2020年8月26日水曜日

フランスの掛け順論争

ここでは、J・ボロン「3かける2と2かける3は同じなのか ― 誤解の歴史」(1994年)の論文を、批評を加えつつ、紹介することとしたい。

Jeanne Bolon, "Deux fois trois et trois fois deux sont-tils égaux?", in: Grand N (Institut de recherche sur l'enseignement des mathématiques de Grenoble), 54, 1994, 21-25.

この論文で、ボロンは日本には言及していないが、日本で行われているのと内容的にかなり重複する掛け順論争が、フランスでも起きていることを示している。たしかに、量の理論とか助数詞とか、「逆順で式バツ」だとかいった、日本固有の問題もある。だが、それは論争が、元をたどれば、かけ算というものの固有な性格に行き着くのではないか、ということを示唆する。


1.3×2と2×3のどちらなのか

ボロンは、教師たちの集まりなどで、「3かける2と2かける3は同じなのか」という議論をふっかける。「3かける2」は、2個のものの束が3つ(2が3回)、「2かける3」は3個のものの束が2つ(3が2回)だから、違うという意見が出る。

ボロンはそれに一応は同意する。だが、乗数と被乗数が逆で、2×3 (deux fois trois)は、3×2と書き、"trois multiplié par deux"と読ませている教師もいる。フランスでは、地域や教師によって、乗数と被乗数が逆に固定されている。

日本の算数教育では、基になる数量(一つ分)を先に倍数(いくつ分)を後に書く、という点で一貫しているが、フランスでは、かなりバラツキがある。外国の初等数学教育は、日本とかけ算の順序が逆だとは、単純に言えないのである。

2×3と3×2は、数として同じなので、区別するのは無意味だ、という反対意見が出る。数やその性質に関心をもつ数学者はそう主張する。どちらを信じたらよいのか。これを決める権威は誰か。

小学校では、式に単位を付けて、6F×3=18Fと書かせるという(Fはフラン)。物理学者は6F/kg×3kg = 18Fと書くであろう。この場合は順序は重要ではない。しかし、小学生は高学年まではまだ、分数を計算できない。

日本では、現在では、式に単位を付けない。付けるべきだという論者は多いが、問題点はフランスと同じで、単位の分数表記が、小学生には難しい。約分が既習でも、数ではなく単位の約分を理解させるには、中学で単項式のわり算を学んである必要があるのではないか。。

中学生になると、代数学の初歩を学ぶ。2xはxが2つ(2回)ということなので、回foisが前に来る。ボロンは、左に書くか右に書くかは慣習の問題にすぎないので、小中接続を考えて、回(乗数)を左に書くことを提案する。

すると、なぜ中学校のためにそんなことをしなくてはいけないのか、という声が挙がる。フランスにも、小中対立があるようだ。これに対して、ボロンは、小学校でも、数字の原理では、2034 = 2×1000 + 3×10 + 4×1と、回を前に表記しているではないか、と言う。

2千のことは、フランス語で"deux mille"と、2(deux)を最初に言う。黒元氏もどこかで言っていたように、乗数と被乗数の順序は、日本語とかフランス語とかいった言語に拠るというよりは、それをどう読む習慣があるか、ということに依存する。

ボロンは、代数学では2xはxが2つ(2回)となるので、乗数が左に来るという。そうも言えるが、中学では、内容的な区別よりも、「積では、数字を先に、文字は後でアルファベット順とする」という形式的な順序が支配的になる、とも言える。

私の理解では、代数学では、具体的な量を表す数字の代わりに、記号(文字)が使われ、式の言い換えが中心に来ることで、記号が何を表しているか、ということが副次的な問題になり、意味や現実とのつながりが希薄になる。

つまり、中等数学教育で数学の抽象性が一段と高まり、数学が現実から一層遊離する。すると、かけ算の因数が基準量なのか倍数なのかということが、基本的に、不明になるとともに重要性を失って、小学校で学んだかけ算の順序が効力を失う。


2.3×2と2×3は同じなのか

次にボロンが議論するのは、順序をどちらにするかではなく、3×2と2×3は同じかどうかである。数(nombre)としては同じだが、物語(histoire)としては異なる、とボロンは言う。数と物語の違いは、ベリー(Brett Berry)では、equalとequivalentの違いである(注1)。結果と過程の違い、数量的同一性と意味の相違との違い、と言ってもよい。

histoireは歴史だが、物語の意味もある。histoireはhistoryとstoryの2つの意味がある。物語と言えば、日本の算数では、お話し作りがとても重視される。

文章題からそれに対応する式を立てる練習とともに、式から文章題というお話しを作ることを、日本の児童はやらされる。ツイッターの「#掛算」タグでは、4×3が場面を表わすのか数を表すのか、ということが論争となった。

3×2と2×3の同一性を主張する者は、計算の結果を重視する。これに対して、非同一性を主張する者は、状況と式との不一致を主張する。かりに式としては同一だとしても、具体的な状況としては違っている。状況と式との不一致というのは、たぶん、状況が具体的で式が抽象的ということであろう。

ボロン自身は、式を立てる(方程式を立てる mise in équotion)、または、モデル化する(modélisation)という表現で、この2つの立場を仲介しようとする。

立式するとき状況は区別されるが、しかし、一度立ててしまえば、計算は数に中心に行われる。その結果は状況に応じて異なって解釈される。立式→数の計算→解釈。

日本の算数教育では、一つ分といくつ分の違いを意識して立式するが、立式後の計算は数の単なる処理と見なされ、答えでは単位・助数詞を付けて、ふたたび量として扱う。ボロンのこの考えは、これに近いように見える。

だが、同一性と非同一性を行き来すればよいという、このような、はぐらかすような提案では、ボロン自身認めるように、教育上の問題の解決にはならない。小学校では、児童は、立式と計算と結果の解釈を区別せずに、各ステップで、同時に行う。

小学校では、同じものの集まりがいくつも繰り返されているという状況は、子どもにとって意味があり、かけ算は同数累加で導入しやすい。同数物の反復が、かけ算のための最初の準拠状況なのである。

デカルト積や代数学的表現に結びついた、別の準拠状況もある。人形に着せる2つのチョッキと3つのスカートのコンビネーションがいくつあるかを考えるときのかけ算は、3×2と2×3のどちらが特権的ということはない。

3行4列の碁盤目の数を求めるとき、乗数(回 fois)といった概念は、意味がない。碁盤を回転させれば、行と列は容易に入れ替わる。

また、1m当たり3フランスの紐7,25mの価格を求めるときのように、乗数に小数を導入したとたんに、回数(fois)という表現は奇妙なものになってしまう。何回という表現は、教育上の障害となりかねない。

日本の初等数学教育は、かけ算を足し算から独立した演算、単なる同数累加以上の演算として扱うことで、この問題を解決した。つまり、乗数に単なる倍数ではなく、量的な意味(いくつ分)を加えることで、解決した。

ボロンによると、統計学者はかけ算の別の意味を用いる。Z村の住民5万人の3人に2人が朝カフェで過ごし、そのうちの4人に3人がカフェRを利用するという。カフェRを毎朝使う住民は何人?という問題では、樹形図が役立つ。

このように、ボロンによれば、かけ算は多様な状況に適用されるので、小学校で学ぶかけ算が他の状況にも拡張できる、と信じるのは幻想である。このことは賛成である。しかし、このことは、裏返せば、他のタイプのかけ算の基準を安易に、小学校で学ぶかけ算にこっそりと持ちこむべきではない、ということでもある。

かけ算の意味には、一つ分×いくつ分だけでなく、基準量×倍数、因数×因数もある。中学になると、因数分解や素因数分解で、乗号(×)の前後が対称的な直積タイプのかけ算を学ぶ。

takehikom氏訳のヴェルニョー(Vergnaud)からの次の引用を読んでいたので、私は、フランスでは、小学生のころから直積でかけ算を学ぶと思っていたが、違うのであろうか。「非常によく使われてきた」だけなのであろう。

「デカルト積は,(積の考え方として)非常にいいので,フランスではとにかく,小学校の第2~3学年でかけ算を導入する際に非常によく使われてきた.しかしこの方法で導入すると,多くの児童が,かけ算の理解に失敗している.」

ボロンによれば、フランスでは、かけ算の導入は、乗号(×)の前後が非対称的なかけ算によって行われる。だが、ボロンは、かけ算のすべての性質を一度に教えることは不可能だし無駄である、と言う。まず、3×2と2×3が異なる段階(小学)があり、相違が意味を失う段階(中学以降)がそれに続くのである。

一貫性のなかで両者を結びつける教育が必要だというのが、ボロンの結論であるが、では「一貫性のなかで両者を結びつける教育」とはどんなものであるべきかについては、具体的な提案はない。

かけ算の異なる意味を、同じ子どもが異なる段階で学ぶのであるから、それらの違いを尊重しつつ、同時に、小中高の接続がうまくいくような、概念や教え方を考えるべきなのである。これについては、賛成である。

定数氏ら自由派は、中学以降で学ぶかけ算の意味を絶対唯一のものと見なし、それによって、小学校で学ぶかけ算の意味を蹂躙しようとしている。これでは、かけ算の導入教育も小中接続も、うまくいかない。ボロンもこのような暴力的なやり方には反対するであろう。


注1

"Why Was 5 x 3 = 5 + 5 + 5 Marked Wrong?"

https://medium.com/i-math/why-5-x-3-5-5-5-was-marked-wrong-b34607a5b74c

(flute23432 2018/08/02 03:17PM, 08/05 03:01AMのツイートに基づく。)









2020年6月19日金曜日

戦後教科書におけるかけ算の定義

1.1950年代


1950年代、日本では、かけ算は、同数累加(repeated addition)の簡略算として定義されていた。この定義は国際的でかつ伝統的なもので、ユークリッドの原論にも見られるものである(注1)。

つまり、5+5+5+5+5+5+5と同じ数を5つ足すことを、繰り返される対象となった数(被乗数)と繰り返しの回数(乗数)の2つの数を用いて、簡潔に5×7と表記したのが、かけ算である。

つまり、この定義だと、かけ算はたし算(当時は寄せ算と言った)の特殊な場合にすぎない。この定義では、乗数が小数になったときに困難が生ずる。5を7回足す(寄せる)ことはできるが、7.5回足すことはできない。

また、この定義だと、乗法は加法のと特殊な場合のための特殊な表記法ということにすぎない、ということになってしまい、乗法に四則演算の1つとしての独立性を与えることができないうらみがある。

この定義はたし算を基礎としているので、たし算既習の小学生には、理解可能なはずであるが、定義自体は、式の表記上システムの話なので、小学生には、納得して理解してもらうことは難しかったかもしれない。というのも、小学生は、抽象的思考が未発達で、具体的な事物や動作からこそ物事を理解できるからである。

だが、この定義では、5+5+5+5+5+5+5という式の各項(5)の下に、5つのリンゴが載った皿を7つ描くことで、複数の同数グループの具体物に対応させ例示することが容易である。対応させることで、一つ分×いくつ分による現在の定義との違いはあまりなくなる。


小学生にとって形式的で理解しにくいという、この定義の問題点は、十分に例示すれば、解消可能である。


2.1960年代~1970年代



生活単元時代(1950年代)は同数累加で定義されていたかけ算は,次の系統学習時代(1960年代)に,倍で定義されるようになった。

この定義は、戦前の緑表紙教科書におけるかけ算の定義を踏襲するものである。系統学習の教科書は,実際、緑表紙教科書を手本としていたのだから、当然である。かけ算に入る前に,テープや図形を使って,倍を定義しておく手法も,緑表紙由来である。



続く現代化時代も,かけ算の定義については変化はなく,倍による定義であった。SMSGの教科書のように,アレイ図と直積で定義するような極端に走ることはなかった。

倍がどういうことかは,学校図書では,緑表紙と同様に,かけ算の章の少し前のところで,説明されている。テープを半分に切って,切る前の基の長さは,半分のテープの2つ分であり,これは2倍とも言うとある。つまり,倍は「いくつ分」から説明されている。



東京書籍は,かけ算の最初の章で,「2この3つぶんを,2この3ばいといいます」(2下 1970 p.63)と書かれていて,やはり,倍がいくつ分から説明されている。

しかし,いくつ分と倍は完全に同じではないであろう。上記オレンジ色の画像に「うまは、かめの何倍ですか」とはあるが、ウマの数とカメの数という2つの量の大きさの関係を、カメの数を基準として、問うている。ここでは、倍は比である。かめの数2の3倍が,うまの数6なのである。

かけ算はもはや,たし算の特殊な場合の簡略表記ではない。あくまで、2つの量の大きさの関係なのである。しかも,それは単なる静態的な関係(比)ではなく、「倍加する」という運動,働きでもある。かめは2匹であり、うまの数6匹は、それを3倍に「引き伸ばした」大きさなのである。

注意すべきは,ここでは、カメはウマの一部(単位)ではない、ということである。これは,〈1つ分×いくつ分〉による定義と違う点である。1つ分は基本的に全部の量の物理的な一部である。また,いくつ分が量であるのに対して,倍が量ではなく関係・働きである点でも,違っている。

被乗数×乗数にしても,一つ分×いくつ分にしても,乗号の前後は非対称的であるが,基準量×倍は,この非対称性が際立っている。倍を表す数は,事物が直接表す量ではなく,量と量との関係であり,その点でより抽象的である。

この時代には、かけ算の式の〈言葉の式〉(公式)は,東京書籍では,とくに,これに対応する公式はないようだが,学校図書では,

もとの数×かける数=答え

となっている。さらに,倍という概念をここに含ませれば,

もとの数(量)×何倍=全部の数(量)

となるであろう。


「かけられる数」(被乗数)と「かける数」(乗数)は,同数累加でかけ算が定義されていた時代の概念である。東京書籍では,それらは定義されていないが,言葉としては九九表に使われている。学校図書では,九九表の「かけられる数」のところが「もとの数」になっている。

かけ算が倍で定義される時代になって,同数累加が否定されたかというと,そうではなく,「4×3のこたえはつぎのけいさんでだすことができます。4+4+4=12」(東京書籍 p.65)と,書かれている。

つまり,同数累加は,もはや掛け算の定義ではないが,かけ算をたし算でも表せるという付随的な指摘のなかで生きている。これは,現在の教科書もそうなっている。また,学校図書では「3+3+3+3は3の□倍です。」といった問題があり,倍は被乗数・乗数の乗数に対応するものであることがわかる。

このように,かけ算は倍をメインに定義されているが,同数累加や〈1つ分×いくつ分〉が消滅したわけではなく,周縁に退いただけである。倍の時代に,倍がいくつ分から説明されていることを考えれば,根底的には,かけ算は本源的には「いくつ分」なのであろう。


3.1980年代~2020年代



現代化の時代が終わると、かけ算の定義は、〈基準量×倍〉から、〈1つ分×いくつ分〉へと変わった。

倍による定義は、小学校の低学年生には少々、高度であった。というのも、倍は量と量の関係を表す数(比)だから。

現代化時代に、日本の算数教育は、現代数学の概念を取り入れていたずらに形式化・高度化に走り、大量の数学嫌いを作ってしまった。このことに対する反省から、日本の算数教育は、基礎と具体性へと帰ることになった。

その際、教科書が取り入れたのが、数教協の〈一あたり量×いくつ分〉というかけ算定義であった。同数累加の簡略算という定義では、乗数が小数や分数のかけ算ががうまく説明できなかった。そのため、数教協は乗数を量化したのである。

数教協の概念は、一般には、かけわり図や組立単位など、小学生には難しいものばかりであるが、教科書に取り入れられた次のかけ算図式は、低学年でも十分に理解しやすいものてあった。

