2020年4月10日金曜日

保存性の獲得とかけ算の順序

保存実験の映像
"Conservation task" (YouTube, jenningh, 2007/02/10)

Piaget- Conservation Task - YouTube


「私は、子どもがピアジェの保存課題に失敗することが、些細な問題だとはまったく考えていない。それどころか、この問題は、世界各国の多くの研究者を依然惹きつけてやまない、活発な研究領域なのである。」(ドゥアンヌ『数覚とは何か?』p.90)

ピアジェの保存実験は批判されてきたが、否定されたわけではない。

ピアジェを批判するドゥアンヌ自身が言うには、前操作期(2~7歳)の子どもがなぜ数や量の保存を理解できないか、という問題は、まだ決着はついておらず、依然として、研究テーマとして魅力と価値を失っていない、というのである。

保存実験というのは、上記 YouTubeの映像にもあるように、コインとコインのあいだの間隔を広くしても枚数は変わらないこと、水を細長いグラスに入れ換えても量は変わらないこと、ビスケットを分割しても全体の量が変わらないこと、などを認識できるかどうかを試す、よく知られた実験である。

  ◯◯◯◯◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
6歳くらいまでの子どもは、同じ数の上下のコイン列で、どちらが多い?という質問に、間隔を広げたコイン列のほうが多い、と答える。また、形とサイズが同じコップに同じ高さでいれた同じ分量のジュースだが、片方のジュースを細長いグラスに入れ替えると、入れ替えたほうのジェースのほうが多いと答える。ビスケットを2つに割ると、量が増えると思ってしまう。

だが、保存性の獲得に失敗した、という否定的な言い方をすべきではない。この実験は、単に、小さい子どもが愚鈍な存在であることを示している、というように理解すべきではない。前操作期の子どもにとって、数量はそのものの配置や形状からはまだ十分に分離・独立していないものだからである。コインの列という現象から、コインの数の多さとコインの列の長さとが区別・抽象されていない。そこはまだ、数や量が十分に抽象されず、他のものと混じり合う未分化で具体的で独自な世界なのである。

こうした未分化で具体的な世界では、配置や形状は数量に影響しうる。どちらが多い?ときかれたとき、子どもたちはその「多さ」を、純粋にコインの個数の多さとして、水の体積として、ビスケットの重量として、理解しているわけではない。この世界では、コインの数は同じでも、間隔を空けたコインのほうが、狭いコインよりも「多い」のだ。

保存性と言っても、数の保存性と重さの保存性と面積の保存性では、獲得される時期に違いがある。また、獲得時期に個人差や文化圏の差があり、また、重さの保存についても、細かく言うと、粘土を平たくするか紐状にするかで獲得時期は違ってくる。

小学校低学年は、数量の保存性を獲得する具体的操作期の初期なので、算数では数の保存性を学ぶのにふさわしい年齢である。たとえば、1年生は、合わせて数えると10になるさまざまな組合せ(補数)を学習する。

◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯ =5+5=10
◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ =3+7=10

これは、同じ10個のブロックを2つのグループに分けるとき、その分け方を、5+5から3+7に変えても、総数には影響しない、ということを学ぶことである。かけ算の可換性(交換法則)の学習も、物の配置の違いにもかかわらず、その数量が保たれることの理解であると言える。

つまり、掛け算の可換性の理解とは、3つずつまとめるか、4つずつにまとめるかといったグループ化の仕方の違いにもかかわらず、みかんの総数は同じ12個になることを理解することなのである。

◯◯◯ ◯◯◯ ◯◯◯ ◯◯◯ =3×4=12
◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯  =4×3=12

だから、かけ算の交換法則は、保存性を獲得しようとしている子どもたちにとって、大人が思うほど自明ではないに違いない。それは、子どもにとって大いなる発見、大いなる課題でありうる。

だが、子どもたちは抽象化の道を歩み始めたばかりである。依然として、足し算・掛け算は、皿の上のみかんやブロックなどの事物の配置や操作につながれたままである。具体的操作期の子どもは、論理をまだ、物理的な事物にしか適用できない。

小2は、算数の授業で、被乗数と乗数の数値を入れ替えて計算しても答えは同じこと、つまり、交換法則をたしかに学ぶ。だが、ここでは、3個ずつのグループを4つ作って数えたら12個、次に、4個ずつのグループを3つ作って数えたら、その結果が同じ12個だった、ということである。

3(一つ分)×4は、4(一つ分)×3とは、グループ分けの仕方(意味)が違っている。だから、「1カゴ4個のみかんを3カゴでは、全部で何個?」という文章題の式は、4×3であり、3×4ではないのである。算数では、3×4がバツになる理由である。

また、3×4や4×3は、それ自体ではまだ、全部の数を表していない。小2は算数で、かけ算の式は〈1つ分×いくつ分=全部の数〉のように書くと習うが、全部の数はあくまで右辺であり、左辺ではない。小学生は同時的な等しさという概念をまだ確立しておらず、左辺から右辺に移行するには、計算する労力が必要である(注1)。4×3はまだ答えではなく、かけ算という演算を実行して、12と結果が出てはじめて、それが答えとなる。

12歳(6年生)前後に、形式的操作期が具体的操作期に代わって現れる。形式的操作期の子どもたちは、今目の前にある現物なしにも、抽象的な観念について考え、頭のなかで知的な操作ができるようになる。仮説を立てて演繹推論することも、可能になる。

形式的操作期の子どもは、①AはBより大きく、②BはCより大きいなら、③AはCより大きい、という推論もできるようになる、という。だから、①3×4=12と②4×3=12から、さらに進んで、③3×4=4×3(無差別)という帰結を引き出せるようになるであろう。

