2020年5月9日土曜日

交換法則の2つの意味 ― 計算結果同一性と自由可換性・順序任意性

演算とは、2つの数から、3つ目の数を作り出すこと生み出すことである。たとえば、4×3=12のかけ算は、4と3という2つの数から、12という3つ目の新しい数を生み出す。演算というのは、そのような、数に対する操作・処理である。たし算、ひき算、わり算、べき算も、同様に、演算である。

ポーランド記法、逆ポーランド記法のように、演算記号を演算の対象となる数よりも前ないし後に置くスタイルもあるが、数学教育で普通に使われているのは、+-×÷のような演算記号を、最初に与えられる2つの数字のあいだに置くものである。べき算のように、演算記号を使わない場合もある。

演算のなかには、最初に与えられる、演算記号を挟む2つの数字について、演算子の前後でその位置を交換しても、つまり、演算する順序を換えても、結果が変わらないものと、結果に影響を与えるものがある。前者の演算は可換(commutative)と呼ばれ、交換法則(commutative law)が成り立つと言われる。たし算やかけ算は可換な演算の例である。だが、後者は非可換と呼ばれる。引き算、わり算、べき算は非可換である。

可換
たし算 3+4=7, 4+3=7
かけ算 3×4=12, 4×3=12

非可換
ひき算 3-4=? (-1), 4-3=1
わり算 12÷3=4, 3÷12=1/4
べき算 4^3=64, 3^4=81

たとえば、わり算は非可換で、12を4で割ると3になるが、4を12で割ると、1/3となる。割られる数と割る数を取り違えると、答えが違ってきてしまう。演算の結果として出てくる3つ目の数、つまり商、が違ってきてしまう。これに対して、かけ算は可換であり、順序は結果に影響しない。同数累加でかけ算を定義した場合、4×3は4が3つで12、3×4は3が4つで12で、結果(和、積)は変わらない。ただし、かけ算でも、行列のかけ算は、不可換である。順序を換えると、結果が違ってくる。


このような例外はあるが、高校までに習うような、自然数や有理数、実数のあいだでのかけ算やたし算では、順序を換えても、結果は変わらない。つまり、足し算と掛け算は可換である。しかし、詳しく見ると、その可換性の内容は、あくまで、計算した結果が同じである、ということである。これを「計算結果同一性」と呼ぶことにすれば、可換性の基本的な意味は、①計算結果同一性のことなのである。

日本の算数では、かけ算の式が順序が逆を理由にバツにされる、ということから、「かけ算は不可換だと教えられている」と、勘違いしている人が多い。しかし、実際には、算数教育でも、かけ算の①計算結果同一性は、繰り返し教えられている。かけ算は小2ではじめて習うが、小2の段階ですでに、九九表に見られる規則性の1つとして、「被乗数と乗数を交換して計算しても、答えは同じ」と習うのである。これは、交換して計算した結果が同じ、つまり、①計算結果同一性である。かけ算の順序指導を行列やベクトル外積の不可換性を理由に正当化しようとする試みがあるが、それは、行列のかけ算や外積では成り立たない計算結果可能性(①)が、算数では成り立つとされている事実を、見落としている。

flute23432「交換法則の学習」(本ブログ)


しかし、あくまで、算数教科書の引用した箇所で言われているのは、①計算結果可能性だけである。この引用で注目すべきは、「いつでも自由に交換してもよい」とか、「順序はどうでもよい」、とは言われていないことである。だが、計算結果が同じならば、いつでも自由に交換してもいいし、順序はどうでもいい、と言えるのではないか。自由に交換してもよいというのを「自由可換性」、「順序はどうでもよい」というのを「順序任意性」と呼ぶならば、②自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、わざわざ帰結を引き出して見せる必要がないほど自明な、計算結果同一性に必然的に付随する帰結なのではないのか。

しかし、日本の算数教育では、かけ算の可換性は、①計算結果同一性としては間違いなく教えられているが、文章題の立式においては、その付随的な意味である②自由可換性・順序任意性が制限される。たとえば、「3つの袋のどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個必要?」という文章題では、日本の算数教育では、かけ算は〈1つ分×いくつ分〉の順に書く習慣なので、式は4×3であり、3×4と書くとバツにされる。算数において②の意味でかけ算が可換なら、4×3でも3×4でもどちらでもよいはずである。しかし、算数で習う交換法則は、②自由可換性・順序任意性を意味しないので、そのような採点方法は、小学校で習う交換法則に違反しない。だから、小学校のかけ算の問題を論ずるときに、交換法則の意味範囲の違い、つまり、①だけなのか、①②両方なのか、に注意しなければならない。

①「計算結果同一性」は、可換性の基本的な、核となる意味であるが、それに付随するもう1つの意味が、②自由可換性・順序任意性である。自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、とくに言及に値しないと思う人もいるかもしれない。自由派の多くは、可換性ということで、この付随的な意味(②)を含めて、かけ算を可換だと考えている。現実との関係が捨象される抽象的なレベルで式が扱われる高等数学では、それでよいであろう。中学以降の数学では、数や式の抽象化が進んで、ただ数量的にのみ考察されるようになるので、意味の違いは無視される。だから、交換法則の意味には①に加えて、②の自由可換性・順序任意性を自然に含意する。3×4とあるところは、4×3と値が同じ12なので、いつでも自由に言い換えてよいのである。だから、かけ算もそれに応じて、対称的で、順序性がない〈因数×因数〉で定義される。