①〈1つ分の数×いくつ分=全部の数〉
②〈1つ分の大きさ×いくつ分=全部の大きさ〉

①は②の分離量バージョンである。これは、英語圏では、同数グループによる定義と、親和性が高い。英語圏では、かけ算は、3×4というかけ算の式は、しばしば、3 groups of 4という自然言語表現に基づいて学ばれる。

〈1つ分×いくつ分〉によって、乗数は、7を4回足すというときの回数ではなく、具体的な量となった。だから、ピザ1枚900gで、2枚半(2.5)では何gのようなことが考えられるようになった。乗数はここでは、倍のような関係でもなく、分量を表している。

倍による定義では、比較される2つの量は、種類は同じくするかも知れないが、別の物体であった。〈1つ分×いくつ分〉では、一つ分はいくつ分の一部をなしている。ピザ1枚は2枚半の一部を構成している。乗数は具体的な量なので、絵に描くことができる具体性をもつ。

このように、1980年代に、日本の算数教育では、かけ算は〈1つ分×いくつ分=全部の数〉で定義されるようになった。だが、他の時代もそうであったが、メインの定義が替わっただけで、他の定義が消滅したわではなく、ただ周縁化しただけである。

事実、定義の少しあとでは「3×3は3+3+3で求められます」と言われている。同数累加による定義は、定義の一部ではなくなったが、このように、かけ算の言い換え表現として生き残っている。



また、「2の8つ分は2の8倍とも言う」と言われており、倍による定義も生きている。倍の時代に、倍はいくつ分で導入され、いくつ分の時代に、いくつ分は倍で言い換えられる。

だが、このようにほぼ同時に導入される〈基準量×倍〉は、高学年になると、〈基準量×割合〉へと発展して行くものであるが、〈1つ分×いくつ分〉から〈基準量×倍〉へ、〈基準量×割合〉への移行には、小学校の先生方も苦労しているようである。



注1
第7巻「定義16 数に数を掛けるといわれるのは、後者の中にある単位の数と同じ回数だけ前者、すなわち【掛けられる数】が加え合わされてなんらかの数が生ずるときである。」(『ギリシアの科学』 p.331)

(Twitterに2020/02/21, 03/01, 05/30に投稿された、flute23432のツイートに基づく。)



2020年6月13日土曜日

かけ算の順序についてのQ&A

Q00 〈かけ算の順序〉とは何ですか?
Q01 かけ算の順序を教えることは、学習指導要領で定められている?
Q02 外国ではかけ算の式は日本の算数とは逆になっているということは、日本の算数の順序でないと不正解にするのは間違った指導では?
Q03 問題文に書かれていないルールを児童に忖度させるべきではないのでは?
Q04 長方形は90度回転すれば、縦と横は入れ替わるので、順序を固定することは不可能では?
Q05 どれが1つ分でどれがいくつ分かは一意に決められないのでは?
Q06 〈かけ算の順序〉のような無意味なルールを教えられている最近の子どもたちはかわいそうでは?
Q07 トランプ配りをすれば、一つ分といくつ分が入れ替わるので、1つ分を一意で決めることは不可能では?
Q08 数学的に正しい式をなぜ不正解にするのか?
Q09 式逆でバツを付けられた児童は数学が嫌いになってしまうのでは?
Q10 単位を付ければ、〈かけ算の順序〉問題は解決では?
Q11 5×2×3で、どれが1つ分で、どれがいくつ分?
Q12 「かけ算に順序がある」など、日本の算数教育は、トンデモではないか?
Q13 〈かけ算の順序〉では〈質量×速度〉と〈速度×質量〉のどちらが正しい?
Q14 中学受験でも〈かけ算の順序〉を守ったほうがよいのでしょうか?
Q15 〈かけ算の順序〉は交換法則を習うまでの一時的なものですよね?
Q16 文章題にダミーの数や他の演算が必要な数を入れておけば順序は不要では?
Q17 長方形が斜めに傾いているとき、その面積を求める式の順序は、どうなるのでしょうか? Q20 小学校での〈かけ算の順序〉指導は、大学で行列積などの非可換積を学ぶのを見越してのことでしょうか? Q22 かけ算の式を逆に書いた児童は、ただ、〈いくつ分×1つ分〉の順に書いただけで、数の意味は理解しているのでは?
Q23 式の順序からは、児童が理解しているかどうかは、わからないのでは?
Q24 順序を逆に書いた児童が「3本耳のウサギが2匹いる」と考えて式を書いた、なんて、教師は真面目に信じているの?
Q25 交換法則を小2で学習したあとも、〈かけ算の順序〉指導がなされているのは、なぜ?
Q26 外国にも、〈かけ算の順序〉指導はあるでしょうか?
Q27 かけ算の式を逆に書いた子は、ただ、英語圏の標準書式〈乗数×被乗数〉の順序に従って、書いただけでは?
Q28 かけ算で順序が問題になるのに、たし算では、順序が問題とならないのはなぜ?
Q29 児童が文章題の式として、3×4と書か4×3と書くかは同じくらいの確率なので、理解していない児童も、半分は正しいとされてしまうのでは?
Q30 1つ分といくつ分を尋ねたいなら、1つ分とは何か、いくつ分とは何か、とストレートに尋ねればよいのでは?
Q31 〈かけ算の順序〉のような高度なことは、あとで学習すればよいのではないでしょうか?
Q32 〈かけ算の順序〉のようなトンデモ指導が、今日の日本の経済・科学技術の停滞と凋落をもたらしたのでは?
Q33 なぜ、〈被乗数×乗数〉であって、〈乗数×被乗数〉ではないのでしょうか。
Q34 「3個入りの袋が3つ、キャンディーは全部で何個?」という問題で、かけ算の順序はどうなる?
Q35 日本と外国でかけ算の順序が逆なのは、言語の違いによるものでは?

Q00 〈かけ算の順序〉指導とは何ですか?

A00 〈かけ算の順序〉指導とは、小学校算数において採用されている、かけ算をその式の順序を〈1つ分×いくつ分〉の順に固定して教える指導法です。それはかけ算の性質というよりは教え方です。日本や台湾の学校算数では、〈1つ分×いくつ分〉の順が、外国の多くでは〈いくつ分×1つ分〉の順が、慣習的に、標準の順序となっています。

この指導法では、文章題において児童にその順に式を書かせ、逆だとバツや減点にします。採点済みの答案を児童が持ち帰った保護者がその採点に疑問をいだいて、写真に撮ってSNSにアップすることで、顕在化します。これを見た人が、日本の小学校ではかけ算の可換性が否定されていると勘違いして、この採点に激しい反発を見せるので、よく知られています。

〈かけ算の順序〉指導は、ときたま、類似する他のものと誤認され、混同されます。その3つとは、1)文章題の問題文に現れる順にかけ算の式を書くように指導する教え方、2)加減に対して乗除を優先するなどの、計算の優先順位の問題、3)3つ以上の因数からなるかけ算の式において、どの乗号から実行するかの順序、です。


Q01 掛け算の順序を教えることは、学習指導要領で定められているのですか? 要領に書いてあるなら、それは教員ではなく文科省の責任です。逆に、書いていないなら、順序指導を行うのは、違法行為ではないでしょうか。

A01:学習指導要領には、書かれていません。学習指導要領(2019)において、2年のかけ算の学習について書かれているのは、次のことだけです。

(ア) 乗法の意味について理解し,それが用いられる場合について知る
こと。
(イ) 乗法が用いられる場面を式に表したり,式を読み取ったりするこ
と。
(ウ) 乗法に関して成り立つ簡単な性質について理解すること。
(エ) 乗法九九について知り,1位数と1位数との乗法の計算が確実に
できること。
(オ) 簡単な場合について,2位数と1位数との乗法の計算の仕方を知
ること。

学習指導要領は、文科省のサイトにあるPDF版を実際に読んでみるとわかりますが、どの学年でどんなことを学習するのかということの概要しか書かれていません。それはいわば骨格だけなので、それをどう肉付けするか、どう具体化するかは、学校や教科書会社、教師に委ねられています。

教室で算数の時間に行われていることで、要領に書いていないことはたくさんあります。たとえば、九九表とか、九九を覚えること、九九の学習を「五の段、二の段、三の段~九の段、一の段」の順に学習すること、などです。

順序指導もこの具体化のレベルに属しているので、順序指導をすべきかどうか、してよいかどうか、について、指導要領本体から引き出すことできません。指導要領は骨格にすぎないので、そこに順序指導について書いていなくても、順序指導が禁止されている、順序指導をしたら法令違反だ、ということにはなりません。

学習指導要領とは別に、その解説を文科省は出しています。2020年度施行の要領の解説には、「ここで述べた被乗数と乗数の順序は、「1つ分の大きさの幾つ分かに当たる大きさを求める」という日常生活などの問題の場面を式で表現する場合に大切にすべきことである。」(2019 p.115)と書かれています。順序は大切なのです。

だが、その直後には「一方、乗法の計算の結果を求める場合には、交換法則を必要に応じて活用し、被乗数と乗数を逆にして計算してもよい。」と書かれています。これは、文章題の立式(最初に立てる式)では順序に従い、その後の計算では、とくに順序に従わなくてもよい、ということです。

文科省初等中等教育局教育課は,「掛け算の意味を理解させるように定めているが,順序については国が定めるものではない」(中日新聞 2012/11/05 p.6)としています。文科省は,〈掛け算の順序〉論争に対しては,中立的な立場のようです。


Q02 レゴの解説書には、使うブロックの数が、タイプ別に3×などと表記されていました。外国ではかけ算の式は、日本の算数とは逆になっていることが多く見られます。これは、〈被乗数×乗数〉の順に式を書かないとバツにする採点は間違っている、ということではないでしょうか。

A02 外国の多くの国で、かけ算の標準的な書式が日本の算数とは逆である、というのはご指摘の通りです。九九の3の段が、1×3, 2×3, 3×3, ...9×3と並んでいたりします。1人100m4人全員で400mを走る400メートルリレーは、英語では、"4x100 Metres Relay"で、この英語表現を日本語にそのまま移植した「4×100mリレー」という直訳的な日本語表現を、テレビ報道ではよく見かけます。日本国内でも、学校教育の外では、レシートなどが数量×単価の順になっている、といようなことがあります。

〈かけ算の順序〉指導は、〈被乗数×乗数〉の順序がかけ算の性質だと主張するものではありません。ただ、日本の算数教育において、〈被乗数×乗数〉の順に書く習慣がある、ということです。それは一種の慣習的な書式です。会社によって、業界によって、伝票の書式が違うことは、普通にあります。

〈かけ算の順序〉指導は、また、教え方でもあります。〈1つ分×いくつ分〉の順に固定してかけ算を教える手法です。一つ分といくつ分とでは意味が違うので、それが理解し意識できるように、順序を固定して教えるです。教え方は国によって違っても、おかしくありません。一方が正しく、他方が間違いだということではありません。

かけ算の式を順序が逆であることを理由にバツにする採点は、日本の算数の〈かけ算の順序〉が普遍的である、世界中で通用する、と言おうとするものではありません。ただ、日本で標準となっている順序に書いたときに式がどうなるかを問われているのに、その指定の順序で書いていないので、バツになった、ということです。



Q03 かけ算文章題の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書く、小数筆算で小数以下のゼロを抹消するなど、教師が勝手に考えた、問題文に書かれていない俺様ルールを、児童に忖度させるべきではないのでは?

A03 児童はテストを受ける前に、授業中の板書やノートで、そして、宿題のドリルで、同様のタイプの文章題を解いていて、もしかけ算の順序が違っていれば直されていました。授業に参加していて、よく聞いていた児童にとっては、かけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書く、というのは、既知の事項です。だから、児童にとっては、教師がどんな独自ルールを設定しているのかを、テストになって推測する必要は、ないのです。

それでも、逆順に式を書いてバツにされるのは、文章題文章中に現れる順序でいくつ分の数が最初に出てくるのに誘導されてしまうからです。とくに低学年の児童は文章を解析する能力が不十分で、文章中の数の出現順序に、誘導されやすいのです。実際、ネットにアップされるほとんどのバツ採点答案が、文章中の順序でいくつ分が先に出てくる逆順文章題です。

保護者は授業に出ていませんし、授業でそのように指導されていることが、わかりません。疑問に思って、答案を写真にとり、ネットにアップすると、保護者以上に授業の文脈を知らないネットユーザーの誤解に晒されます。そのようなテストは、授業の一環として行われたものであることを認識する必要があります。

〈かけ算の順序〉は戦前から行われているかけ算指導法で、小数点以下のゼロを抹消させるのも、遅くとも1970年代から行われていて、その担任教師がたまたま思いついたり密かに考えて作ったりしたものではありません。〈かけ算の順序〉もゼロ抹消も、【俺様】ルールではありません。


Q04 長方形の面積は〈縦×横〉で求めますが、長方形は90度回転すれば、あるい、横から見れば、縦と横は入れ替ります。直方体の体積を求める〈縦×横×高さ〉も同様です。順序を固定することはもともとできないのでは?

A04 平面図形や立体図形を自由に回転させることができる能力というのは、訓練によってはじめて身につきます。小2の児童にとって、縦4cm横8cmの横長長方形と、縦8cm横4cmの縦長長方形は、別の図形と認識されます。小6も、180度回転である点対称に手こずっています。面積や体積を求めるときも、小学生は、設問に描かれた平面図形・立体図形を、回転させません。

〈横×高さ〉でバツになることがあるのは、教科書にあるような〈縦×横〉という公式に従って書いていないためです。〈横×高さ〉なのか〈縦×横〉なのかは、慣習的に決まっていることです。同じことは、〈底辺×高さ÷2〉や、〈基準量×割合〉の公式でも言えます。

式の最初の形を公式に従って書かないとバツになることは、学校算数では、よくあります。学校では、さまざまなものが、公式を使って(なぜその公式なのかという理由も含めて)教えられています。

公式通りの立式が求められるのは、単に計算結果を尋ねているからではないからです。縦5m、横11mなどの数値が入った長方形が描かれていて、その面積を求める問題は、1)計算が正しいかどうかだけではなく、2)授業で、それが導かれた理由も含めて学んだ公式が頭に入っているかどうか、3)単位が正しいかどうか(55cm^2とか56mとかなっていなかどうか)、などが同時に問われているからです。

長方形の場合は、どれが縦でどれが横であるかわかっていることをチェックする価値はあまりありませんが、立体の場合は、見取り図を読み取る能力が試されています。三角形の求積公式における〈底辺×高さ〉であったら、4)その図形のどこの部分が底辺で、どの部分が高さであるのか(高さを辺の長さと勘違いしていないかどうか)がチェックされます。

〈基準量×割合=比較量〉という公式における比較量と基準量についても、同様で、これを正しく使うには、文章題に与えられているのが、基準量なのか比較量なのかわかっていないといけません。この意味でも、公式通りの立式が求められます。いったん立式したあとの計算では、必要に応じて、交換法則などを用いて順序を変えるなど、計算を楽にする工夫はしても、問題はありません。

かけ算の文章題で、式が逆だとバツになるのは、〈1つ分×いくつ分=全部の数〉という公式(ことばの式)に従って立式できていないからです。順序問題は公式の問題とつながっています。



Q05 どれが1つ分でどれがいくつ分かは一意に決められないのでは?「3日間連続のイベントに、4人のアルバイトを雇って、毎晩帰りのタクシー券1人1枚渡すとき、タクシー券は全部で何枚必要?」(注1)という文章題の正しい式は、4×3ですか、それとも、3×4ですか。

A05 1つ分の数といくつ分が決めるのが難しいかけ算文章題は、存在します。そのイベントの文章題はまさに、その例です。それは、日を基準とすれば1日あたり4人分4枚が3日間分なので4×3ですが、人を基準とすれば、1人あたり3日間分3枚で、それが4人分必要なので、3×4です。どちらの解釈も同じ程度に可能です。というより、その文章題は、そのように、1つ分がどちらでも解釈できるように、意図的に作られていると思います。この場合は、順序を理由にマルバツをつけることはできません。

