2022年5月9日月曜日

4×3はまだ12ではない ――等号の関係的意味の理解


 Ⅰ 文字式による式と値の同時化

文字式は、求め方とともに求めた結果を、計算のプログラムとともに計算の結果を、表す。たとえば、54円の消しゴムをx個買って、レジで1000円札を出したときのおつりを求める式は、1000-54xで、求められた結果であるお釣りそのものも、(1000-54x) 円である。これは、数だけの式と違うところである。

文字を含まない数だけの式では、単一の数になるまで、括弧や演算子の優先順位に従って、部分式の計算を積み重ねて演算を実行していく、つまり、計算という作業を行う必要がある。

その計算には、たいていは、一定の時間と労力が必要であり、等号のあとに出てくる答えは、そのような時間と労力をかけた作業のあとにはじめて、その結果として出てくるものである。作業前の式には、まだ、結果は現れていない。

このように、数だけの式では、等号の左右で、時間と労力の差があり、不均衡である。等号の前後は非対称で、左辺と右辺は同時ではない。3×4=12という式の左辺の3×4は式、つまり、計算のプログラムであり、そのプログラムを実行した結果、つまり計算結果、が右辺の12である。左辺3×4はまだ答え12ではない。

等号は小学校算数の1年のときから使われている。最初のたし算の学習では、1+2=3という式は、「1たす2【は】3」と読ませている。ここでは、等号=は日本語の「は」に相当する。「は」は「の答えは」ということである。こう読ませることで、等号を、そのあとに計算結果を書くための記号と理解させているのである。このように、小1では、等号は、足し算や引き算の計算結果をその直後に書くための記号として、つまり、答えを導くための記号として、導入される。


Ⅱ 算数における等号の関係的意味の学習

計算結果を導くという等号の機能は、等号の操作的(operational)な意味と呼ばれるが、計算しかしないかぎりでは、等号の操作的意味だけで十分である。操作的意味に対するのは、等号の関係的(relational)意味である。これは等式の両辺は等しいということである。

小学校算数では、画像のように、この関係的な意味も、教えられている。小学生はすでに小3において、等号が操作的な意味とともに、関係的な意味をもつことを、学んでいるのである。


a)電卓式

「3人乗っていたバスに、最初の停留所で4人、次の停留所で5人乗った。今は何人?」という問題は、小1の問題なので、まだ関係的な意味は学んでいないから当然だか、次のような式を書いてしまう児童がいる。

3+4=7+5=12

ここでは、最初の等号の左辺は3+4=7であるが、右辺は7+5=12で、左右が等しくない。等号の関係的意味が無視されている。

このような式を、私は電卓式と呼んでいる。というのも、関数電卓ではない普通の電卓は、このような仕方で、3つ以上の数のたし算をするからである。すなわち、電卓では2つ以下の数の計算しかできず、最初の2つの数のたし算をするとその答えが出て、その答えに、3つ目の数を足す。

等号の意味が操作的意味に尽きるならこれでもよいが、1年生の教科書において、すでに、電卓式は「おかしいね」と、注意が与えられている。等号の左右は等しくなければならないのである。だが、まだ、小1は、関係的な意味を正式に教えられていない。ここでは、3+4=7, 7+5=12のように分けて書くか、3+4+5のような、最初から3つの数字を含む式を立てて、2つずつ計算するか、するように指導される。


b)不等号の学習

関係的意味の理解には、不等号の学習が役立つであろう。等号の意味を不等号の意味との対比において学ぶことで、等号の関係的意味が際立つ。2つの大きな数、2つの小数、2つの分数、分数と小数などのあいだの空欄□に、等号ないし不等号を記入させて、大小や等しさを判断させる設問は、学年を通して、くりかえし現れる。

これは大きな数どうし。


これは分数と分数、分数と小数のあいだの比較。

ここで比較されるのが単一の数どうしで、かつ、不等号ではなく等号が選ばれるとき、等式になるが、左辺は式になっていない。左辺が式で右辺にその計算結果としての単一の数が来るという、等号の操作的な意味はここで破綻している。

片方ないし両方が式になっていることもある。下の画像は同じタイプの設問で、比較される対象が、両方とも式になっている。


c)式と式のあいだの等号

上の画像は小6教科書の練習問題であるが、実は、小2の教科書には、7×8=8×7という、式どうしを等号で結んだ等式が載っている。これは、右辺の左辺の式の計算結果を書くという、操作的な意味で理解された等号とは、用法が明らかに違っている。


小2の児童が、等号の関係的意味をまだよく理解しておらず、もっぱら操作的に理解していることを考慮するなら、

7×8 =56
8×7 =56

と書いて、答えが同じになることを示すほうが、7×8=8×7と書くよりも、小2にはわかりやすいであろう。そのように2つに分けた書き方のほうが、「かけ算では、かけられる数とかける数を入れ替えて計算しても、答えは同じ」と定式化される交換法則を、素直に表現している。

しかし、4年生の教科書になると、答えが等しい式どうしは、等号で結ぶことができる、と書かれている。A×B=C, D×E=Cならば、A×B=D×Eなのである。A×B=D×Eのような等式で使われる等号は、もはや、等号の操作的意味を超えている。ここでは、同じものの異なる2つの表現が左右に配置されている。

d)結合的意味

さて、学年が上がると、計算式で使う=は1回では済まず、=を重ねて、式を言い換えながら連ねることになる。一度に全部を計算するのではなく、最終的に単一の数になるまで、部分式の計算を積み上げていくのである。小5小6になると、分数の四則演算などで、途中式で通分約分、仮分数・帯分数の言い換えなどをする必要から、そのように=を重ねて続けるのが、普通になる。

21.3+51.5÷(24.3-3.7)÷5/31
=21.3+51.5÷20.6÷5/31
=21.3+2.5÷5/31
=21.3+2.5×31/5
=21.3+2.5÷5×31
=21.3+0.5×31
=21.3+15.5
=36.8

こうなると、等号は、右辺に答えが出てくるものというよりは、式と式を結ぶという意味をもつようになる。これを等号の結合的(connective)意味と呼ぼう。最終的には、等号のあとに答えが出てくるので、これは、操作的な意味で理解された等号が、言わば、引き延ばされている、と見ることもできる。

単に2つの式を結びつけているのではなく、あくまで、2つの式の値(計算結果)が等しいことを根拠に、結んでいくのである。関係的意味が堅持されている限りでは、式を大きさを保持しながら変形していく過程である。最初の式と次の式は、値が等しく等号で結ばれているが、形が違う2つの式である。このことは、等号の関係的な意味の理解に児童を近づかせるものである。ところが、その根拠となる関係的意味が脱落して、単に、式と式をつなげるのが役割を果たすものだと、浅薄に理解さてしまっている場合も多い。

21.3+51.5÷(24.3-3.7)÷5/31 = 21.3+51.5÷20.6÷5/31


e)左辺に計算結果

操作的な意味では、計算結果は右辺に来るが、算数では、そうとは限らない。高学年になると、〈平行四辺形の面積=底辺×高さ〉の公式のように、左辺にくる場合が出てくる。小6では、y=(決まった数)×xという、比例の式も現れる。計算結果、つまり、単一の数字となるものが、左辺に来ることも、普通になることで、操作的な意味で理解された等号の、左右のアンバランスが是正される。

計算の工夫ということで、25×32の32を4×8に因数分解することが教えられているが、これも、等号の関係的意味の理解に有益である。

25×32 =25×(4×8) =(25×4)×8 =100×8 =800

25に、そのうちの因数4をまず掛けて、100を作り、計算を簡単にするのである。単一の数32を、ここではあえて、等号のあとで4×8という式に変換している。単一の数字になるように短くすることだけが、計算なのではないのである。5=3+2, 1+4=3+2, 3×4=6×2のような言い換え練習をするのも、関係的意味の理解に役立つであろう。


f)あまり

算数の学習で、等号の関係的な意味に違反している唯一の例は、あまりがある割り算での等号の使用である。ここでは等号は、明らかに、等号の左辺と右辺が等しい、という関係的な意味を否定している。たとえば、

11÷3=3 あまり2

のような使い方である。11÷3 (=3.666...)と3とは等しくない。


Ⅲ 電卓式と中学数学

このような例外はあるが、算数では、原則、等号の関係的意味は、直接間接、くりかえし教えられている。だから、算数で、関係的な意味が教えられていない、と言うのは、事実に反する。しかし、小学生にとって、四則演算の計算をすることが学習のメインなので、関係的意味は、なかなか理解されず、小学生の意識のなかでは、依然として、操作的意味が幅をきかせている。

そのため、小1だけでなく、高学年の児童も、しばしば、すでに述べたような電卓式を書いてしまうことがある。たとえば、320円のファイルを2つ、消しゴム70円のものを1つ買ったときの代金は?という文章題で、式が、

320×2 =640+70 =710 710円

となってしまう(注1)。操作的な意味では、このような等号の用法は、不自然ではないが、小学校では直されるであろう。等号の関係的な用法を守ることは、小学校でも、原則いつでも、求められている。

