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2020年6月19日金曜日

戦後教科書におけるかけ算の定義

1.1950年代


1950年代、日本では、かけ算は、同数累加(repeated addition)の簡略算として定義されていた。この定義は国際的でかつ伝統的なもので、ユークリッドの原論にも見られるものである(注1)。

つまり、5+5+5+5+5+5+5と同じ数を5つ足すことを、繰り返される対象となった数(被乗数)と繰り返しの回数(乗数)の2つの数を用いて、簡潔に5×7と表記したのが、かけ算である。

つまり、この定義だと、かけ算はたし算(当時は寄せ算と言った)の特殊な場合にすぎない。この定義では、乗数が小数になったときに困難が生ずる。5を7回足す(寄せる)ことはできるが、7.5回足すことはできない。

また、この定義だと、乗法は加法のと特殊な場合のための特殊な表記法ということにすぎない、ということになってしまい、乗法に四則演算の1つとしての独立性を与えることができないうらみがある。

この定義はたし算を基礎としているので、たし算既習の小学生には、理解可能なはずであるが、定義自体は、式の表記上システムの話なので、小学生には、納得して理解してもらうことは難しかったかもしれない。というのも、小学生は、抽象的思考が未発達で、具体的な事物や動作からこそ物事を理解できるからである。

だが、この定義では、5+5+5+5+5+5+5という式の各項(5)の下に、5つのリンゴが載った皿を7つ描くことで、複数の同数グループの具体物に対応させ例示することが容易である。対応させることで、一つ分×いくつ分による現在の定義との違いはあまりなくなる。


小学生にとって形式的で理解しにくいという、この定義の問題点は、十分に例示すれば、解消可能である。


2.1960年代~1970年代



生活単元時代(1950年代)は同数累加で定義されていたかけ算は,次の系統学習時代(1960年代)に,倍で定義されるようになった。

この定義は、戦前の緑表紙教科書におけるかけ算の定義を踏襲するものである。系統学習の教科書は,実際、緑表紙教科書を手本としていたのだから、当然である。かけ算に入る前に,テープや図形を使って,倍を定義しておく手法も,緑表紙由来である。



続く現代化時代も,かけ算の定義については変化はなく,倍による定義であった。SMSGの教科書のように,アレイ図と直積で定義するような極端に走ることはなかった。

倍がどういうことかは,学校図書では,緑表紙と同様に,かけ算の章の少し前のところで,説明されている。テープを半分に切って,切る前の基の長さは,半分のテープの2つ分であり,これは2倍とも言うとある。つまり,倍は「いくつ分」から説明されている。



東京書籍は,かけ算の最初の章で,「2この3つぶんを,2この3ばいといいます」(2下 1970 p.63)と書かれていて,やはり,倍がいくつ分から説明されている。

しかし,いくつ分と倍は完全に同じではないであろう。上記オレンジ色の画像に「うまは、かめの何倍ですか」とはあるが、ウマの数とカメの数という2つの量の大きさの関係を、カメの数を基準として、問うている。ここでは、倍は比である。かめの数2の3倍が,うまの数6なのである。

かけ算はもはや,たし算の特殊な場合の簡略表記ではない。あくまで、2つの量の大きさの関係なのである。しかも,それは単なる静態的な関係(比)ではなく、「倍加する」という運動,働きでもある。かめは2匹であり、うまの数6匹は、それを3倍に「引き伸ばした」大きさなのである。

注意すべきは,ここでは、カメはウマの一部(単位)ではない、ということである。これは,〈1つ分×いくつ分〉による定義と違う点である。1つ分は基本的に全部の量の物理的な一部である。また,いくつ分が量であるのに対して,倍が量ではなく関係・働きである点でも,違っている。

被乗数×乗数にしても,一つ分×いくつ分にしても,乗号の前後は非対称的であるが,基準量×倍は,この非対称性が際立っている。倍を表す数は,事物が直接表す量ではなく,量と量との関係であり,その点でより抽象的である。