「イチゴ味、ミカン味、メロン味、パイナップル味の4味をそれぞれ一個ずつ詰めたキャンディの袋が3つあります。キャンディは全部で何個?」という文章題でも、同様です。味を単位とすれば3×4ですし、袋を単位とすれば、4×3です。

順序は手段にすぎません。このようなときは、順序で1つ分といくつ分の理解を問えないので、順序を問わなければよいのです。逆に、もし順序を問いたいなら、このような、一つ分について解釈が拮抗する曖昧な文章題は出さなければよいのです。
 
教え方(手段)にすぎない順序を、かけ算の性質であるかのように実体化してしまうならば、それは、自由派であろうと順序派であろうと、間違っています。


Q06 〈かけ算の順序〉のような無意味なルールに従わされる今の子どもたちは、とてもかわいそうではないでしょうか。いつのまに、日本の算数教育はトンデモ化してしまったのでしょうか。誰の陰謀でしょうか。

A06 〈かけ算の順序〉指導のことをはじめて知ると、ほとんどの人は、自分が小学生のとき順序固定で教わったことはすっかり忘れていますので、最近の現象だと思いがちです。そのために、「いつのまに算数教育は悪くなってしまったのか」「今の子は可哀想だ」などという言葉が聞かれます。

しかし、たとえば、1930年に東京市が実施した学力テストの報告書に書かれている採点基準によると、かけ算の文章題の逆順式は、全部バツでした(注2)。順序指導を受ける子どもたちがかわいそうだとは思いませんが、もし、かわいそうだとすれば、今生きているほとんどの日本人が、かわいそうだということになります。


一般的に言えば、昔から行われている、というだけでは、正しいとは言えません。ただ、実際に使われて長年試されている、そうした実地使用に耐えてきている、という強みはあると思います。自由派は批判しているだけで、対抗理論を打ち出すことはほとんどありませんが、かりにあっても、実際の指導経験に裏打ちされていないので、机上の空論となるでしょう。

順序指導を批判する自由派も含めて、多くの日本人は、順序指導を受けて、数学を学んできました。順序指導はかけ算の指導法の1つなので、それがないとかけ算が理解できなくなるというものではありません。しかし、自由派も、自身の高等数学的なかけ算理解を獲得する過程の初期の段階で、おそらく、習得したものなのです。ただ、だいぶ前に乗り越えてしまい、そして、忘れてしまっているだけです。恩知らずです。


Q07 「3つの袋があり、どの袋にも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個必要?」という文章題で、1つ目の袋にまず1個、2つ目の袋に1個、最後の袋にも1個入れます。これを1周目とすれば、2周目では、2つ目のキャンディをすべての袋に詰めます。4周することで、最後には、どの袋にも4個詰められます。1周に3個ずつのグループを4つ作れるので、〈1つ分×いくつ分〉の順に書けば、式は3×4になり、これもマルになるのでは?

A07 これは、いわゆるトランプ配り(カード配り)ですね。トランプ配りをすれば、そのような解釈も間違いなく可能になります。こう解釈することで、いくつ分と思われた袋の数3は一つ分に、一つ分と思われた各袋のなかのキャンディの数4は、いくつ分になります。つまり、一つ分といくつ分が逆転します。

そのような解釈が間違っているとは思いませんが、しかし、非現実的です。というのも、小学生は事物に即して物を考えるので、問題文中にトランプ配りの様子を叙述するなどの誘導がないと、そのような解釈をしないからです。その解釈は、〈かけ算の順序〉論争の自由派が順序派をやり込めるために出してくるもので、大人でも、論争に参加していない限り、思いつきません。もちろん、説明されれば理解はできますが。

トランプ配りのようなことは、1個2個と数えられる量(分離量)では比較的容易ですが、連続量になると、とたんに、難しくなります。むずかしても、可能と言えば可能です。たとえば、47円の消しゴム4個を買うときに、47回の分割払にして、1回につき4円ずつを支払うならば、式は4円×47回になります。しかし、そのような曲芸的な解釈を小学生が思いつく可能性を考える必要はありません。

同数グループがあったとき、各グループの構成員数が一つ分で、その文章題では、各袋のなかのキャンディの個数4です。小学生がするドリルや確認テストのなかの文章題では、文章のなかでそのように「4個ずつ」などと一つ分として与えられているものを、ちゃんと一つ分として把握できているかどうか、が試されています。いくつ分についても同様です。

小学生はどうしても、数の意味を理解せずに、文章に現れる数をともかくも、習いたての九九で掛けて答えを出そうとします。そうではなく、〈1つ分×いくつ分〉というかけ算の構造の理解が重要なのです。


Q08 かけ算には順序はない、つまり、交換法則が成り立つので、順序を理由に式をバツにするのは、交換法則を否定している点で、数学的に誤っているのでは? 数学的に正しい式を不正解とするものではないでしょうか。

A08 「3つ袋があり、各袋に4つずつ詰めるとき、キャンディは全部で何個?」という文章題で、逆順式3×4がバツになるのは、「〈1つ分×いくつ分〉の順に式を書きましょう」という指示に従っていないからです。そのバツは、けっして、交換法則を否定するものではありません。

それは、「3と4の公倍数を【小さいほうから3つ】書きなさい」という設問で、【小さいほうから3つ】という解答書式上の指示に従わずに24から4つ書けば、バツになるのと同じです。そのような設問を作ったからと言って、そしてまた、そのような採点をしたからと言って、3と4の公倍数が3つしかないと主張していることにはなりません。【小さいほうから3つ】は、公倍数の性質ではなく、解答書式上の指示にすぎないからです。

かけ算の文章題の場合も同じです。書かれていませんが、そこには、【かけ算の式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書きましょう】という、解答書式上の指示があるのです。【答え欄の答えには単位・助数詞を付けましょう】というのも、書かれざる指示です。しかし、この順序の固定は、かけ算の性質ではありません。それは数学的なものではなく、教育的なものです。数学的なものではないので、「数学的に誤り」であることも、「数学的に正しい」ことも、ありえません。


Q09 式逆でバツを付けられた児童は、数学が嫌いになってしまうのではないでしょうか? その数学的才能の芽を潰されてしまうのではないでしょうか。

A09 かけ算の式の順序が逆でバツになった小学生が、数学が嫌いになるという証拠はありません。そのように言ってツイッターなどで騒いでいるのは大人であり、子どもではありません。大人は、〈因数×因数〉タイプの対称的なかけ算の概念をすでに獲得していますから、そのかけ算の可換性を、子どもにいわば「感情移入」してしまい、もし自分だったら、数学が嫌いになるであろうと、無意識に推測しているだけです。しかし、子どもはまだ、〈因数×因数〉タイプのかけ算の概念やそのかけ算の固有な可換性の感覚、つまり、「順序はどうでもいい」という感覚を獲得していないので、実際に、それが原因で数学が嫌いになることはありません。

以前に、ツイッターで山田さんという人が、数学が嫌いないし苦手になった理由を応募しました。その理由のなかには、三角関数だとか、負の数だとか、ベクトル・複素数だとか、文字式だとか、サイン・コサイン・タンジェントだとか、微積分だとか、因数分解だとか、証明の意味だとか、公式の丸暗記だとか、2次関数だとか、文章題だとか、2次関数の場合分けだとか、2次関数だとか……

他には、3次方程式、集合と論理、行列、相加相乗平均、1次方程式、2次関数、虚数、n進法、確率と場合の数、展開・因数分解と絶対値、座標、連立方程式、立体、図形、数列、合同・相似、極限、平方根、動く点P……

小学校の学習事項もありました。割合、暗算、引き算、繰り下がりの引き算、数字、割り算の余り、計算ドリル、3桁の割り算の筆算、九九の暗唱、小数の掛け算・割り算、速さ、百マス計算、分数やその乗算・除算……

回答者の1人青茶氏は、掛け算の順序と動く点P、反比例を挙げています。(2018/05/24 23:07)。掛け算の順序を理由として挙げたのは、この人くらいです。しかし、アンケートが示すように、数学のありとあらゆる事項が、数学嫌いと苦手の原因となりえます。かけ算の順序はその1つにすぎません。もし、数学が嫌いになるから無くせというのなら、算数と数学の全体を無くさなければなりません。


Q10 かけ算の順序が、一つ分×いくつ分というかけ算の仕組みを理解させる手段だとしたら、4個/袋×3袋=12個のように、式に単位・助数詞を付けさせれば、4と3のどちらを単位あたり量、他のどちらをいくつ分と見なしているのかがわかるので、順序は不要になるのではないでしょうか。
4個/袋×3袋=3袋×4個/袋=12個

A10 単位・助数詞を付けさせれば、一つ分といくつ分を区別させることはでき、順序は不要になるのは確かです。しかし、順序でも、同じことは可能です。個/袋のような一あたり量は、乗号の前に置くと、定めておけばよいのです。

小学生に単位・助数詞を付けさせることには、問題があります。まず、個/袋のような組立単位が使えるようになるには、分数の約分の知識が必要です。しかも、(数ではなく)単位・助数詞の約分をするためには、

2xy^2/xy = 2y

のように、単項式の割り算も学習していなければなりません。でも、分数の約分は5年で、単項式の割り算は中学数学で学ぶというのに、かけ算はすでに小2から学習しています。組立単位の使用は、小学生には高度すぎます。

個/袋×袋=(個×袋)/袋
=(個×【袋】)/【袋】
=(個×1)/1
=個

昔の算術書や教科書で採用されていた単位・助数詞の付け方があります。それは、単位を被乗数と答えに付けて、乗数にはつけないやり方です。

4個×3=12個

このやり方では、なぜ、「個」は書くのに、「袋」はかかないのか、ということが児童にはわからないと思います。しかし、次のような指導法はあります。「何個?ときいているでしょう、だから答えは12個、単位のサンドイッチの規則で、乗号の前が個。個と付いているのは4だから、4を前に置く」。

でも、単位・助数詞をつけていたこの時代にも、かけ算の順序は固定されていました。式に単位をつけることと、かけ算の式の順序を固定することは、仲良く同居できるのです。だから、単位・助数詞を書いても、〈かけ算の順序〉指導はなくなりません。算数教育の歴史がそれを示しています。


Q11 もしかけ算の式が〈1つ分×いくつ分〉となるのだったら、5×2×3のように3つの因数がある掛け算はどうなるのでしょうか。どれが被乗数(かけられる数)で、どれが乗数なのでしょうか。

A11 5×2×3のような式は、それだけでは、文章題のような文脈がないので、意味はあまり重要ではなく、どれが1つ分の数で、どれがいくつ分の数かは決めなくてもよいと思いますが、あえて言えば、乗号の前が1つ分で、後がいくつ分です。5×2の5が被乗数で、2が乗数です。では、5×2×3のように数字が3つあるかけ算は、どうなるのでしょうか。

算数の教科書に、「円い箱が2つずつ入った四角い箱が3箱あり、円い箱にはお菓子が5個ずつ入っているとき、全部でお菓子は何個?」という文章題があります。考え方は2つあります。

1)まず、四角い箱のなかのお菓子の個数を5(1つ分)×2(いくつ分)=10で求めておいて、次に、四角い箱に入ったお菓子の個数を1つ分として、3箱分なので、それに3(いくつ分)をかけます。式は、
(5×2)×3=30

2)もう1つは、まず、丸い箱の数を求めます。円い箱は四角い箱に2つずつあり、四角い箱は4つですので、2(1つ分)×3(いくつ分)で、6箱あります。円い箱1つには、お菓子が5つ入っていますので、5(1つ分)×6(いくつ分)で、30個と求められます。式は
5×(2×3)=30

このように、〈1つ分×いくつ分〉を入れ子式に重ねることで(まさに、その二重の箱のように)、3つの数のかけ算の式でも、解釈が可能です。

また、ここから結合法則が成り立つとがわかりますので、校舎脇の木の高さは、高さ2メートルの雲梯の3倍、校舎の高さは木の2倍であるとき、結合法則から、校舎は雲梯の6倍であることがわかります。


Q12 「かけ算に順序がある」だけでなく、「倍数にはゼロは含まない」「正方形は長方形ではない」といったような、数学的な誤り、つまり、嘘でたらめ、が教えられている日本の算数教育は、トンデモではないでしょうか。

A12 倍数にゼロを含めるのか含めないかは、定義の問題にすぎず、どちらの定義が間違っているということはありません。算数での定義は、自然数の範囲で考えられてきた倍数の伝統を継承するものです。高校になると、倍数はゼロと負の数へと拡張されます。

また、算数では、「正方形は長方形である」とも「ない」とも教えられていません。図形の包摂関係は、以前に小学校で教えられましたが、理解できない児童が多数いて、その反省から、教えられなくなりました。児童は、教えられてないとき、自然言語の用法やイメージに基づいて、正方形と長方形の関係を理解しています。

「かけ算に順序がある」という表現は、「順序」という言葉が何を意味するのか曖昧です。算数で、〈因数×因数〉の抽象的な掛け算は小学生には難しいので、〈1つ分×いくつ分〉や〈基準量×倍(割合)〉で定義される非対称なかけ算が教えられていることは確かです。この非対称性を「順序」と呼ぶなら、小学校で学ぶかけ算に順序はあります。

この定義では、〈1つ分×いくつ分〉、〈いくつ分×1つ分〉という2つの順序が考えられます。しかし、日本の算数で〈1つ分×いくつ分〉と書かれている式は、アメリカやドイツ、ブラジルなどの算数教育では、〈いくつ分×1つ分〉の順に書かれている、という意味では、順序はありません。

〈かけ算の順序〉指導は、教える内容というよりは、教え方です。教え方は適切かどうかは問えますが、嘘か真実か、ということはありません。それは、「かけ算の式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書きましょう」という解答書式上の指示です。指示そのものについて、真偽を問うことはできません。「窓を開けて下さい」という指示について、窓が閉まっている事実を根拠に、その指示は嘘だと言うことはできません。

「日本の算数教育は、すべてがトンデモ化していて、信頼性がまったくない」と言って、大げさに騒ぎ立てる人は、なぜ、それが、たとえば、日本人の数学的能力の国際的な低さなどとして顕在化しないのか、考えてみるべきです。なぜ、PISAの成人数学力の調査で日本が1位なのか、なぜPISAやTIMSSの国際的な数学テストで、日本の小中高生が最上位の成績を収めているのか、について、釈明が求められると思います。



Q13 〈かけ算の順序〉によれば、電力を求める式〈電流×電圧〉と〈電圧×電流〉、運動量を求める式〈質量×速度〉と〈速度×質量〉、積分"f(x) dx"と"dx f(x)"、「A, B, C, D から2つ取って並べる方法は何通り?」の問題を解くかけ算"4×3"と"3×4"、のどちらが正しいのでしょうか?

