたどりつけるものではない。代数学を学びはじめる中学においてはじめて完成する。実際、等式の性質とそれを活用した方程式の学習は、中1で学ぶ事項である。


15) 式を、場面の翻訳するものと考えるのは、数式の抽象性を誤るものである。4×3と書いただけでは、4個ずつが3つなのか、3個ずつが4つなのかは、わからない。

 ― 文章題で式を立てることは、自然言語から数式を抽出することである。翻訳は、自然言語どうしで行うものなので、「翻訳」の比喩は、確かに、不適切である。

計算ができるのに文章題ができない児童は多い。文章題ができないということは、学んだ数学を生活や仕事に活用できない、ということである。そこで、算数では、文章題と式との対応関係が重視される。小学生は、文章題の文章から、どのように、複数の同数グループのような数的関係を引き出して、それに基づいて式を立てるのかを学ぶとともに、逆に、想像力を使って、式から文章題を作る、ということもやらされる。

文章題と式の対応を学んでているというこの状況では、初学者がつまずかないように、文章の表現を限定したり、式のヴァリエーションを制限したり、かけ算の順序を固定したりするなど、単純化やパターン化、制限などが必要となる。これが、抽象的な式が文章と1対1に対応すると見なされている、と誤解されやすい背景である。


16) 児童たちは、AIがなかった時代のロボットのように、思考せずに機械的なパターンマッチングで問題を解かされている。

 ― 授業参観を一度でもすれば、授業・学習が、整然粛々とした機械的な作業の連続ではなく、児童のトンデモ発言や、試行錯誤、混迷、気晴らし、うまく解決できた喜び、消しゴムの落下、などに満ちていることが分かる。


17) 3.9+5.1=9.0の筆算で、9.0のゼロを斜線を引いて抹消させるのは、有効数字を否定するもの

 ― 算数数学で使われる数値は、多くは、測定値ではなく厳密値であり、もともと有効数字が適用できるようなものではない。それに、小数の足し算の筆算は3年生で学ぶが、数値の精度を桁で表す有効数字の学習は中1になってからはじめて学ぶ。

(単元テスト 正進3年11.小数)

抹消していないとバツにされた採点答案は、小学校で9と9.0が等しくないと教えられていることを示しているように見える。だが、事態はむしろ逆で、小数9.0が既習の整数9と等しいことが分かる子だけが、.0を抹消できるのである。

ここには、単に小数の足し算の筆算だけでなく、小数点以下が0しかない小数は整数と見なせるという、小数と整数の関係の学習も、含まれていると考えるべき。分数の計算で、答えを既約分数にしなければならない、というのも、単に分数の計算だけでなく、約分の練習を含んでいるからである。


18) 超算数は、日本の算数教育の権威が、教師たちに布教しているトンデモ理論である。

 ― 「超算数」には、日本独自のもの(かけ算の順序)もあるが、ゼロなし倍数、合併・増加、図形の包摂関係の省略、みはじ図・くもわ図、一つ分/いくつ分、等分除/包含除、答えを導く等号、文章題との式欄/解答欄など、日本の専門家の権威が及ぶと考えにくい外国の数学教育でも、見られるのである。

次の2つの画像にうち、上は、みはじ図の英語版である。みはじ図と違い、形が円ではなく2等辺三角形になっている点は異なる。下の図は、アメリカの算数自習書SaxonMathからの引用である。偶数はゼロを含むが、倍数はゼロを含まない(ある数の倍数は、一倍であるその数そのものから始まる)。

(h3maths.edublogs.org, 2013/06/27)



(twitterに2018/10/17に投稿したツイートに基づく。)

2018年2月16日金曜日

正方形は長方形でない? ― 現代化算数の失敗と亡霊

New Math運動の失敗

1957年にソ連が世界初の人工衛星を飛ばすことに成功すると、米国には激震が走った。スプートニックショックと呼ばれる出来事である。科学技術において米国は最も先進的だという信念が、崩れ去ることになったのである。当時の米国の数学教育が旧態依然であったことは、米国がソ連に追い越された原因の1つと見なされ、1960年代、New Math運動と呼ばれる、数学教育の「改革」運動が起きた。現代の数学の発展を受けて、数学教育を現代化しようという運動であった。