この時代には、かけ算の式の〈言葉の式〉(公式)は,東京書籍では,とくに,これに対応する公式はないようだが,学校図書では,

もとの数×かける数=答え

となっている。さらに,倍という概念をここに含ませれば,

もとの数(量)×何倍=全部の数(量)

となるであろう。


「かけられる数」(被乗数)と「かける数」(乗数)は,同数累加でかけ算が定義されていた時代の概念である。東京書籍では,それらは定義されていないが,言葉としては九九表に使われている。学校図書では,九九表の「かけられる数」のところが「もとの数」になっている。

かけ算が倍で定義される時代になって,同数累加が否定されたかというと,そうではなく,「4×3のこたえはつぎのけいさんでだすことができます。4+4+4=12」(東京書籍 p.65)と,書かれている。

つまり,同数累加は,もはや掛け算の定義ではないが,かけ算をたし算でも表せるという付随的な指摘のなかで生きている。これは,現在の教科書もそうなっている。また,学校図書では「3+3+3+3は3の□倍です。」といった問題があり,倍は被乗数・乗数の乗数に対応するものであることがわかる。

このように,かけ算は倍をメインに定義されているが,同数累加や〈1つ分×いくつ分〉が消滅したわけではなく,周縁に退いただけである。倍の時代に,倍がいくつ分から説明されていることを考えれば,根底的には,かけ算は本源的には「いくつ分」なのであろう。


3.1980年代~2020年代



現代化の時代が終わると、かけ算の定義は、〈基準量×倍〉から、〈1つ分×いくつ分〉へと変わった。

倍による定義は、小学校の低学年生には少々、高度であった。というのも、倍は量と量の関係を表す数(比)だから。

現代化時代に、日本の算数教育は、現代数学の概念を取り入れていたずらに形式化・高度化に走り、大量の数学嫌いを作ってしまった。このことに対する反省から、日本の算数教育は、基礎と具体性へと帰ることになった。

その際、教科書が取り入れたのが、数教協の〈一あたり量×いくつ分〉というかけ算定義であった。同数累加の簡略算という定義では、乗数が小数や分数のかけ算ががうまく説明できなかった。そのため、数教協は乗数を量化したのである。

数教協の概念は、一般には、かけわり図や組立単位など、小学生には難しいものばかりであるが、教科書に取り入れられた次のかけ算図式は、低学年でも十分に理解しやすいものてあった。

①〈1つ分の数×いくつ分=全部の数〉
②〈1つ分の大きさ×いくつ分=全部の大きさ〉

①は②の分離量バージョンである。これは、英語圏では、同数グループによる定義と、親和性が高い。英語圏では、かけ算は、3×4というかけ算の式は、しばしば、3 groups of 4という自然言語表現に基づいて学ばれる。

〈1つ分×いくつ分〉によって、乗数は、7を4回足すというときの回数ではなく、具体的な量となった。だから、ピザ1枚900gで、2枚半(2.5)では何gのようなことが考えられるようになった。乗数はここでは、倍のような関係でもなく、分量を表している。

倍による定義では、比較される2つの量は、種類は同じくするかも知れないが、別の物体であった。〈1つ分×いくつ分〉では、一つ分はいくつ分の一部をなしている。ピザ1枚は2枚半の一部を構成している。乗数は具体的な量なので、絵に描くことができる具体性をもつ。

このように、1980年代に、日本の算数教育では、かけ算は〈1つ分×いくつ分=全部の数〉で定義されるようになった。だが、他の時代もそうであったが、メインの定義が替わっただけで、他の定義が消滅したわではなく、ただ周縁化しただけである。

事実、定義の少しあとでは「3×3は3+3+3で求められます」と言われている。同数累加による定義は、定義の一部ではなくなったが、このように、かけ算の言い換え表現として生き残っている。



また、「2の8つ分は2の8倍とも言う」と言われており、倍による定義も生きている。倍の時代に、倍はいくつ分で導入され、いくつ分の時代に、いくつ分は倍で言い換えられる。

