2018年3月1日木曜日

表記ルールとしての掛け算順序


小学校と中学での「順序違いでバツ」

算数の掛け算文章題では、順番が違っている、という理由で式がバツになる。だが、掛け算には交換法則が成り立つので、順序は関係がないのではないか。疑問に思った保護者が、答案を写真に撮って、ネットにアップする。カメラ機能をもつスマホが普及した現在、SNSを使って、疑問を発信することは容易である。

(光文書院 2011単元テスト 最初5×3と書いてバツになり、訂正して青丸が付いた。バツにして終わりにすべきではないという批判が的外れであることを示している。) 

だが、これが、ネットにたむろする塾講師や数学屋の、学校算数教育に対する批判に燃料を提供することになり、「日本の小学校では、掛け算の可換性も知らない、レベルの低い教師が、嘘デタラメを子どもたちに教えている」、「日本の学校教育が酷いことになっている」、「子どもたちが虐待されていて、かわいそうだ」、といった現実を無視した議論が起きる。ときには、それは、エセ科学やオカルトの一種として取り上げられることさえある。だが、もし日本の算数教育が、彼らが言うほど酷くデタラメなら、PISAやTIMSSのような国際的な数学テストで日本が上位を維持している理由が説明できない。

「掛け算の順序が逆でバツにするのは嘘でたらめを教えることだ」というのは、誤解であって、実は、式は一つ分×いくつ分で書くという、表記上・教育上のルールに反するのでバツになっただけであり、掛け算の可換性が否定されているわけではない。そのバツは表記レベルに留まるもので、原理レベルにまでは及んでいない。表記と原理、しばしば混同されるこの2つのレベルを区別して考えるべきである。

掛け算の可換性が否定されているどころか、小学生は掛け算を学び始めると間もなく、掛け算の可換性についても学ぶのである(画像参照)。「交換法則」「可換性」という用語は出てこないし、九九表に見られる規則性として、つまり被乗数・乗数が1~9までの自然数という限定された範囲の内で妥当する規則として、ということはあるが、「掛け算では、被乗数と乗数を入れ替えて計算しても、答えは同じだ」と学ぶ。

(画像は学校図書2下(2016) p.41)

文章題の立式において要求される掛け算の順序が、掛け算の可換性という原理と矛盾しないことは、中学校の文字式の採点を見ると、よく分かるかもしれない。文字式で答える設問でも、式の順序が違っていたという理由で、減点されたり、バツになったりすることがある。画像は公立中学1年数学の期末試験から。
 

というのも、文字式では、積は数字、文字の順で、文字の間ではアルファベット順に書くルールになっているからである。この表記ルールに反して、テストで、7(a+b)と書くべきところを、(a+b)7と逆に書けば、減点される。次の画像は、定数氏(ツイッター 2017/12/03 16:47)が近隣の中学から入手した、期末試験の答案の一部である。5(x+60)となるべきところが(x+60)5となって、(減点ではなく)バツにされた。



逆順式でバツや減点にしたからと言って、中学の数学教師が、掛け算の可換性を否定しているとか、知らないとか、ということではない。可換性は、掛け算という演算が足し算、論理学の連言・選言、集合の和・積などと共通してもつ、基本的な性格である。あまりに基本的なので、原理と言ってよいであろう。(算数では、行列だとかベクトルだとか、高校や大学で学ぶ非可換なかけ算のことをとりあえず、考慮の外に置いてかまわないであろう。)

ab=ba

a+b=b+a (算術・代数学)
(p∨q)≡(q∨p) (命題論理)
P∩Q=Q∩P (集合算)
 
これに対して、「積では×記号を略し、数字を前、文字が後、文字間ではabc順」という文字式の表記ルールは、式を書くときには等号を揃えるとか、べき数は記号の右肩に小さな文字で書くとかいったものと同類で、数学には関わるが、純粋に数学的な内容ではなく、数学で使われる記号や式の書き方、書式に属している。このような書き方(書式、表記)に属すものは、普遍的・絶対的なものではなく、時代や地域によって違っていることが多い。