現代化の時代、小中学校の数学では、集合概念や、写像としての関数、位相幾何、公理主義化された代数が教えられた。集合論や公理主義は、単に、新しい単元として加えられたのではなく、数学の基礎、枠組みとして、採用されたのである。New Math運動の主要な担い手の1つであったSMSG (School Mathematics Study Group)の教科書を見ると、小1から、数や足し算が集合で定義されている。その初っ端が集合概念の導入である。果物の集合(set)には、リンゴの集合やナシの集合など、部分集合(sebset)がいくつもある。リンゴの構成員(members)の数は5である。つまり、数は集合の要素の数なのである。マルで囲って、リンゴ2つと梨3つの部分集合を作ることも可能である。


(SMSG, Mathematics for the Elementary School,  p. 2)注1

足し算は、後のほうのページで数直線を使って説明されるが、最初は、やりは集合から説明される。4つのボールから成る集合と2つから成る集合があって、両者を合わせてできた集合(union)の要素は6である。そこから、4+2=6, 2+4=6という足し算の式が導かれている。

(p. 9)

集合概念を使って足し算を考えると、物がそれが置かれている場所と時間から抽象され、頭の中で、同じ定義を満たすものとして集められる。このような理解をすると、算数教育学で言う合併(あわせて)と増加(ふえると)の違いは、無意味なものとなる。特定の場所に最初からあったかどうか、追加されるものは最初からあるものより後という時間的な前後関係は、捨象されるからである。

New Math批判の書『ジョニーはなぜ足し算ができないのか』には、New Math教育がどんなものであったかを示す例が、冒頭に書かれている。

「現代の数学のクラスを覗いてみましょう。……教師は「6と9のあいだにある整数は、正しくは、どう表現するの?」ときくと、ある生徒が「なぜ? 7と8だよ」と答える。教師は「いいえ、6より大きい整数の集合と、9より小さい整数の集合の交わりとなる整数の集合よ」と答えた。」 (注2)

New Mathの数学のテキストや授業は、こんなものなのである。数学者の小平邦彦は米国滞在中に娘が、SMSGの実験クラスに配属されるという災難に見舞われた(注3)。彼はその宿題の手伝いをやらされ、その馬鹿らしさに呆れて、現代化数学に批判的な論者の1人となった。

小平は言うのだが、集合の考えは数学者には分かりやすく基本的だと感じられるが、それは専門的訓練の結果であって、小中学生にとってそうではない。集合論が現代数学の基礎であるからと言って、集合論が数学「教育」の基礎ということにはならない。集合論は19世紀末になって初めて出てきたものだが、数学はそれより2000年以上も前からある。つまり、歴史的に見れば、数学が集合概念を基礎に再構成されたのは、数学にとって、偶然的な出来事なのである。現在の近いほど数学は抽象的であり、小中学校では、直観的にわかりやすい過去の数学から学んでいくべきだと言う(注4)。

New Mathで算数を学んだ子どもたちがどうなってしまうかを、象徴的に示す例を2つ挙げよう。1つ目は、スヌーピーで知られる、シュルツ(Ch. M. Schulz)の4コマ漫画である。チャーリーブラウンの妹サリーは、New Math時代の教科書を教室で読んでいる。「集合、一対一対応・・・等価な集合・・・集合を結びつけて1つにすること・・・」  しかし、最後に(4コマ目で)こう叫ぶ。「私が知りたいのは、ただ、2たす2はいくつか、ということだけよ!」。


2つ目は、先ほど言及した『ジョニーはなぜ足し算ができないのか』に描写されている、New Mathで算数を習う子どもと親とのあいだの、よく知られた会話である。

「子どもの算数の学習の進度を心配した両親は、子どもに尋ねる。ある父親が、8歳になる自分の子どもに、「5たす3は何?」と尋ねた。親が受け取った答えは、「交換法則により、5 + 3 = 3 + 5 」というものであった。面食らった親は、同じ質問を言い換えて、「5つのリンゴと3つのリンゴ、併せると全部でいくつ?」ときく。子どもは、「と」がプラスの意味なのかよく理解できなかったので、親に「5つのリンゴ、プラス 3つのリンゴ、ということ?」ときき返す。急いで「そうだ」と答えて、期待して子どもの答えを待った。子どもが答えて言うには、「リンゴだろうが、ナシだろうが、本だろうが重要じゃないよ。どの場合でも、5 + 3 = 3 + 5だよ」」(注5)

このように、New Mathで算数を学ぶと、集合の用語・記号法や交換法則は知っていても、九九を覚えられず、基本的な計算ができなくなってしまう。New Mathの数学教育がいかに偏っていたかが分かる。