この段階にいたると、3×4と4×3のあいだの、物の配列の違いや意味の違いは無視され、純粋に数量的に比較されて、両者は等しく、自由に言い換え可能だと見なされるようになる。3×4という演算とその結果12とが、同じものの異なる現れにすぎないと見なされ、同時化される。数式からいわば意味が失われるのである(注2)。

天秤の釣り合いに、重りの重さだけでなく、支点からの距離という要因も関与することを理解できるようになるのも、形式的操作期になってからである、という。2つの要因が働いていて、両者がそれぞれ2倍になると、考慮されるべき全体の大きさが4倍になる複比例の関係である。

具体的な操作期では、かけ算は、基準量×倍で理解される。ここでは、「何倍か」を表すのは、掛け合わせる2つの数字のうちの後ろの数(乗数)に限定されている。小学生は九九の各段を、各皿2切れのケーキが1皿だと2切れ、2皿だと4切れ、3皿だと6切れのように、a×b=cのaを固定してbだけを増やして、それに応じて答えcも増える、という仕方で、つまり、単比例的に学ぶ。重さを2倍にするとばね長さ(伸び)も2倍になる、2倍の時間が経過すると水量が2倍になる、という単次元的な比例の関係は、小学生にも理解されやすい。

ところが、中学以上の数学で習うかけ算は、乗号の前後が対称的な因数×因数のかけ算である。ここでは、乗号の前後の因数は、どちらも(数だけでなく)量を表すことができ、同時に、どちらも何倍かを表すことができる。〈電流×電圧=電力〉のように、掛け合わされる2つとも特定次元の量を表すときは、新しい量の次元が生まれる。因数が両方とも2倍になると積は4倍となる。小学生には、この複比例的な現象の理解が難しいらしく、たいていの小学生は、縦横辺が2倍の長方形の面積は、もとの長方形の2倍だと答えてしまう傾向がある。

算数で習うかけ算は、具体的な事物の配列やグループ分けに依存する「具体的」操作期の掛け算であり、「形式的」操作期の掛け算ではまだないのである。だから、形式的操作期で通用する感覚や論理を、そのまま算数教育の議論のなかに持ちこんではならない。

黒玄氏や定数氏、中二氏らの目に、算数教育が理不尽に見えるのは、彼らが発達、子どもの論理的思考の発達の段階、というこの概念を理解しないからである。彼らがもし発達という概念を受け入れたら、それは彼らの算数教育批判が破綻するときであろう。彼らにとって、発達はタブーなのである(注3)。





注1
中学で文字式を習うと、演算とその結果が同時化する。2ab+3という文字式は、演算のプログラムを表すと同時に、演算を実行した結果を表すようになる。つまり、演算とその結果が同時化する。しかし、算数で四則演算を学習している限りは、このような発想は出てこない。計算式(左辺)は、多かれ少なかれ労力をかけて計算を行うことではじめて、その計算結果が右辺に出てくる。等号は、算術では、計算結果を導く記号という理解で十分なのである。

しかし、素因数分解は中学で学ぶが、大きな数で顕著となるように、素因数分解した結果から下の数をかけ算で求めるのは簡単だが、分解にはとても時間がかかることは、知られている。この素因数分解における非対称性は、インターネットの公開鍵暗号にも使われている。このように、計算(演算)と計算結果は、数学的には同時だが、実際的には、同時ではない。


注2
より上の学年・学校の数学を学ぶにつれて、学習内容の抽象化が進んでいく。小学校高学年になると、割合を学ぶが、割合や比を表す数は、長さや値段のような、直接量を表す数ではない。それは、量と量との関係を表す点で、より抽象的である。中学になって文字式を学ぶと、使われている文字が具体的にどんな種類のどくのらいの量なのかが問われることがほとんどなくなり、現実との関係が希薄化する。高校になると、図形の問題で「半径が2だとすると」と言われていることがあるが、小学生からすると、それが2cmなのか2mなのか、はっきりしてくれということになる。

そのように数と式の抽象化・脱具象化が進んでも、式が意味を完全に失うまでにいたるかというと、それは考えにくい。

① 3×4
② 6×2
③ 12
④ 13.1-1.1
⑤ √144

これらはどれも、それが表す数の大きさは等しいのだとは言っても、③を除いて演算子が含まれていること、①②はかけ算だが、③は引き算であること、①と②では因数の組み合わせは違うこと、といった違いは残っている。これらは意味が違っている。だから、数学が初等数学から中等数学、高等数学へと高まっても、意味が完全に失われることはない。「3つの袋があり、各袋に4つずつ詰めるとき、キャンディは全部で何個必要?」という文章題で、式は6×2でも正しいとする、定数氏のような一部の自由派は、初等数学の抽象化の度合いを見誤っている。


注3
発達心理学の分野に限られないが、ピアジェのような、その学問に多大な貢献をした学者は、賞賛も多いが、批判も多い。逆に、貢献がわずかな学者は評価も批判もされずに、無視されるものである。

黒玄氏らは、ピアジェに対してこれまでなされてきた批判を無批判に持ち上げることで、ピアジェが葬り去られた、ということにしてしまっている。それだけでなく、発達そのものも否定されたことにしてしまっているのである。どうしても、そうしたいのである。そうでないと、彼らの算数教育批判は破綻してしまうから。それほど、発達は彼らにとって、やっかいで忌まわしい概念なのである。

一般に、ある学者の説が部分的に否定されても、その学者の価値は失われない。のちの発達心理学がピアジェの批判に基づいて発展してきたなら、ピアジェやピアジェ批判がなかったら、今の発達心理学はない、ということでもある。かりにピアジェや発達心理学が否定されたのだとしても、人間の思考が発達する、という事実そのものまで否定されることはない。


(flute23432 2019/05/25 01:33のツイートに基づく)