2022年3月24日木曜日

式は場面を表すのか?

 「最大の問題は、あなた自身が、式が場面状況を表す、という前提を疑っていないことです。これこそが最大の過ちです。式が表しているのは場面ではなく、数です。」(Twitter 定数氏 2022/02/20 10:31PM)


式は一般には、数字ないし文字と演算子から構成され、計算の手順ないしはプログラムや、その結果を表していて、状況は表さない。ab-cはaとbの積からcを引くことと同時に、その結果を表す。定数氏は、式が表すのは数だと言っているが、それは十分ではない。

式が状況に関係づけられることはあるが、一般には、その関係づけは、演算や式にとって偶然的だと見なされている。だから、合併/増加、求残/求差、等分除/包含除などの、演算が適用される状況の分類は、数学の外部の話だと思う人が多い。

しかし、初等数学教育では、式を状況に強力に関係づける教育的な必然性がある。というのも、児童が四則演算を習い始めるとき、児童がすでに獲得しているのは、もっぱら、生活や物語(お話し)を通して児童に馴染みの具体物の変化と操作、配置などだから、である。

四則演算を習い始める児童も、少なくとも、数を数えたり簡単な足し算をしたりくらいのことはできるであろうが、数学的な基礎はないに等しい。中学でf(x)=3x-2のような関数の式を理解できるのは、小学校卒業までに四則演算や、空欄□を含む式をすでに学習しているからこそ。

ある未知の事柄を理解するには、未知を既知に組み込み関係づけなければならない。関係づけられないと理解できない。だから、式を理解できるようになるには、それを、低学年児童に馴染みの具体物に関係づけないといけない。そして、その具体物の世界は、明晰で単純な数学的イデアの世界と対照的に、雑多で鈍重で不純な世界なのである。

ひき算を習うときは、ひき算が適用できる状況のうち、1年生にも馴染みの、お菓子を食べる、公園で遊ぶ、といった物語に対応させる。お菓子を6個もらって、そのうち4個食べたので残りは2個だとか、公園で7人遊んでいて3人帰ったので、今は4人遊んでいるとか。

これは、算数学で求残と呼ばれる状況である。ひき算が適用できる日常的な状況のもう1つのタイプは求差である。「兄が7枚、弟が5枚カードをもっているとき、違いは何枚?」といった文章題で表されるような状況タイプである。差は静態的な状態で、変化や動作の物語にできないので、小1にはより難しい。

求残と求差は、ひき算が適用できる状況や文章題の分類で、一般にはこれは、ひき算そのものの分類とは見なされない。数学的には、ひき算そのものには求差も求残もないと言えよう。

だが、このような具体的状況から、状況に基づいて、状況のなかでひき算という演算を理解し始めている児童にとって、演算は状況からまだ十分に独立していないのである。児童にとって、式は、状況のなかにまだ半分以上埋もれていて、十分に独立していない。

児童の抽象的思考は未発達で、児童は具体物に即して考える(具体的操作期)。だから、四則演算を習ったばかりの児童は、大人が理解しているようには、演算やその式を理解していない。児童にとって、状況から式を立てた途端に、状況が式から失われることはない。文章題から式を立てた途端に、式が文章題から切り離されるわけではない。

だから、この学年の児童にとって、そしてまた、「そのような児童に演算の基礎を教えるにはどうしたらよいのか」を考える算数学においては、求残と求差はひき算そのものの分類だと言ってよいのである。ひき算には求差と求残がある、と言ってよいのである。

定数氏に限られないが、自由派の多くは、このような教育的状況の固有性がまったく理解できていない。この意味で、定数氏らは、初等数学教育を論ずる資質を疑われても、やむをえないであろう。

なお、求差と求残のようなものは、演算が適用される日常的状況の分類であり、「求差と求残という、互いに異質な2つの実体がある」といった形而上学的な主張がなされているわけではない。それはおおよその区別、暫定的な分類、であってもよいのである。

だから、どちらに分類してよいかわからない状況とか、観点によってどちらにも分類できる状況があってもおかしくはない。たし算が適用できる状況タイプのうち、小1が学ぶのは、合併と増加である。合併と増加はひき算の求残と求差に比べて、とても近い関係にあり、境界も明瞭ではない。両者の区別の基準の1つが時間である。合併は同時的だが、増加は時間差がある。しかし、合併でも、厳密な同時性ということは考えられない。小1が満足できる程度の精度の、おおよその同時性であればよいのである。

こうした曖昧さや不明瞭さは、分類そのものが無効だとかナンセンスだということを意味しない。男性と女性のどちらにも分類しにくい中間的な性があるからと言って、男性/女性の概念的な区別が無意味になることはない。ある人の右はその人に向かい合う人にとっては左にある。だからと言って、左/右の区別がナンセンスになるわけではない。これと同様である。

-----------------------

「式に意味などない、式が表しているのは数であり場面ではない、とすれば一切がすっきりするのに、なぜそういないのか、理解に苦しみます。」(Twitter 定数氏 2022/02/20 10:41PM)

児童は、日常的な状況のなかの具体物の変化や配置などに基づいてしか、演算や式のような抽象的なものを理解できないのに、なぜそれを否定してしまうのか、理解に苦しみます。


(Twitter @flute23432 2022/02/21 00:10PM などに基づく)