A13 〈かけ算の順序〉は、日本の学校算数で行われているかけ算の指導法なので、第1に、小学校で扱わないような事柄については、かけ算を使う場合でも、小学校で習う順序は、関係がありません。第2に、〈かけ算の順序〉は、小学校で習うかけ算、つまり、〈1つ分×いくつ分〉とか〈基準量×倍(割合)〉とかいった非対称なかけ算の指導法なので、〈因数×因数〉タイプの対称的なかけ算には、適用できません。

小6の教科書には「場合の数」の単元があります。場合の数を求めるときに使うかけ算は、元来は〈因数×因数〉タイプのものだと思いますが、小学校では、樹形図や多角形などを使って、漏らさず重複せずにすべてを列挙することが目指されていて、かけ算の式は見つかりません。
 
質量×速度(mv)は、次元数×次元数のかけ算であり、このかけ算は対称的な〈因数×因数〉タイプに分類できます。この対称的なかけ算は、算数では、基本的には、扱われません。mvは、慣習的にvmではなくmvと書くことが多い、ということはあるかもしれませんが、それは算数での〈かけ算の順序〉とは関係がありません。

〈1つ分×いくつ分〉は、伝統的には、〈被乗数×乗数〉でした。古い算術では、被乗数(かけられる数)は名数または無名数、乗数(かける数)はつねに、無名数でなければならない、とされていました。というのも、7kgの重りが4つあるとき、4つは4mでも4kgでもない。ただの4だからという理由からです。

被乗数が名数の場合
7kg+7kg+7kg+7kg =7kg×4 =28kg

名数は、単位・助数詞が付くような数、無名数はつかない数です。無名数に何かつくとしても、「倍」とか「回」とかで、単位ではありません。7kg×4mのように、乗数が次元をもったかけ算は、算術のなかでは、不合理とされたのです。

算数で、〈被乗数×乗数〉タイプに属さないかけ算は、長方形の面積を求めるときの縦×横と、道のりを求める時の〈速さ×時間〉くらいです。それぞれ、〈被乗数×乗数〉に還元されています。

縦×横については、長さと長さという2つの次元から、面積という新しい次元を作り出しているのではなく、あくまで、1cm^2の単位正方形がいくつから構成されているか、ということから考えられています。


速さについては、道のりと時間という2つの次元を組み合わせて創られた新しい次元ではなく、ある条件のもとにある道のりとして、理解されています。それは、定速で移動するものについて、単位時間あたりに走る道のりを表しています。このように理解されたとき、秒速7m×4秒のかけ算は、リンゴが7個載る皿が4枚ある、というのと同じ構造をしています。ですから、

7m+7m+7m+7m =7m×4 =28m

です。つまり、〈被乗数×乗数〉と同じ図式で考えられています。



Q14 中学受験でも〈かけ算の順序〉を守ったほうがよいのでしょうか?

A14 中学受験の答案というのは、本人や保護者に返却されないので、保護者がネットにアップするということもありません。だから、全体で何点であったかは知ることはできても、個々の問題がどのように採点されたのか、は本人・保護者・ネットユーザーたちには、わかっていません。

しかし、順序は気にしないでいいでしょう。というのも、第1に、〈かけ算の順序〉というのは、小学校算数におけるかけ算指導法なので、中学の教師が採点するテストにおいて、そのような採点基準が採用されているとは考えられないからです。

式の順序が逆でバツになっている採点答案の写真がネットにアップされているのをみると、そのほとんどか、授業で実施されている単元テスト(カラーテスト)やドリル、プリントなどです。これらのテストは、授業でやったことができているかどうかをチェックする確認テストであり、授業者と採点者が同じで、その採点は、授業に依存する度合いが高く、テスト前の授業中に書いた板書やノート、宿題のドリルやプリントなどと、採点基準が同じです。授業中にかけ算の式の順序を直されていたなら、テストでもバツにされて、やり直しです。

第2に、適性型の試験以外では、試験の解答用紙には、多くの設問で、答えだけ書けばよいからで、式を書く式欄がないからです。



Q15 〈かけ算の順序〉指導は、かけ算の交換法則を中学で習ったらもう不要ですよね? 順序指導は法則を学ぶまでの一時的なものですよね?

A15 たしかに、「交換法則」という用語は、中学ではじめて学びますが、かけ算を習い始める小2のうちに、九九表に発見できる規則性として、かけ算の交換法則は実質的に学習します。「被乗数と乗数を交換しても答えは同じ」なのです。3年ではその法則の妥当範囲が整数全体に、小4で小数に、小6で分数に(そして中1で負の数も含めた有理数全体に)拡張されます。

では、〈かけ算の順序〉指導は、かけ算を学び始めて、数ヶ月も経たないうちに終わるのかというと、そうではなく、中学年・高学年でも見られます。というのも、交換法則というのは、乗号の前後の数の交換が結果に影響しない、と言っているだけで、いつでも自由に交換できる、という意味ではないからです。

結果が同じなら、自由に言い換えてもよいと思われるかもしれません。たしかに、算数でも、計算では、結果が重要なので、そうです。しかし、文章題のように意味が重要なところでは、意味が合うものを適切なものとします。

というのも、算数では、かけ算を〈1つ分×いくつ分〉という非対称で固定した図式を用いて教えますので、3×4は3個のものから成るまとまりが4つ、4×3は4個の3つを意味します。たとえば、「3つのふくろのどれにも4個入っているとき、キャンディーは全部で何個?」という文章題の式は、4×3であり、3×4は意味が違います。

〈1つ分×いくつ分〉は、小学校で学ぶかけ算の基本型で、これは、中学年や高学年で、〈単価×数量〉や〈容器容量×容器数〉、〈基準量×割合〉、〈速さ×時間〉などへと展開・発展していくものです。これらはすべて〈1つ分×いくつ分〉と同型なので、その同型性を容易に見抜けるように、順序を固定するのです。



Q16 「かけ算の順序を固定するのは、文章中の数を意味も考えずに掛けて答えを出そうとする児童がいるから」というのであれば、文章題にダミーの数や他の演算に必要な数を入れておけばよいのでは?

A16 ダミーの数字を入れた文章題、かけ算以外の演算が同時に必要になるような文章題は、教科書にも載っています。そのような設問は、もちろん、より難しい応用的な問題なので、最初から出すわけにはいかず、その段階になるまでは、数字が2つしか出てこない単純なかけ算文章題を解くことになります。どんな学習も、最初は、単純なものから始めます。単純で簡単なかけ算文章題は、避けることが困難です。

ダミーの数字を入れたり、他の演算(足し算、ひき算)が同時に必要になるようにしたりすれば、児童は、かけ算に必要な2つの数字と、必要ではない、あるいは、他の演算に使う3つ目の数とを判別しなければなりません。ですから、このような文章題は、児童が数の意味に無頓着になってしまうことに対する牽制となることは確かです。

しかし、この方法では、肝心かなめの、1つ分といくつ分の識別ができているかどうかがわかりません。


Q17 長方形が斜めに傾いて描かれているとき、その面積を求める式は、どうなるのでしょうか?

A17 算数では、公式に従った立式がしばしば求められます。比較量を求める割合文章題なら、式は「基準量×割合(小数に直された百分率)」です。順序派の教員でも、長方形の面積では順序を問わない人も多いのですが、しかし、「縦×横」の順に式を書くことが求められることも、めずらしくありません。

もし、画像のように、描かれている長方形が斜めに傾いている場合は、どちらが縦で、どちらが横なのわかりません。傾きをどちらに倒して、どちらの辺を縦に、他のどちらを横にするかは、児童にまかされています。順序で公式通りの立式かどうかは判断できず、順序は採点の基準にはなりません。傾けて描かれているのは、明らかに、順序は問いませんよ、という意思表示なのです。



同様のことは、直方体の体積を求める場合も同様です。直方体の見取り図では、高さについては曖昧さはなくても、描き方によっては、どちらが縦(奥行き)で、どちらが横(幅)かがわからないことがあります。その場合は、縦×横×高さの縦と横については、順序は問われるべきではありません。

見取り図で、直方体が頂点の1つを支点にして立っているように描かれているとき、あるいは、直方体が不規則に回転している動画で示されているとき、縦とか横とかいった概念自体が使えません。

順序は、高さだとか底辺だとか基準量だとかいった、公式を構成する概念がわかっているかどうかを確認するための手段にすぎません。順序が手段として使えないときは、使わなければよいのです。


Q18 「かけられる数」「かける数」とは何でしょうか? 何かの宗教に由来するいかがわしい概念ということはないでしょうか? それらは「1つ分の数」「いくつ分」とどう違うのでしょうか?

A18 教科書では、「かけられる数」「かける数」は、次のように、簡単にしか説明されておらず、乗号の前がかけられる数、後がかける数、ということくらいしか読み取れません。


かけ算は、伝統的には、同数累加の簡略算と定義されてきました。4+4+4+4+4のように、同じ4を繰り返し足すとき、繰り返される数4と繰り返しの回数5を使って、4×5と短く表現するのか、かけ算なのです。このとき、繰り返しの対象となる数4を被乗数、繰り返しの回数5を乗数と言います。「被乗数」と「乗数」は、英語では、それぞれ、"multiplicand", "multiplier"で、小学生向けの大和言葉表現では、それぞれ、「かけられる数」「かける数」となります。

日本の算数では、1980年代以来、かけ算の定義に、「1つ分[の数]」「いくつ分」が使われてきました。「かけられる数」「かける数」は、元来、かけ算は同数累加の定義の構成要素です。この定義ですと、かけ算は独自な演算というよりは、足し算の式表現の1つの特殊な場合にすぎません。つまり、それは数式の表現の仕方の問題にすぎません。

これに対して、1つ分といくつ分は、同数累加の、事物における対応物です。4×3 =4+4+4は、それに対応する事物で言えば、4個入りのキャンディの袋が3つある、ということです。つまり、式における同数累加は、事物における同数グループに対応しています。小学生は演算のような抽象的なものを、具体的な事物に基づいてこそ理解するので、〈1つ分×いくつ分〉のように事物に焦点をあてた定義のほうが、〈被乗数×乗数〉よりも、学習上はよいと言えます。


「1つ分」「いくつ分」の導入で、「かけられる数」「かける数」の用語が教科書で使われなくなったわけではなく、たとえば、九九表は左縁縦に上から段数1,2,3と並んでいますが、これが「かけられる数」となっていて、上縁横に、「かける数」が並んでいます。交換法則も、「かけられる数とかける数を交換しても答えは同じ」と、この用語を使って定式化されています。東京書籍では、4年の教科書にも5年の教科書にも、中1の数学教科書にも、使われています。


Q19 文章題では、式欄の式に、問題文(文章題文章)に出てくる数字しか使っていけない、などというようなルールがあるのでしょうか?

A19 一般的に言えば、そのようなルールはありませんし、式を書かなければならならい理由さえありません。しかし、児童・生徒が先生について学んでいる学校では、事情が違います。

小学校では、ドリルは、授業で学んだことを確実にするためのもの、単元テストはそれが習得できているかどうかをチェックするためのものです。小学生は、学校で、四則演算について、筆算などの計算アルゴリズムだけでなく、問題文からどのように式を立てるのか、つまり、式の立て方も学びます。計算問題では計算の正確さや速さしか問われませんが、文章題は総合的で、計算の正しさだけでなく、立式も問われます。だから、答え欄だけでなく、式欄も用意されているのです。

式が書いてあれば、教師は、その児童が、文章題文章からどのように立てたのか、ということが、ある程度、推測がつきます。間違っていたとき、その原因が、文章の不完全な読解なのか、立式の間違いなのか(割り算なのにかけ算を使っている)、計算ミスなのか、がわかります。原因を診断できれば、それを「治療」に生かせます。このことのために、問題文にある数字しか使えないというルールがあるのです。

問題文にある数字しか式に使えない、というのは、あくまで、原則で、「2ダースの鉛筆は本数では何本?」、「太郎と花子と次郎のおのおのに4個みかんを配るとき、みかんは全部で何個必要?」といった場合に、それぞれ1ダース12本の12、太郎と花子と次郎のあわせて3人の3は、問題文に直接でてきませんが、1ダースは12本といった知識を使って、文章から引き出さなければなりません。


Q20 小学校で〈かけ算の順序〉が教えられているのは、大学で、行列積やベクトルの外積、直積集合などの非可換なかけ算を学ぶのを見越してのものなのでしょうか?

A20 違います。行列のかけ算やベクトルの外積、直積は非可換で、掛ける順序を替えると、結果が違ってきます。この意味での順序、結果に影響する順序(順序A)は、算数で習うかけ算にはありません。順序派の教師も、被乗数と乗数を交換しても答えは同じだと、教えています。

では、〈かけ算の順序〉とは何かと言えば、結果ではなく意味に影響する順序(順序B)です。かけ算を〈因数×因数〉で考えているかぎり、この意味での順序も、かけ算にはありません。しかし、〈因数×因数〉は小学生には抽象的すぎるので、算数では、かけ算は〈1つ分×いくつ分〉で導入します。

かけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順序で書くことにしたとき、3×4と4×3は、計算結果は同じ12ですが、3×4は3個のもののまとまりが4つあることを、4×3は4個が3つあることを意味します。順序が違うと、結果は同じですが、意味が違ってくるのです。

かりに、算数での〈かけ算の順序〉と、行列のかけ算などの順序と同じことだとしても、どうして小学校なのでしょうか。大学で学ぶことの準備は、大学の1つ手前の高校になってすればよくて、3つも手前の小学校で学ばなければならない理由があるのでしょうか。



Q21 順序派には、〈かけ算の順序〉指導を、日本語の語順で正当化する人も、大学で行列積など非可換なかけ算を学ぶからと言う人も、子どもの発達段階を根拠に挙げる人もいる。また、かけ算の式の順序を間違えると、「キャンディーの個数を求めているのに、答えが12人になっちゃうよ」と言う人と「3本耳のウサギが2匹になっちゃうよ」と指摘する人もいます。
このように、互いに矛盾すると思われる意見が順序派には多く、この混乱は、順序派が間違っていることの証(あかし)ではないでしょうか? こうして意見の違いを指摘することで、順序派を駆逐できるのではないでしょうか?

A21 自由派にも、1つ分/いくつ分、かけられる数/かける数、の区別を認めたうえで、〈1つ分×いくつ分〉と〈いくつ分×1つ分〉の両方の順序をともに認めるべきだ、という意見の人も、それらの区別自体を求めない人もいます。順序固定を導入時にのみ便法として認める自由派と、最初から「順序はどうでもよい」と教えるべきだ、とする自由派もいます。順序指導は教師に負担が余計にかかるからやめるべきだと主張する人と、手抜きしてかけ算を教える方法だからやめるべきだと主張する人がいます。

このように、自由派内にも、意見の違いがあります。

自由派のあいだに意見の相違があると、意見の多様性を尊重する寛容で合理的な態度ということになり、順序派に意見の相違があると、順序派の主張が矛盾している、ないしは恣意的である証拠、順序派の混乱した思考の帰結、という話になってしまう。これは、ダブルスタンダードというものです。

その時点での1人の人の意見の内部で矛盾や非一貫性、齟齬があれば、その主張は破綻している、と言えるかもしれません。しかし、人によって意見が違うこと、主張内容が違うことは、もちろん、論争や調停を引き起こすことはあるにしても、それ自体は、矛盾でも欠点でもありません。




Q22 かけ算の式を逆に書いた児童は、ただ、〈いくつ分×1つ分〉の順に書いただけで、数の意味は理解しているのでは? 3つの袋のどれにも4個ずつ(3×4)でも、4個入りの袋が3つ(4×3)でも、意味は同じなので、意味が違うという理由でバツにするのは不当では?

A22 テストの設問には、解答書式上の指示、がしばしば伴います。「【小数点第1位までの概数で】答えなさい」「3と4の公倍数を【小さいほうから3つ】書きなさい」など。このような指示は、問題文に書かれているとはかぎりません。【答え欄の答えには単位をつけること】【分数の計算結果は既約分数で】は、書かれていませんが、守らないとバツになります。

【かけ算の式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書きましょう】も、そのような書かれざる解答書式上の指示の1つです。順序派の教師は、テストに先立ち、普段から、その順に書かせています。「3つの袋のどれにも4個入っているとき、キャンディは全部で何個?」という文章題の式は、各袋に封入されたキャンディーの個数4が1つ分の数なので、4×3です。

3×4と逆に書いた児童がいたとき、a)もし、それが〈いくつ分×1つ分〉の順に書かれているのなら(ご質問者が念頭においているのは、これ)、意味は正しくとらえられていますが、【順序の指示】に従えていないことになります。b)もし、3×4が〈1つ分×いくつ分〉の順に書かれているのだとすれば、それは3個入りの袋が4つということになり、与えられた文章題とは意味が違っています。

実際には、多くの児童は、a)でもb)でもなく、c)文章題の文章に出てくる数の意味を、そもそも、把握しないまま、式を書いています。数の意味や演算固有の構造に無頓着になっていて、その結果、たいていは、文章題文章に数が登場する順に式を書いています。その順に書くようにと指導されていたことも、忘れているか、あるいは、覚えていても、数の意味を把握できていないので、指示に従うことができないのです。


Q23 式からは児童が何を考えているかはわからないのでは? ましてや式の順序を理由に、題意やかけ算を理解していない、などと判断することは、危険では?