だが、このようにほぼ同時に導入される〈基準量×倍〉は、高学年になると、〈基準量×割合〉へと発展して行くものであるが、〈1つ分×いくつ分〉から〈基準量×倍〉へ、〈基準量×割合〉への移行には、小学校の先生方も苦労しているようである。


注

注1
第7巻「定義16 数に数を掛けるといわれるのは、後者の中にある単位の数と同じ回数だけ前者、すなわち【掛けられる数】が加え合わされてなんらかの数が生ずるときである。」(『ギリシアの科学』 p.331)

(Twitterに2020/02/21, 03/01, 05/30に投稿された、flute23432のツイートに基づく。)



2020年5月9日土曜日

交換法則の2つの意味 ― 計算結果同一性と自由可換性・順序任意性

演算とは、2つの数から、3つ目の数を作り出すこと生み出すことである。たとえば、4×3=12のかけ算は、4と3という2つの数から、12という3つ目の新しい数を生み出す。演算というのは、そのような、数に対する操作・処理である。たし算、ひき算、わり算、べき算も、同様に、演算である。

ポーランド記法、逆ポーランド記法のように、演算記号を演算の対象となる数よりも前ないし後に置くスタイルもあるが、数学教育で普通に使われているのは、+-×÷のような演算記号を、最初に与えられる2つの数字のあいだに置くものである。べき算のように、演算記号を使わない場合もある。

演算のなかには、最初に与えられる、演算記号を挟む2つの数字について、演算子の前後でその位置を交換しても、つまり、演算する順序を換えても、結果が変わらないものと、結果に影響を与えるものがある。前者の演算は可換(commutative)と呼ばれ、交換法則(commutative law)が成り立つと言われる。たし算やかけ算は可換な演算の例である。だが、後者は非可換と呼ばれる。引き算、わり算、べき算は非可換である。

可換
たし算 3+4=7, 4+3=7
かけ算 3×4=12, 4×3=12

非可換
ひき算 3-4=? (-1), 4-3=1
わり算 12÷3=4, 3÷12=1/4
べき算 4^3=64, 3^4=81

たとえば、わり算は非可換で、12を4で割ると3になるが、4を12で割ると、1/3となる。割られる数と割る数を取り違えると、答えが違ってきてしまう。演算の結果として出てくる3つ目の数、つまり商、が違ってきてしまう。これに対して、かけ算は可換であり、順序は結果に影響しない。同数累加でかけ算を定義した場合、4×3は4が3つで12、3×4は3が4つで12で、結果(和、積)は変わらない。ただし、かけ算でも、行列のかけ算は、不可換である。順序を換えると、結果が違ってくる。


このような例外はあるが、高校までに習うような、自然数や有理数、実数のあいだでのかけ算やたし算では、順序を換えても、結果は変わらない。つまり、足し算と掛け算は可換である。しかし、詳しく見ると、その可換性の内容は、あくまで、計算した結果が同じである、ということである。これを「計算結果同一性」と呼ぶことにすれば、可換性の基本的な意味は、①計算結果同一性のことなのである。

日本の算数では、かけ算の式が順序が逆を理由にバツにされる、ということから、「かけ算は不可換だと教えられている」と、勘違いしている人が多い。しかし、実際には、算数教育でも、かけ算の①計算結果同一性は、繰り返し教えられている。かけ算は小2ではじめて習うが、小2の段階ですでに、九九表に見られる規則性の1つとして、「被乗数と乗数を交換して計算しても、答えは同じ」と習うのである。これは、交換して計算した結果が同じ、つまり、①計算結果同一性である。かけ算の順序指導を行列やベクトル外積の不可換性を理由に正当化しようとする試みがあるが、それは、行列のかけ算や外積では成り立たない計算結果可能性(①)が、算数では成り立つとされている事実を、見落としている。

flute23432「交換法則の学習」(本ブログ)


しかし、あくまで、算数教科書の引用した箇所で言われているのは、①計算結果可能性だけである。この引用で注目すべきは、「いつでも自由に交換してもよい」とか、「順序はどうでもよい」、とは言われていないことである。だが、計算結果が同じならば、いつでも自由に交換してもいいし、順序はどうでもいい、と言えるのではないか。自由に交換してもよいというのを「自由可換性」、「順序はどうでもよい」というのを「順序任意性」と呼ぶならば、②自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、わざわざ帰結を引き出して見せる必要がないほど自明な、計算結果同一性に必然的に付随する帰結なのではないのか。