中学に入学して、生徒たちは、1)文字式を習い、式が同時にその値を表すことを学び、式とその値が同時的であること、等式の左辺と右辺の同時性を、理解するようになる。左辺が式で、等号の後(右辺)がその結果ではなのでは、もはやない。左辺も右辺も、式でかつ値なのである。2つの式が等しいとは、その値どうしが等しい、ということである。この同時化は、等号の操作的な意味を排除する働きをするであろう。

中学生は、次に、この同時性の理解に基づいて、2)天秤の比喩を用いて等式の性質とその適用(方程式)を学ぶ。両辺は等しく、同じ量のものに、同じ数で割るなどの同じ演算操作を施しても、その結果は等しく、等号が成り立つ、というわけである。右辺と左辺は、鏡像関係のようなもので、いわば、同じものが異なる角度から見えているだけなので、同じ操作をしても、同じことがつねに同時に起きる。だから、1)の同時性の理解が不十分だと、等式の性質は活用できないであろう。


こうして、ようやく等号の関係的な意味が、等号の意味のなかで、中心的な役割を果たすようになるのである。


Ⅳ 等号の関係的意味の理解の困難さ

このように見てくると、「等号の左右が等しい」という、大人にはとても単純なことに見えるが、それを習得するまでにはとても時間がかかる、ということが、わかってくる。

初等数学ではまず算術(計算)を習い、代数(文字式)は中等教育になってから、というのは、外国も同様であろう。小学生に、等号を操作的な意味で理解する傾向が見られるのは、日本だけではない。英語圏の調査では、等号の中心的な意味を問われて操作的(operational)な意味を答える生徒の割合は、小6相当でGrade 6で58%、中2のGrade 8でも、45%もいる。


ところが、高校・大学の数学教師や中高生を教える塾の数学講師のなかは、「中学生が、等しくもないのに等号を用いる生徒がいるのは、小学校の算数で、等号の真正な意味である関係的な意味が、教えられていないからだ」、「馬鹿な小学校の教師が、等号の意味が間違って教えている」と、短絡的に考えて、算数教育を批判する人がいる。

だが、上で見てきたように、関係的な意味は、算数でも、くりかえし教えられているので、「両辺が等しいという等号の意味が教えられていない」と言うならば、それは事実に反する。等号の関係的は、聡明な教師が一度が児童たちに言い渡せば、その後は問題なしに等号を使えるようになる、というものではない。習得するのに時間がかかるものなのである。

等号の操作的な意味は、数学では意味がなくても、計算操作的・算術的には意味があり、別に間違っているわけではない。だから、操作的な意味で使われていても、嘘が教えられている、とは言えない。あまりがある割り算の例を除けば、等号の操作的な意味は関係的な意味と両立可能である。関係的な意味を損なわないという条件で、操作的な意味や結合的な意味は、同時に教えられてよい。


Ⅴ 等式の性質と等号の意味

中学に入学して、文字式を学んだとたんに、生徒の等号理解は完成するのではない。等しいものではないのに等号で結んでしまう生徒・学生がいると指摘されるとき、2つの場合が考えられる。1つは、すでに述べた、電卓式を書いてしまっている場合、もう1つは、等号の性質を使った等式の言い換えで、等式どうしを等号で結んでしまうもの。

「等しくないものに=を使う人がいて…何かの演算をしたら=を書く程度の認識しか持っていない……」(joseph_henri氏 2020/01/05 21:06)「鈍い高校生ですと、両辺を同じ文字で割ったのに、=の印を付けてつなげてしまいます。」(21:16)

1) A =A' =A'' =A''' 算術的・数学的
2) A=B ⇔ A'=B' ⇔ A''=B'' 論理的

小学校までは、1)のように、大きさ(値)を維持しながら、式を短くしていく(計算する)ことしか知らなかったのに、中学に入ると、1)に加えて、2)等式の性質を使って等式を次々と言い換えていくことを学ぶ。

1)には、数だけの計算以外に、中学以降の数学で学ぶ、式の計算や因数分解・展開も含む。ここでは、値(数量的な大きさ)を維持しながら、式を変形する。変形のうち、式を短くするものは「計算」と呼ばれる。

a)4.7+6×(7.4-3.8) =4.7+6×3.6 =4.7+21.6 =26.3

b)4ab²-3a+ab²-5ab+2a+2ab² =(4ab²+ab²+2ab²)-(3a-2a)-5ab =7ab²-a-5ab =7ab²-5ab-a

c)x²+2x-15 =(x+5)(x-3)

2)は、下記のように、等式の性質を使って、方程式を解くときに現れる。ここでは、等式が上下に並んでいて、上下の等式は ⇔ 記号で結ばれている。小学校では、□×3=15 □=15÷3くらいはやるが、等式の性質を駆使しているとまでは、とても言えない。

5x-4 = 2x+5 (両辺から2xを引く)
⇔ 5x-2x-4 = 2x-2x+5
⇔ 3x-4+4 = 0+5+4 (両辺に4を足す)
⇔ 3x = 9 (両辺を3で割る)
⇔ x = 3

ここでは、上下の等式どうしの関係は、「真理値が等しい」という意味での等値関係である。このことは、⇔ という記号で表現されている。それは、値(大きさ)が等しいという算術的な関係ではなく、論理的な関係である。3xとx、9と3は等しくないので、数の値は上下の等式で等しくない。3x = 9ならばx = 3であり、かつ、x = 3ならば3x = 9である、という双条件的な関係が、上下の等式のあいだにはある。等値は双条件とも呼ばれる。

4×3とか2x-1といった式は、命題ではないが、2×4=8や3x-2=5といった等式は、命題である。それは、左辺と右辺が大きさにおいて等しいと主張する命題である。ところで、命題は真理値(真、偽)をもつ。命題「2は素数である」は真だが、命題"3+4=8"は偽である。2つの命題の真理値がいつも一致するとき、その2つは等値(同値)と言う。たとえば、P⊃Qという条件命題とその対偶~Q⊃~P、ab=acとb=c(a≠0)は等値である。5x-4 = 2x+5 という等式と 3x=9という等式は、等値である。

だから、ここで、⇔記号の代わりに、等号を用いることはできない。ところが、等号を、単に式と式を結びつけるものといった浅薄な理解をしていると、つまり、等号に結合的意味しか認めていないと、次のように、等式どうしを等号を用いて結んでしまう、という失敗をしてしまう。これだと、等式の関係的意味が損なわれる。

3)誤り A=B = A'=B' = A''=B'' 

A=Bの両辺から2を引いてA'=B'となったなら、AとA'は等しくないので、これは誤りである。この等値という論理的関係は小学校ではなく、中学・高校で学ぶものなので、もし、ここでこのような等号の誤った使い方をする生徒が多数いるならば、その責任は小学校の教師ではなく、中学・高校の数学教師に帰すべきものである。

このように、中学に入学して等式の左右同時性を学び、等号をその関係的な意味で理解できるようになっても、等号の用法を誤らないとは限らない。論理的な言い換えなのに、それを等号で表してしまったり、逆に、1)のタイプの計算なのに、等式の性質を誤って適用し、0.1a+0.3=a+3などとしてしまうケースが出てくる。この論理的な関係という、等号の使用に関わる新しいことを学ぶことによって、等号が使える範囲が、一度、揺らいでしまうのである。しかし、算術的関係と論理的な関係の区別がつくようになることで、等号が論理的等値には使えないことが、わかってくる(等号を論理的等値に使う例は、あるといえばあるのだが)。生徒の等号理解は、中学で数学を学び始めた以降も、試され続ける。


Ⅵ かけ算の順序と等号の意味

最後に、等号の意味と〈かけ算の順序〉との関係について述べる。

〈かけ算の順序〉をめぐる論争で自由派の多くは、「4個入りの袋が3つのときキャンディーは全部で何個?」という文章題の式として、3×4と4×3は、計算結果が同じ12であるという理由で、意味も含めて、まったく同じもので、両者のあいだに区別はない、と主張する。それにもかかわらず、小学校算数のテストでは、そのような文章題の式としては、一方が正しいとされ、他方がバツにされる。

定数氏のように、式は2×6でも、13-1でも、24÷2でも、√144でも、よいという急進的な主張をする、要注意人物もいる。急進的なものも含めて、このような主張をする人たちは、式をその値に還元してしまっている。彼らは、「小学生ではまだ、等式の左右同時化・対称化が完成していない」という基本的なことを、理解していないのである。算数教育は、子どもの発達段階・学習段階を考慮して行われなければならない。

算数では、同時化は完成しておらず、4×3はまだ、その答え12ではない。4×3は式で左辺にあり、12は右辺にその答えとして出てくるもの。では、4×3は何を意味するかと言えば、4個のものからなるまとまりが3つあることを意味する。というのも、算数では、かけ算は〈1つ分×いくつ分〉で教えられているから。3×4は、3個のものが4つのことなので、キャンディーの文章題の文章が表すグループの分け方と違っており、つまり、意味が違っており、その文章題の式としては不適なのである。


以上の考察からわかるように、大人には自明であるように見える等号の適正な使用は、小1からかなり中学・高校にいたるまで、くりかえし訓練を積んではじめて、獲得されるものなのである。


注1

「算式で=の記号を使いまくる小学生の存在がずっと疑問だった」(matho2019)
「計算式で=の記号を使いまくる」というのは、どんな使い方ですか?」(flute23432)
「最近見かけたのは速さの変換(時速→分速など)の計算過程ですね。
例えば時速30kmを分速に直すとき
……
30×1000=30000÷60=500
のように書く場合です。」(matho2019)


(flute23432 2022/05/05 11:55AM, 2018/10/14 10:51AMなどに基づく)





2022年3月26日土曜日

猫が動物であるように、正方形は長方形である?

