2018年11月3日土曜日

被乗数と乗数

「掛け算で、例えば3×2 どちらを「乗数」「被乗数」にするかは任意。順番も「乗数」×「被乗数」でも、逆順でもかまわない。…順番を変えても答えも、「式の意味」も変わらない。」(中二氏 Twitter 2018/10/23 23:19)

日本の算数教育では、かけ算は、明治以来、同数累加の簡略算として教えられ、緑表紙時代に基準量×倍で教えられた。生活単元学習時代に一度、同数累加に戻ったものの、系統学習時代と現代化算数時代は、ふたたび、基準量×倍で教えられた。だが、1980年代以降は、どの教科書もかけ算は、現在にいたるまで、一つ分×いくつ分、で教えられている。

どの時期にも、「かけられる数」(被乗数)と「かける数」(乗数)という語は使われている。そして、それぞれの時期で、かけ算を定義する際の中心的な概念によって、被乗数と乗数は、その意味内容を変えてきたのである。



しかし、かけ算は元来、同数累加で教えられていたから、「かけられる数」(被乗数)とはもともと、ある数をある数だけ繰り返し足すときの、繰り返しの対象となる数のことであり、「かける数」(乗数)とは、繰り返しの数である(注1)。たとえば、3×5は、3+3+3+3+3の簡略表記であり、3を5回足している(寄せている)ので、3が被乗数、5が乗数である。

A)文脈が与えられないとき

文脈なしに、単に3×2という式が与えられても、どちらが被乗数か乗数は決められない。決められるといえば勝手に決めることはできるが、まったく勝手に決めることになる。

勝手に3を乗数2を被乗数と決めるなら、2つのものが3つ分あるという意味であり、3を被乗数2を乗数と決めるなら、3つのものが2つ分という意味になる。両者では答え(総数、計算結果)は同じで、だから、かけ算は可換であると言えるが、しかし、意味は違っている。

ところが、中二氏は「「式の意味」も変わらない」と述べている。これは、かけ算を、被乗数と乗数ではもはや考えないということである。中二氏は定数氏と同様に、被乗数×乗数や一つ分×いくつ分ではなく、因数×因数=積でかけ算を理解し、それを自明視・絶対視している、と思われる。

因数×因数のかけ算では、3と2が同じ因数の資格で掛け合わされて、6という積を構成する。逆に6を3と2に分解することは、因数分解である。書くときは3と2のどちらかを先に書かなければならないが、それはまったく瑣末で表面的なことである。順序は「どーでもいい」(定数氏)のである。

この意味でのかけ算は、中高の数学で習うことになる。しかし、小学校で学ぶかけ算は、被乗数×乗数という、×記号の前後で非対称なかけ算である。被乗数と乗数とでは意味が違うので、位置も固定するのが普通である。日本の算数の教科書では、式は被乗数×乗数の順序で統一されている。

被乗数×乗数には、一つ分×いくつ分、基準量×倍(割合)、単価×数量、速さ×時間、比例定数×xなどの、さまざまなヴァリエーションがある。これらはどれも小学校で学ぶべき重要な学習内容である。被乗数×乗数のかけ算が学ばれている算数教育を、因数×因数を基準に評価すべきではない。

1960年代のアメリカで、New Math運動が起こり、集合や位相、公理主義のような現代数学の概念が、初等数学教育に導入された。その結果、基本的な計算もできない数学嫌いの生徒がたくさん出て、運動は潰えた。当時のSMSG教科書では、かけ算は因数×因数で(直積で)教えられた。

「数に対する演算とは、2つの数について考え、ただ1つの数を得る方法である。4と5を考えて、20を得るとき、われわれはかけ算をしている。/かけ算を理解するのに役立つので、アレイ図を使おう。/ここに、4つ要素からなる集合と、5つの要素から成る集合との、すべての要素の組合せのを可能にするアレイがある。組合せは20ある。」

「われわれが、2つの因数に演算を施して、1つの積を得るとき、われわれはかけ算をしているのである。」

中学・高校・大学の数学で学ぶ正しく論理的な知識だからといって、数学のより高度で抽象的な概念を初等数学教育に持ちこむのは、無思慮の極みである。算数教育は数学であるとともに教育でもある。定数氏や中二氏は歴史に学ぶことなく、ふたたび、初等数学教育を混乱の渦の中に引き入れようとしている。