しかし、日本の算数教育では、かけ算の可換性は、①計算結果同一性としては間違いなく教えられているが、文章題の立式においては、その付随的な意味である②自由可換性・順序任意性が制限される。たとえば、「3つの袋のどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個必要?」という文章題では、日本の算数教育では、かけ算は〈1つ分×いくつ分〉の順に書く習慣なので、式は4×3であり、3×4と書くとバツにされる。算数において②の意味でかけ算が可換なら、4×3でも3×4でもどちらでもよいはずである。しかし、算数で習う交換法則は、②自由可換性・順序任意性を意味しないので、そのような採点方法は、小学校で習う交換法則に違反しない。だから、小学校のかけ算の問題を論ずるときに、交換法則の意味範囲の違い、つまり、①だけなのか、①②両方なのか、に注意しなければならない。

①「計算結果同一性」は、可換性の基本的な、核となる意味であるが、それに付随するもう1つの意味が、②自由可換性・順序任意性である。自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、とくに言及に値しないと思う人もいるかもしれない。自由派の多くは、可換性ということで、この付随的な意味(②)を含めて、かけ算を可換だと考えている。現実との関係が捨象される抽象的なレベルで式が扱われる高等数学では、それでよいであろう。中学以降の数学では、数や式の抽象化が進んで、ただ数量的にのみ考察されるようになるので、意味の違いは無視される。だから、交換法則の意味には①に加えて、②の自由可換性・順序任意性を自然に含意する。3×4とあるところは、4×3と値が同じ12なので、いつでも自由に言い換えてよいのである。だから、かけ算もそれに応じて、対称的で、順序性がない〈因数×因数〉で定義される。

しかし、これは算数にはあてはまらない。たしかに、算数でも、計算問題や文章題の立式後の計算など、意味が重要ではなく、結果だけが重要なところは、自由に乗号の前後で数の位置を交換してよい。というより、交換法則やその他を使って、楽に計算する方法が、算数では、教えられている。つまり、計算では、②の自由可換性が通用する。

だが、文章題などの、意味が重要なところでは、この自由可換性が制限される。算数では、かけ算が、〈1つ分×いくつ分〉で学ばれている。一つ分は、同数グループが複数あったときの、各グループの構成員数で、いくつ分はグループの数である。算数では、3×4と4×3で意味が違うと言われるのだが、それは、対応する事物の配列の仕方が異なるからである。小学生は、ピアジェが言う具体的な操作期の時期におり、具体物や半具体物の変化や配置などから、演算を学んでいて、しかも、そこからしか演算を理解できない。小学生の頭のなかでは、式はまだ、事物の配列から独立していない。〈1つ分×いくつ分〉のかけ算は、このような事物のグループ分けのような具体的なものに依存しているので、3個のものが4つあるか、4個のものが3つあるかの違いが重要になってくる。このため、文章題の立式では、文章に描かれている事物の配列等によって、つまり、意味によって、②の自由可換性・順序任意性が制限されるのである。

この定義では、一つ分といくつ分では機能や意味が違うので、その意味の違いを、児童がそのつど注記せずともわかるように、位置の違いでも表している。つまり、かけ算の式は、いつも、〈1つ分×いくつ分〉の順で、教科書も板書も統一されている。

どちらが一つ分で、どちらがいくつ分であるかわかっていれば順序はどうでもよいではないか、というのは理屈であって、小学生が演算を教わり、そして学ぶような教育的な状況では、教育的に順序を固定することは、理にかなっている。2つの数のそれぞれの役割と両者の違いを学習する状況で、不規則・不埒に順序を変えたら、それは学習妨害とさえ言える。算数では、単に、教える側がかけ算の式の順序を統一するだけではない。児童が単元テストなどで文章題を解くときにも、教科書にあるような〈1つ分×いくつ分〉の順序で式を書くように求めるのである。教え方に対応した教わり方が求められている。この求めを満たせないときは、式がバツになるのである。