細かく見ると、そのルールはしばしば侵犯されている。たとえば、交換法則を式で表現するとab=baであるが、その右辺のbaは、アルファベット順ではない。文字式の計算の途中では、文字式の順序ルールは守られないことも、よく起こる。守らないと、コミュニケーションのレベルで障害が生ずるかもしれないが、数学的に深刻な事態は生じない。7(a+b)と書くべきところを(a+b)7と書いてしまっても、aとbに具体的な数値を代入して、計算して得られる結果は同じである。純粋に数学的な観点からは、順序の違いなどの表記ルールの問題は副次的な問題ではある。

しかし、中学1年生は、初めて文字式を学ぶが、そのとき、文字式の書き方も学習事項の1つであることには変わりない。だから、もし、これができていなければ、ワークブックでも小テストでも中間試験でも、バツや減点になる。授業で学んだことが、実際に、習得されているかどうかという観点から、減点されたのである。だが、繰り返しになるが、このバツや減点は、表記レベルのルールに反しているという理由で付けられたものであり、けっして、掛け算の可換性を問題としているのではない。


(東京書籍中1教科書 2016 pp.56-59)

小学校の算数でも同様である。「掛け算の文章題では、一つ分×いくつ分の順序で式を書きましょう」というルールがある。言い換えれば、一つ分×いくつ分=全部の数、という言葉の式(公式)に従って立式するように、児童は求められている。それに従って式を書いていないとバツになるが、このバツは、表記に関わるその指示に従っていないことに対するバツなのであり、掛け算の可換性のような原理的なレベルに及ぶものではない。掛け算の可換性は当然なものとして、その上で、表記上、一つ分、いくつ分の順序で書きましょう、ということなのである。だが、かりにそうだとしても、なぜ、そんな「勝手な」ルールを設定し、意味がない指示を守らせようとするのか、という疑問を抱く人もいるであろう。
 

文字式のルールと掛け算の順序の違い

文章題の立式が逆順でバツになっている算数のテスト答案がネットに公開されると、冒頭で述べたように、表記ルール違反のバツが可換性否定だと誤解されて、小学校の教師や教科書が激しく叩かれる。ところが、中学の試験答案では、不思議と、文字式の順序が違って減点やバツになっても、中学の数学教師は非難されないのである。なぜであろうか。算数の掛け算の順序も、文字式の順序も、ともに表記上のルールなのではあるのだが、いくつかの点で違っている。

第1の相違は、文字式のルールが純粋に形式的であるのに対して、算数の掛け算の順序が、内容にも関わっていることである。文字式では、先に書くか後に書くかは、数字や記号が何を表しているかではなく、数字か記号かの文字の種類というまったく形式的な違いに基づいている。だから、純粋に形式的なものによる順序であることが、文字式では明白である。この形式性のせいで、それが表現のレベルにしか関わらないことが、誰にでも分かるのである。ところが、一つ分×いくつ分の順序で書くという算数ルールでは、一つ分もいくつ分も、その数値が表している内容であるので、文字式の場合のように、その間の順序が表記ルールであることが、分かりづらくなっている。

第2に、中学の文字式の表記ルールが国際的で普遍的であるのに対して、算数のルールは日本の学校算数教育に固有である。文字式のルールは、国際的なので、数学そのものに属しているように見える。日本でもブラジルでも、平成でも江戸時代でも、3+4=7と言える点で、数学は内容的には普遍的で国際的、超時間的である。文字式の表記ルールは同じく国際的なために、数学の普遍的な内容に溶け込んでしまうことで、それが慣習として際立たされることがなく、表記ルールの慣習性が見えなくなっている。だから、文字式ルールが勝手なルールだと批判されることはない。しかも、中学・高校で学ぶので、保護者やネット上の数学屋も含めた大人は、このルールを知っている。