現代化算数と集合概念

このNew Math運動は世界的に波及するが、日本もその波をかぶることになった。1964年にはSMSGが数学教育会や雑誌で紹介され、セミナーも開かれた(注6)。穏健化された形ではあるが、10年ほど遅れ、1970年代の日本の小中学校で、現代化のカリキュラムが実施された。図のように、小4の教科書には、集合に関する単元が出てくる。

(大阪書籍算数教科書4下、1977年、p. 4)

この集合概念に基づいて、さまざまな四角形の集合のあいだの包摂関係が、ヴェン図で示された。それによれば、正方形の集合は長方形の集合の部分集合である。というのも、等辺等角四角形である正方形には、等角四角形である長方形の性質が完全に当てはまるから。つまり、正方形は長方形の特殊な場合なのである。

さらに言えば、正方形の集合は、等角四角形である長方形と、等辺四角形であるひし形という2つの集合の交わり(積集合)に当たる。長方形の集合は、これはこれで、平行四辺形の集合の部分集合である。このように、さまざまな四角形のあいだには、現代化時代の教科書に載る次のようなヴェン図で示される包摂関係が成り立つのである。

(啓林館算数教科書6下、1973年、p.86)


 集合とは、大阪書籍の教科書によれば、「ある事柄に当てはまるものの全体を、1つの仲間と考えたとき、その集まり」と定義される。

だが、小学生が集合概念をどれほど理解できたであろうか。「集まり」ということで、小学生は、一箇所に寄せ集められてできた玩具の山のようなものを、まず連想していないであろうか。ある小学生は、運動場に足で大きく円の形に線を引いて、同級生とともにその中に入り、「全員集合!」と叫んで、これが集合だという理解を示した。また、「なかま」という言葉が集合の説明に使われているが、仲間だったら普段よく遊び、互いによく知っているものどうしの関係でないといけないであろうか。もし、当時の児童たちの集合概念の理解がこんなものであったら、無限集合の理解はおろか、有限集合の理解でさえも、不可能である。(注6b)

集合の要素は、実在物でも空想物でもよく、過去・未来のものでも、数や図形でもよい。たとえば、血液型がRhマイナスの人の集合では、血液型がRhマイナスであるという条件を満たしていれば、すべて自動的に、その集合の要素である。頭のなかで考えられた集まりなので、Rhマイナスの人は、互いに相知らず、隔たったところに居住していても構わないのである。100年前に死んでいても構わない。200年後に生まれるRhマイナスの人も含まれている。人間の部分集合であれば、弁理士だとか、~小4年1組で兄がいる人だとかいった、決まった特徴を共通してもち、それを持たない者と区別される諸個人のグループを頭のなかで想定するとき、それがすでに集合である。集合は、要素間の物理的な近接性や緊密な関係の有無とは関係なしに、人間の頭のなかで自由に構成されるものなのである。

しかし、小学生は、目の前のお皿の上の青森産のリンゴが数えると5つあるとか、自分が自宅の近くの小学校の4年1組に属し、誰々と一緒の班に属しているとかいった、実在の融通が利かない具体的な状況に即して、物を考える。物理的遠近や実際の具体的な関係から独立に、ある特徴や観点に基づいて事物や人、項目を自由にグループ化し、それらの間の関係を考察するような、高度な抽象的思考力を、最初からもっていない。むしろ、そのような能力は、小学校・中学校の勉強などを通じて、次第に養われていくものである。


現代化時代の児童たちの悲惨

正方形が長方形であること、正三角形が二等辺三角形であることに、教えられずに自発的に気づく子どもがいるであろうか。いても、きわめて稀であり、無視してよいと思う。しかし、現代化の時代には、それが教科書に書かれ、教えられていた。図形の包摂関係を理解できた児童は、少数にしてもいたのであるが、ほとんどの児童は理解できず、混乱が広がった(注7)。

まずは教師の側からの証言を見よう。ブログ「身勝手な主張」のブログ主Y.H氏は、現代化算数時代に新任教師として小学校で教えていた。当時、ブログ主が「正三角形が二等辺三角形のなかまである」と児童に教えたら、児童のあいだで大混乱になったと言う。

 「私が小学校の新任教師をしていた頃は、数学教育の現代化の時代であったから、当然「正三角形は二等辺三角形のなかまである」と教えていた。……私の教え方がよくなかったのかどうかわからないが、「正三角形は二等辺三角形のなかまである」が児童の間で大混乱になった記憶がある。」(注8)