しかし、これは算数にはあてはまらない。たしかに、算数でも、計算問題や文章題の立式後の計算など、意味が重要ではなく、結果だけが重要なところは、自由に乗号の前後で数の位置を交換してよい。というより、交換法則やその他を使って、楽に計算する方法が、算数では、教えられている。つまり、計算では、②の自由可換性が通用する。

だが、文章題などの、意味が重要なところでは、この自由可換性が制限される。算数では、かけ算が、〈1つ分×いくつ分〉で学ばれている。一つ分は、同数グループが複数あったときの、各グループの構成員数で、いくつ分はグループの数である。算数では、3×4と4×3で意味が違うと言われるのだが、それは、対応する事物の配列の仕方が異なるからである。小学生は、ピアジェが言う具体的な操作期の時期におり、具体物や半具体物の変化や配置などから、演算を学んでいて、しかも、そこからしか演算を理解できない。小学生の頭のなかでは、式はまだ、事物の配列から独立していない。〈1つ分×いくつ分〉のかけ算は、このような事物のグループ分けのような具体的なものに依存しているので、3個のものが4つあるか、4個のものが3つあるかの違いが重要になってくる。このため、文章題の立式では、文章に描かれている事物の配列等によって、つまり、意味によって、②の自由可換性・順序任意性が制限されるのである。

この定義では、一つ分といくつ分では機能や意味が違うので、その意味の違いを、児童がそのつど注記せずともわかるように、位置の違いでも表している。つまり、かけ算の式は、いつも、〈1つ分×いくつ分〉の順で、教科書も板書も統一されている。

どちらが一つ分で、どちらがいくつ分であるかわかっていれば順序はどうでもよいではないか、というのは理屈であって、小学生が演算を教わり、そして学ぶような教育的な状況では、教育的に順序を固定することは、理にかなっている。2つの数のそれぞれの役割と両者の違いを学習する状況で、不規則・不埒に順序を変えたら、それは学習妨害とさえ言える。算数では、単に、教える側がかけ算の式の順序を統一するだけではない。児童が単元テストなどで文章題を解くときにも、教科書にあるような〈1つ分×いくつ分〉の順序で式を書くように求めるのである。教え方に対応した教わり方が求められている。この求めを満たせないときは、式がバツになるのである。

実は、数学でも、②自由可換性は、ある意味で、制限されている。ただし、算数のように、教育的な理由で制限されるのではなく、文字式の表記慣行のために、制限される。というのも、文字式では、「積は数字を前に、文字を後に書く」という表記ルールがあるからである。文字が表す内容ではなく、文字か数字かといった文字の種類を基準として、順序を決めている。もし、かけ算の順序がどうでもよい(②)なら、4aと書こうとa4と書こうと自由なはずであるが、実際には、デカルトが確立した文字式の表記ルールに基づき、4aと書く。②の自由交換性・順序任意性は、数学でも制限されているのである。自由派もこのような順序に従って文字式を書いているはずである。

算数でかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求めること、そして、数学で文字式の積を数字・文字の順に書くことは、②の自由可換性・順序任意性を制限するものなのだが、しかし、それは書式や表記のレベルでの制限にすぎないし、①の計算結果同一性という交換法則の基本的意味は全然否定していないので、かけ算の可換性の根幹を揺るがすものではない。ところが、自由派は、自分たちで使う文字式の表記ルールがそのような制限があることに気づかず、なぜか、算数における書式上の順序固定にのみ、異を唱えるのである。

自由派は、算数では①の計算結果同一性は何ら否定されていないこと、ただ②の自由可換性・順序任意性だけが制限されていることに気づかず、そして、②の自由可換性・順序任意性を含めて理解された交換法則を、算数の確認テストの式に、そのまま持ち込んで適用する。その結果、②に対する教育的で書式上の制限を、かけ算の非可換性の主張、つまり、①計算結果同一の否定だと誤認する。彼らは、書式上の制限にすぎないかけ算の順序を原理レベルで理解してしまうのである。そうして、彼らは、「日本の算数教育では嘘が教えられている」と大騒ぎし、算数教育を非難する。

「算数教育の専門家が「掛け算に順序がある」という嘘出鱈目を言っていて、学校でもその嘘出鱈目が教えられているのです…」(定数氏 2020/04/23 22:19)

「掛け算の順序についてどう思いますか — 小学校で行われている掛け算順序に関するトンデモ教育の話ですか?「小学生に嘘を教えるな」以外に答えようがないですよね。」(鴨氏 2017/04/20 03:40PM)

「もちろん、掛算の順序は救いようの無い大嘘であり、業界が 100% 悪いですけどね。」(ゴルゴ氏 2018/11/19 11:14PM)

算数では、②は制限されるが、①という、可換性の基本的な意味は肯定され、教えられているのである。だから、かけ算を順序を固定して教える指導法に、とくに問題はない。小学校ではかけ算が不可換だと教えられているというのは、デマである。


まとめ

たし算、かけ算では①が成り立つので可換、わり算、ひき算は成り立たず不可換。かけ算でも、行列のかけ算やベクトル外積では、①は成り立たない。しかし、かけ算を順序固定して教える算数教育は①を肯定し、②を、計算では許容しつつ、文章から式への立ち上げに関わる、文章題の【立式】で制限する。

可換性の核は①にあり、算数教育はこれを否定しないので、かけ算の可換性を否定している、とは言えない。②を制限するので、可換性を否定しているように見えるだけである。また、①を肯定する順序教育を、否定する行列を理由に正当化しようとするのは、不適切。