2020年3月29日日曜日

式を状況に強力に関係づける


小学校低学年の児童は、論理的な思考が未発達なので、New Math時代に行われたように集合概念を使って、理論的に説明しても、演算や式のような抽象的なものを理解できない。

では、筆算のやり方のような手続きだけを教えれば、たしかに、できるようにはなるが、何をしているのかが本人にはわからないままとなり、計算ミスをしても、ミスであることに気づきにくくなる。心のなかにピザを切り分けるイメージをもっていないと、1/2+1/3 が1(丸1枚)を越えないことがわからない(注1)。また、計算の意味を教えないと、文章題ができなくなり(注2)、したがってまた、数学を生活や仕事に数学を応用する力がつかない。

だから、算数教育では、式のような抽象的なものを、子どもにも馴染みの日常的な具体的状況のタイプにあえて【強力に】関係づけて、教えるのである。状況タイプを表すお話し(ストーリー)や絵、ブロックの操作などに関係づけて、たし算を教えるのである。

実際、理解するとは、新しい知識や考え方を、既得の知識や能力に組み込むことであろう。ただ、児童の場合、既得の知識や能力が経験豊かな大人に比べて少ないというだけではなく、その性格も前論理的・物語的という点で違っている。

たとえば、たし算だったら、「アヒルが池に2羽あるところに、3羽がやってきた。今は何羽?」というお話し(例題である文章題)をもってくるのである。次に、これを2つのブロックに3つ追加する動作に対応づけることで、児童はアヒルの絵とブロックに共通する数の変化に注目するように、仕向けられる。



これは増加と呼ばれる状況タイプで、たし算が適用されるタイプには、他には、合併がある。合併の状況というのは、たとえば、1つの水槽に右から男の子が金魚を3匹、左から女の子が2匹入れること。引き算が適用される状況タイプのうち1年生がまず学ぶものには、求残と求差がある。求残は、「公園に7人いて3人帰ると何人?」、求差は「男の子7人、女の子3人、違いは何人?」。

その状況タイプというのは、習っている演算が使える典型的な状況で、解決(今何羽?)を要求しているようなものである。それは、配置であったり、行為であったり、変化であったりする。タイプ(類型)なので、求残に分類される状況や文章題は、無数にある。「公園に7人いて3人帰ると何人?」も「バスの乗客11人、3人降りて今何人?」も求残である。

実際に児童に提供されるのは、状況そのものではなく、たいていは、状況タイプに対応する例題(文章題)や絵である。ここから、たとえば、求残の文章題なら、減少という変化と、最初の量と減少分を表す数値を読み取り、尋ねられている残りの量を、引き算で求める。

式と状況のあいだを行き来できるようにするために、逆に、式が与えられて、式から文章題を作る(お話作り)という課題も立てられる。状況から式にだけでなく、式から状況に行く。もちろん、文章題としての出来不出来は重要ではない。かけ算の式が与えられたのに、たし算の文章題を作ってしまうのでなければよいのである。



状況タイプや例題(文章題)は、演算が適用される対象であるが、低学年生にとっては、それは同時に、演算の意味を理解する手段でもある。状況や文章題は、単なるサンプルや代入例ではなく、それなしには、児童が演算や式を理解できない何かなのである。

このことがわからない人たちが、たくさんいる。児童に演算を理解させるために、式を状況に【強力に】関係づけるこのような算数教育が、数学や式、数の抽象性を否定するものだと、勘違いの批判を展開する者たちがいるのである。式に意味などない、という極端な主張さえある。

「「数式に具体的な意味あり」派は、数式の凄い所を分かってんのかな。」(twitter 酢酸氏 2017/01/12 00:28)

「抽象化した数値演算だけでは具体的場面は消えています。」(twitter 大石氏 2013/01/02 05:08)

「数値と演算記号だけで抽象化することによって式を作ったのに、そこにもう一度個別の事情を持ち出すのはどうなの」(twitter 塚本氏 2019/03/13 21:32)