A23 一般に、式だけからは、児童がどう考えて答えに達したかは、完全にはわかりませんが、式が書かれていれば、それは、児童がどう解こうとしたかを推測するための手がかりにはなります。たとえば、式を正しく立てられていないのか(たとえば、割られる数と割る数が逆)、それとも、式は正しく立てられているのに、計算ミスで答えが正しくでていないのかかが、わかります。

かけ算の式を順序で判断するためには、テストに先立って、授業のときから、教師がかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように指導しておくことが必要です。そのような事前の指導そのものを認めない自由派が、かけ算の式の順序から、児童が理解できているかどうかを判断できない、と考えるのは当然です。




Q24 順序を逆に書いた児童は本当に、「3本耳のウサギが2匹いる」と考えていたのでしょうか。教師は、本当に、「児童がそう考えていた」と信じているのでしょうか?

A24 「ウサギが3匹(羽)います。1匹のウサギの耳は2本です。耳は全部で何本?」という文章題で、3×2と逆に式を書いた児童は、文章に出てくる数の意味に無頓着であったか、〈1つ分×いくつ分〉の順に書くという指示を忘れていたか、です。「3本耳のウサギが2匹いる」と考えていたから、式をそう書いたのではありません。

教師は、「それだと、3本耳のウサギが2匹いることになっちゃうよ」と、間違いを指摘することはありますが、これは背理法を使った指摘です。もし、(実際には違うが)あなたが書いた3×2というその式が〈1つ分×いくつ分〉の順に書かれていたとすると、そういう意味になってしまうが、それは題意とも生物学的な事実とも違うよね、という指摘です。



Q25 交換法則を小2で学習したあとも、〈かけ算の順序〉指導がなされているのは、なぜ?


A25 その疑問は、かけ算の順序はかけ算の交換法則(可換性)と矛盾すると考えていなければ、出てきません。かけ算の順序と可換性とは、両立可能です。

さて、数学で使う文字式では、積は4abのように、数字前・文字後の順に書きます。それを習う中1の期末試験で、b4aと書けばバツになるでしょう。しかし、ルールに反してb4aと書いても、その式の値は、4abと等しいことには変わりません。掛ける順序を変えても、計算結果(値、答え)は同じなのです。

算数における順序指導も、式を〈1つ分×いくつ分〉の順に固定して教えるものです。しかし、この順序固定は表現上・表記上のものにすぎず、文字式の場合と同様に、「掛ける順序を変えても答えは同じ」という、かけ算の原理的な性質を否定しません。

矛盾が起こるとしたら、それは、「答えが同じなら順序はいつでも自由に変えられる」と考えるときです。しかし、交換法則の核の意味は、①「乗号の前後の数の交換は計算結果に影響しない」ことにあり、②「いつでも自由に交換できる」というのは、一定の条件のもとで引き出せるその派生的な意味にすぎません。

高学年になっても、文章題の数の意味を把握できず、割合の文章題で、掛けたらよいのか割ったらよいのか、割るとしても、どちらかをどちらで割るのかが分からない児童がたくさんいます。そのような状況では、教師が式を、〈基準量×割合〉の順に書かせて数の意味を意識させようとするのは、自然です。



Q26 外国にも、〈かけ算の順序〉指導はあるでしょうか?

A26 日本に比べると少ないかもしれませんが、あります。このような採点の是非をめぐって、大人たちの論争がいつまでも続く点も、日本と同じです。

下の画像はドイツ圏の例です。標準となる順序は日本とは逆の、〈乗数×被乗数〉です。


次は台湾の例。台湾は日本と同じ〈被乗数×乗数〉の順が標準です。




Q27 かけ算の順序を逆に書いた子は、ただ、英語圏などで標準としている〈乗数×被乗数〉の順序に従って、書いただけでは?

A27 外国で算数で学び始めて、そのあと、日本に移住した子どもたちは、最初、かけ算の式を〈いくつ分×1つ分〉の順に書いてしまうでしょう。外国で当たり前のことでも、日本では当たり前でないことは、多くあります。たとえば、車は左側通行、学校では児童が掃除する、お化粧して学校に来たらいけない、など、日本に特有な慣習や習慣があります。それらに次第になれていくことが大切です。かけ算の順序も同様です。

しかし、そのような、帰国子女や外国人子女の例は一部にありますが、式を逆に書いてバツになった児童のほとんどは、文章題の題意を正しく読み取れず、文章題に出てきた数を、その意味を把握しないまま、できた順に式を立てているだけなのです。




Q28 かけ算で順序が問題になるのに、たし算では、順序が問題とならないのはなぜでしょうか? 小学校の単元テストなどで、式が逆でバツになっているのは、かけ算の文章題でよく見かけますが、たし算では見かけません。

A28 小1のたし算文章題では、順序が逆でバツになることはあり、ネットにアップされたことはもありますが、かけ算に比べると、取り上げられることは、ずっと少ないです。理由はよくわかりません。小1のテストの採点は、とても優しく甘くなっているので、バツになることが少ないからかもしれません。

たし算が適用できる状況の類型のうち、小1にも馴染みで小1が学ぶのは、合併と増加の2つです。「Aさんが金魚を4匹、Bさんが3匹、新しい水槽に入れました。全部で何匹?」は合併、「金魚が4匹いる水槽に、3匹加えました。今は全部で何匹?」は増加です。

とくに、増加タイプの足し算の文章題は、「1)はじめにいくつかのものがあり、2)次に、追加されて多くなり、3)今は全部でいくつ?」というパターンになっています。その場合は、式は文章と出来事の時間的な流れに従って、〈最初の数+増えた分の数=全部の数〉の順に書かれます。逆にすると、バツにされることがあります。

もちろん、たし算の交換法則は、小1ではなく小2においてですが、教えられています。イチゴが箱に14個、ざるに9個あり、ざるのイチゴを箱に入れると、〈初期量+増加分〉、〈足される数+足す数〉の順に従い式は14+9、箱のイチゴをざるに空けると、9+14です。どちらも答え(和、計算結果)は23個で、たし算には交換法則が成り立ちます。しかし、意味は違うので、箱のなかのイチゴをざるに空けたときは9+14=23と書くことが求められています。




Q29 児童が文章題の式を3×4と書く確率と4×3と書く確率は同じくらいなので、児童の半分は、理解していない場合も、正しいとされてしまうのでは?

A29 3×4の解答と4×3の解答が、同じくらいの割合になるという予想は、2つのことを見落としています。1つは、低学年の児童は、文章題に数が登場する順序に強く誘導される傾向があること、2つ目は、順序派の教師は、かけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように言っていること、です。児童が書いた式を順序が逆という理由でバツにすることがない自由派の教師も、板書では、教科書と同じ〈1つ分×いくつ分〉の順に書いています。ですから、3×4と4×3は、同じくらいの割合になりません。



Q30 1つ分といくつ分を尋ねたいなら、そのための独立した設問を作ればよく、順序で判断すべきではないのでは?

A30 そのような設問はすでにあります。


しかし、順序でも、もちろん、同じことが確認できます。というのも、順序を設定して式を答えさせるということは、次のような、空欄がある式の空欄を埋めて、式を完成させることと、実質同じことだからです。

□(1つ分)×□(いくつ分)=□(全部の数)

1つ分の数といくつ分がわからない児童は、この式を完成させることができません。順序を設定するとは、このように、乗号の前を1つ分の数のための、後をいくつ分のための席として用意しておく、ということです。




Q31 〈かけ算の順序〉のような高度なことは、あとで学習すればよいのではないでしょうか。小学生の段階で厳密さや正確さを追求しても意味がないのではないでしょうか。

A31 〈かけ算の順序〉は、とくに高度ではありません。〈1つ分×いくつ分〉は、小2が学ぶべきかけ算の基本で、とても重要です。児童はどうしても、文章の演算構造を見ずに、数の意味を把握しようとしないまま、式を立てがちですが、そのレベルから、意味を把握できるレベルに高める必要があります。

このかけ算の仕組みを学ばないでよいなら、ただ計算さえできればよい、ということになりますが、計算しかできない児童は、式を与えられれば計算できますが、文章題ができなくなります。文章題では、文章が表す事態から、演算が適用できる特有の構造を読み取る必要があります。文章題は、数学を現実に橋渡しするもの、生活のなかで数学を使う方法を学ぶ手段です。かけ算を使って解決できる状況に直面したときに、式を立ててことができません。




Q32 小学校の算数で〈かけ算の順序〉のようなトンデモが教えられているようになったので、日本の経済と科学技術は停滞し、そして凋落したのではないでしょうか?

A32 〈かけ算の順序〉指導は戦前から行われていますので、最近の、日本の経済や科学技術の停滞・凋落の原因である、ということはありえません。

大阪の小学校のある保護者が、子どもが持ち帰った、式が逆でバツになった答案について、教員委員会や文部省に、問い合わせをしたことをきっかけに〈かけ算の順序〉論争が起きたのも、戦後1970年代の初頭でした。日本の高度成長期です。



Q33 なぜ、〈被乗数×乗数〉であって、〈乗数×被乗数〉ではないのでしょうか。

A33 これは道路の左側通行・右側通行と同じで、〈1つ分×いくつ分〉の順でなければならない必然的な理由はありません。しかし、だからといって、日本で左側通行を守らなくてよいと言えるでしょうか。守らないのは法規違反ですし、それ以前に、逆走は危険です。ルールを作って、左側通行か右側通行のどちらかで統一しないと、交通が混乱してしまいます。

かけ算の指導も似ています。かけ算は、一つ分といくつ分から全部の数を求める演算として定義され導入されます。一般的に言って、〈1つ分×いくつ分〉か〈いくつ分×1つ分〉のどちらか一方が正しい、ということはありません。しかし、学習上も指導上も、教育的の環境設定としては、一方に統一するほうがよいのです。そのように順序を固定することには、初学者に一つ分の数(被乗数)がどれで、いくつ分(乗数)がどれかが、一目でわかる、という利点があります。逆に、この状況で、順序を不規則に入れ替えながら教えるのは、学習者を混乱させるだけです。

日本の算数教育で、〈いくつ分×1つ分〉ではなく、〈1つ分×いくつ分〉で統一されているのは、日本が明治期に近代的な学制・カリキュラムを確立する際に参照した19世紀の欧米の算術書が、〈被乗数×乗数〉の順を採用していたからです。欧米など多くの国では、20世紀に標準の順序が逆転しました。ここからまた、〈被乗数×乗数〉と〈乗数×被乗数〉のどちらを標準とするかは、使う言語の文法や系統、語順から一意に決まるものではない、ということがわかります。



Q34 「3個入りの袋が3つ、キャンディーは全部で何個?」という問題で、かけ算の順序はどうなるのでしょうか?

A34 式は3×3ですが、1つ分の数といくつ分の数が同じ数3なので、児童が〈1つ分×いくつ分〉の順を意図して書いているとしても、本当にそうなのかは教師にはわかりません。

〈かけ算の順序〉指導は、理解をチェックするための手段です。一定の順序で式を書くように指示しておくことで、文章のなかのどの数が1つ分の数で、他のどの数がいくつ分かということを理解できているのかを判断します。1つ分の数といくつ分の数が同じときは、〈かけ算の順序〉での判定はできません。

手段が使えないときは、使わなければよいのです。もし、順序で判定したいなら、1つ分の数といくつ分の数が違う文章題を出せばよいことです。




Q35 日本と外国でかけ算の順序が逆なのは、言語の構造の違いによるものでは? 日本では〈被乗数×乗数〉の順が、アメリカやドイツ、ブラジルなどでは〈乗数×被乗数〉の順でかけ算の式で書かれるのは、式を読んだときの、言語的なすわりのよさによるものではないでしょうか?

A34 19世紀の欧米の算術書は、日本の算数と同じ〈被乗数×乗数〉の順に式を書いていました。日本が明治期に、西洋の算術を受容した際に、いっしょに、この順序も受容したのです。ところが、欧米の多くの国では、20世紀に、かけ算の標準的な順序が、〈乗数×被乗数〉に変わったのです。

つまり、日本の学校算数で使われている〈被乗数×乗数〉の順序は輸入物であり、欧米では、20世紀に、標準的順序が逆転しています。これは、言語とかけ算の順序が、単純に対応するものではないことを意味しています。

では、言語と無関係かと言えば、そうではないでしょう。というのも、欧米の算術で順序が逆転したのは、子どもも話す日常的自然言語で式を読ませることを重視する傾向が高まったせいです。"three times four"や"3 groups of 4 candies"のような表現で式を読めるように、順序を〈乗数×被乗数〉に変更したのです。

日本語では"three times four"のような表現をしないので、式を逆にする理由がありませんでした。また、〈被乗数×乗数〉の順序は、輸入物でしたが、結果的に、日本語にフィットしたのかもしれません。たしかに、日本語では、「キャンディーの袋を3つ下さい」とは言いますが、「3つのキャンディーの袋をください」とは言いません。







注1
寝巻猫氏作問
「「3日間開催のイベントに5人のスタッフを雇いました。各開催日の解散時間は深夜になるため、各人にタクシーチケットを支給します。タクシーチケットは全部で何まい必要ですか?」
どう立式するのか早く教えてください。」(@nemakineko48 2018/12/02 08:26AM)

注2
@temmusu_n氏ツイート(2018/10/19 01:15PM)。

(2021/02/13 20:00 手直し・増補)








2020年5月9日土曜日

交換法則の2つの意味 ― 計算結果同一性と自由可換性・順序任意性

演算とは、2つの数から、3つ目の数を作り出すこと生み出すことである。たとえば、4×3=12のかけ算は、4と3という2つの数から、12という3つ目の新しい数を生み出す。演算というのは、そのような、数に対する操作・処理である。たし算、ひき算、わり算、べき算も、同様に、演算である。

ポーランド記法、逆ポーランド記法のように、演算記号を演算の対象となる数よりも前ないし後に置くスタイルもあるが、数学教育で普通に使われているのは、+-×÷のような演算記号を、最初に与えられる2つの数字のあいだに置くものである。べき算のように、演算記号を使わない場合もある。

演算のなかには、最初に与えられる、演算記号を挟む2つの数字について、演算子の前後でその位置を交換しても、つまり、演算する順序を換えても、結果が変わらないものと、結果に影響を与えるものがある。前者の演算は可換(commutative)と呼ばれ、交換法則(commutative law)が成り立つと言われる。たし算やかけ算は可換な演算の例である。だが、後者は非可換と呼ばれる。引き算、わり算、べき算は非可換である。

可換
たし算 3+4=7, 4+3=7
かけ算 3×4=12, 4×3=12

非可換
ひき算 3-4=? (-1), 4-3=1
わり算 12÷3=4, 3÷12=1/4
べき算 4^3=64, 3^4=81

たとえば、わり算は非可換で、12を4で割ると3になるが、4を12で割ると、1/3となる。割られる数と割る数を取り違えると、答えが違ってきてしまう。演算の結果として出てくる3つ目の数、つまり商、が違ってきてしまう。これに対して、かけ算は可換であり、順序は結果に影響しない。同数累加でかけ算を定義した場合、4×3は4が3つで12、3×4は3が4つで12で、結果(和、積)は変わらない。ただし、かけ算でも、行列のかけ算は、不可換である。順序を換えると、結果が違ってくる。