 「正方形は長方形だ、とか立方体は直方体だ、となぜ教えないのかと言うと、小学生には難しいという先生は、猿も人間も動物だとか、日本人はアジア人だとか色々困らないのか認識できてないだけなのか #小一時間ほど問い詰めたい。」(Twitter 月光氏 2014/10/28 11:35AM)

小学生は、猫が動物であること、きゅうりが野菜であること、カツカレーがカレーであること、はわかるのだから、「正方形が長方形である」こと、「正方形が特殊な長方形である」ことも理解できるはず。児童は一般の包摂関係がわかるので、【図形の】包摂関係も理解できるはず、である。


A)図形の包摂関係の困難さ

そのはずなのに、実際には、【図形の】包摂関係の理解は、小学生には、不可能でないとしても、とても難しいことが知られている。図形の包摂的理解とは、具体的には、「正方形が長方形である」こと、「正方形が長方形の特殊な場合である」こと、「正方形の集合が長方形の集合の部分集合である」こと、の理解である。

現代化算数の時代(1970年代)には、図形の包摂関係がヴェン図を使って積極的に教えられたが、理解できた子も少数いたものの、ほとんどの児童が理解できなかった。当時の小学校のあるクラスでは、長方形は平行四辺形かの論争が勃発、平行四辺形だと主張した1人が、クラスの他の全員から集中砲火を浴びた(注1)。


当時の調査では(注2)、現代化当時の小6は、その学習を終えているはずだが、包摂関係の理解を試す問いに正しく答えられた児童の割合はとても低かった。学年が上がるほど、正答率は高くなっていくが、中3になっても、正答率は39%に留まっていた、という(p.59)。小中学生の思考の発達を無視して無理に教えようとしても、うまくいかないのである。このため、現在の日本では、図形の包摂関係は、中2数学の証明の単元で教えられていて、算数では教えられていない。

小学生の、図形の包摂関係の理解に問題があることは、日本だけでなく、外国でも知られている。次の引用で、「四角形の階層的分類 (a hierarchical classification of quadrilaterals)」というのは、長方形や正方形を包摂的に定義することを意味する。

「多くの国際的な研究が示してきたのは、「多数の学習者が、四角形の階層的分類やそれと関係する図形の定義の問題に納得しない」ことである。とくに明白なのは、「学習者がしばしば、図形の形式的な定義に手こずっていること、さらには、彼らの幾何学的な推論は、しばしば、彼らの心的な図形イメージにかなり影響されていること」である。たとえば、モナガン(2000)の報告によると、イギリスの11歳の児童は、正方形が長方形であることを認めようとしない。」(注3)

歴史的にも心理学的にも示されてきたこうした困難にもかかわらず、一部の人たちは、「小学生は図形の包摂関係を難なく理解できるので、小学校から包摂関係を教えるべきだ」と主張する。彼らは、今の小学校では、包摂関係は教えられていないにもかかわらず、「正方形は長方形ではない」と教えられていると言い、因果関係の調査もせずに、中高数学における包摂関係指導上の困難の原因を、小学校の教育の仕方に帰している。

彼らは、指導・学習ですべてが決まる、と考え、発達ということを無視している。だが、国によって、図形の教え方は違うのに、世界中の児童や生徒が、包摂的定義の理解に困難を抱えているというのだから、図形の包摂性の理解の困難さは、むしろ、論理的思考の発達の段階に起因する、かなり普遍的なものだ、と考えるべきなのである。

たしかに、先に言及した現代化時代の調査によると、包摂関係の理解は、中1と証明を学ぶ中2とのあいだに、相対的に著しい差がある、ということだが、これは、学習が図形の包摂理解に役立つ、ということを示唆する。証明の学習がなかったら、包摂関係の理解はほとんど進まないであろう。学習が包摂関係の理解をより容易にするのである。包摂関係の理解が発達段階から一方的に決まるのではなく、学習と発達は互いに他を制約し促進するのである。


B)定義に基づく論理的思考

図形の包摂関係が児童に難しいのは、それを理解するには、猫やきゅうりやカツカレーのような具体物と違い、定義から論理的に推論する思考力が必要だからである。ところが、児童にはまだ、その力が十分でない。証明では、定義や公理公準から演繹的に推論する論理的思考力を使う。中2での証明の学習が、図形の包摂的な関係の理解を促すのだとしたら、それは、証明の学習が論理的思考力を高めるからにほかならない。

現代では、算数教科書も含め、長方形は包摂的に定義されている。すなわち、簡潔に表現すれば、長方形は等角四角形、正方形は等辺等角四角形なのである。一般に、概念の内包が多いほど、その外延は狭い。この2つの図形に共通する属性は、等角性と四辺性である。正方形の定義には、これらに加えて、等辺性が加わっている。正方形は、長方形より1つだけ性質が多く、その分、長方形より範囲が狭い。


集合で言い換えると、次のようになる。長方形の集合は、1)四角形の集合と、2)等角なものの集合と、の交わりである。正方形の集合は、1)四角形の集合と、2)等角形の集合と3)等辺形(ひし形や正方形など)の交わりである。1)と2)の重複部分(長方形)のうち、さらに3)が重複する部分が、正方形の集合である。だから、正方形の集合は長方形の集合の部分集合である。

そのかぎりでは、「猫が動物である」というのと同じ意味で、「正方形は長方形である」と言える。長方形の集合の要素はすべて長方形であり、正方形がその部分集合なら、正方形の集合の要素もすべて、長方形であると言える。正方形は特殊な長方形、等辺であるような長方形なのである。これは、猫の集合の要素が、この集合が動物の集合の部分集合であるなら、すべて動物であるのと同じである。

しかし、これは長方形を包摂的に定義した場合に言えることであり、ユークリッド風に「非等辺な等角四角形」と排反的に定義したら、正方形は長方形ではない。次の引用はルジャンドルのものからだが、ここでは、長方形は「角は直角だが、辺は等しくない」と定義されている。正方形の集合と長方形の集合は、どちらも四角形の集合の部分集合だが、両者の交わり(論理積)は空である。四角形の集合のなかで、長方形と正方形は、重複分がない集合として表される。

長方形と正方形の関係は、長方形を包摂的に定義すれば包摂的、排反的に定義すれば排反的である。つまり、正方形と長方形の関係が包摂的であるかどうか、正方形は長方形であるのかそうでないのか、という問題は、定義次第なのである。だから、「正方形は長方形である」は、けっして自明な数学的真理ではない。それは、包摂的な定義が現代では支配的であること、いわば定義の政治学、を前提としてはじめて成り立つ命題なのである。


C)前論理的な理解

だが、図形を学習する者が、その定義から推論する論理的な能力を、まだもたないとしたら、どうであろうか。当然、包摂的な定義から正方形と長方形の包摂関係を引き出すことも、排反的な定義から両者の排反的な関係を引き出すことも、できない。では、両者の関係について、小学生は何も考えていないかというと、そういうわけではない。というのも、人は論理的な思考を始まるまえに、いつもすでに、前論理的で素朴な生活世界に生きているからである。

児童は、論理的な思考力が未発達なので、図形を定義や概念からではなく、視覚的なイメージで把握しようとする。視覚イメージで考える児童にとって、長方形は、縦横の長さが異なる典型的な長方形(prototype)なので、正方形との関係は排反的(exclusive)である。子どもが生きる前論理的で素朴な直感的な世界では、正方形は長方形とともに四角形の仲間であり、しかも、角が直角なので、長方形の兄弟のようである。

ただし、この排反関係は素朴なもので、まだ論理的ではない。「インスタの写真は正方形にする、それとも長方形?」のような、大人も日常使うような自然言語の用法でも、正方形は長方形ではない。自然言語のこの用法は、生来的なイメージにもとづくものであろうが、視覚イメージにおける素朴な排反関係を強化する。