図形の集合論的な分類方法は、明らかに、小学生の図形イメージとそれに基づく自然な分類に反するものであった。だから、Y.H氏は平行四辺形については、次のように書いている。「第一、無限にある長方形をどのように「長方形の集合」として閉曲線で囲まれたベン図に押し込めるのか?こんな冗談みたいな思いを持っていた。実際、児童の混乱もひどかった。
 長方形を平行四辺形として見よと言われても、児童は長方形と平行四辺形のそれぞれの図形としてのイメージがあって、別のものと思うのが自然な思考であって、無理な話であった。長方形や平行四辺形が数学的にきちんと定義されていない算数では、このような見方は飛躍がある。」 (注9)

次に、現代化算数を受けた児童の側からの証言を聞こう。読売オンラインの発言小町で、2014年に、「小学校 正方形が長方形でないのはなぜ?(駄) 」というトピが立てられたことがある。(注10)

そこにredbearという人が投稿していて(2014/11/15 20:31)、自身の40年以上前(1974年以前)、つまり、現代化算数が教えられ始めた時代の体験について語っている。redbearさんが小学生のとき、算数の時間に「長方形は平行四辺形である」という問題が勃発した、というのだ。redbearさんだけが「長方形は平行四辺形である」と主張し、他の全員が反対で、redbearさんは集中砲火を浴びる。反論できなかったredbearさんは、翌日、反論の仕方を考えてきて発表した。そして、数学が専門の担任によって、redbearさんの主張が正しいという裁定が下されたのである。

これは、現代化算数が始まって日本全国の教室で起きていた混乱の1コマに過ぎない。琉球大学の色物氏も、readbearさんと同じ年代で、「「正方形は長方形に入るか」で議論して同級生を泣かしたことがあった」と、いじめを告白している(ツイッター 2010/11/13 09:24)。理解できた極めて少数の児童と、理解できない多くの児童に対立と分断が起きたのである。授業についていけない多数の落ちこぼれと算数嫌いの児童が続出したのは、言うまでもない。

redbearさんのクラスでは、redbearさん1人を除くと、児童は、「長方形は平行四辺形である」という命題を理解できなかった。図形の包摂関係の理解は、小学生の知的枠組みを超えており、小学校で教えるには、明らかに不適切であった。外国での流行に乗って、小学校で集合を教える現代化カリキュラムを導入し失敗した事件は、日本の教育政策史上の汚点となっている。小学生に対する知的虐待が制度的に遂行されたのである。当時小4で教えられていた集合の概念は、今は、高校生が学んでいるのである。(注11)


集合論的観点の持ち込み

四角形のあいだの多層的な包摂関係は、その理解が小学生の知の地平を超えているので、算数で教えるのは不適切である。では、どう教えるかと言えば、中学では包摂関係を教えるので、円滑な小中接続のことを考えれば、小学校では、現行のように、四角形間の包摂関係を曖昧なままにせざるをえないであろう。では、正方形と長方形の包摂関係についてとくに何も述べなければ、小学生は両者の関係について皆目わからないかというと、そうではなく、児童の頭の中では、常識と日常言語に基づいて並列的に解釈されるであろう。

日常的な理解では、正方形(真四角)は長方形(長四角)とは別のものである。断面が正方形と長方形の2種類のレールがあるとき、「長方形のほうを取ってきてくれ」と頼まれれば、あえて正方形のほうを持ってくる人はいないであろう。児童たちは、生活のなかで獲得されたこの常識的な理解に従って、正方形と長方形を、さまざまな四角形のなかの2種類として、あい並んでいるものとして理解している。教科書では、たとえば、正方形の面積の公式(一辺×一辺)は長方形(縦×横)とは別立てになっているのであるが、これも日常的言語の用法に従うもので、長方形を「等角だが等辺ではない」とするユークリッド的な定義(注12)を積極的に主張しているわけではない。

算数では、さまざまな形の四角形を図示して、たとえば、長方形と呼べるものの記号を全部挙げよという、下のような設問がしばしば出る。このような設問では、正方形の記号を選ぶ可能性は、考えれておらず、模範解答でも、正方形の記号は書かれていない。このことから、小学校では、「正方形は長方形ではない」と教えられている、といった解釈がなされ、批判されることがある。だが、これは図形の包摂関係についての理解と知識を基準に、小学生向けのこの設問を理解したために生じた歪んだ解釈である。問題作成者はそのような包摂関係を前提としてこの設問を作成したのではない。

(光文書院3年生夏休みドリル p.3から)