これに対して、小学校の掛け算の順序は、日本の学校算数に固有なローカルルールである。数学なのに、ローカルであことは、疑わしいことであろうか。たしかに、数学の内容がローカルであったら困る。3+4の答えが地域や文化圏によって違うというのは、とてもまずい。しかし、それが数式表記上の慣行であれぱ、ローカルであっても、それほど問題はないであろう。実際、国によって、÷の代わりにコロンを使ったり、乗法記号として×の代わりに・を使ったりすることはある。割り算の筆算の書き方にしても、原理的には皆同じでも、数字を書く位置や線などが、国によって違っている。もしそれが教え方・教授法であれば、人によって違うことさえある。

掛け算の順序は、小学校の算数教育のローカルルールであるために、小学生の保護者やネット民には共有されていない。そのルールは、教科書に書く順序としては、明治時代から続いているのだが、保護者たちも、小学校では習っているものの、使わなくなって久しいために、すっかり忘れてしまっている。さらに、ネットのデマゴーグたちの影響を受けて、「いつのまに算数はこんなにおかしくなってしまったのか」という間違った感想を持ちさえする。

ともかく、ルールを忘れた保護者は、子どもが持ち帰った逆順バツの答案を、そのようなルールない空間で目の当たりにする。ネットにアップされると、順序ルールが妥当している教室から式が完全に遊離してしまう。文脈から切り離されることで、そうした順序を「初めて」知ったネット民などから、「掛け算の可換性に反するように見える、そのような勝手なローカルルールを作って、それを児童に押しつけているのはけしからん」と非難される。

中には、「もしその順序で書かせたいなら、問題文に書くべきだ、そうでないと、児童は教師の言われざる意図を、悩んで推測しなければならない」と主張する人も出てくる。マルをもらうために、「空気を読んだり忖度したりすることを児童が強いられている」というわけである。しかし、授業を受けている児童は、むしろ、式はその順序で書くことを、すでに繰り返し教わっているのである。

たとえば、下記のような、教科書の例題で、3個ずつケーキが載った皿が4つある絵と、(4×3ではなく)3×4という式とを線で結ぶ練習をしている。単元テストを受ける前に、授業中に黒板やノートに書いた解答で直され、ドリルや宿題プリントで、順序を間違えれば訂正されている。単元テストはその延長と反復にすぎない。文章題の文章中に現れる数値の順序に惑わされて、逆順になってしまいがち、ということはあるにしても、児童たちは、単元テストの答え合わせになって初めて、掛け算の順序のことを知る、というわけではないのである。

(東京書籍2下 2015 p.12)

掛け算の順序は、日本の算数教育のローカルルールだと述べたが、実は、教科書などに式を揃えて書く順序としては、元来は、欧米のものである。日本が明治時代に欧米から数学教育を受容しようとしていた時期に、お手本とした欧米の算術教科書が、基準量×倍(回)の順序を採用していた。ところが、そのうちに、欧米で、倍×基準量という逆順式が支配的になってしまったために、結果として、日本の算数教育が式の順序で孤立しているような状況になってしまったのである。

日本は車が左側通行であるが、イギリスの影響のような歴史的な要因はあるにしても、左側通行であることに合理的な根拠はない。右側通行でもよかったのである。掛け算の順序も同様で、一つ分×いくつ分の順序で書くというのは、欧米の教育のシステムを受容する過程で、一緒に受け入れた慣行である。逆の順序でもよかったのである。車は左側通行といった交通規則と同じで、どちらかの順序で統一しておくのことが重要である。円滑な意思疎通の必要から、この会社とか算数教育とかいった限定的な範囲では、統一する意味はあるであろう。(注1)

第3の違いは、文字式のルールが単なる表記ルールであるのに対して、一つ分×いくつ分の順序ルールは、教育的な意味が与えられていることである。それは表記上のというだけでなく、教育上のルールでもある。