このような例外はあるが、高校までに習うような、自然数や有理数、実数のあいだでのかけ算やたし算では、順序を換えても、結果は変わらない。つまり、足し算と掛け算は可換である。しかし、詳しく見ると、その可換性の内容は、あくまで、計算した結果が同じである、ということである。これを「計算結果同一性」と呼ぶことにすれば、可換性の基本的な意味は、①計算結果同一性のことなのである。

日本の算数では、かけ算の式が順序が逆を理由にバツにされる、ということから、「かけ算は不可換だと教えられている」と、勘違いしている人が多い。しかし、実際には、算数教育でも、かけ算の①計算結果同一性は、繰り返し教えられている。かけ算は小2ではじめて習うが、小2の段階ですでに、九九表に見られる規則性の1つとして、「被乗数と乗数を交換して計算しても、答えは同じ」と習うのである。これは、交換して計算した結果が同じ、つまり、①計算結果同一性である。かけ算の順序指導を行列やベクトル外積の不可換性を理由に正当化しようとする試みがあるが、それは、行列のかけ算や外積では成り立たない計算結果可能性(①)が、算数では成り立つとされている事実を、見落としている。

flute23432「交換法則の学習」(本ブログ)


しかし、あくまで、算数教科書の引用した箇所で言われているのは、①計算結果可能性だけである。この引用で注目すべきは、「いつでも自由に交換してもよい」とか、「順序はどうでもよい」、とは言われていないことである。だが、計算結果が同じならば、いつでも自由に交換してもいいし、順序はどうでもいい、と言えるのではないか。自由に交換してもよいというのを「自由可換性」、「順序はどうでもよい」というのを「順序任意性」と呼ぶならば、②自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、わざわざ帰結を引き出して見せる必要がないほど自明な、計算結果同一性に必然的に付随する帰結なのではないのか。

しかし、日本の算数教育では、かけ算の可換性は、①計算結果同一性としては間違いなく教えられているが、文章題の立式においては、その付随的な意味である②自由可換性・順序任意性が制限される。たとえば、「3つの袋のどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個必要?」という文章題では、日本の算数教育では、かけ算は〈1つ分×いくつ分〉の順に書く習慣なので、式は4×3であり、3×4と書くとバツにされる。算数において②の意味でかけ算が可換なら、4×3でも3×4でもどちらでもよいはずである。しかし、算数で習う交換法則は、②自由可換性・順序任意性を意味しないので、そのような採点方法は、小学校で習う交換法則に違反しない。だから、小学校のかけ算の問題を論ずるときに、交換法則の意味範囲の違い、つまり、①だけなのか、①②両方なのか、に注意しなければならない。

①「計算結果同一性」は、可換性の基本的な、核となる意味であるが、それに付随するもう1つの意味が、②自由可換性・順序任意性である。自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、とくに言及に値しないと思う人もいるかもしれない。自由派の多くは、可換性ということで、この付随的な意味(②)を含めて、かけ算を可換だと考えている。現実との関係が捨象される抽象的なレベルで式が扱われる高等数学では、それでよいであろう。中学以降の数学では、数や式の抽象化が進んで、ただ数量的にのみ考察されるようになるので、意味の違いは無視される。だから、交換法則の意味には①に加えて、②の自由可換性・順序任意性を自然に含意する。3×4とあるところは、4×3と値が同じ12なので、いつでも自由に言い換えてよいのである。だから、かけ算もそれに応じて、対称的で、順序性がない〈因数×因数〉で定義される。

しかし、これは算数にはあてはまらない。たしかに、算数でも、計算問題や文章題の立式後の計算など、意味が重要ではなく、結果だけが重要なところは、自由に乗号の前後で数の位置を交換してよい。というより、交換法則やその他を使って、楽に計算する方法が、算数では、教えられている。つまり、計算では、②の自由可換性が通用する。

だが、文章題などの、意味が重要なところでは、この自由可換性が制限される。算数では、かけ算が、〈1つ分×いくつ分〉で学ばれている。一つ分は、同数グループが複数あったときの、各グループの構成員数で、いくつ分はグループの数である。算数では、3×4と4×3で意味が違うと言われるのだが、それは、対応する事物の配列の仕方が異なるからである。小学生は、ピアジェが言う具体的な操作期の時期におり、具体物や半具体物の変化や配置などから、演算を学んでいて、しかも、そこからしか演算を理解できない。小学生の頭のなかでは、式はまだ、事物の配列から独立していない。〈1つ分×いくつ分〉のかけ算は、このような事物のグループ分けのような具体的なものに依存しているので、3個のものが4つあるか、4個のものが3つあるかの違いが重要になってくる。このため、文章題の立式では、文章に描かれている事物の配列等によって、つまり、意味によって、②の自由可換性・順序任意性が制限されるのである。

この定義では、一つ分といくつ分では機能や意味が違うので、その意味の違いを、児童がそのつど注記せずともわかるように、位置の違いでも表している。つまり、かけ算の式は、いつも、〈1つ分×いくつ分〉の順で、教科書も板書も統一されている。

どちらが一つ分で、どちらがいくつ分であるかわかっていれば順序はどうでもよいではないか、というのは理屈であって、小学生が演算を教わり、そして学ぶような教育的な状況では、教育的に順序を固定することは、理にかなっている。2つの数のそれぞれの役割と両者の違いを学習する状況で、不規則・不埒に順序を変えたら、それは学習妨害とさえ言える。算数では、単に、教える側がかけ算の式の順序を統一するだけではない。児童が単元テストなどで文章題を解くときにも、教科書にあるような〈1つ分×いくつ分〉の順序で式を書くように求めるのである。教え方に対応した教わり方が求められている。この求めを満たせないときは、式がバツになるのである。

実は、数学でも、②自由可換性は、ある意味で、制限されている。ただし、算数のように、教育的な理由で制限されるのではなく、文字式の表記慣行のために、制限される。というのも、文字式では、「積は数字を前に、文字を後に書く」という表記ルールがあるからである。文字が表す内容ではなく、文字か数字かといった文字の種類を基準として、順序を決めている。もし、かけ算の順序がどうでもよい(②)なら、4aと書こうとa4と書こうと自由なはずであるが、実際には、デカルトが確立した文字式の表記ルールに基づき、4aと書く。②の自由交換性・順序任意性は、数学でも制限されているのである。自由派もこのような順序に従って文字式を書いているはずである。

算数でかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求めること、そして、数学で文字式の積を数字・文字の順に書くことは、②の自由可換性・順序任意性を制限するものなのだが、しかし、それは書式や表記のレベルでの制限にすぎないし、①の計算結果同一性という交換法則の基本的意味は全然否定していないので、かけ算の可換性の根幹を揺るがすものではない。ところが、自由派は、自分たちで使う文字式の表記ルールがそのような制限があることに気づかず、なぜか、算数における書式上の順序固定にのみ、異を唱えるのである。

自由派は、算数では①の計算結果同一性は何ら否定されていないこと、ただ②の自由可換性・順序任意性だけが制限されていることに気づかず、そして、②の自由可換性・順序任意性を含めて理解された交換法則を、算数の確認テストの式に、そのまま持ち込んで適用する。その結果、②に対する教育的で書式上の制限を、かけ算の非可換性の主張、つまり、①計算結果同一の否定だと誤認する。彼らは、書式上の制限にすぎないかけ算の順序を原理レベルで理解してしまうのである。そうして、彼らは、「日本の算数教育では嘘が教えられている」と大騒ぎし、算数教育を非難する。

「算数教育の専門家が「掛け算に順序がある」という嘘出鱈目を言っていて、学校でもその嘘出鱈目が教えられているのです…」(定数氏 2020/04/23 22:19)

「掛け算の順序についてどう思いますか — 小学校で行われている掛け算順序に関するトンデモ教育の話ですか?「小学生に嘘を教えるな」以外に答えようがないですよね。」(鴨氏 2017/04/20 03:40PM)

「もちろん、掛算の順序は救いようの無い大嘘であり、業界が 100% 悪いですけどね。」(ゴルゴ氏 2018/11/19 11:14PM)

算数では、②は制限されるが、①という、可換性の基本的な意味は肯定され、教えられているのである。だから、かけ算を順序を固定して教える指導法に、とくに問題はない。小学校ではかけ算が不可換だと教えられているというのは、デマである。


まとめ

たし算、かけ算では①が成り立つので可換、わり算、ひき算は成り立たず不可換。かけ算でも、行列のかけ算やベクトル外積では、①は成り立たない。しかし、かけ算を順序固定して教える算数教育は①を肯定し、②を、計算では許容しつつ、文章から式への立ち上げに関わる、文章題の【立式】で制限する。

可換性の核は①にあり、算数教育はこれを否定しないので、かけ算の可換性を否定している、とは言えない。②を制限するので、可換性を否定しているように見えるだけである。また、①を肯定する順序教育を、否定する行列を理由に正当化しようとするのは、不適切。




2020年4月10日金曜日

保存性の獲得とかけ算の順序

保存実験の映像
"Conservation task" (YouTube, jenningh, 2007/02/10)

Piaget- Conservation Task - YouTube


「私は、子どもがピアジェの保存課題に失敗することが、些細な問題だとはまったく考えていない。それどころか、この問題は、世界各国の多くの研究者を依然惹きつけてやまない、活発な研究領域なのである。」(ドゥアンヌ『数覚とは何か?』p.90)

ピアジェの保存実験は批判されてきたが、否定されたわけではない。

ピアジェを批判するドゥアンヌ自身が言うには、前操作期(2~7歳)の子どもがなぜ数や量の保存を理解できないか、という問題は、まだ決着はついておらず、依然として、研究テーマとして魅力と価値を失っていない、というのである。

保存実験というのは、上記 YouTubeの映像にもあるように、コインとコインのあいだの間隔を広くしても枚数は変わらないこと、水を細長いグラスに入れ換えても量は変わらないこと、ビスケットを分割しても全体の量が変わらないこと、などを認識できるかどうかを試す、よく知られた実験である。

  ◯◯◯◯◯
◯ ◯ ◯ ◯ ◯
6歳くらいまでの子どもは、同じ数の上下のコイン列で、どちらが多い?という質問に、間隔を広げたコイン列のほうが多い、と答える。また、形とサイズが同じコップに同じ高さでいれた同じ分量のジュースだが、片方のジュースを細長いグラスに入れ替えると、入れ替えたほうのジェースのほうが多いと答える。ビスケットを2つに割ると、量が増えると思ってしまう。

だが、保存性の獲得に失敗した、という否定的な言い方をすべきではない。この実験は、単に、小さい子どもが愚鈍な存在であることを示している、というように理解すべきではない。前操作期の子どもにとって、数量はそのものの配置や形状からはまだ十分に分離・独立していないものだからである。コインの列という現象から、コインの数の多さとコインの列の長さとが区別・抽象されていない。そこはまだ、数や量が十分に抽象されず、他のものと混じり合う未分化で具体的で独自な世界なのである。

こうした未分化で具体的な世界では、配置や形状は数量に影響しうる。どちらが多い?ときかれたとき、子どもたちはその「多さ」を、純粋にコインの個数の多さとして、水の体積として、ビスケットの重量として、理解しているわけではない。この世界では、コインの数は同じでも、間隔を空けたコインのほうが、狭いコインよりも「多い」のだ。

保存性と言っても、数の保存性と重さの保存性と面積の保存性では、獲得される時期に違いがある。また、獲得時期に個人差や文化圏の差があり、また、重さの保存についても、細かく言うと、粘土を平たくするか紐状にするかで獲得時期は違ってくる。

小学校低学年は、数量の保存性を獲得する具体的操作期の初期なので、算数では数の保存性を学ぶのにふさわしい年齢である。たとえば、1年生は、合わせて数えると10になるさまざまな組合せ(補数)を学習する。

◯◯◯◯◯ ◯◯◯◯◯ =5+5=10
◯◯◯ ◯◯◯◯◯◯◯ =3+7=10

これは、同じ10個のブロックを2つのグループに分けるとき、その分け方を、5+5から3+7に変えても、総数には影響しない、ということを学ぶことである。かけ算の可換性(交換法則)の学習も、物の配置の違いにもかかわらず、その数量が保たれることの理解であると言える。

つまり、掛け算の可換性の理解とは、3つずつまとめるか、4つずつにまとめるかといったグループ化の仕方の違いにもかかわらず、みかんの総数は同じ12個になることを理解することなのである。

◯◯◯ ◯◯◯ ◯◯◯ ◯◯◯ =3×4=12
◯◯◯◯ ◯◯◯◯ ◯◯◯◯  =4×3=12

だから、かけ算の交換法則は、保存性を獲得しようとしている子どもたちにとって、大人が思うほど自明ではないに違いない。それは、子どもにとって大いなる発見、大いなる課題でありうる。

だが、子どもたちは抽象化の道を歩み始めたばかりである。依然として、足し算・掛け算は、皿の上のみかんやブロックなどの事物の配置や操作につながれたままである。具体的操作期の子どもは、論理をまだ、物理的な事物にしか適用できない。

小2は、算数の授業で、被乗数と乗数の数値を入れ替えて計算しても答えは同じこと、つまり、交換法則をたしかに学ぶ。だが、ここでは、3個ずつのグループを4つ作って数えたら12個、次に、4個ずつのグループを3つ作って数えたら、その結果が同じ12個だった、ということである。

3(一つ分)×4は、4(一つ分)×3とは、グループ分けの仕方(意味)が違っている。だから、「1カゴ4個のみかんを3カゴでは、全部で何個?」という文章題の式は、4×3であり、3×4ではないのである。算数では、3×4がバツになる理由である。

また、3×4や4×3は、それ自体ではまだ、全部の数を表していない。小2は算数で、かけ算の式は〈1つ分×いくつ分=全部の数〉のように書くと習うが、全部の数はあくまで右辺であり、左辺ではない。小学生は同時的な等しさという概念をまだ確立しておらず、左辺から右辺に移行するには、計算する労力が必要である(注1)。4×3はまだ答えではなく、かけ算という演算を実行して、12と結果が出てはじめて、それが答えとなる。

12歳(6年生)前後に、形式的操作期が具体的操作期に代わって現れる。形式的操作期の子どもたちは、今目の前にある現物なしにも、抽象的な観念について考え、頭のなかで知的な操作ができるようになる。仮説を立てて演繹推論することも、可能になる。

形式的操作期の子どもは、①AはBより大きく、②BはCより大きいなら、③AはCより大きい、という推論もできるようになる、という。だから、①3×4=12と②4×3=12から、さらに進んで、③3×4=4×3(無差別)という帰結を引き出せるようになるであろう。

この段階にいたると、3×4と4×3のあいだの、物の配列の違いや意味の違いは無視され、純粋に数量的に比較されて、両者は等しく、自由に言い換え可能だと見なされるようになる。3×4という演算とその結果12とが、同じものの異なる現れにすぎないと見なされ、同時化される。数式からいわば意味が失われるのである(注2)。

天秤の釣り合いに、重りの重さだけでなく、支点からの距離という要因も関与することを理解できるようになるのも、形式的操作期になってからである、という。2つの要因が働いていて、両者がそれぞれ2倍になると、考慮されるべき全体の大きさが4倍になる複比例の関係である。