実は、数学でも、②自由可換性は、ある意味で、制限されている。ただし、算数のように、教育的な理由で制限されるのではなく、文字式の表記慣行のために、制限される。というのも、文字式では、「積は数字を前に、文字を後に書く」という表記ルールがあるからである。文字が表す内容ではなく、文字か数字かといった文字の種類を基準として、順序を決めている。もし、かけ算の順序がどうでもよい(②)なら、4aと書こうとa4と書こうと自由なはずであるが、実際には、デカルトが確立した文字式の表記ルールに基づき、4aと書く。②の自由交換性・順序任意性は、数学でも制限されているのである。自由派もこのような順序に従って文字式を書いているはずである。

算数でかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求めること、そして、数学で文字式の積を数字・文字の順に書くことは、②の自由可換性・順序任意性を制限するものなのだが、しかし、それは書式や表記のレベルでの制限にすぎないし、①の計算結果同一性という交換法則の基本的意味は全然否定していないので、かけ算の可換性の根幹を揺るがすものではない。ところが、自由派は、自分たちで使う文字式の表記ルールがそのような制限があることに気づかず、なぜか、算数における書式上の順序固定にのみ、異を唱えるのである。

自由派は、算数では①の計算結果同一性は何ら否定されていないこと、ただ②の自由可換性・順序任意性だけが制限されていることに気づかず、そして、②の自由可換性・順序任意性を含めて理解された交換法則を、算数の確認テストの式に、そのまま持ち込んで適用する。その結果、②に対する教育的で書式上の制限を、かけ算の非可換性の主張、つまり、①計算結果同一の否定だと誤認する。彼らは、書式上の制限にすぎないかけ算の順序を原理レベルで理解してしまうのである。そうして、彼らは、「日本の算数教育では嘘が教えられている」と大騒ぎし、算数教育を非難する。

「算数教育の専門家が「掛け算に順序がある」という嘘出鱈目を言っていて、学校でもその嘘出鱈目が教えられているのです…」(定数氏 2020/04/23 22:19)

「掛け算の順序についてどう思いますか — 小学校で行われている掛け算順序に関するトンデモ教育の話ですか?「小学生に嘘を教えるな」以外に答えようがないですよね。」(鴨氏 2017/04/20 03:40PM)

「もちろん、掛算の順序は救いようの無い大嘘であり、業界が 100% 悪いですけどね。」(ゴルゴ氏 2018/11/19 11:14PM)

算数では、②は制限されるが、①という、可換性の基本的な意味は肯定され、教えられているのである。だから、かけ算を順序を固定して教える指導法に、とくに問題はない。小学校ではかけ算が不可換だと教えられているというのは、デマである。


まとめ

たし算、かけ算では①が成り立つので可換、わり算、ひき算は成り立たず不可換。かけ算でも、行列のかけ算やベクトル外積では、①は成り立たない。しかし、かけ算を順序固定して教える算数教育は①を肯定し、②を、計算では許容しつつ、文章から式への立ち上げに関わる、文章題の【立式】で制限する。

可換性の核は①にあり、算数教育はこれを否定しないので、かけ算の可換性を否定している、とは言えない。②を制限するので、可換性を否定しているように見えるだけである。また、①を肯定する順序教育を、否定する行列を理由に正当化しようとするのは、不適切。




2020年3月29日日曜日

かけ算で求める問題だとわかれば


下は、志村五郎(1930-2019)氏の『数学をいかに教えるか』(2014年)のなかの「3.掛け算の順序」からの引用である(p.45)。その章で、志村氏は〈かけ算の順序〉教育を批判しているのだが、そこには、いくつも、問題点がある。



引用箇所には、「その問題を示されたならば、これは掛け算の問題であるとすぐに認識する」と書かれている。その問題というのは、「3トンの砂を積んだトラックが5台ある.砂は全部で何トンか」である。