たとえば、文章題の答え欄では、数値に単位(L,km)ないし助数詞(人、本、匹……)を付けて書く、というのは教育上のルールである。このルールには、その答えが文章題が提示する問題状況に対する答えであることを児童に意識させる、という教育的な意味がある。4年生までは、分数や筆算の線は定規を使って描く、というルールを学校単位や教師単位が決めているのもまた、教育的である。というのも、低学年生では、まっすぐな線を書くのが難しく、そうでないと、数字が乱れて計算ミスが起こりやすく、また、児童が書いた字が教師に判別できない、という問題点があるから。

掛け算の順序には、どのような教育的な意味があるのだろうか。それは1つには、教科書や黒板に、いつも、一つ分×いくつ分の順序でそろえて書いておければ、児童は、教師がいちいち数字の意味を注釈しなくても、×記号の前の数字は一つ分を表している、と理解できることである。逆に、不規則に一つ分×いくつ分で書いたりいくつ分×一つ分で書いたりするのは、教育的には、嫌がらせ以外のものではない。

掛け算の順序の一層積極的な教育的意味は、文章題問題にある。掛け算の順序が違ってバツになるのは、文章題問題においてこそ、起きる。だから、掛け算の順序の問題は文章題と切り離せない関係にある。掛け算の順序の設定は、どのようにして、文章題問題を解決するのに役立つというのだろうか。文章題問題とは、文章解析力が劣るため、計算はできても文章題が不得意な児童が、多いことである。これは日本だけでなく、グローバルな問題なのである。

文章解析力がまだついていない低学年児童は、文章をよく読まずに、授業の文脈から想定される演算を、文章題が含む数値に適用して問題を解こうとしがちである。2年生・3年生の掛け算文章題は単純で、九九を覚えていれば、文章を読まなくとも、文章題の文章中の数値をともかく掛ければ、答えが出てしまう。それが足し算でも引き算でもなく掛け算の文章題であることは、その文章題が掛け算の単元にあることから、予測できる。だから、文章題問題は、低学年ではそれほど目立たない。

しかし、高学年になり、もっと複雑な文章題や割合の問題が出てきたときに、このようなやり方をしている児童は、立ち往生してしまう。割り算を使う文章題も、低学年では、大きな数を小さな数で割ればよかったのだが、分数・小数を習うと、それも通用しなくなる。だから、文章題の文章をよく読んで、割られる数と割る数を把握しなければならいない。

高学年で出てくる割合の文章題は、掛けることも割ることもある。文章を分析的に読解できない児童は、掛けたらよいのか、割ったらよいのか、分からない。これは日本だけでなく、外国語の質疑応答サイトにも、どこから割り算を使うとわかるのかとか、使うべき演算の種類はどれかとか、いった生徒の相談が掲載されている。

割り算の文章題では、文章を解析して数値の意味を把握し、そこから a:b = c:dのような数的関係を抽出しなければならない。200gの544円の牛肉を350g購入するときの代金を求める問題では、重量比 200 : 350 = 金額比 544 : □のような数的関係を読み取り、そこから、答えである□を求める式を構成しなければならない。

掛け算の文章題もまた、文章をよく読んで、そこに、〈同数グループが複数ある〉という数的構造を見て取るべきである。そのような数的構造が発見され、全部の数を求めべきことが知れれば、掛け算を使うことがわかる。「クラスに7つの班があり、各班の人数が4名のとき、児童の数は全部で何名か」という文章題では、構成員数が4のグループが7つあるという数的構造が発見できる。何算を使うかは単元からではなく、文章そのものから決められるべきである(もし、児童の全員の数と班数が決まっていて、各班の人数が不明なら、割り算を使う)。そして、どの数値が各グループの構成員数(一つ分)で、別のどの数値がグループの数(いくつ分)であるかを理解する。