 確かに、小学教科書では、長方形は4角が直角の四角形、正方形は4角が直角で、4辺が等しい四角形と定義されている。この定義に従えば、算数でも、正方形の集合が長方形の集合の部分集合になるのではないのか。だが、定義から集合的包含関係を引き出すためには、定義と真の命題の違い、内包を増やすと外延が広がるといった概念の内包と外延の関係などを理解していないといけない。だが、そのような論理学的知識は、2年生にはまだない。ましてや、主語概念の集合が述語概念の集合の部分集合のとき命題が真と言えることを知っていて、「正方形は長方形である」と言える小学生は、まずいない。「正方形は長方形である」ときくと、小学生は、正方形=長方形と理解するであろう。

(東京書籍算数教科書2下、2014年、p.104, 105)

だから、上記のような、図形の記号を記入する問題が出ても、長方形の欄には、正方形ではない長方形のみを「全部」選んで入れるのが正解である。もし、正方形の記号(○ア、○ク)を含めれば、それは、「「正方形は長方形」と理解していたからマル」なのではなく、両者の区別さえついていないからバツになるだけである。

四角形の集合の包含関係が既知・既習で自明であるような後知恵的・鳥瞰的な視点から見ると、たしかに、その名称の四角形を選ぶ設問、および、その採点方針は、正方形を長方形の一種とする定義を否定しているように見える。しかし、包摂関係はここでは一切、問題にされていないと銘記すべきである。この設問を評価するとき、その知識の適用は一時停止しなければならない。

ところが、このことを理解せずに、中学で学ぶ図形の集合的包摂関係を金科玉条のように振り回して、「算数では嘘が教えられている」と、算数教育を批判する者がいる。彼らは、中高で学ぶ図形理解を、小学校の算数教育に関する話の中にそのまま持ちこんで、これを基準に、小学校の授業や設問を批判してしまう。だが、そこで、図形についての集合的理解に基づいて、長方形はどれかという設問に正方形を含めて解答する子どもと想定されているのは、実は、彼ら自身にほからない。これは何度でも強調されるべきだが、算数の問題は小学生が解くべく与えられたものであり、数学が趣味の大人や数学塾講師のために作問されたものではない。小学校では、四角形の仲間として、正方形や長方形、ひし形、平行四辺形、台形があることを知り、それらの主な特徴を知り、その典型的なイメージに基づいて互いに識別し、その典型的な形をノートに描ければ、それで十分である。

算数の採点答案がネットで論争を呼ぶ多くの場合、その原因の多くは、上の学年や高等数学で学ぶことを、無意識に持ち込んでしまうことにある。小学生にも容易に理解しうる、理解されていると安易に前提してしまうのである。ツイッターの"掛算"、"超算数"タグで批判されている多くの場合が、これである。小数の足し算の筆算の採点を、中学で学ぶ有効数字を根拠に子どもへの虐待だと騒いだり、小学教科書での偶数・倍数の定義を、高校数学や初等整数論の定義に基づいて「ひどい」と評したり、小2のかけ算の式の書式の順番を、直積的なかけ算の意味を基準に可換性の否定と断じたり、といった倒錯的なことが起きている。

小学校の教科書の、長方形を初めて説明するページに、長方形の例として描かれているのは、縦横の長さがはっきり違う典型的な長方形である。正方形が長方形の特別な場合だとしても、そこに、正方形が描かれることはない。

(上図)東京書籍2上104、(下図)、4上64

同様にして、台形を定義し説明する箇所では、台形の例として図示されているのは、やはり、上辺と下辺の長さが異なる典型的な台形であり、正方形やひし形、平行四辺形ではない。上辺と下辺が平行といった図形の特徴とともに、こんな図形が台形だというイメージが捉えられていればよい。

描かれたさまざまな図形から、その名称の図形を選ぶ、上記のような問題において試されているのは、単純なことで、教科書に載っていたような典型的な四角形のイメージが頭に入っているかどうか、言い換えれば、教科書に載っていたような形の図形は、何と呼ばれていたか、である。さまざまな四角形の集合のあいだの包摂関係など、微塵も問題にしていない。

 「児童は長方形と平行四辺形のそれぞれの図形としてのイメージがあって、別のものと思うのが自然な思考」(Y.H氏)なのである。


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注1 SMSG, Mathematics for the Elementary School, Book 2, Studtent's Text, New Haven / London, Yale University Press, 1965.
https://archive.org/stream/ERIC_ED173089#page/n9/mode/2up

注2  Morris Kline, "Why Johnny Can't Add"
http://www.marco-learningsystems.com/pages/kline/johnny/johnny1.html
 Morris Kline, Why Johnny Can't Add: The Failure of the New Math, St. Martin's Press, 1973. 日本語訳『数学教育現代化の失敗』(柴田録治訳、黎明書房、1976年)

注3  「SMSGの濫觴時代に私の長女がアメリカのプリンストンの中学校でその教育実験の級に編入され、私は奇妙な宿題の手伝いをさせられる破自になった。おかげでSMSGの馬鹿らしきは身にしみているのである。」
 小平邦彦、『怠け数学者の記』(岩波書店、2000年)、p. 117. Vgl. p. iv, 110.