「#超算数 は、抽象化された式を、抽象的に捉えてはいけないという教義が潜んでいる」(twitter 卓氏 2020/03/05 05:37)

「場面を(情報量をそぎ落とし抽象化した)式で表現しようとするのがそもそも間違い」(twitter A犯氏 2019/10/2119:04)

「たとえば、「式の意味」というのに異様に拘り抽象化を否定するというのがあり、掛け算順序固定もそのひとつ」(twitter 定数氏 2014/08/22 05:59)

「数学的には等価な式に、見た目の違いで過剰な意味を持たせるのは、抽象化による利点という数学の本質に逆行しています。」(twitter 塩澤氏 2013/12/07 23:46)

式はたしかに、状況にくらべてずっと抽象的だが、しかし、小1が到達できる抽象性のレベルは、その後も続く抽象化の道程のほんの序の口にすぎないのに、あたかも、小学生が数式に触れたとたんに、高等数学並みの抽象性を獲得したかのような言いぶりなのである。

だが、こうした批判は、低学年の児童の物語的で絵画的な思考の特性を無視し、演算の学習を不可能にしかねないものである。

算数教育で式と状況(場面)との対応関係が強調されるのは、けっして、式が一般にそのように特定の状況に縛られている、ということを言おうとしているのではない。式と状況の対応は教育的な状況で求められていることであって、数式と現実の関係について一般的に何かを主張するものではない。ましてや、式と場面が一対一に対応するなどと主張するものではない。そうではなく、児童に演算の意味を理解させるのに、あえて状況に関係づける必要がある、ということなのである。

抽象化に向かって飛躍するには、助走距離を確保するために、後ろに十分に下がらなければならない。

演算は、それぞれの演算が適用される状況のタイプに、児童が理解しやすい形で、関係づけられる。まず、状況タイプの数が限定される。たとえば、かけ算が適用される状況にはさまざまなものがあるが、そのうち、〈同数グループ〉タイプは、低学年の児童にも理解しやすいものである。



だから、「A君の身長が105cmで、A君の弟の身長はその0.8倍です。弟の身長は何cm?」(倍)、「A君は男の子4人女の子3人のあいだで考えられるダンスペアは全部で何通り?」(直積)のような、低学年には難しい状況タイプは、さしあたり、無視されている。

次に、文章題の表現も、限定され単純化されている。たとえば、合併タイプのたし算文章題には、ほとんどの場合、「合わせて」という表現が、そのタイプの印であるかのように、用いられている。小1は、それを手がかりとして、引き算でなくたし算が適用できるケースだと認識する。

かけ算の文章題なら、「ずつ」という表現を手がかりして、一つ分の数を見つけることはできる。もちろん、「3つ袋があり、そのどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個?」「厚みが同じ4cmの辞書を5冊積み上げると高さは何cm?」のように、「ずつ」を含まない文章題もそれなりに出てくるので、「ずつ」や他の表現を通して、最終的には、かけ算が適用できる数的関係・変化の認識にいたらなければならない。

「合わせて」や「ずつ」に注目するように教えることが、「無思考的・機械的なパターンマッチングだ、これが読解力の低下をもたらしている」と批判されることがあるのだが、この批判は、それが表現の表面に留らずに、表現【を通して】意味と構造に至ろうとするための手がかりにすぎないことを、見落としている。




注1
S・ドゥアンヌ『数覚とは何か?』(早川書房 2010年)p.255
「別の例を見てみよう。1/2+1/3の分数計算だ。分数について、心の中に直感的にパイのイメージを持っている子どもは、半分のパイに1/3のパイを足したなら、結果は1より少し少ないくらいだということは、すぐにわかる。……それとは対照的に、分数に直感的な意味を持てず、分数とは、水平な棒で区切られた二つの数字だとしか思えない子どもは、分子どうしと分母どうしを足してしまうという、古典的誤りに陥る可能性が高い。」