具体的な操作期では、かけ算は、基準量×倍で理解される。ここでは、「何倍か」を表すのは、掛け合わせる2つの数字のうちの後ろの数(乗数)に限定されている。小学生は九九の各段を、各皿2切れのケーキが1皿だと2切れ、2皿だと4切れ、3皿だと6切れのように、a×b=cのaを固定してbだけを増やして、それに応じて答えcも増える、という仕方で、つまり、単比例的に学ぶ。重さを2倍にするとばね長さ(伸び)も2倍になる、2倍の時間が経過すると水量が2倍になる、という単次元的な比例の関係は、小学生にも理解されやすい。

ところが、中学以上の数学で習うかけ算は、乗号の前後が対称的な因数×因数のかけ算である。ここでは、乗号の前後の因数は、どちらも(数だけでなく)量を表すことができ、同時に、どちらも何倍かを表すことができる。〈電流×電圧=電力〉のように、掛け合わされる2つとも特定次元の量を表すときは、新しい量の次元が生まれる。因数が両方とも2倍になると積は4倍となる。小学生には、この複比例的な現象の理解が難しいらしく、たいていの小学生は、縦横辺が2倍の長方形の面積は、もとの長方形の2倍だと答えてしまう傾向がある。

算数で習うかけ算は、具体的な事物の配列やグループ分けに依存する「具体的」操作期の掛け算であり、「形式的」操作期の掛け算ではまだないのである。だから、形式的操作期で通用する感覚や論理を、そのまま算数教育の議論のなかに持ちこんではならない。

黒玄氏や定数氏、中二氏らの目に、算数教育が理不尽に見えるのは、彼らが発達、子どもの論理的思考の発達の段階、というこの概念を理解しないからである。彼らがもし発達という概念を受け入れたら、それは彼らの算数教育批判が破綻するときであろう。彼らにとって、発達はタブーなのである(注3)。





注1
中学で文字式を習うと、演算とその結果が同時化する。2ab+3という文字式は、演算のプログラムを表すと同時に、演算を実行した結果を表すようになる。つまり、演算とその結果が同時化する。しかし、算数で四則演算を学習している限りは、このような発想は出てこない。計算式(左辺)は、多かれ少なかれ労力をかけて計算を行うことではじめて、その計算結果が右辺に出てくる。等号は、算術では、計算結果を導く記号という理解で十分なのである。

しかし、素因数分解は中学で学ぶが、大きな数で顕著となるように、素因数分解した結果から下の数をかけ算で求めるのは簡単だが、分解にはとても時間がかかることは、知られている。この素因数分解における非対称性は、インターネットの公開鍵暗号にも使われている。このように、計算(演算)と計算結果は、数学的には同時だが、実際的には、同時ではない。


注2
より上の学年・学校の数学を学ぶにつれて、学習内容の抽象化が進んでいく。小学校高学年になると、割合を学ぶが、割合や比を表す数は、長さや値段のような、直接量を表す数ではない。それは、量と量との関係を表す点で、より抽象的である。中学になって文字式を学ぶと、使われている文字が具体的にどんな種類のどくのらいの量なのかが問われることがほとんどなくなり、現実との関係が希薄化する。高校になると、図形の問題で「半径が2だとすると」と言われていることがあるが、小学生からすると、それが2cmなのか2mなのか、はっきりしてくれということになる。

そのように数と式の抽象化・脱具象化が進んでも、式が意味を完全に失うまでにいたるかというと、それは考えにくい。

① 3×4
② 6×2
③ 12
④ 13.1-1.1
⑤ √144

これらはどれも、それが表す数の大きさは等しいのだとは言っても、③を除いて演算子が含まれていること、①②はかけ算だが、③は引き算であること、①と②では因数の組み合わせは違うこと、といった違いは残っている。これらは意味が違っている。だから、数学が初等数学から中等数学、高等数学へと高まっても、意味が完全に失われることはない。「3つの袋があり、各袋に4つずつ詰めるとき、キャンディは全部で何個必要?」という文章題で、式は6×2でも正しいとする、定数氏のような一部の自由派は、初等数学の抽象化の度合いを見誤っている。


注3
発達心理学の分野に限られないが、ピアジェのような、その学問に多大な貢献をした学者は、賞賛も多いが、批判も多い。逆に、貢献がわずかな学者は評価も批判もされずに、無視されるものである。

黒玄氏らは、ピアジェに対してこれまでなされてきた批判を無批判に持ち上げることで、ピアジェが葬り去られた、ということにしてしまっている。それだけでなく、発達そのものも否定されたことにしてしまっているのである。どうしても、そうしたいのである。そうでないと、彼らの算数教育批判は破綻してしまうから。それほど、発達は彼らにとって、やっかいで忌まわしい概念なのである。

一般に、ある学者の説が部分的に否定されても、その学者の価値は失われない。のちの発達心理学がピアジェの批判に基づいて発展してきたなら、ピアジェやピアジェ批判がなかったら、今の発達心理学はない、ということでもある。かりにピアジェや発達心理学が否定されたのだとしても、人間の思考が発達する、という事実そのものまで否定されることはない。


(flute23432 2019/05/25 01:33のツイートに基づく)



2020年3月29日日曜日

式を状況に強力に関係づける


小学校低学年の児童は、論理的な思考が未発達なので、New Math時代に行われたように集合概念を使って、理論的に説明しても、演算や式のような抽象的なものを理解できない。

では、筆算のやり方のような手続きだけを教えれば、たしかに、できるようにはなるが、何をしているのかが本人にはわからないままとなり、計算ミスをしても、ミスであることに気づきにくくなる。心のなかにピザを切り分けるイメージをもっていないと、1/2+1/3 が1(丸1枚)を越えないことがわからない(注1)。また、計算の意味を教えないと、文章題ができなくなり(注2)、したがってまた、数学を生活や仕事に数学を応用する力がつかない。

だから、算数教育では、式のような抽象的なものを、子どもにも馴染みの日常的な具体的状況のタイプにあえて【強力に】関係づけて、教えるのである。状況タイプを表すお話し(ストーリー)や絵、ブロックの操作などに関係づけて、たし算を教えるのである。

実際、理解するとは、新しい知識や考え方を、既得の知識や能力に組み込むことであろう。ただ、児童の場合、既得の知識や能力が経験豊かな大人に比べて少ないというだけではなく、その性格も前論理的・物語的という点で違っている。

たとえば、たし算だったら、「アヒルが池に2羽あるところに、3羽がやってきた。今は何羽?」というお話し(例題である文章題)をもってくるのである。次に、これを2つのブロックに3つ追加する動作に対応づけることで、児童はアヒルの絵とブロックに共通する数の変化に注目するように、仕向けられる。



これは増加と呼ばれる状況タイプで、たし算が適用されるタイプには、他には、合併がある。合併の状況というのは、たとえば、1つの水槽に右から男の子が金魚を3匹、左から女の子が2匹入れること。引き算が適用される状況タイプのうち1年生がまず学ぶものには、求残と求差がある。求残は、「公園に7人いて3人帰ると何人?」、求差は「男の子7人、女の子3人、違いは何人?」。

その状況タイプというのは、習っている演算が使える典型的な状況で、解決(今何羽?)を要求しているようなものである。それは、配置であったり、行為であったり、変化であったりする。タイプ(類型)なので、求残に分類される状況や文章題は、無数にある。「公園に7人いて3人帰ると何人?」も「バスの乗客11人、3人降りて今何人?」も求残である。

実際に児童に提供されるのは、状況そのものではなく、たいていは、状況タイプに対応する例題(文章題)や絵である。ここから、たとえば、求残の文章題なら、減少という変化と、最初の量と減少分を表す数値を読み取り、尋ねられている残りの量を、引き算で求める。

式と状況のあいだを行き来できるようにするために、逆に、式が与えられて、式から文章題を作る(お話作り)という課題も立てられる。状況から式にだけでなく、式から状況に行く。もちろん、文章題としての出来不出来は重要ではない。かけ算の式が与えられたのに、たし算の文章題を作ってしまうのでなければよいのである。



状況タイプや例題(文章題)は、演算が適用される対象であるが、低学年生にとっては、それは同時に、演算の意味を理解する手段でもある。状況や文章題は、単なるサンプルや代入例ではなく、それなしには、児童が演算や式を理解できない何かなのである。

このことがわからない人たちが、たくさんいる。児童に演算を理解させるために、式を状況に【強力に】関係づけるこのような算数教育が、数学や式、数の抽象性を否定するものだと、勘違いの批判を展開する者たちがいるのである。式に意味などない、という極端な主張さえある。

「「数式に具体的な意味あり」派は、数式の凄い所を分かってんのかな。」(twitter 酢酸氏 2017/01/12 00:28)

「抽象化した数値演算だけでは具体的場面は消えています。」(twitter 大石氏 2013/01/02 05:08)

「数値と演算記号だけで抽象化することによって式を作ったのに、そこにもう一度個別の事情を持ち出すのはどうなの」(twitter 塚本氏 2019/03/13 21:32)

「#超算数 は、抽象化された式を、抽象的に捉えてはいけないという教義が潜んでいる」(twitter 卓氏 2020/03/05 05:37)

「場面を(情報量をそぎ落とし抽象化した)式で表現しようとするのがそもそも間違い」(twitter A犯氏 2019/10/2119:04)

「たとえば、「式の意味」というのに異様に拘り抽象化を否定するというのがあり、掛け算順序固定もそのひとつ」(twitter 定数氏 2014/08/22 05:59)

「数学的には等価な式に、見た目の違いで過剰な意味を持たせるのは、抽象化による利点という数学の本質に逆行しています。」(twitter 塩澤氏 2013/12/07 23:46)

式はたしかに、状況にくらべてずっと抽象的だが、しかし、小1が到達できる抽象性のレベルは、その後も続く抽象化の道程のほんの序の口にすぎないのに、あたかも、小学生が数式に触れたとたんに、高等数学並みの抽象性を獲得したかのような言いぶりなのである。

だが、こうした批判は、低学年の児童の物語的で絵画的な思考の特性を無視し、演算の学習を不可能にしかねないものである。

算数教育で式と状況(場面)との対応関係が強調されるのは、けっして、式が一般にそのように特定の状況に縛られている、ということを言おうとしているのではない。式と状況の対応は教育的な状況で求められていることであって、数式と現実の関係について一般的に何かを主張するものではない。ましてや、式と場面が一対一に対応するなどと主張するものではない。そうではなく、児童に演算の意味を理解させるのに、あえて状況に関係づける必要がある、ということなのである。

抽象化に向かって飛躍するには、助走距離を確保するために、後ろに十分に下がらなければならない。

演算は、それぞれの演算が適用される状況のタイプに、児童が理解しやすい形で、関係づけられる。まず、状況タイプの数が限定される。たとえば、かけ算が適用される状況にはさまざまなものがあるが、そのうち、〈同数グループ〉タイプは、低学年の児童にも理解しやすいものである。



だから、「A君の身長が105cmで、A君の弟の身長はその0.8倍です。弟の身長は何cm?」(倍)、「A君は男の子4人女の子3人のあいだで考えられるダンスペアは全部で何通り?」(直積)のような、低学年には難しい状況タイプは、さしあたり、無視されている。

次に、文章題の表現も、限定され単純化されている。たとえば、合併タイプのたし算文章題には、ほとんどの場合、「合わせて」という表現が、そのタイプの印であるかのように、用いられている。小1は、それを手がかりとして、引き算でなくたし算が適用できるケースだと認識する。

かけ算の文章題なら、「ずつ」という表現を手がかりして、一つ分の数を見つけることはできる。もちろん、「3つ袋があり、そのどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個?」「厚みが同じ4cmの辞書を5冊積み上げると高さは何cm?」のように、「ずつ」を含まない文章題もそれなりに出てくるので、「ずつ」や他の表現を通して、最終的には、かけ算が適用できる数的関係・変化の認識にいたらなければならない。

「合わせて」や「ずつ」に注目するように教えることが、「無思考的・機械的なパターンマッチングだ、これが読解力の低下をもたらしている」と批判されることがあるのだが、この批判は、それが表現の表面に留らずに、表現【を通して】意味と構造に至ろうとするための手がかりにすぎないことを、見落としている。




注1
S・ドゥアンヌ『数覚とは何か?』(早川書房 2010年)p.255
「別の例を見てみよう。1/2+1/3の分数計算だ。分数について、心の中に直感的にパイのイメージを持っている子どもは、半分のパイに1/3のパイを足したなら、結果は1より少し少ないくらいだということは、すぐにわかる。……それとは対照的に、分数に直感的な意味を持てず、分数とは、水平な棒で区切られた二つの数字だとしか思えない子どもは、分子どうしと分母どうしを足してしまうという、古典的誤りに陥る可能性が高い。」

注2
古田優太郞ジャマ育.comからの引用
「子どもの文章問題のできなさは危機的状況です。それは、こういった計算の意味を理解するための指導がないからじゃないかなと考えています。」
https://fruta-math.com/what_is_subtraction/
「ジャマイカでは全くそういった指導はされていなくて、計算の意味と計算式がつながっておらず、それが文章問題の理解の低さにつながっているのかもしれません。」(2017/02/25)
https://fruta-math.com/2017-02-25-084901/


(2020/03/10 09:39 AM, 09:45 AMのツイートに基づく。)

かけ算で求める問題だとわかれば


下は、志村五郎(1930-2019)氏の『数学をいかに教えるか』(2014年)のなかの「3.掛け算の順序」からの引用である(p.45)。その章で、志村氏は〈かけ算の順序〉教育を批判しているのだが、そこには、いくつも、問題点がある。



引用箇所には、「その問題を示されたならば、これは掛け算の問題であるとすぐに認識する」と書かれている。その問題というのは、「3トンの砂を積んだトラックが5台ある.砂は全部で何トンか」である。

最初の問題点は、「すぐに認識する」という箇所。どのようにして、それがかけ算で解ける問題だとわかったのであろうか。たしかに、高学年小学生以上ならば、そのことは瞬間的にわかるが、しかし、それは訓練の結果であって、小学校低学年は、はじめて、それがどうして掛け算で解けるのかを習うのである。

それがかけ算で解けることを認識できるためには、文章から次の2つのことを読み取らなければならない。a)かけ算の文章題の文章中に、同量のものが複数あるという数的関係、b)、全体の砂の量(重量)を求めることが要求されていることである。

a)の複数の同量物だが、これは、3人班が5つのように、複数の同数グループでもよい。a)は2つに分けられる。

a1)その同量(同数グループ)というのが、どのくらいの量なのかということである。トラックの例で言えば、それはトラック1台あたりが積んでいる砂の重量3トン、班の例では各班の構成員数3人である。この3は、算数では「一つ分の数」ないしは「かけられる数」と呼ばれている。

a2)もう1つは、「複数の同量物」の「複数」がどのくらか(グループの数)ということである。これは、トラックの文章題ではトラックの台数5、班の文章題では班の数5である。これは算数では「いくつ分」または「かける数」(乗数)と呼ばれている。

「掛け算の問題であるとすぐに認識する」と志村氏は言うことで、かけ算の仕組み・構造を、さっと通りすぎてしまっている。大人はそれでよいのだが、しかし、かけ算というのがどんな演算なのかを学んでいる小2には、通りすぎるこはできないし、通りすぎるべきではない。

ところが、志村氏は、「「乗数」「被乗数」という愚劣なこと」と言って、乗数/被除数(かけられる数/かける数)という概念を最初から否定してしまっている。だが、それでは小学生はかけ算を学べなくなってしまう。

なお、志村氏らは「1950年代に一部の教育家が「乗数」「被乗数」という愚劣なことを言い出したのが(〈かけ算の順序〉教育の)始まりらしい」と推測を述べているが、この推測は誤っている。



順序教育は日本では戦前からあるし、「被乗数」と「乗数」は、"multiplicand", "multiplier"(英語の場合)からの翻訳語で、西欧の算術書では、この概念は、何世紀も前から使われている伝統的な概念で、たとえば、ニュートンも使っている。