 注4 小平邦彦、『怠け数学者の記』、p.120. 小平によると、集合論は有限集合に限定するなら、一見易しく見えるが、これが間違いのもとである、という。集合論や公理主義代数のうち、子どもたちも理解できる非本質的な部分、とてもつまらない部分が教えられた。子どもたちには、それはとてもつまらない、無意味なものに見えた。ともかく、そのような非本質的な部分に多くの時間と労力が無駄にかけられることになったために、子どもたちは、この年齢期に基礎的な計算力を身に付けてしかるべきなのに、それを得る機会を逸してしまったのである。

「現代の数学は集合論の影響を強く受けていて、集合論が数学の基礎であると考えるが、集合論が創まったのは一九世紀も終りに近くなってからであって、数学は集合論が創まる二〇〇〇年も前から存在していたことを忘れてはならない。」 p. 111
「進歩発展するものの典型的なものは生物であるが、生物の「個体発生は系統の進化を繰返す」ということがある。同様に、数学の教育も数学の歴史的発展の順序に従って行われるべきであろう。」 p. 111
「数学者は集合が基本的なわかり易い概念であると考えるが、それは多年の専門的訓練の結果であって、それを忘れて、物の数を数えるという操作は集合の一対一対応に基づいている等と言っても、子供は仲々納得してくれないのである。」 p. 112
「new math流の教科書には現実の子供よりも数学者の頭の中に描かれた子供、言わば公理化された子供を対象としている傾向があると思う。子供から見た数学の難易の順序は、その論理的順序よりも歴史的発展の順序によると思うのである。」 p. 115

注5  Morris Kline, "Why Johnny Can't Add"

注6 竹村弘・小川庄太郎・安達徳治、「数学教育の現代化について(Ⅰ)」 『奈良学芸大学教育研究所紀要』第1巻(1965年)、pp. 36-55.
http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/6094/1/ier1_36-55.pdf (奈良教育大学学術リポジトリ)

注6b  教師が黒板に大きく丸を描いて、そのなかにいくつかの形が違う三角形を描き、これが三角形の集まりだと言ったところ、ある1年生は、そのマルをはみ出るさらに大きな三角形を描いて、三角形の集合に入っていない三角形の存在を指摘した。山本忠「昭和40年代の小学校算数科における現代化教材に対する再評価の観点」『名古屋女子大学紀要(人文・社会編)』第63号 pp. 207-216; p.210.
ある子どもは、自分と自分の兄弟の周囲に括弧{ }がないから、集合ではない、と主張した、という。小平『怠け者の記』 p.111
どちらも、運動場に大きな円を描いてその中に同級生とともに入って「これが集合だ」と言った小学生と同様に、ベン図の囲い線や列挙法の括弧などを、集合の要素と同じ実在の平面で理解しようとしている。

注7 数学者の松崎克彦氏は、「「ましかく」も「ながしかく」」という短い伝記的文章のなかで、現代化算数との出会いについて、印象深い文章を書いている。
http://www.math.ocha.ac.jp/~matsuzak

氏は1963年生まれということなので、ほぼ、現代化時代に算数を学んだ世代である。当然、当時は、正方形は長方形の一種として教えられていた。さまざまな図形が描いてあって、「その中から長方形を選べ」という問題が出たら、正方形も含めなければならなかった。松崎氏は「指導要領が小学校低学年の子供にこのようなことを要求していたとも思えない」と書いているが、しかし、集合概念を組み込んだ当時の現代化カリキュラムは、まさに、小2にそれを要求していたのである。当時の指導書には、正方形を等辺の長方形として教えるということが書かれている。

「正方形については、長方形のうちで、四つの辺の長さが等しいものであるという見方もとれるようにするなど、将来、それらの包摂関係を理解するのに妨げにならないように注意していることもたいせつなことである。」(『小学校指導書算数編』 文部省 1969年5月 p.67)