児童は、算数で正方形と長方形を学ぶ前に、素朴な理解のなかに生きている。この素朴な排反的理解を修正するのは中学数学で、算数ではない。

長方形であるものを図から記号で選ぶ設問で、正方形の記号を模範解答に含まされていない(または、解答欄が正方形ではない長方形の分しか用意されていない)のは、このような素朴な理解を前提としているから。この設問は、素朴な排反関係を追認し、利用して、児童が図形の名称を正しく覚えているか、正方形と長方形を逆にして覚えていないか、をチェックするもの。長方形と正方形の関係が包摂的か排反的か、のような難しいことを教えようとしているのではない。この設問の存在をもって、算数で「正方形は長方形ではない」と教えられている、とするのは、無理筋であろう。

縦も横も2cmで高さが6cmの直方体の面は、長方形がいくつ(4つ)、正方形がいくつ(2つ)?という設問も、同様である。模範解答は、「長方形が4つ、正方形が2つ」であり、「長方形が6つ、そのうち2つが正方形」なのではない。


「正方形の折り紙を2回折って、正方形と長方形どちらも2つずつを作るには、どのように折り紙を折ればよいか」という問題では、両対辺の中点どうしを結ぶ折り方だと、正方形が4つできてしまうので、中点からずれたところで折らないといけない。

小学校教員は、このような設問によって、排反的な関係を教え【込】もうとしているわけでは、けっしてない。ただ、図形の名称や直方体の特徴を教えようとしているのであり、その際、視覚イメージと日常言語の用法を容認し、使っているだけである。もし、教え【込】もうとしているなら、教科書にはっきりと「正方形は長方形ではない」と書けばよいし、定義も排反的な定義にすればよい。「次の2つのヴェン図のうち、正しいのはどちら?」という設問を作って、2つの集合が重なり合わない関係(排反的関係)を表したものを、正解とすればよい。


D)具体物の包摂関係

図形の包摂的理解が難しいのに、猫やきゅうりやカレーの包摂関係が比較的容易なのは、なぜなのか。それは、図形とは違い、猫が動物であることは、猫と動物の定義を知らなくても、猫の形や動作・しぐさ、出産などの生態などから、動物(けもの)であることが、児童にもわかるから、である。それは、外見の類似性に基づくかなり素朴で皮相で直感的な包摂性の理解なので、クジラを魚類だと誤認することも招いてしまう。エラがなく肺があるといった解剖学的知識や、出産して子どもを乳で育てるとかの生殖について知識を学ぶことで、この素朴な分類は、より学術的な分類に修正される。

猫やきゅうり、カレーは、無数のさまざまな性質をもつ自然物や人為物である。これらは決定的な仕方で定義するのが、不可能でないとしても、難しい。それがもっている多数の属性のうちどの属性に注目するか(重視するか)により、さまざまな定義と分類が可能になる。

これに対して、図形は、目に見える形をもっているという点では具体的であるが、定義的には、2~3の性質から構成された、かなり抽象的な存在である。児童は、定義のようなものが教科書に書かれていても、それをほとんど無視して、視覚的に把握される形だけに注目し、正方形と長方形を排反的に分類するのである。

しかし、前論理的な理解は、何層にも積み上げられた包摂関係の階層を抱擁する能力はないかもしれないが、何でも排反的とするではなく、一定限度で包摂関係も容認できる。長方形と四角形の関係は、論理的にだけではなく、前論理的にも、包摂的である。視覚的イメージとしては、未就学児の目にも、正方形や長方形、台形などは、二等辺三角形や正三角形などとは区別された、同じ四角形の仲間に見える。

だが、それは素朴で前論理的な関係であるゆえに、論理的な包摂関係のように、上位概念と下位概念は明確に区別されて整理されていない。長方形の集合が四角形の集合の部分集合としてとらえられているというよりは、「長方形は四角形の仲間である」という表現のほうが、よく事態を表している。


このような理由から、「児童は、猫が動物であることを容易に理解できるのだから、正方形が長方形であることも容易に理解できるはず」というのは、間違っている。


注1 読売新聞発言小町「小学校 正方形が長方形でないのはなぜ?(駄) 」 redbear 2014/11/15 20:31


注2 小林敢治郎「図形の包摂関係の指導――包摂関係を適用する能力の実態把握を中心にして――」『日本数学教育学会誌』

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsme/59/4/59_10/_pdf/-char/en

「この包摂関係を理解するのはなかなか大変なようで,例えばある調査では,中学校二年,三年生の約半数の生徒が,平行四辺形と長方形を別のものだと認識しているようです」(国宗進「図形の豊かなイメージを育てよう」blogs.yahoo.co.jp/taroinuk/38047565.html リンク切れ)


注3 T.Fujita and K. Jones, ,”Leaner’s Understanding of the Difinitions and Hierarchical Classification of Quadrilaterals: Towords a Theoretical Framing, in: Research Mathematics Education, 9 (1&2), pp. 3-20. 2007; p.4.


(Twitter @flute23432 2022/03/11 00:42AM, 0:59AM などに基づく)

2022年3月24日木曜日

トランプ配りと〈かけ算の順序〉論争

 A)トランプ配り

「1972年1月26日の朝日新聞の記事」(メタメタの日 2009/01/23)https://ameblo.jp/metameta7/entry-10196970407.html


〈かけ算の順序〉論争でしばしば言及される、朝日新聞のこの記事によると、1971年に大阪の小学校で、かけ算の式が逆でバツになった答案を子どもが持ち帰った保護者のKさんが、学校や教育委員会、文部省に抗議した。

この記事は数学者などにも取り上げられ、さらに議論を呼んだ。

式がバツになった設問は、かけ算の文章題で、「6人のこどもに、1人4個ずつみかんをあたえたい。みかんはいくつあればよいでしょうか」というものだった。

Kさんが根拠としたのは、トランプ配りである。トランプ配り(カード配り)とは、トランプをポーカーなどの参加者に配るときの配り方。トランプは1人1枚ずつを、参加者全員に順に配りながら、54枚全部がなくなるまで、何巡もする。6人なら9巡である。

①通常の理解では、配った結果に注目する。子どもが6人いて各人の前に、配られた4個のみかんが置かれている。みかん4個の山が6つある。1人分のみんかの数4個の4が1つ分の数で、人数6がいくつ分なので、式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くとき、式は4×6だ。

逆に、②4人に1人6個ずつだったら6×4となる。しかし、③トランプ配りをして、配る過程に注目すると、全員に1人1個ずつ配る1巡(1周)で、6人分6個配れる。これを4回繰り返すと(4巡すると)、最終的には、1人4個ずつ受け取ることになる。

ここでは、1巡で配る個数6(1人1個ずつで6人分の6個)を1まとまりとして見ることかが可能で、これが1つ分の数に、4巡(周、回)の4がいくつ分となる。日本の算数では、かけ算の式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書く習慣なので、式は6×4である。

①②③の3つとも、かけ算の式は〈1つ分×いくつ分〉の順に書かれている。③は式自体は②と同じだが、状況は①と一致する。状況は同じなのに、トランプ配りをすると、一つ分の数といくつ分が入れ変わる。

一つ分の数4といくつ分6が、一つ分の数6といくつ分4となる。1つ分の数であった4がいくつ分に、いくつ分であった6が1つ分の数になる。①と③では状況は同じで、配るミカンの総数も同じ24個である。

ここから、のように言える。

4(1つ分)×6(いくつ分)=6(1つ分)×4(いくつ分)

👧👦👧👦👧👦

🍊🍊🍊🍊🍊🍊 1巡目
🍊🍊🍊🍊🍊🍊 2巡目
🍊🍊🍊🍊🍊🍊 3巡目
🍊🍊🍊🍊🍊🍊 4巡目

これが交換法則である。かけ算の交換法則は、算数の教科書では、アレイ図などで示されている。アレイ図でも、グループを縦1列ごとに作るか横一列に作るかで、1つ分の数といくつ分の数が入れ替わることが、示せる。


トランプ配りによる解釈は、可能と言えば可能だし、間違っているわけではない。児童がもしこのような解釈をして、〈1つ分×いくつ分〉の順に書くという「約束ごと」に従えば、式は6×4である。

ここまで見るかぎり、6×4でバツにされる理由はない、と言えそうだ。


B)非現実性

だが実は、トランプ配りによる解釈は、現実性に関して大きな問題がある。児童はそもそも、そのように解釈しないのである。トランプ配りの解釈は、むしろ、自由派が順序派を批判しようとしてひねくりだし、持ち出すものである。

新聞記事の小学校は、Kさんの抗議を受けて、逆に書いた児童に聞き取り調査をしたところ、トランプ配りで考えた児童は1人もおらず、どの児童も、問題文に数が現れる順に式を書いただけだった、ということがわかった、という。文章題は「6人のこどもに、1人4個ずつみかんを…」となっていて、たしかに、問題文中で1人分の数よりも、人数が先に登場する。

児童がトランプ配りによる解釈に基づいて立式することは、まずない。1人に配る個数が4個とわかっているのに、1個ずつ配るというのは、かなり効率が悪い配り方であり、大人でもしないであろう。最初から、各人に4個まとめて配るであろう。