注2
古田優太郞ジャマ育.comからの引用
「子どもの文章問題のできなさは危機的状況です。それは、こういった計算の意味を理解するための指導がないからじゃないかなと考えています。」
https://fruta-math.com/what_is_subtraction/
「ジャマイカでは全くそういった指導はされていなくて、計算の意味と計算式がつながっておらず、それが文章問題の理解の低さにつながっているのかもしれません。」(2017/02/25)
https://fruta-math.com/2017-02-25-084901/


(2020/03/10 09:39 AM, 09:45 AMのツイートに基づく。)

かけ算で求める問題だとわかれば


下は、志村五郎(1930-2019)氏の『数学をいかに教えるか』(2014年)のなかの「3.掛け算の順序」からの引用である(p.45)。その章で、志村氏は〈かけ算の順序〉教育を批判しているのだが、そこには、いくつも、問題点がある。



引用箇所には、「その問題を示されたならば、これは掛け算の問題であるとすぐに認識する」と書かれている。その問題というのは、「3トンの砂を積んだトラックが5台ある.砂は全部で何トンか」である。

最初の問題点は、「すぐに認識する」という箇所。どのようにして、それがかけ算で解ける問題だとわかったのであろうか。たしかに、高学年小学生以上ならば、そのことは瞬間的にわかるが、しかし、それは訓練の結果であって、小学校低学年は、はじめて、それがどうして掛け算で解けるのかを習うのである。

それがかけ算で解けることを認識できるためには、文章から次の2つのことを読み取らなければならない。a)かけ算の文章題の文章中に、同量のものが複数あるという数的関係、b)、全体の砂の量(重量)を求めることが要求されていることである。

a)の複数の同量物だが、これは、3人班が5つのように、複数の同数グループでもよい。a)は2つに分けられる。

a1)その同量(同数グループ)というのが、どのくらいの量なのかということである。トラックの例で言えば、それはトラック1台あたりが積んでいる砂の重量3トン、班の例では各班の構成員数3人である。この3は、算数では「一つ分の数」ないしは「かけられる数」と呼ばれている。

a2)もう1つは、「複数の同量物」の「複数」がどのくらか(グループの数)ということである。これは、トラックの文章題ではトラックの台数5、班の文章題では班の数5である。これは算数では「いくつ分」または「かける数」(乗数)と呼ばれている。

「掛け算の問題であるとすぐに認識する」と志村氏は言うことで、かけ算の仕組み・構造を、さっと通りすぎてしまっている。大人はそれでよいのだが、しかし、かけ算というのがどんな演算なのかを学んでいる小2には、通りすぎるこはできないし、通りすぎるべきではない。

ところが、志村氏は、「「乗数」「被乗数」という愚劣なこと」と言って、乗数/被除数(かけられる数/かける数)という概念を最初から否定してしまっている。だが、それでは小学生はかけ算を学べなくなってしまう。

なお、志村氏らは「1950年代に一部の教育家が「乗数」「被乗数」という愚劣なことを言い出したのが(〈かけ算の順序〉教育の)始まりらしい」と推測を述べているが、この推測は誤っている。



順序教育は日本では戦前からあるし、「被乗数」と「乗数」は、"multiplicand", "multiplier"(英語の場合)からの翻訳語で、西欧の算術書では、この概念は、何世紀も前から使われている伝統的な概念で、たとえば、ニュートンも使っている。



志村氏自身はかけ算をどう考えるかというと、冒頭の引用のなかに、そのヒントがある。「そして,ふたつの数がある.だからそのふたつの数を掛け合わせればよいので,頭の中にあるのは「ふたつの数の積」という概念だけであって,その順序は問題にならない.」

これは、〈被乗数×乗数〉のかけ算ではなく、中学以降の数学で学ぶ、因数×因数のかけ算である。〈1つ分×いくつ分〉や〈被乗数×乗数〉のかけ算と違い、ここでは、乗号の前後が同じ因数で、対称的なために、順序をそもそも設定できない。