ところが、算数のテストでほとんど百点以外をとったことがなかった松崎氏は、この設問で正方形を挙げずに、減点をくらってしまう。その理由が分からず、先生にきいたところ、長方形は「すべての角が直角であるような四角形」と定義されるが、これは正方形にも当てはまる、というのであった。このことは松崎氏にとって、思考発達上の重大な出来事となったようだ。それ以降、氏は用語の定義やルールの明確化ということに注意深く、そして神経質になった。松崎少年は、主にイメージで図形を理解する思考から脱却して、定義に基づいて図形間の関係を考える論理的な思考を獲得したのである。

 ここでは、算数のテストは百点以外が稀で、しかも、のちに数学者になった松崎氏さえ、図形の問題で正方形を挙げずに減点された、という事実が重要である。それほど、図形間のあいだの集合的包摂関係の理解は、小学生に負担を与える、ということなのである。

注8 Y.H氏「新しい算数教科書『たのしい算数』2 ~三角形・四角形の取り扱い」(2015/4/17)、ブログ「身勝手な主張」内
http://blog.goo.ne.jp/mh0920-yh/e/fc74b3c22515e31359e53733bc4ae0c2

注9 Y.H氏「数学教育の現代化の時代 ~現在の算数教育で、「集合」教材の追放はどうであろうか?」(2013/11/22)、、ブログ「身勝手な主張」内
http://blog.goo.ne.jp/mh0920-yh/e/7bd57bda04a22c1052150495202267ac

「無限にある長方形をどのように「長方形の集合」として閉曲線で囲まれたベン図に押し込めるのか?こんな冗談みたいな思いを持っていた。」というところを見ると、Y.H氏自身が、集合概念を理解していなかったということであろうか。だとしたら、氏から教わった小学生はますますわからない。

図形の包摂関係を教えて児童に混乱が起きたという、この経験から、ブログ主のY.H氏は、児童のレベルを無視してすべての児童に一律に、そう教えることに反対している。しかし、正三角形が二等辺三角形であることに気づく児童の発想まで、バツを付けることで否定すべきではないとも、書いている。また、集合概念自体は、有限集合に限定するなら、小学生にとって理解可能としていて、それを算数の教材から排除したのは誤りとしている。

私の考えでは、包摂関係に気づく児童を想定することは、まさに、「数学者の頭の中に描かれた子供」、自分自身の能力を投影して創作された子どもを想定することである。また、集合概念は、有限集合に限っても、小学生にはその理解が難しいであろう。

注10 「小学校 正方形が長方形でないのはなぜ?(駄) 」(トピ主:たぬき)、読売オンライン発言小町内
 http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2014/1114/689149.htm?o=0&p=0

注11 集合の概念を学ぶのは高校の数学Aにおいてだが、中学の教科書にすでに、自然数・整数・有理数、正方形・長方形・平行四辺形などのあいだの包摂関係を示すヴェン図が載っている。だが、中学校で、これが理解できない生徒が多数いて、数学教育に困難を来している、という話はきかないので、中学生くらいになると、図形間の包摂関係はわかる、ということであろう。小5,小6くらいに、論理的な思考が発達するためだと思われる。


(修正的追加)[と書いたのだが、次の論文を読むと、どうも、中学生にとっても、四角形の階層的分類は難しいらしいことが分かった。
Masakazu Okazaki and Taro Fujita, "Prototype Phenomena and Common Cognitive Paths in the Understanding of the Inclusion Relations Between Quadrilaterals in Japan und Scotland"
http://www.emis.de/proceedings/PME31/4/40.pdf

この論文の著者に限られないが、教育心理学者たちは、理解するのが困難な図形の包摂関係を、いかに効果的に教えるのかということに関心がある。私としては、それらの研究の出発点となる「理解するのが困難な」というところに注目したい。
van Hieleによると、図形の理解は5つの段階を踏む。第2段階では生徒は、各図形の諸特徴をつかみ、第3段階で各四角形の定義と特徴に基づいて、長方形は平行四辺形の特別な場合であることを演繹できるようになる。

ところが、研究では、第2段階から第3段階への歩みは遅く、中3でも多くの生徒が、第2レベルに留まったままなのであるという。中二氏の言っていることは誤っている。図形の包摂関係は中学生にとってさえ難しいのである。

"the classification of quadrilaterals by inclusion has been shown to be a difficult task (de Villiers, 1990, 1994)." p. 4-41. 「包摂による四角形の分類は、難しい課題であることが示されてきた。」ただし、ある包摂関係は他より理解しやすい、といった図形による違いはあるという。

T. Fujitaらが参照しているde Villiersの文献の1つは
De Villiers, M. , "The role and function of a hierarchical classification of quadrilaterals", For the Learning of Mathematics, 14(1994), pp. 11-18.