トランプをトランプ配りするのには、特殊な事情がある。ポーカーなどはいいカードを集めるので、前のゲームの影響が残ると不公平になる。不公平が起こらないように、ゲーム前に十分にシャッフルし、また、配るときも、トランプ配りをする。

キャンディーが多数あって、全部の個数は不明、人数だけ決まっているときに、平等にキャンディーを配る方法としては、トランプ配りは1つの方法となる。しかし、かけ算の問題では、1人に配る個数が最初からわかっている。

小学生くらいの子どもは、現前する具体物に基づいて思考する。子どもの各人に4個のみかんの場合は、子どももみかんも具体的なものだが、それに比べると、一巡で6個の「巡」は事物ではなく、動作の単位なので、より抽象的である。だから、小学生は、配られた結果としてできる、各人の前にできたみかんの山を、考える。

トランプ配りによる解釈は、1個、2個……のように数えることができる分離量では、比較的容易だが、連続量だと、ぐっと難しくなる。クラスの38名全員に、1人に20cmのリボンを配るとき、全部で何mのリボンが必要? リボンは運動会の遊戯で、腕に付ける。

リボンを1cmごとに細かく切って、1巡目で1人に1cmのリボンを渡し、38人全員が受け取ったら、2巡目で1人に1cmのリボンを渡し……ということを20回繰り返せば、1人に全部で20cm分のリボンの【破片】が集まる。

1巡ごとに、38人分の38cm必要で、この細かな38cmの配布を、20回繰り返す必要がある。このとき、38が1つ分の大きさ、20がいくつ分となる。しかし、そのように細かく刻まれたのでは、運動会では使用できないであろう。

1個54円の消しゴムを38個購入するとき、1円ずつの分割払をすれば、1回につき38個分の38円を払い、それを54回繰り返せば、完済できるはずだ。しかし、1円ずつの分割払いは、小学校の近くの小さな文具店ではもちろん、大手の文具専門店でも、取り扱いがないであろう。

だから、大人にさえ、トランプ配りの解釈は、思い浮かばない。ましてや子どもは思いつかない。もし児童にトランプ配りの解釈をさせたいなら、そのための十分な誘導が必要である。まず、文章題を次のように、トランプ配りで配ったことがわかるように、改める。

「6人の子どもに、1人1個ずつみかんを配り、全員が1個受け取ったら、同じことを最初の子どもに戻って繰り返す。4回繰り返すとき、みかんは全部で何個必要?」

また、挿絵としては、トランプ配りをした過程がわかるようにコマ絵を描いて、「巡」というまとまりを、線で囲って示すなどする。そうすれば、さすがに児童にも、巡ごとのまとまりがわかる。そのとき、かけ算の式は6×4であり、4×6ではない。


(参考)

自由派が、ふだんからトランプ配りでお菓子などを親から受け取る習慣の子どもが、トランプ配りで考えて逆順式を書いた実例として挙げるのが、読売発言小町のこの例。

2011年12月10日 小2の母「小学2年生、掛け算の文章題で悩んでいます。」

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2011/1210/467390.htm?o=0&p=1

ところが、この例は、実はトランプ配りによるものではないことが、次のブログで、明らかにされた。同時に明らかにされたのは、小2の母に対する自由派定数氏の激しく生々しい裏工作であった。

「小町小2の母の娘は、本当に、トランプ配りで考える2年生の例か?」http://makitae.cocolog-nifty.com/tsurezure/2015/12/2-a5c3.html


(Twitter @flute23432 2022/02/19 06:08PM, 06:19PM などに基づく)

式は場面を表すのか?

 「最大の問題は、あなた自身が、式が場面状況を表す、という前提を疑っていないことです。これこそが最大の過ちです。式が表しているのは場面ではなく、数です。」(Twitter 定数氏 2022/02/20 10:31PM)


式は一般には、数字ないし文字と演算子から構成され、計算の手順ないしはプログラムや、その結果を表していて、状況は表さない。ab-cはaとbの積からcを引くことと同時に、その結果を表す。定数氏は、式が表すのは数だと言っているが、それは十分ではない。

式が状況に関係づけられることはあるが、一般には、その関係づけは、演算や式にとって偶然的だと見なされている。だから、合併/増加、求残/求差、等分除/包含除などの、演算が適用される状況の分類は、数学の外部の話だと思う人が多い。

しかし、初等数学教育では、式を状況に強力に関係づける教育的な必然性がある。というのも、児童が四則演算を習い始めるとき、児童がすでに獲得しているのは、もっぱら、生活や物語(お話し)を通して児童に馴染みの具体物の変化と操作、配置などだから、である。

四則演算を習い始める児童も、少なくとも、数を数えたり簡単な足し算をしたりくらいのことはできるであろうが、数学的な基礎はないに等しい。中学でf(x)=3x-2のような関数の式を理解できるのは、小学校卒業までに四則演算や、空欄□を含む式をすでに学習しているからこそ。

ある未知の事柄を理解するには、未知を既知に組み込み関係づけなければならない。関係づけられないと理解できない。だから、式を理解できるようになるには、それを、低学年児童に馴染みの具体物に関係づけないといけない。そして、その具体物の世界は、明晰で単純な数学的イデアの世界と対照的に、雑多で鈍重で不純な世界なのである。

ひき算を習うときは、ひき算が適用できる状況のうち、1年生にも馴染みの、お菓子を食べる、公園で遊ぶ、といった物語に対応させる。お菓子を6個もらって、そのうち4個食べたので残りは2個だとか、公園で7人遊んでいて3人帰ったので、今は4人遊んでいるとか。

これは、算数学で求残と呼ばれる状況である。ひき算が適用できる日常的な状況のもう1つのタイプは求差である。「兄が7枚、弟が5枚カードをもっているとき、違いは何枚?」といった文章題で表されるような状況タイプである。差は静態的な状態で、変化や動作の物語にできないので、小1にはより難しい。

求残と求差は、ひき算が適用できる状況や文章題の分類で、一般にはこれは、ひき算そのものの分類とは見なされない。数学的には、ひき算そのものには求差も求残もないと言えよう。

だが、このような具体的状況から、状況に基づいて、状況のなかでひき算という演算を理解し始めている児童にとって、演算は状況からまだ十分に独立していないのである。児童にとって、式は、状況のなかにまだ半分以上埋もれていて、十分に独立していない。

児童の抽象的思考は未発達で、児童は具体物に即して考える(具体的操作期)。だから、四則演算を習ったばかりの児童は、大人が理解しているようには、演算やその式を理解していない。児童にとって、状況から式を立てた途端に、状況が式から失われることはない。文章題から式を立てた途端に、式が文章題から切り離されるわけではない。

だから、この学年の児童にとって、そしてまた、「そのような児童に演算の基礎を教えるにはどうしたらよいのか」を考える算数学においては、求残と求差はひき算そのものの分類だと言ってよいのである。ひき算には求差と求残がある、と言ってよいのである。

定数氏に限られないが、自由派の多くは、このような教育的状況の固有性がまったく理解できていない。この意味で、定数氏らは、初等数学教育を論ずる資質を疑われても、やむをえないであろう。

なお、求差と求残のようなものは、演算が適用される日常的状況の分類であり、「求差と求残という、互いに異質な2つの実体がある」といった形而上学的な主張がなされているわけではない。それはおおよその区別、暫定的な分類、であってもよいのである。

だから、どちらに分類してよいかわからない状況とか、観点によってどちらにも分類できる状況があってもおかしくはない。たし算が適用できる状況タイプのうち、小1が学ぶのは、合併と増加である。合併と増加はひき算の求残と求差に比べて、とても近い関係にあり、境界も明瞭ではない。両者の区別の基準の1つが時間である。合併は同時的だが、増加は時間差がある。しかし、合併でも、厳密な同時性ということは考えられない。小1が満足できる程度の精度の、おおよその同時性であればよいのである。

こうした曖昧さや不明瞭さは、分類そのものが無効だとかナンセンスだということを意味しない。男性と女性のどちらにも分類しにくい中間的な性があるからと言って、男性/女性の概念的な区別が無意味になることはない。ある人の右はその人に向かい合う人にとっては左にある。だからと言って、左/右の区別がナンセンスになるわけではない。これと同様である。

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「式に意味などない、式が表しているのは数であり場面ではない、とすれば一切がすっきりするのに、なぜそういないのか、理解に苦しみます。」(Twitter 定数氏 2022/02/20 10:41PM)

児童は、日常的な状況のなかの具体物の変化や配置などに基づいてしか、演算や式のような抽象的なものを理解できないのに、なぜそれを否定してしまうのか、理解に苦しみます。


(Twitter @flute23432 2022/02/21 00:10PM などに基づく)

求められたかたちで解答すること

算数・数学では、等号=でつなげて大きさ(値)を維持しながら、式などを一定のかたちにすることが求められることが、よくある。計算というのは、演算子と数、括弧などから構成された式を、単一の数に変形することである。因数分解も、単一の数を複数の因数に分解すること、単一の多項式を複数の多項式の積の形に変形することである。


a)分数の計算問題で、答えを=21/30と書くとバツになる。そのバツは、しかし、21/30=7/10であることの否定を意味しない。それ以上約分できないかたち(既約分数)が求められているのに、それができていないからバツになった。