3に4をかけるのでも、4に3をかけるのでもなく、3と4という2つの因数を掛け合わせて、12という積を構成する。算数では、3に4をかけて、その演算の遂行(計算)の結果としてはじめて12が出てくるが、〈因数×因数〉のかけ算では、3×4がそれ自身、12を表している。

因数分解というと、人は多項式の因数分解をまず連想するが、数の因数分解というのもあって、たとえば、12=3×4は12を3と4という2つの因数に分解している。そのどちらが被乗数で、どちらが乗数、ということはない。素因数分解は数の因数分解の特殊な場合である。

志村氏は、次の頁で、長方形の求積の例を出しているが、隣り合う2つの辺の長さから、長方形の面積という新しい次元の数を作り出すときに使われる掛け算は、本来は、〈因数×因数〉の掛け算である(注1)。

数学者や数学教師、高度な数学を使うエンジニアなどは、〈因数×因数〉でかけ算を考えるであろうが、このかけ算は、小学生低学年には、抽象的すぎる。もしこれでかけ算を導入するなら、かなりの小学生がかけ算の最初の理解に失敗してしまうでろう。

これに対して、〈被乗数×乗数〉や〈1つ分×いくつ分〉の非対称なかけ算は、3トントラック5台とか、6個入り卵4パックとか、いった日常的で具体的なもので例示でき、低学年でも理解できる。同数グループは低学年にも、アレイや直積に比べてとっつきやすい。



〈1つ分×いくつ分〉のような非対称なかけ算であっても、〈1つ分×いくつ分〉とも〈いくつ分×1つ分〉とも書けるという点では、順序はない。しかし、その非対称性ゆえに、順序と結びつきやすい。

一つ分といくつ分の概念を習っているときに、この2つの順序を混在させて提示するのは、子どもたちに混乱をもたらすだけなので、通常は、どちらかの順序で統一するであろう。日本の算数教育では、日本が明治期に近代教育制度を確立する際に参考にした19世紀の欧米の算術書に従って、〈被乗数×乗数〉の順序を採用した。〈基準量×倍〉〈1つ分×いくつ分〉はその後継である。

志村氏の批判の問題点は、志村氏に限られないが、対称的なかけ算を絶対視し、非対称なかけ算の教育的意義を無視していることにある。


補足

定数氏「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば、問題文に出ている数をただ書けるのは極めて合理的…1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」(2017/08/15 01:04 PM)

ここにも、同じ、見落としの構造が見られる。

「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば」と、定数氏はさらりと書いているのだが、その文章題がかけ算で解ける問題であることは、どこから分かったのであろうか。文章題なのだから、文章を読まなくては、それが何算の問題かはわからないはず。

たしかに、かけ算の単元にある文章題なら、かけ算で解くのだとわかるが、〈かけ算の単元ならかけ算を、わり算の単元ならわり算を使う〉といったような、単純で浅薄な方略では、かけ算の文章題もわり算の文章題も混じっているような、少しでも応用的なプリントにさえ対応できない。算数では、文章題がどの演算で解く文章題なのかを、文章から読み取れるようにならなければならないが、小学生には大きな課題である。だから、教科書には、これを訓練するための「何算かな?」という単元もある。使う演算を特定できる能力がつかないと、高学年で学ぶ割合の文章題に対処できない。というのも、割合の問題は掛けることも割ることもあるから。

大人はその問題が掛け算の問題だと瞬間的にわかるが、低学年児童は文章解析力がまだ十分ではないので、すぐにはわからない。「ずつ」などの表現を手がかりとして、最終的には、そこに同数グループという、かけ算が適用できる数的関係を、直感的に見てとることができるようになるのである。