最初の問題点は、「すぐに認識する」という箇所。どのようにして、それがかけ算で解ける問題だとわかったのであろうか。たしかに、高学年小学生以上ならば、そのことは瞬間的にわかるが、しかし、それは訓練の結果であって、小学校低学年は、はじめて、それがどうして掛け算で解けるのかを習うのである。

それがかけ算で解けることを認識できるためには、文章から次の2つのことを読み取らなければならない。a)かけ算の文章題の文章中に、同量のものが複数あるという数的関係、b)、全体の砂の量(重量)を求めることが要求されていることである。

a)の複数の同量物だが、これは、3人班が5つのように、複数の同数グループでもよい。a)は2つに分けられる。

a1)その同量(同数グループ)というのが、どのくらいの量なのかということである。トラックの例で言えば、それはトラック1台あたりが積んでいる砂の重量3トン、班の例では各班の構成員数3人である。この3は、算数では「一つ分の数」ないしは「かけられる数」と呼ばれている。

a2)もう1つは、「複数の同量物」の「複数」がどのくらいか(グループの数)ということである。これは、トラックの文章題ではトラックの台数5、班の文章題では班の数5である。これは算数では「いくつ分」または「かける数」(乗数)と呼ばれている。

「掛け算の問題であるとすぐに認識する」と志村氏は言うことで、かけ算の仕組み・構造を、さっと通りすぎてしまっている。大人はそれでよいのだが、しかし、かけ算というのがどんな演算なのかを学んでいる小2には、通りすぎるこはできないし、通りすぎるべきではない。

ところが、志村氏は、「「乗数」「被乗数」という愚劣なこと」と言って、乗数/被除数(かけられる数/かける数)という概念を最初から否定してしまっている。だが、それでは小学生はかけ算を学べなくなってしまう。

なお、志村氏らは「1950年代に一部の教育家が「乗数」「被乗数」という愚劣なことを言い出したのが(〈かけ算の順序〉教育の)始まりらしい」と推測を述べているが、この推測は誤っている。



順序教育は日本では戦前からあるし、「被乗数」と「乗数」は、"multiplicand", "multiplier"(英語の場合)からの翻訳語で、西欧の算術書では、この概念は、何世紀も前から使われている伝統的な概念で、たとえば、ニュートンも使っている。



志村氏自身はかけ算をどう考えるかというと、冒頭の引用のなかに、そのヒントがある。「そして,ふたつの数がある.だからそのふたつの数を掛け合わせればよいので,頭の中にあるのは「ふたつの数の積」という概念だけであって,その順序は問題にならない.」

これは、〈被乗数×乗数〉のかけ算ではなく、中学以降の数学で学ぶ、因数×因数のかけ算である。〈1つ分×いくつ分〉や〈被乗数×乗数〉のかけ算と違い、ここでは、乗号の前後が同じ因数で、対称的なために、順序をそもそも設定できない。

3に4をかけるのでも、4に3をかけるのでもなく、3と4という2つの因数を掛け合わせて、12という積を構成する。算数では、3に4をかけて、その演算の遂行(計算)の結果としてはじめて12が出てくるが、〈因数×因数〉のかけ算では、3×4がそれ自身、12を表している。

因数分解というと、人は多項式の因数分解をまず連想するが、数の因数分解というのもあって、たとえば、12=3×4は12を3と4という2つの因数に分解している。そのどちらが被乗数で、どちらが乗数、ということはない。素因数分解は数の因数分解の特殊な場合である。

志村氏は、次の頁で、長方形の求積の例を出しているが、隣り合う2つの辺の長さから、長方形の面積という新しい次元の数を作り出すときに使われる掛け算は、本来は、〈因数×因数〉の掛け算である(注1)。

数学者や数学教師、高度な数学を使うエンジニアなどは、〈因数×因数〉でかけ算を考えるであろうが、このかけ算は、小学生低学年には、抽象的すぎる。もしこれでかけ算を導入するなら、かなりの小学生がかけ算の最初の理解に失敗してしまうでろう。