算数・数学では、もっとも簡単なかたちにすることがしばしば求められる。計算というのは、大きさ(式の値)を維持しつつ、もっとも簡単なかたち(通常は、単一の数値)に変形することを意味する。4×3という計算問題の答えとして、3×4とか6×2、13-1とか2×4+5-1は不適切である。

98/14のように、分子が分母の倍数のときは、整数のかたち(7)にしなければならない。まだ約分できるかどうかの判断は、2つの整数のあいだに共通素因数があるかどうか(互いに素でないかどうか)を判断することでもあり、その判断力の訓練は、数学ののちの学習にも役に立つ。


b)算数では、3.9+5.1の筆算で、答えの9.0の0を斜線を引いていないと減点されるが、これは、小数点以下にゼロしかない場合ゼロを消すように言われていたのに、それができていないから。そのような採点を見て、算数では9.0≠9なのかと疑念を呈した人がいたが、採点した教員は、もちろん、9.0と9が等しくないと考えている、というわけではない。


小数9.0のように、整数で言い換えられる数を、整数の形にするのは、98/14をそのままにせずに整数7にすると同じ理由から。小数の足し算は小数を学び出すと、すぐに出てくる。小数学びはじめの児童に、筆算の結果出てきた9.0が、既習の整数9と等しいことを意識させるため、筆算であえて斜線を入れさせているのである。

なお、小数のたし算筆算は小3で学ぶが、有効数字は中1。また、算数・数学に出てくる数は、通常、測定値ではなく、誤差がない厳密値なので、有効数字の考えはここに適用できない。


c)学校算数では、かけ算の文章題では、かけ算の式を教科書や授業でそうしていたように、〈1つ分×いくつ分〉の順に書かないと、しばしば、バツになる。


たとえば、「3つの袋のどれにも4個入っているとき、キャンディは全部で何個?」という文章題では、各袋のなかの個数が一つ分の数なので、文章中に数が出てくる順とは逆に、式としては、4×3=12と書くことが求められる。

これは、どれが1つ分で、どれがいくつ分かを児童に理解させるため、である。というのも、児童は、文章の解析力がまだ不十分で、「今はかけ算を学習中だから」という理由で、数の意味も考えずに、文章中の2つの数字を拾い出して、掛けて答えを求めようとするから。

そのようなやり方だと、学習中の単元の情報がないときは、与えられた文章題を何算で解くのかが、わからない。掛けたり割ったりして、ありそうな答えが出る演算を選ぶことになる。そのような皮相なやり方だと、掛けるときも割るときもある、高学年で学ぶ割合の文章題で、立ち往生してしまう。文章が表す事態に見いだせる数的関係や数の意味から、使う演算を割り出せるようになるべきであろう。

バツで採点した教師は、けっして、4×3≠3×4だと言おうとしたのではない。つまり、かけ算の交換法則を否定しているのではない。〈1つ分×いくつ分〉の順に書くようにと言われていたのに、それができていないから、バツにしたのである。3と4のかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように、求めているだけなのである。

もし3×4が〈1つ分×いくつ分〉の順に書かれていたのだとすると、3×4は3個のものから成るまとまりが4つある、という意味になるが、しかし、文章題では、4個入りの袋が3つなので、意味が違ってしまうから。

定数氏らは、順序指導は1+1=7だと教えるのと同じで、嘘を教えることだ、と主張して、この指導法を激しく非難している。これは、その採点が4×3=3×4という交換法則を否定している、と勘違いしているためである。

これは、既約分数になっていないからバツにしているのに、21/30=7/10を否定しているのと誤解しているのと、同じ状況である。小数の筆算で、答えとして出てきた.0のゼロは、斜線を引く、という指示に反しているからバツにしているのに、9.0≠9だと言っている、と誤解するのと、同じ状況である。

特定の形で答えを出すことを求められる範囲や時期は、広く長いことも、そうでないこともある。分数の答えを既約分数のかたちにすることを求められるのは、中学くらいまでであろうか。大学入試だと、問題冊子に「既約分数で表すこと」とわざわざ書いてあることを考えると、高校では既約分数にすることが求められ【ない】こともあると見られる。

小数の筆算の結果で、小数点以下にゼロしかないときは、そのゼロに斜線\を引くというルールが通用するのは、小学校の中学年までであろう。このルールは有効数字の考えと相いれないので、遅くとも、中1で有効数字を習うときまでには、廃止されていないといけない。

文章題などで〈かけ算の順序〉を守るように求められるのは、小学校であり、中学以降はない。小学校であっても、高学年では、教師の判断で、求められないことがある。〈かけ算の順序〉は教え方なので、教える対象によって、教え方を変えるのは普通である。自由派の教師に当たれば、低学年・中学年でも順序通りは求められないであろう。


(Twitter @flute23432 2022/03/06 04:45PM などに基づく)

2022年3月23日水曜日

疑似〈かけ算の順序〉問題

 〈かけ算の順序〉の問題は、それと似た別の問題と誤解され、混同されることが、ときどきあって、その代表的なものが、次の3つ。

1)文章題の問題文に現れる順にかけ算の式を書くように指導する教え方

2)加減に対して乗除を優先するなどの、計算の優先順位の問題

3)3つ以上の因数からなるかけ算の式において、どの乗号から実行するかの順序


1)日本の学校算数教育では、小1から小2にかけて、児童は、文章に現れる順に式を立てるように、指導される。ひき算の文章題も、ほとんどが、文章のなかで、引かれる数が先に現れる。

はじめて数学的な演算を習う児童が、容易に式を立てられるように、文章が式の順になっているのである。児童は理解が挿絵にも依存している度合いが高いので、挿絵も、式の左右に対応するように描かれている。これは、あくまで、初学者向けの教育的配慮である。

だが、一般的にいえば、文章題には、立てる式の順に数が出てくるはずもないから、いつまでも「現れる順に式を立てればよい」という、小1向けの配慮を続けるわけにはいかない。

そこで、小2の後半くらいから、文章中に現れる順では式を立てられないケースがぼちぼちと出てくる。その代表が〈かけ算の順序〉である。今度は、文に現れる順ではなく、〈1つ分×いくつ分〉の順に、つまり、意味の順に、書くように指導される。

この指導に従うには、数の意味(どちらが1つ分の数?)や文章が表す数的構造(かけ算なら同数グループ構造)を把握できていないといけない。児童は文章解析力がないので、これは大きな挑戦となる。

〈かけ算の順序〉論争において、保護者などによってアップされ議論の対象となるのは、バツになった採点済み答案である。これを見れば、1)「〈かけ算の順序〉とは文章に現れる順序だ」が誤解であることは明白。

その答案の文章題の多くは、文章中に現れる順序でいくつ分の数が先に現れる、逆順文章題である。現れる順に書いた式はバツとなる。もし、1)〈かけ算の順序〉指導が、文章中に現れる順に式を書くことを求める指導のことであれば、マルになるはず。


2)〈かけ算の順序〉は、異なる種類の演算子が混じる式で、どこから(どの演算子から)計算するのか、という計算順序のことだと、誤認されることもある。

小4で習うように、乗除加減の演算が混在する式では、原則は、左(前)から順に計算していくが、右(後)のほうを最初に計算させたいときは、丸括弧内に入れる。括弧が重なっているときは、より内側の括弧内が優先的に計算される。

ただし、括弧が3重4重になるとわかりずらいので、加減と乗除のあいだに、乗除優先の優先順位を設けてある。このルールで括弧を少なくできる。3+(4×5)→3+4×5。

〈かけ算の順序〉は、乗号とその前後の数について、一つ分の数(被乗数)を乗号の前に書くのか後に書くのか、という問題である。4×3のように、演算子が1つしかない単純な式では、〈かけ算の順序〉問題は生じるが、2)の計算順位の問題は生じない。

また、計算問題では、計算順序の問題は生ずるが、〈かけ算の順序〉問題は生じない。〈かけ算の順序〉は意味の順だか、計算問題では意味は重要でないから。〈かけ算の順序〉は、文章題のように意味が重要なところで、問題となる。

だから、〈かけ算の順序〉の話は、2)同じ式のなかの異なる演算どうしのあいだの順序の話とは別である。


3)5×2×3のように、因数が3つ以上の、かけ算だけの式でも、どこから計算するか、どの乗号から遂行するのか、という問題が、起きうる。2)は、異なる種類の演算子のあいだでの計算順序だが、3)は、同じかけ算どうしの順序である。

ただし、2)と違い、かけ算だけの式はどこから計算しても同じ、つまり、結合法則が成り立つので、結果が異なるおそれはない。

(5×2)×3=5×(2×3)