その上で、今度は、一つ分×いくつ分という掛け算の順序に従って、式を立てるのである。とくに、掛け算の習いたてでは、□(一つ分)×□(いくつ分)=□(全部の数)という言葉の式の□に適切な数値を入れて埋めるような仕方で、立式するように指導される。だから、順序を伴う立式は、「一つ分の数は何ですか」「いくつ分の数は何ですか」という問いに対して答えることを含んでいる。もし、ここで順序を設定せずに、一つ分×いくつ分でも、いくつ分×一つ分でもいいとすれば、現在の算数ように式に単位を付けないスタイルでは、児童が、一つ分といくつ分をそれぞれ正しく捉えているのかどうかが、教師には分からない。
 

(公立小学校2年のプリント。かけ算の習い初めに、まず絵から式を立てる練習をする。この段階では、全部の数は、九九ではなく、まだ、おにぎりの絵を数えて出す。のちに学ぶ文章題では、問1と問2が問3(式)に統合される。これが立式である。)


欧米にも、掛け算の順序の表記ルールはあるが、しかし、教科書や黒板に教師が書くときに従う慣行に留まっていて、文章題を児童が解くときに書く式にまで、そのルールは適用されない。次の画像は、K5-Learningという、算数学習サイトのプリントの模範解答であるが、1つ分やいくつ分お構いなしに、文章に現れた順に式が書かれている。

(K5 Learning, multiplication wordproblem, a1)

しかし、日本では、一つ分×いくつ分の順で書くという表記ルールの遵守を、児童にも求めている。日本の算数教育が掛け算の順序に「こだわる」と言われるのが正しいとすれば、この意味においてである。しかし、こだわるのは、それなりの理由がある。一つ分、いくつ分として把握した数値を、それぞれ×記号の前と後に配置させることで、児童は一つ分といくつ分を意識せざるをえないし、教師は児童が書いた式を見て、それぞれを正しく把握しているどうかをチェックできるのである。掛け算を1つ分×いくつ分で教えたのであるから、それができているかどうかを、授業中に書くノートやドリル、単元テストの採点でチェックすることは、教えたことの効果を確かめるフィードバックととして当然、行うべきことであろう。




注1 実は、掛け算の表記順序は日本と外国と逆、というほど単純ではなく、外国でも、日本と同じ表記上の順番を採用しているところもある。たとえば、フランスでは、下記のバロンの論文にあるように、小学校では教師によって、倍(回)×基準量と書く場合も、基準量×倍(回)と書く場合もあるが、バロン自身は、中学の数学との接続を考えて、倍(回)×基準量のほうが適切だ、としている。takehikom氏の指摘で挙げられた資料によれば、ブラジルでは、倍(回)×基準量である。イギリスでは、黒木氏がしばしばツイッターで、BBCの算数サイトで例を挙げているが、基準量×倍(回)の順が使われることもある。日本でも、学校算数の外部では、請求書やレシードなどで、数量×単価の順番を見ることができる。こうした多様性と不統一は、そのルールが表記上の慣習だからこそ、起こりうることなのである。

Jeanne Balon, "Deux fois trois et trois fois deux sont-ils égaux?", in: Grand N, 54, 1994, 21-25.
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0ahUKEwjvnaHf8f7XAhXHfLwKHYVYB3EQFggqMAA&url=http%3A%2F%2Fwww-irem.ujf-grenoble.fr%2Fspip%2Fsquelettes%2Ffic_N.php%3Fnum%3D54%26rang%3D3&usg=AOvVaw2lmhrCwlj8KPWjyeCv7jD5

(2017/11/29 0325, 2017/12/02 09:10,  2017/12/22 06:46,  2018/01/21 21:44などのツイートに基づく。)

ツイッターでのtakehikom氏の指摘に基づき、数値を訂正する、掛け順の慣習について例を追加する、などした(2018/03/01)。