B)文脈が与えられたとき

3×2に文脈が与えられると、どちらが被乗数であるかは、任意には決められなくなる。文脈には、1)その地域・分野での表記慣習と、2)現実や文章題文章が描く事態がある。

1)乗数×被乗数の順で書く慣習がある文化圏でならば、3×2の3が乗数である。日本の算数教育のように、被乗数×乗数で書くことになっている領域では、3は被乗数である。かけ算の可換性は自明の前提として、文化圏や分野により、書式として順序が定まっていることが多い。

2)もう一つの文脈は、現実や文章題である。プリンが3つ連なったパックを2つ購入するとき、あるいは、「購入したとき全部でいくつ?」という文章題を解くときは、3が被乗数で、2が乗数である。3が一つ分の数で、2がいくつ分である。

他社製2個入りパックを3つ買う場合は、総数は同じ6個でも、式の意味が違う、というだけではない。他社製のパック単価は2/3というわけではないので、合計金額や味も違ってくる。この場合は、3が乗数で2が被乗数である。

既述のように、3個入りパックを2つ購入する場合は、3が被乗数で、2が乗数である。だが、こう言っただけでは、まだ、3(被乗数)×2(乗数)なのか2(乗数)×3(被乗数)なのか決まらない。しかし、もし1)で言われた、表記慣習があれば、どうであろうか。

乗数×被乗数の順にかけ算の式を書くのが習慣である文化圏や分野では、「3個入りパックを2つ」の文章題が与えられたとき、2(乗数)×3(被乗数)という式になる。1)と2)の両方があって、順序が定まるのである。

日本の算数教育では、被乗数×乗数の順序とする慣習が明治期以来あり、式は3(被乗数)×2(乗数)と書かれる。小学校では、この表記慣習に従って、式を立てられているかどうかで、被乗数と乗数の違いを意識しているかがチェックされる。九九の暗唱だけで満足し、この違いを意識しない児童は多い。

だから、「プリンのパックで2つあり、1パックには3つずつプリンが入っています。全部でプリンは何個?」という、文章中に乗数が先に現れる文章題で、少なからぬ児童が、この順序に誘導されて、九九を機械的に適用し、2×3と書いて、バツにされる。

だが、バツを付けてそれて終わりではなく、児童はマルになるまでやり直しする。つまり、テスト直しで、式を一つ分×いくつ分の基本図式の意味に従って立てることにより、一つ分といくつ分の意味の違いを改めて意識するのである。

かけ算の順序が違ってバツになるのは、基本的に、文章題の立式に限られる。文章題という文脈が与えられているとき、一つ分といくつ分が定まるが、文章題の立式では、一つ分を先にするように、児童は期待される。これに対して、計算問題や文章題立式後の計算(筆算など)など、計算では、意味はあまり重要ではないから、実際、交換法則などを適用して、計算を簡単にする方法が、「計算の工夫」という題目で、教えられている。

それゆえ、日本の学校算数では、「かけ算は可換でない」というトンデモが教えられている、というのはデマである。黒木氏や定数氏、中二氏、鶴氏らの「超算数」批判は、このデマの流布に大いに加担している。



注1

同数累加によるかけ算の定義は、ユークリッドの『幾何学原論』にすでに見られる。当時、「被乗数」「乗数」という用語が確立していたかどうかは、わからないが、同数累加の定義が含んでいる概念としては、あった。

「数に数を掛けるといわれるのは、後者の中にある単位の数と同じ回数だけ前者、すなわち【掛けられる数】が加え合わされてなんらかの数が生ずるときである。」(原論第7巻定義16 中央公論新社、ギリシアの科学 p.331)

19世紀前半に出版されたノエルの『算術初歩』(1835年)には、「被乗数(multiplicande)」と「乗数(multiplicateur)」という言葉が使われている。「被乗数」、「乗数」は、日本の教育家が1950年代に発明したもの、という志村五郎氏の推測は完全に誤っている(『数学をいかに教えるか』p.45)。


かけ算(multiplication)は被乗数(multiplicande)と呼ばれる数を、乗数(multiplicateur)と呼ばれるもう一つの数に含まれた単位の数だけの回数、選ぶ(prendre)、または繰り返す演算だとされている(p. 14)。ここでは、かけ算は同数累加と見なされているのである。

J.N. Noël, Arithmétique élémentaire raisonnée et appliquée, Luxembourg, J.Lamort, 1835. Google Books



(Twitter 2018/10/29のツイートなどに基づく)