4×3のような、乗号1つの単純な式では、2)と同様に、〈かけ算の順序〉問題は起きうるが、3)どの乗号から実行するのか、という問題は、存在しない。どの乗号から実行するのかが問題となり得るためには、式に乗号が複数なければならない。〈かけ算の順序〉は結合法則よりは、交換法則に関わる。

計算問題では、2)と同様に、意味は重要ではないので、〈かけ算の順序〉問題は起きない。でも、3)計算順位の問題は、起きうる。ただし、2)と違い、結果に影響を与えないので、問題は深刻ではない。

では、5×2×3のように、因数が3つ以上あるとき、〈かけ算の順序〉問題は生じないかというと、そういうことではない。5個入りキャンディーの袋が2つ入った箱が3つある。まず、各箱のキャンディーの数を求める式は、5(1つ分)×2=10。

各箱に10個入っていて、その箱が3つあるので、キャンディーの総数を求める式は、10×3。この2つの式をまとめれば、(5×2)×3である。5×2では5が1つ分、(5×2)×3では、()内が1つ分である。

こうも考えることが可能。袋の総数を求める式は、各箱に2袋、箱の数が3つなので、2×3=6である。各袋に5つ入っていて、その袋の総数は6なので、5(1つ分)×6=30。この2つの式を1つにすると、5×(2×3)。この式では、5が1つ分の数で、(2×3)がいくつ分である。


(Twitter @flute23432 2022/03/19 00:44PM, 01:00PM などに基づく)

2022年2月14日月曜日

船長症候群と〈かけ算の順序〉

 A)事象

1)船長症候群――解答不可能な文章題に解答してしまう児童たち

「船にヒツジが26匹、ヤギが10匹積まれています。船長は何歳?」

と尋ねられると、低学年の児童は、かなりの子が、36歳だと答えてしまう。船に積まれているヒツジとヤギの数が与えられても、そこから船長の年齢はわからないはずなのに、児童は、ヒツジとヤギの数を足して、船長の年齢を、答えてしまう。大人は、子どもたちが、解答できない問題に平然と答えてしまうことにショックを受ける。この年齢の子どもたちに見られるこの傾向は、船長症候群(Kapitänssyndrom)と呼ばれる。

この「船長の年齢」の問題(Kapitänsaufgabe)の原型は、『ボヴァリー夫人』で知られるフランスの小説家G・フロベール(Gustave Flaubert)が、1841年に、つまり、19歳のとき、3歳年下の妹カロリーヌ(Caroline)に宛てた手紙に見られる(注1)。「お前は幾何学と三角法を勉強しているので、問題を出してやろう」と言って、フロベールは、ボストンから木綿を積んでルアーブルに向かう船の、船員・乗客の数やら船の重さや風の向きなど、さまざまな情報を条件として並べ立てたあと、最後に「船長の年齢は?」と尋ねている。妹がどう反応したかは知らないが、冗談だと思って気にも留めなかったのではないか。

1980年代初頭に、グルノーブルの数学教育研究所が、この船長の問題を「船にヒツジが26匹、ヤギが10匹積まれています。船長は何歳でしょう?」と短くして、小2と小3の子どもに出したところ、97人中76人が、ヒツジの数とヤギの数を足して、36歳だと答えたという。

今度は、ドルトムント工科大学の研究者が1990年代に、「27歳の羊飼いが、25匹のヒツジと10匹のヤギを飼っています。羊飼いは何歳?」という、さらにみがきをかけた意地悪問題を子どもたちにぶつけたところ、正解は27歳であることは明白なのに、子どもたちは27+25+10と問題文中の3つの数を足して62歳だとか、あるいは、27+25-10と計算して、42歳と答えた、という(注2)。

ところで、日本の2021年度の全国学力テストで、全国の小6児童の20.0%が、辺の長さが3cmと4cmと5cmと与えられた直角三角形の面積を求める問題を、3×4×5ないしは3×4×5÷2という式を立てて解こうとした。解けない文章題ではなく、解ける求積問題だが、5cmという、答えを求めるのに必要がないダミーの情報を算入してしまっている。三角形の面積がなぜ〈底辺×高さ÷2〉で求められるかということの理解がまるで欠けているというだけではない。公式に従って立式しようとしていたなら、3つの数を掛け合わせていることに疑問をもつはずで、公式でさえ満足に覚えていないのではないか、と思わせる誤解答である。

答えを求めるのに必要がない数も含めた、与えられた数をすべて使おうとする点で、船長の年齢の問題と共通性する。そう式を書いた児童は、足せるのかどうか、なぜ足すのか、という基本的なことがわからないまま、文章題に含まれる数字を、足している。


2)それが式となるような文章題の作問

算数では、その式が式になるお話し、ないしは問題(文章題)を作るように、求められることがある。文章題から式を立てるのではなく、式から文章題を作るのである。ひき算の式が与えられているときは、ひき算の演算構造を含んだ文章題を作らなければならない。これは低学年児童にはかなり難しい課題である。だから、作問の材料として絵が描かれていたり、穴埋めになっていたりすることも多い。



佐伯(他)『すぐれた授業とは何か』(1989年)によると、横浜市内の3~6年生に、式が4×8=32となるような文章題を作る課題を出したところ、意味のある文章題が作れたのは、3年で44%、6年で48%だった(注3)。6年でも、半分くらいしか作れないのである。

そこで今度は、佐伯らは、児童がその際に作った、解くことができないはずのナンセンスな問題を別のクラス(5年)でやらせてみた。

問X「4個のボールと8個のボールがあります。これをかけると何個になりますか」
問Z「4個入りのガムを8個買いました。全部で何円でしょう」

問Xについて、解けないと答えた人はゼロ、97%は「4×8=32 32個」と【平然と】答えた。どんな場合にかけ算が使えるのか、ということを、ほとんどの児童がわかっていない、ということである。問Zについては、解けないと指摘したのは16%、78%は4×8で答えを出している。船長の年齢の問題と同様に、解けない問題を【平然と】解いてしまっている。

イギリスでも同様の調査が行われた。9~11歳の子どもたちが、9×3と一致するストーリーを作るように言われて作ったストーリーは、そのほとんどがかけ算の文章題として通用するものではなかったが(注4)、それの例を見ると、さらにハチャメチャである。

「A 9君と3君が店の中に立っていて、もし、9君が「乗号があれば私たちは楽しいだろう」と言いました。3君は「そうだね」と言い、乗号をあいだに入れて、歩いた。」
「D その男の子はペンを9本もっています。先生が彼に、9×3は何になるかを尋ねました。彼は27になると答え、教師は「正解です」と答えた。」
「E 学校に1人の男の子がいました。彼はいくつかの計算問題を宿題として課されましたが、彼が5の答えを得られたとき、彼はその計算問題ができませんでした。計算問題は9×3だったのです。」

ここからわかることは、子どもたちは、かけ算の文章題には、同数グループ(equal groups)のような、かけ算が適用できる固有な数的構造をまるで読み取れていない、ということである。かけ算の文章題を作るには、そのような数的構造を用意してやらないといけない、ということをまったく理解していない。


3)ありそうな答えになる演算

児童たちは、文章題の文章から、数的構造を抽出して、その構造に適用できる演算をつかって計算しているのではない。ひき算の単元を学習中ならひき算を適用し、かけ算の単元を学習中なら、かけ算を適用する。学習中の単元の手がかりがないときは、児童は、足したり引いたりして、ありそうな数になる演算を選ぶ。「船にヒツジが26匹、ヤギが10匹積まれています。船長は何歳?」という船長の年齢の問題なら、26-10=16歳(ひき算)は若すぎ、26×10=210歳(かけ算)は人間ではない、26÷10(わり算)は割り切れない。26+10=36歳(足し算)はありそうだ。だから、足し算するのが正解だ、というわけである。

吉田甫によると、割合を公式で教える授業を4週間かけて行い、児童に割合の文章題(割合3用法)がどう問題を解くかを見たところ、授業で教わったように公式を当てはめて解いたのは、7%にすぎなかった(注5)。

著者が提案する「前もって答えを見積もる」方略は、授業では教えなかったが、それを使った者も7%いた。しかし、ここで注目したいのは、掛けたり割ったりして、ありそうな数値になったのを選ぶ、割ったら割り切れた(整除できた)のでわり算を選ぶ、とした者が、合わせて51%もいたこと。

授業は熱心に行われたというが、「与えられているのが比較量と割合だから、求められるべきは基準量だ」という理由で、基準量を求める公式〈基準量=比較量÷割合〉に従い、比較量を割合で割って答えを求めた児童はほとんどいかなった。a:b=c:1のような比の関係を表す数直線図などを描いて、そこから適切な演算を導出したりした児童も、ほとんどいなかった。多くの児童は、公式を使うより以前のレベルに留まっている。

アメリカの教育学者が、船長の年齢の問題を小5のわが子に出してみたところ、迷わず36と答えた、という。その子は、「こういう問題のときは、数字を足すか引くか掛けるんだよ。この問題の場合、足すと一番うまくいく」と解説して見せた、という(注6)。何算で解くのかの手がかりが文脈に与えられていないとき、文章題の演算構造を読み取ることができずに、掛けたり引いたりして、ありそうな答えが出る演算を選ぶ児童が少なくない。この点は、日本もアメリカも同じようである。