同数グループの各グループの構成員数が一つ分(被乗数)、グループの数がいくつ分(乗数)なのであるから、その文章題がかけ算で求まる問題だという認識には、一つ分といくつ分が使われているのである。非対称のかけ算を学ぶ小2のために作られた文章題を、小2が解くときは、文章中に一つ分の数といくつ分の数を認識することが求められている。「1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」とする定数氏の言葉は、だから、教育的に、誤っている。




注1
算数で習うかけ算は、非対称なかけ算に限定されているのに、小学生が小4のときに学ぶ、長方形の面積の求める公式〈たて×よこ〉に使われるかけ算は、対称的である。これは一見、不整合であるが、この「不整合」は、ある工夫によって解消されている。つまり、長方形の面積は、1辺が1cmの単位正方形(1つ分=1cm^2)を考えて、それがいくつあるか(いくつ分)ということで、長方形の面積を求めているのである。だから、ここに使われているかけ算は、因数×因数ではなく、単位あたり量×いくつ分という非対称なかけ算なのである。

そして、その「いくつあるのか」(単位正方形の総個数)ということもまた、一つ分×いくつ分で求める。つまり、長方形の縦の個数だけ単位正方形を縦に積んでできた棒を、横の個数分だけそろえる。総個数は、同じ高さの単位正方形の棒が何本並んでいるか、で求めるのである。つまり、縦の個数×横の個数で総個数が求まるのであるが、これは、因数×因数ではなく、ふたたび、一つ分×いくつ分である。

(2020/03/26のflute23432ツイートに基づく。)

かけ算の順序は指示であり命題ではない


1.解答書式

たとえば、「3と4の公倍数を【小さいほうから順に3つ】書きなさい」という算数の問題に、「12, 36, 24」と解答したら、バツにされてもしかたない。というのも、その解答は、【小さいほうから順に】という指示に従っていないから。【下の解答欄に記入しなさい】とあるのに、上の解答欄に書いたらバツになるのと同じである。そのバツは、指示違反に基づくもので、12と36と24が、3と4の公倍数であることを否定するものではない。「12, 24, 36, 48」と4つ書いてしまった場合も、【3つ】という指示に反するのでバツか減点(サンカク)になるであろう。そのバツは、なにも、48が3と4の公倍数であることを否定しているわけではない。


【小さいほうから順に3つ】という指示は、【下の選択肢群から選んでその記号を解答欄に書きなさい】といった指示に類する、解答書式上の指示である。【小さいほうから順に3つ】はけっして、3と4の公倍数の性質として言われたものではない。【小さいほうから順に】というのは、解答の書き方を指示しているだけなのであって、公倍数の性質に及ぶものではない。3と4の公倍数は、たしかに、小さい順に書かれることが多いが、それは、昇順性(小さい順)が公倍数の性質に属している、ということではない。


【3つ】という指示も、3と4の公倍数が3つしかない、ということを言おうとしているのではない。間違って4つ書いてしまった者も、3と4の公倍数4つしかないと思っているわけではない。4つ書く自由を奪われた(3つ書くように強制された)、と騒ぐ問題では、当然、ない。

公倍数の性質と、公倍数を表記したり解答したりする際の書式とを混同すべできない(この公倍数の問題の場合、実際には、混同する人はいないであろうが)。

【下の解答欄に書きなさい】とか【分数の横棒は定規で引きましょう】とかいった指示は、解答書式上指示であって、問われていることの数学的性質が問題となっているのではないことが、公倍数の場合よりいっそう明白である。指示があるにもかかわらず、定規で引かなかったらバツになるが、そのバツは計算上の正しさをただちに否定するものではない。

このことは、〈かけ算の順序〉も、本当は、同様なのである。〈かけ算の順序〉というのは、第1に、かけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くという、明治期以来の日本の算数教育内の慣習である。教科書や板書はこの慣習に従って書かれる。第2に、それは、この慣習に従って書くようにという解答書式上の指示である。日本の学校算数では、かけ算の文章題では、式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求められていて、それに従えていないと、しばしば、式がバツになる。