De Villiers自身も、ここで、先行研究を示しながら、次のように言う。「過去何年にも渡って行われてきた、Van Hiele理論についての多くの研究が、多く生徒が、四角形の階層的分類について困難を感じている、ということを、明白に示してきたのである。」(p. 17)

"Many studies on the Van Hiele theory over the past number of years have clearly shown that many students have problems with the hierarchical classification of quadrilaterals [e.g. Mayberry, 1981; Usiskin 1982; Burger & Shaughnessy, 1986; Fuys, Geddes & Tischler, 1988]." p.17]

学習指導要領が改訂され、現代化カリキュラム(1971-1979年)の時代が終わると、集合についての章や集合概念を使った記述は教科書から消滅したが、図形の包摂関係については、第2次ゆとりカリキュラムまで残った。1985年の学校図書の教科書には、封筒から長方形の色紙を少しずつ出していくという直観的な例示に基づいて、正方形は長方形の特殊な形と言われている。正三角形と二等辺三角形、長方形と平行四辺形の関係についても、似たような仕方で、示されている。




注12 ユークリッド原論では、長方形は、「すべての角が直角だが、ただし、等辺でない四角形」とされている。原論は西欧では永く、幾何学の教科書として使われていたので、西洋人にとって、長方形は正方形とは別物であった。だが、彼らは永いあいだ、ずっと間違ったことを信じていたのであろうか。

(The First Six Books of The Elements of Euclid, trans. by Oliver Byrne, London, 1847; xxi. URL: publicdomainreview.org)

しかし、これは定義の違いの問題にすぎない。もちろん、ある定義は多くの人が採用していたり、学界で確立したものであったりするであろう。あるいは、その定義のほうが都合がいい、ということで採用されていることもある。そのような、支配的ないし都合がいい定義がわかっているかどうかが試されているという学習的状況では、それと違う定義を挙げることは、「間違っている」と判断される。

しかし、原則を言えば、定義は、任意に決めることができるので、根本的には、定義に正しいもまちがいもない。確かに、「すべての角が直角な四角形」という定義のほうが、「すべての角が直角な、ただし、等辺でない四角形」よりも、但し書きがないので、シンプルで、数学者が好むであろう。ただやはり、正方形との関係が複雑になるという欠点はある。正方形である長方形と正方形でない長方形が存在することになる。これに対して、ユークリッド的定義はこの問題点がなく、正方形や他の図形は、重複なしに、明確な境界線ではっきりと区切られている。

だから、集合論が基礎となっている現代数学のスタイルの定義と、ユークリッド的定義のどちらが優れているかは、簡単には決められない。



補遺

定数氏の掲示板へのTaKu氏の書き込みから知った論文
三木崇正他「算数を学び続ける児童を支える授業に関する研究 : 定義から図形を捉える活動を通して」(「鳴門教育大学授業実践研究」16, 2017.5)
http://8254.teacup.com/kakezannojunjo/bbs/t47/317

著者たちは、付属小4年生を対象として、正方形に長方形やひし形の定義(決まり)が当てはまるかどうか確かめさせることで、正方形を単に長方形またはひし形とは別の四角形としてとらえる理解を超えさせることに成功した。 実験的授業では、正方形が長方形の決まりを守っているかという問いに対する反応で、わずか児童の20%しか肯定しなかったが、正方形がひし形の決まりを守っていると答えた児童は80%もいたという。この違いは、長方形に関する質問のあとでのディスカッションで、児童たちのあいだで、定義から図形を判断する能力が養われたからである、という。

しかし、これによって、正方形がひし形と関連づけられただけである。つまり、著者たちの考えでも、こうした授業にもかかわらず、児童たちは、正方形の集合をひし形の集合の部分集合とするような包摂関係までは理解したとは言えない。だから、論文の結論には、次のように書かれている。

「(※現在の算数教育では教えていないので)児童は定義と性質を区別することができておらず,正方形,長方形,ひしがたの3つの図形の包含関係を正確に理解するまでには至らなかった。」(p. 69)

TaKu氏は、なぜかこの論文を、包摂関係を理解する児童がいることの証拠として挙げている。包摂関係を教えた現代化算数の時代でも、理解した児童はいたにはいたであろう。理解できない級友をからかっていた色物氏はその例である。しかし、この論文によって示されたのは、むしろ小学生には図形の包摂関係の理解が難しい、という真実の再確認である。

(2018年1月19日18:16  などのツイートに基づく)