これに対して、〈被乗数×乗数〉や〈1つ分×いくつ分〉の非対称なかけ算は、3トントラック5台とか、6個入り卵4パックとか、いった日常的で具体的なもので例示でき、低学年でも理解できる。同数グループは低学年にも、アレイや直積に比べてとっつきやすい。



〈1つ分×いくつ分〉のような非対称なかけ算であっても、〈1つ分×いくつ分〉とも〈いくつ分×1つ分〉とも書けるという点では、順序はない。しかし、その非対称性ゆえに、順序と結びつきやすい。

一つ分といくつ分の概念を習っているときに、この2つの順序を混在させて提示するのは、子どもたちに混乱をもたらすだけなので、通常は、どちらかの順序で統一するであろう。日本の算数教育では、日本が明治期に近代教育制度を確立する際に参考にした19世紀の欧米の算術書に従って、〈被乗数×乗数〉の順序を採用した。〈基準量×倍〉〈1つ分×いくつ分〉はその後継である。

志村氏の批判の問題点は、志村氏に限られないが、対称的なかけ算を絶対視し、非対称なかけ算の教育的意義を無視していることにある。


補足

定数氏「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば、問題文に出ている数をただ書けるのは極めて合理的…1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」(2017/08/15 01:04 PM)

ここにも、同じ、見落としの構造が見られる。

「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば」と、定数氏はさらりと書いているのだが、その文章題がかけ算で解ける問題であることは、どこから分かったのであろうか。文章題なのだから、文章を読まなくては、それが何算の問題かはわからないはず。

たしかに、かけ算の単元にある文章題なら、かけ算で解くのだとわかるが、〈かけ算の単元ならかけ算を、わり算の単元ならわり算を使う〉といったような、単純で浅薄な方略では、かけ算の文章題もわり算の文章題も混じっているような、少しでも応用的なプリントにさえ対応できない。算数では、文章題がどの演算で解く文章題なのかを、文章から読み取れるようにならなければならないが、小学生には大きな課題である。だから、教科書には、これを訓練するための「何算かな?」という単元もある。使う演算を特定できる能力がつかないと、高学年で学ぶ割合の文章題に対処できない。というのも、割合の問題は掛けることも割ることもあるから。

大人はその問題が掛け算の問題だと瞬間的にわかるが、低学年児童は文章解析力がまだ十分ではないので、すぐにはわからない。「ずつ」などの表現を手がかりとして、最終的には、そこに同数グループという、かけ算が適用できる数的関係を、直感的に見てとることができるようになるのである。

同数グループの各グループの構成員数が一つ分(被乗数)、グループの数がいくつ分(乗数)なのであるから、その文章題がかけ算で求まる問題だという認識には、一つ分といくつ分が使われているのである。非対称のかけ算を学ぶ小2のために作られた文章題を、小2が解くときは、文章中に一つ分の数といくつ分の数を認識することが求められている。「1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」とする定数氏の言葉は、だから、教育的に、誤っている。


注

注1
算数で習うかけ算は、非対称なかけ算に限定されているのに、小学生が小4のときに学ぶ、長方形の面積の求める公式〈たて×よこ〉に使われるかけ算は、対称的である。これは一見、不整合であるが、この「不整合」は、ある工夫によって解消されている。つまり、長方形の面積は、1辺が1cmの単位正方形(1つ分=1cm^2)を考えて、それがいくつあるか(いくつ分)ということで、長方形の面積を求めているのである。だから、ここに使われているかけ算は、因数×因数ではなく、単位あたり量×いくつ分という非対称なかけ算なのである。

そして、その「いくつあるのか」(単位正方形の総個数)ということもまた、一つ分×いくつ分で求める。つまり、長方形の縦の個数だけ単位正方形を縦に積んでできた棒を、横の個数分だけそろえる。総個数は、同じ高さの単位正方形の棒が何本並んでいるか、で求めるのである。つまり、縦の個数×横の個数で総個数が求まるのであるが、これは、因数×因数ではなく、ふたたび、一つ分×いくつ分である。

(2020/03/26のflute23432ツイートに基づく。)