ところが、この採点が、かけ算の可換性という、数体系の公理ともなるような数学的な原理に対する挑戦だと誤解され、激しい反発を呼び起こすのだが、順序が指示であることがわかっていれば、そのような誤解は起きないはずである。

なぜそのような指示がなされるかと言えば、一つ分といくつ分がそれぞれわかっているかを同時に見るためである。算数では、かけ算は、複数の同数グループがあったとき、一つ分(被乗数)といくつ分(乗数)から全部の数を求める演算として習う。だから、文章題が行われるとき、一つ分といくつ分を区別して、それぞれを把握しているかどうか、が理解の1つの指標となる。

一つ分といくつ分の区別が理解できていなかったり、曖昧であったりすれば、その指示にいつも従うことはできない。「いつも」というのは、式は〈1つ分×いくつ分〉かその逆の2通りしかないので、たまたま指示通りになることは、普通に起きることだからである。指示通りの順でないと、式がバツになるが、そのバツは、一般に、かけ算の式が逆に〈いくつ分×1つ分〉と書かれることがある、ということを否定しているのではない。アメリカやブラジルなど、〈いくつ分×1つ分〉という逆の順で書く習慣がある国は多い。日本でも、会計伝票書類は、数量×@単価の順に書かれているものが多い。


〈かけ算の順序〉は、〈1つ分×いくつ分〉という一方の順序が、かけ算そのものに属している、かけ算の性質である、と主張しているわけではない。だから、順序派の主張を「かけ算には順序がある」のような、かけ算の性質について述べる命題で表すのは、適切ではない。かけ算の順序は、表記や書式のレベルで、日本の算数教育の慣習として通用しているもの、そしてまた、どの数が一つ分でどの数がいくつ分かを正しく把握できているかを確認するための教育的な工夫として、児童にも求められているものである。


この、表記や書式のレベルと、かけ算の基本的な性質としての可換性のレベルとを、ごっちゃにしてはならない。


2.指示と命題

以上のような、表記と性質のレベルの混同と連動して、順序派に対する誤った批判に、働いているのは、指示(命令)と命題のすり替えである。

【小さい順に3つ】とか【一つ分×いくつ分の順で】とかいった、解答書式上の指示に限らず、一般に、指示や命令について、真偽は問題にできない。「窓が開いている」は、現実についてのある判断を表す平叙文なので、実際の窓の状態を基準に、真偽を問題にできる。しかし、「窓を閉めなさい」という命令文は、それが実行されるかどうか、その指示がその状況で適切か、などは問えるが、実際の状態(数学なら、たとえば、図形の性質)に照らして、それに合致しているかどうか、つまり真偽を、問題にすることはできない。

「窓を閉めなさい」と指示したからと言って、そしてまた、指示に従わないという理由で否定的な評点を付けたからと言って、窓が物理的に開閉できることを否定しているのではない。むしろ、逆で、開閉できるからこそ、「閉めなさい」と指示することができるのである。同様にして、かけ算は可換なので、一方の順序で書くことを指定できる。

ところが、かけ算の性質と書式、命題と指示(命令)を区別できずに、〈かけ算の順序〉指導について、嘘を教えていると批判する者が絶えない。それは真実でも嘘でもないので、嘘と知りつつ方便で教えている、ということもない。

「掛け算の順序は有害無益な嘘出鱈目、1+1=7 と教えるようなもの。」(定数氏 2020/02/29 07:47 AM)
「我々は、掛け算順序は嘘出鱈目だから教えるのはやめろ、と主張しています。」(定数氏 2019/12/07 08:04 PM)

「「掛け算に順番がある」は嘘なのだから、わざわざ嘘を教えてる順序派がそのメリットを証明する必要があります。」(大根氏 2020/02/11 10:50 PM)

「自然数の掛け算順序固定…嘘を教えることとある範囲で正しいことを教えることは全然違うので反省して欲しい」(御幸氏 2020/03/05 05:52 PM)