志村氏自身はかけ算をどう考えるかというと、冒頭の引用のなかに、そのヒントがある。「そして,ふたつの数がある.だからそのふたつの数を掛け合わせればよいので,頭の中にあるのは「ふたつの数の積」という概念だけであって,その順序は問題にならない.」

これは、〈被乗数×乗数〉のかけ算ではなく、中学以降の数学で学ぶ、因数×因数のかけ算である。〈1つ分×いくつ分〉や〈被乗数×乗数〉のかけ算と違い、ここでは、乗号の前後が同じ因数で、対称的なために、順序をそもそも設定できない。

3に4をかけるのでも、4に3をかけるのでもなく、3と4という2つの因数を掛け合わせて、12という積を構成する。算数では、3に4をかけて、その演算の遂行(計算)の結果としてはじめて12が出てくるが、〈因数×因数〉のかけ算では、3×4がそれ自身、12を表している。

因数分解というと、人は多項式の因数分解をまず連想するが、数の因数分解というのもあって、たとえば、12=3×4は12を3と4という2つの因数に分解している。そのどちらが被乗数で、どちらが乗数、ということはない。素因数分解は数の因数分解の特殊な場合である。

志村氏は、次の頁で、長方形の求積の例を出しているが、隣り合う2つの辺の長さから、長方形の面積という新しい次元の数を作り出すときに使われる掛け算は、本来は、〈因数×因数〉の掛け算である(注1)。

数学者や数学教師、高度な数学を使うエンジニアなどは、〈因数×因数〉でかけ算を考えるであろうが、このかけ算は、小学生低学年には、抽象的すぎる。もしこれでかけ算を導入するなら、かなりの小学生がかけ算の最初の理解に失敗してしまうでろう。

これに対して、〈被乗数×乗数〉や〈1つ分×いくつ分〉の非対称なかけ算は、3トントラック5台とか、6個入り卵4パックとか、いった日常的で具体的なもので例示でき、低学年でも理解できる。同数グループは低学年にも、アレイや直積に比べてとっつきやすい。



〈1つ分×いくつ分〉のような非対称なかけ算であっても、〈1つ分×いくつ分〉とも〈いくつ分×1つ分〉とも書けるという点では、順序はない。しかし、その非対称性ゆえに、順序と結びつきやすい。

一つ分といくつ分の概念を習っているときに、この2つの順序を混在させて提示するのは、子どもたちに混乱をもたらすだけなので、通常は、どちらかの順序で統一するであろう。日本の算数教育では、日本が明治期に近代教育制度を確立する際に参考にした19世紀の欧米の算術書に従って、〈被乗数×乗数〉の順序を採用した。〈基準量×倍〉〈1つ分×いくつ分〉はその後継である。

志村氏の批判の問題点は、志村氏に限られないが、対称的なかけ算を絶対視し、非対称なかけ算の教育的意義を無視していることにある。


補足

定数氏「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば、問題文に出ている数をただ書けるのは極めて合理的…1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」(2017/08/15 01:04 PM)

ここにも、同じ、見落としの構造が見られる。

「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば」と、定数氏はさらりと書いているのだが、その文章題がかけ算で解ける問題であることは、どこから分かったのであろうか。文章題なのだから、文章を読まなくては、それが何算の問題かはわからないはず。

たしかに、かけ算の単元にある文章題なら、かけ算で解くのだとわかるが、〈かけ算の単元ならかけ算を、わり算の単元ならわり算を使う〉といったような、単純で浅薄な方略では、かけ算の文章題もわり算の文章題も混じっているような、少しでも応用的なプリントにさえ対応できない。算数では、文章題がどの演算で解く文章題なのかを、文章から読み取れるようにならなければならないが、小学生には大きな課題である。だから、教科書には、これを訓練するための「何算かな?」という単元もある。使う演算を特定できる能力がつかないと、高学年で学ぶ割合の文章題に対処できない。というのも、割合の問題は掛けることも割ることもあるから。

大人はその問題が掛け算の問題だと瞬間的にわかるが、低学年児童は文章解析力がまだ十分ではないので、すぐにはわからない。「ずつ」などの表現を手がかりとして、最終的には、そこに同数グループという、かけ算が適用できる数的関係を、直感的に見てとることができるようになるのである。

同数グループの各グループの構成員数が一つ分(被乗数)、グループの数がいくつ分(乗数)なのであるから、その文章題がかけ算で求まる問題だという認識には、一つ分といくつ分が使われているのである。非対称のかけ算を学ぶ小2のために作られた文章題を、小2が解くときは、文章中に一つ分の数といくつ分の数を認識することが求められている。「1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」とする定数氏の言葉は、だから、教育的に、誤っている。




注1
算数で習うかけ算は、非対称なかけ算に限定されているのに、小学生が小4のときに学ぶ、長方形の面積の求める公式〈たて×よこ〉に使われるかけ算は、対称的である。これは一見、不整合であるが、この「不整合」は、ある工夫によって解消されている。つまり、長方形の面積は、1辺が1cmの単位正方形(1つ分=1cm^2)を考えて、それがいくつあるか(いくつ分)ということで、長方形の面積を求めているのである。だから、ここに使われているかけ算は、因数×因数ではなく、単位あたり量×いくつ分という非対称なかけ算なのである。

そして、その「いくつあるのか」(単位正方形の総個数)ということもまた、一つ分×いくつ分で求める。つまり、長方形の縦の個数だけ単位正方形を縦に積んでできた棒を、横の個数分だけそろえる。総個数は、同じ高さの単位正方形の棒が何本並んでいるか、で求めるのである。つまり、縦の個数×横の個数で総個数が求まるのであるが、これは、因数×因数ではなく、ふたたび、一つ分×いくつ分である。

(2020/03/26のflute23432ツイートに基づく。)

かけ算の順序は指示であり命題ではない


1.解答書式

たとえば、「3と4の公倍数を【小さいほうから順に3つ】書きなさい」という算数の問題に、「12, 36, 24」と解答したら、バツにされてもしかたない。というのも、その解答は、【小さいほうから順に】という指示に従っていないから。【下の解答欄に記入しなさい】とあるのに、上の解答欄に書いたらバツになるのと同じである。そのバツは、指示違反に基づくもので、12と36と24が、3と4の公倍数であることを否定するものではない。「12, 24, 36, 48」と4つ書いてしまった場合も、【3つ】という指示に反するのでバツか減点(サンカク)になるであろう。そのバツは、なにも、48が3と4の公倍数であることを否定しているわけではない。


【小さいほうから順に3つ】という指示は、【下の選択肢群から選んでその記号を解答欄に書きなさい】といった指示に類する、解答書式上の指示である。【小さいほうから順に3つ】はけっして、3と4の公倍数の性質として言われたものではない。【小さいほうから順に】というのは、解答の書き方を指示しているだけなのであって、公倍数の性質に及ぶものではない。3と4の公倍数は、たしかに、小さい順に書かれることが多いが、それは、昇順性(小さい順)が公倍数の性質に属している、ということではない。


【3つ】という指示も、3と4の公倍数が3つしかない、ということを言おうとしているのではない。間違って4つ書いてしまった者も、3と4の公倍数4つしかないと思っているわけではない。4つ書く自由を奪われた(3つ書くように強制された)、と騒ぐ問題では、当然、ない。

公倍数の性質と、公倍数を表記したり解答したりする際の書式とを混同すべできない(この公倍数の問題の場合、実際には、混同する人はいないであろうが)。

【下の解答欄に書きなさい】とか【分数の横棒は定規で引きましょう】とかいった指示は、解答書式上指示であって、問われていることの数学的性質が問題となっているのではないことが、公倍数の場合よりいっそう明白である。指示があるにもかかわらず、定規で引かなかったらバツになるが、そのバツは計算上の正しさをただちに否定するものではない。

このことは、〈かけ算の順序〉も、本当は、同様なのである。〈かけ算の順序〉というのは、第1に、かけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くという、明治期以来の日本の算数教育内の慣習である。教科書や板書はこの慣習に従って書かれる。第2に、それは、この慣習に従って書くようにという解答書式上の指示である。日本の学校算数では、かけ算の文章題では、式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求められていて、それに従えていないと、しばしば、式がバツになる。


ところが、この採点が、かけ算の可換性という、数体系の公理ともなるような数学的な原理に対する挑戦だと誤解され、激しい反発を呼び起こすのだが、順序が指示であることがわかっていれば、そのような誤解は起きないはずである。

なぜそのような指示がなされるかと言えば、一つ分といくつ分がそれぞれわかっているかを同時に見るためである。算数では、かけ算は、複数の同数グループがあったとき、一つ分(被乗数)といくつ分(乗数)から全部の数を求める演算として習う。だから、文章題が行われるとき、一つ分といくつ分を区別して、それぞれを把握しているかどうか、が理解の1つの指標となる。

一つ分といくつ分の区別が理解できていなかったり、曖昧であったりすれば、その指示にいつも従うことはできない。「いつも」というのは、式は〈1つ分×いくつ分〉かその逆の2通りしかないので、たまたま指示通りになることは、普通に起きることだからである。指示通りの順でないと、式がバツになるが、そのバツは、一般に、かけ算の式が逆に〈いくつ分×1つ分〉と書かれることがある、ということを否定しているのではない。アメリカやブラジルなど、〈いくつ分×1つ分〉という逆の順で書く習慣がある国は多い。日本でも、会計伝票書類は、数量×@単価の順に書かれているものが多い。


〈かけ算の順序〉は、〈1つ分×いくつ分〉という一方の順序が、かけ算そのものに属している、かけ算の性質である、と主張しているわけではない。だから、順序派の主張を「かけ算には順序がある」のような、かけ算の性質について述べる命題で表すのは、適切ではない。かけ算の順序は、表記や書式のレベルで、日本の算数教育の慣習として通用しているもの、そしてまた、どの数が一つ分でどの数がいくつ分かを正しく把握できているかを確認するための教育的な工夫として、児童にも求められているものである。


この、表記や書式のレベルと、かけ算の基本的な性質としての可換性のレベルとを、ごっちゃにしてはならない。


2.指示と命題

以上のような、表記と性質のレベルの混同と連動して、順序派に対する誤った批判に、働いているのは、指示(命令)と命題のすり替えである。

【小さい順に3つ】とか【一つ分×いくつ分の順で】とかいった、解答書式上の指示に限らず、一般に、指示や命令について、真偽は問題にできない。「窓が開いている」は、現実についてのある判断を表す平叙文なので、実際の窓の状態を基準に、真偽を問題にできる。しかし、「窓を閉めなさい」という命令文は、それが実行されるかどうか、その指示がその状況で適切か、などは問えるが、実際の状態(数学なら、たとえば、図形の性質)に照らして、それに合致しているかどうか、つまり真偽を、問題にすることはできない。

「窓を閉めなさい」と指示したからと言って、そしてまた、指示に従わないという理由で否定的な評点を付けたからと言って、窓が物理的に開閉できることを否定しているのではない。むしろ、逆で、開閉できるからこそ、「閉めなさい」と指示することができるのである。同様にして、かけ算は可換なので、一方の順序で書くことを指定できる。

ところが、かけ算の性質と書式、命題と指示(命令)を区別できずに、〈かけ算の順序〉指導について、嘘を教えていると批判する者が絶えない。それは真実でも嘘でもないので、嘘と知りつつ方便で教えている、ということもない。

「掛け算の順序は有害無益な嘘出鱈目、1+1=7 と教えるようなもの。」(定数氏 2020/02/29 07:47 AM)
「我々は、掛け算順序は嘘出鱈目だから教えるのはやめろ、と主張しています。」(定数氏 2019/12/07 08:04 PM)

「「掛け算に順番がある」は嘘なのだから、わざわざ嘘を教えてる順序派がそのメリットを証明する必要があります。」(大根氏 2020/02/11 10:50 PM)

「自然数の掛け算順序固定…嘘を教えることとある範囲で正しいことを教えることは全然違うので反省して欲しい」(御幸氏 2020/03/05 05:52 PM)

「子供に嘘を教えるのはやめましょう。」(日輪氏 2019/12/10 00:46 PM)
「実数の掛け算に順序があると教えることは誤りだから、それは嘘を教えていることになるわけですね。」(大石氏 2019/12/05 07:17 AM)

自由派は、しばしば、順序派の立場を「かけ算に順序がある」と表現するが、それは藁人形論法である。「式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書きましょう」という指示を、「かけ算には(特定の)順序がある」という命題にすり替えて、批判しているのである。


3.「掛け算には順序がある」という命題の曖昧さ

「掛け算には順序がある」という表現は、たまに、順序派が使うこともあるものの、自由派がしばしば、順序派の主張を表すのに用いる表現である。それはかけ算についての命題であり、かけ算そのものの性質として、特定の順序があることを示している。

上で述べたように、〈かけ算の順序〉は指示であり、「掛け算には順序がある」という命題で表現される主張ではないのだが、順序派の主張を表さないこの命題を単独で取り上げて、その真偽を問題にすることは可能である。ただし、命題に含まれている「順序」という言葉がとても曖昧なために、その真偽は一通りには決まらない。

もしその命題が、かけ算は、〈割り算・引き算のように、演算記号の前後の数を交換すると、答えは一般に違ってくる〉(計算結果同一性の否定)という意味なら、順序派は、「かけ算には順序はない」と主張するであろう。算数教育では、実際には、「被乗数と乗数を交換して計算しても、答えは同じ」ことは、繰り返し、教えられている。「かけ算には(答えに影響を与える)順序がある」と教えられているというのは、事実ではない。

「順序」をその意味で理解するなら、「掛け算には順序がある」というのは偽であり、また、それは順序派の主張でもない。

だが、算数で教えられるべきかけ算は、乗号の前後が非対称な〈1つ分×いくつ分〉のかけ算である。小学生には難しい〈因数×因数〉タイプのかけ算は、中学以上の数学で習う。もし、算数で習うかけ算の非対称性そのものを順序と呼ぶなら、たしかに、算数教育では、「かけ算に順序がある」と言える。かけ算の性質として、順序性があるのである。ただし、1)その場合の順序性は、あくまで、〈1つ分×いくつ分〉であってその逆ではない、という特定の順序のことではなく、非対称性のことであること、そしてまた、2)かけ算一般ではなく、小学校で教えるような非対称なかけ算がもつ性質であること、を忘れてはならない。。

このとき、別の観点では、順序はあるともないとも言える。かけ算を〈1つ分×いくつ分〉などの非対称な図式で考える場合、〈1つ分×いくつ分〉と〈いくつ分×1つ分〉の2つの順序が考えられるが、この意味では、「かけ算には順序がある」と言える。だが、〈1つ分×いくつ分〉と書くことも、〈いくつ分×1つ分〉と書くことも可能、この2つの順序のうち一方に決められているということはない、という意味では、かけ算に順序はない。

もしその命題が、日本の算数教育では、〈かけ算は〈1つ分×いくつ分〉の順に統一・固定して教えられている〉、〈児童も、それに倣ってその順序で書くことを求められている〉、という事実を指すなら、日本の算数教育では、かけ算に順序はある、と言える。しかし、もしそのような日本の算数教育の特徴を表したいのであれば、「かけ算には順序がある」ではなく、「日本では、かけ算の式は、〈1つ分×いくつ分〉の順に固定して教えられている」、あるいは、「日本の算数教育では、かけ算の式は、〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求められている」と言うべきである。


ただし、算数でかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求められるのは、教科書の例題の文章題や、ドリルや単元テストのかけ算文章題の立式など、意味が重要なところに限られる。計算問題や立式後の計算過程では、意味が重要ではないので、式の順序は固定されない。この意味では、「かけ算に順序はない」と言える。

(2020/01/13 07:51PM, 2020/03/97 02:01PM, 02:09PMのツイートなどに基づく。)