B)考察

与えられたかけ算の式が立式となる問題を作ることを求められて、児童たちの多くが、そもそもかけ算でも、また、他の演算でも解けないような文章題を作り、さらには、そのように作られた、解けない問題を平然と解いたりしてしまう。

このように児童たちが多数いるのは、教え方が悪いせいであろうか。算数で使われる文章題がステレオタイプ化し、日常生活への関連性が失われているためであろうか。この問題について『シュピーゲル』に記事を書いた記者は、教師教育を充実すれば事態は改善する、と考えていた(注7)。たしかに、日常生活でその演算をどう活用できるかという点を重視して算数を教え、文章題の演算構造や数の意味に注意するようにしむける教え方をすれば、この点は改善するであろう。

文章題は、多くの設問形式のうちの1つにすぎないものではなく、数学と現実を橋渡しするもの。買い物の文章題は実際に買い物のための予行演習である。四則演算の学習に際して、演算を単なる計算としてしか教えず、文章題を章末に行う応用問題としてしか考えていなかったり、文字でふやかされた計算問題としてしか見なさなかったりすれば、たしかに、児童たちは文章題ができなくなり、文章題を読み解く訓練がおろそかになって、船長症候群は顕著になるであろう。

しかし、船長症候群は単なる教え方の問題ではないと思われる。それは、とくに低学年の児童に、普遍的に見られる傾向でもあるのだ。M・シュネーベルガーによると、解けない問題を「解い」てしまうこの傾向は、フランスだけでなく、他の国々の同年齢の子どもたちにも見られることが、研究者たちによって確認されている、という(注8)。

国によって教え方はさまさまであるが、多くの国で、同じことが確認されているということは、この現象は教え方に依存しない部分、児童の思考の発達による部分がある、ということであろう。数の意味や文章に表された数的関係に対するこのような無理解と無頓着さは、学年が上がって子どもたちが大きくなり思考を深め、意味や構造を理解する力を獲得し、また、世の中のことが少しずつ分かってくると、克服されるのではないか。ヒツジとヤギの数を足しても、船長の年齢にはならない、ということが、わかってくるのではないか。

そのレベルに達する前の、小2小3くらいの年齢の子どもたちは、文章を解析し意味・構造を把握する力がおそろしくなく、足し算の単元を学習中だという皮相な理由で、文章中に現れる2つの数を、その数の意味合いを把握しないまま、足して答えを出そうとする。かけ算の単元なら、文章中の2つの数を取り出して、両者を暗記した九九を使って掛け合わせて、答えを出している。単元の情報がないと、掛けたり引いたりして、ありそうな答えになる演算を選ぶ。

かけ算が適用できる数的関係(演算構造)のうち、かけ算の導入に使われるのは、同数グループである。もちろん、かけ算が適用できる数的関係は、同数グループに限られない。たとえば、「男の子4人と女の子3人の、考えられるペアは全部で何通り?」のような、別の数的構造をもつ文章題にも、かけ算は適用できる。しかし、これは低学年生には難しすぎる。同数グループは、かけ算の導入にふさわしい。小学校算数では、同数グループでかけ算を導入し、そしてそれを、基準量の倍(整数倍とは限らない)へと発展させる。

かけ算は、算数では、1つ分の数といくつ分から、全部の数を求める演算として習う。1つ分とは、同数グループがあったときの、各グループの構成員数のことで、いくつ分とはグループの数のことである。かけ算の式は、〈1つ分×いくつ分=全部の数〉である。理想的には、「1)同じ数ずつのグループがいくつかあって、かつ、2)全部の数が問われているので、かけ算が使えるのだ」と理解したうえで、かけ算を選ぶべきである。その文章題がかけ算が適用できることを理解したうえで、かけ算の式を立て、その式で示された計算を遂行すべきである。

啓林館の算数教科書は、児童が文章題から演算構造を読み取れるようになるように、とくに力を入れているようで、「どんな計算になるのかな」のような単元が随所に見られる。単に特徴的な言語的表現に注目させるのではなく、それによって意味されている構造に注意を向けさせている。「違い」というひき算言葉があるからひき算を使うのではなく、「違いを求めるから」ひき算を用いるのである。

足し算(増加)「はるなさんたちは、6にんであそんでいました。そこへともだちが7にんきました。みんなでなんにんになりましたか。……6+7になるわけは、はじめに6にんいて、あとから7にんやってきて、ふえるからです。」(1 p.116 2016年度)
かけ算(同数グループ)「1はこ6こ入りのあめが4はこあります。あめはぜんぶで何こありますか。…6×4のしきになるわけは、1つ分の数は6で、その4つ分だからです。」(2下 p.80)
かけ算(基準量の倍)「かるたあそびをしています。たいきさんは5まいとりました。みさきさんはたいきさんの3倍とりました。みさきさんは何まいとりましたか。……4×3になるわけは、4まいの3ばいだからです。」(2下 p.81)

すでに述べたように、児童は文章題を、数の意味や演算構造を理解しないまま、文章中の2つの数を取り出して、今はかけ算を学習中なので掛けるのだろうと思って、ともかくも掛けて、答えを出そうとする傾向がある。かけ算の文章題の場合は、それでも答えは出てしまう。順序を問わなければ式も正しい、ということになる。わり算の文章題なら、割られる数と割る数を逆に書いてしまい、答えが違ってしまうおそれがあるが、かけ算の文章題の場合は、それさえない。

そこで、小学校の教師は、かけ算の文章題の式を、授業のときから、〈1つ分の数×いくつ分〉の順に書くように、児童に言っておくである。かけ算の式は、〈1つ分×いくつ分=全部の数〉という言葉の式に合わせて書くように、普段から、指導しておく。同数グループ構造を読み取れていない児童は、一つ分の数といくつ分がそれぞれ何なのかきかれても、答えられないはずで、当然、〈1つ分×いくつ分〉の順に書くという指示に従うことができない。どちらの数が1つ分で、他のどちらがいくつ分なのかを把握できない児童は、その指示に従って式を立てられない。指示された順序で書くためには、同数グループ構造の1つ分の数といくつ分とを識別できるようにならなければならない。



注1 Gustave Flaubert, Copprespondance, première Série (1830-1950), Paris, Charpentier, 1887; p. 36.

http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6533968v/f97.image.r=Flaubert%20correspondance

注2 Holger Dambeck, "Schulmathematik absurd: 26 Schafe + 10 Ziegen = 36 Jahre", in: Spiegel, 17.01.2012, 11.09 Uhr
http://spiegel.de/schulspiegel/wissen/schulmathematik-absurd-26-schafe-10-ziegen-36-jahre-a-806981.html

"Kapitänsaufgaben" (Universität Regensburg, Didaktik der Mathematik, Wintersemester 2014/15, 51753 Sachbezogene Mathematik (FGSem) Monika Pfaller Lisa Hacker, Marcella Specht, Anna-Lena Brückner 27.11.2014)

注3 佐伯胖・大村彰道・藤岡信勝・汐見稔幸著『すぐれた授業とは何か』(東京大学出版会 1989年)pp.52-53。この文献はツイッターで、モナ氏から紹介があった。

注4 Dereck Haylock & Anne Cockburn, Understanding Mathematics in the Lower Primary Years: A Guide for Teachers of Children 3-8, 2nd ed., London, Paul Chapman, 2003; pp. 65-66.

「C こどもたちが9人で、1つの作文を書いています。そこに、3人の子どもが加わりました。全部で、子どもたちは27人になりました。」

これは足し算の文章題になってしまっている例である。ツイッターでの事例だが、やはり足し算で作ってしまっている例があった。学習塾で教えるita_math氏が、子どもたちに、4×5=20の式になるような問題を作るように言うと、「まりちゃんはおはじきを4こもっています。えりちゃんは5こもっています。ぜんぶでなんこですか。」のような問題を作ってしまったという(Twitter, @ita_math, 2018/08/28 10:26PM)。

注5 吉田甫『学力低下をどう個服するか――子どもの目線から考える』(新曜社 2003年) pp.121-122

注6 森田真生「読み、書き、数学」(プロムナード)『日本経済新聞(電子版)』2017/11/9 14:00

Lieven Verschaffel, Brian Greer, & Drik De Corte, Making Sense of Word Problems, (Contexts of Learing), Lisse, Swets & Zeitlinger, 2000.

注7 H. Dambeck, "Schulmathematik absurd", in: Spiegel, 17.01.2012 11.09

注8 Martin Schneeberger, Verstehen und Lösen von mathematischen Textaufgaben im Dialog, Münster, Waxmann, 2009; S. 132.


(Twitter flute23432 2016/06/27 09:26PM, 2016/06/28 09:30AM, 2016/06/29 11:51PM, 2017/11/12 01:02AM, 2022/01/04 09:48PMなどに基づく。)