「子供に嘘を教えるのはやめましょう。」(日輪氏 2019/12/10 00:46 PM)
「実数の掛け算に順序があると教えることは誤りだから、それは嘘を教えていることになるわけですね。」(大石氏 2019/12/05 07:17 AM)

自由派は、しばしば、順序派の立場を「かけ算に順序がある」と表現するが、それは藁人形論法である。「式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書きましょう」という指示を、「かけ算には(特定の)順序がある」という命題にすり替えて、批判しているのである。


3.「掛け算には順序がある」という命題の曖昧さ

「掛け算には順序がある」という表現は、たまに、順序派が使うこともあるものの、自由派がしばしば、順序派の主張を表すのに用いる表現である。それはかけ算についての命題であり、かけ算そのものの性質として、特定の順序があることを示している。

上で述べたように、〈かけ算の順序〉は指示であり、「掛け算には順序がある」という命題で表現される主張ではないのだが、順序派の主張を表さないこの命題を単独で取り上げて、その真偽を問題にすることは可能である。ただし、命題に含まれている「順序」という言葉がとても曖昧なために、その真偽は一通りには決まらない。

もしその命題が、かけ算は、〈割り算・引き算のように、演算記号の前後の数を交換すると、答えは一般に違ってくる〉(計算結果同一性の否定)という意味なら、順序派は、「かけ算には順序はない」と主張するであろう。算数教育では、実際には、「被乗数と乗数を交換して計算しても、答えは同じ」ことは、繰り返し、教えられている。「かけ算には(答えに影響を与える)順序がある」と教えられているというのは、事実ではない。

「順序」をその意味で理解するなら、「掛け算には順序がある」というのは偽であり、また、それは順序派の主張でもない。

だが、算数で教えられるべきかけ算は、乗号の前後が非対称な〈1つ分×いくつ分〉のかけ算である。小学生には難しい〈因数×因数〉タイプのかけ算は、中学以上の数学で習う。もし、算数で習うかけ算の非対称性そのものを順序と呼ぶなら、たしかに、算数教育では、「かけ算に順序がある」と言える。かけ算の性質として、順序性があるのである。ただし、1)その場合の順序性は、あくまで、〈1つ分×いくつ分〉であってその逆ではない、という特定の順序のことではなく、非対称性のことであること、そしてまた、2)かけ算一般ではなく、小学校で教えるような非対称なかけ算がもつ性質であること、を忘れてはならない。。

このとき、別の観点では、順序はあるともないとも言える。かけ算を〈1つ分×いくつ分〉などの非対称な図式で考える場合、〈1つ分×いくつ分〉と〈いくつ分×1つ分〉の2つの順序が考えられるが、この意味では、「かけ算には順序がある」と言える。だが、〈1つ分×いくつ分〉と書くことも、〈いくつ分×1つ分〉と書くことも可能、この2つの順序のうち一方に決められているということはない、という意味では、かけ算に順序はない。

もしその命題が、日本の算数教育では、〈かけ算は〈1つ分×いくつ分〉の順に統一・固定して教えられている〉、〈児童も、それに倣ってその順序で書くことを求められている〉、という事実を指すなら、日本の算数教育では、かけ算に順序はある、と言える。しかし、もしそのような日本の算数教育の特徴を表したいのであれば、「かけ算には順序がある」ではなく、「日本では、かけ算の式は、〈1つ分×いくつ分〉の順に固定して教えられている」、あるいは、「日本の算数教育では、かけ算の式は、〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求められている」と言うべきである。


ただし、算数でかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求められるのは、教科書の例題の文章題や、ドリルや単元テストのかけ算文章題の立式など、意味が重要なところに限られる。計算問題や立式後の計算過程では、意味が重要ではないので、式の順序は固定されない。この意味では、「かけ算に順序はない」と言える。

(2020/01/13 07:51PM, 2020/03/97 02:01PM, 02:09PMのツイートなどに基づく。)