2020年3月29日日曜日

式を状況に強力に関係づける


小学校低学年の児童は、論理的な思考が未発達なので、New Math時代に行われたように集合概念を使って、理論的に説明しても、演算や式のような抽象的なものを理解できない。

では、筆算のやり方のような手続きだけを教えれば、たしかに、できるようにはなるが、何をしているのかが本人にはわからないままとなり、計算ミスをしても、ミスであることに気づきにくくなる。心のなかにピザを切り分けるイメージをもっていないと、1/2+1/3 が1(丸1枚)を越えないことがわからない(注1)。また、計算の意味を教えないと、文章題ができなくなり(注2)、したがってまた、数学を生活や仕事に数学を応用する力がつかない。

だから、算数教育では、式のような抽象的なものを、子どもにも馴染みの日常的な具体的状況のタイプにあえて【強力に】関係づけて、教えるのである。状況タイプを表すお話し(ストーリー)や絵、ブロックの操作などに関係づけて、たし算を教えるのである。

実際、理解するとは、新しい知識や考え方を、既得の知識や能力に組み込むことであろう。ただ、児童の場合、既得の知識や能力が経験豊かな大人に比べて少ないというだけではなく、その性格も前論理的・物語的という点で違っている。

たとえば、たし算だったら、「アヒルが池に2羽あるところに、3羽がやってきた。今は何羽?」というお話し(例題である文章題)をもってくるのである。次に、これを2つのブロックに3つ追加する動作に対応づけることで、児童はアヒルの絵とブロックに共通する数の変化に注目するように、仕向けられる。



これは増加と呼ばれる状況タイプで、たし算が適用されるタイプには、他には、合併がある。合併の状況というのは、たとえば、1つの水槽に右から男の子が金魚を3匹、左から女の子が2匹入れること。引き算が適用される状況タイプのうち1年生がまず学ぶものには、求残と求差がある。求残は、「公園に7人いて3人帰ると何人?」、求差は「男の子7人、女の子3人、違いは何人?」。

その状況タイプというのは、習っている演算が使える典型的な状況で、解決(今何羽?)を要求しているようなものである。それは、配置であったり、行為であったり、変化であったりする。タイプ(類型)なので、求残に分類される状況や文章題は、無数にある。「公園に7人いて3人帰ると何人?」も「バスの乗客11人、3人降りて今何人?」も求残である。

実際に児童に提供されるのは、状況そのものではなく、たいていは、状況タイプに対応する例題(文章題)や絵である。ここから、たとえば、求残の文章題なら、減少という変化と、最初の量と減少分を表す数値を読み取り、尋ねられている残りの量を、引き算で求める。

式と状況のあいだを行き来できるようにするために、逆に、式が与えられて、式から文章題を作る(お話作り)という課題も立てられる。状況から式にだけでなく、式から状況に行く。もちろん、文章題としての出来不出来は重要ではない。かけ算の式が与えられたのに、たし算の文章題を作ってしまうのでなければよいのである。



状況タイプや例題(文章題)は、演算が適用される対象であるが、低学年生にとっては、それは同時に、演算の意味を理解する手段でもある。状況や文章題は、単なるサンプルや代入例ではなく、それなしには、児童が演算や式を理解できない何かなのである。

このことがわからない人たちが、たくさんいる。児童に演算を理解させるために、式を状況に【強力に】関係づけるこのような算数教育が、数学や式、数の抽象性を否定するものだと、勘違いの批判を展開する者たちがいるのである。式に意味などない、という極端な主張さえある。

「「数式に具体的な意味あり」派は、数式の凄い所を分かってんのかな。」(twitter 酢酸氏 2017/01/12 00:28)

「抽象化した数値演算だけでは具体的場面は消えています。」(twitter 大石氏 2013/01/02 05:08)

「数値と演算記号だけで抽象化することによって式を作ったのに、そこにもう一度個別の事情を持ち出すのはどうなの」(twitter 塚本氏 2019/03/13 21:32)

「#超算数 は、抽象化された式を、抽象的に捉えてはいけないという教義が潜んでいる」(twitter 卓氏 2020/03/05 05:37)

「場面を(情報量をそぎ落とし抽象化した)式で表現しようとするのがそもそも間違い」(twitter A犯氏 2019/10/2119:04)

「たとえば、「式の意味」というのに異様に拘り抽象化を否定するというのがあり、掛け算順序固定もそのひとつ」(twitter 定数氏 2014/08/22 05:59)

「数学的には等価な式に、見た目の違いで過剰な意味を持たせるのは、抽象化による利点という数学の本質に逆行しています。」(twitter 塩澤氏 2013/12/07 23:46)

式はたしかに、状況にくらべてずっと抽象的だが、しかし、小1が到達できる抽象性のレベルは、その後も続く抽象化の道程のほんの序の口にすぎないのに、あたかも、小学生が数式に触れたとたんに、高等数学並みの抽象性を獲得したかのような言いぶりなのである。

だが、こうした批判は、低学年の児童の物語的で絵画的な思考の特性を無視し、演算の学習を不可能にしかねないものである。

算数教育で式と状況(場面)との対応関係が強調されるのは、けっして、式が一般にそのように特定の状況に縛られている、ということを言おうとしているのではない。式と状況の対応は教育的な状況で求められていることであって、数式と現実の関係について一般的に何かを主張するものではない。ましてや、式と場面が一対一に対応するなどと主張するものではない。そうではなく、児童に演算の意味を理解させるのに、あえて状況に関係づける必要がある、ということなのである。

抽象化に向かって飛躍するには、助走距離を確保するために、後ろに十分に下がらなければならない。

演算は、それぞれの演算が適用される状況のタイプに、児童が理解しやすい形で、関係づけられる。まず、状況タイプの数が限定される。たとえば、かけ算が適用される状況にはさまざまなものがあるが、そのうち、〈同数グループ〉タイプは、低学年の児童にも理解しやすいものである。



だから、「A君の身長が105cmで、A君の弟の身長はその0.8倍です。弟の身長は何cm?」(倍)、「A君は男の子4人女の子3人のあいだで考えられるダンスペアは全部で何通り?」(直積)のような、低学年には難しい状況タイプは、さしあたり、無視されている。

次に、文章題の表現も、限定され単純化されている。たとえば、合併タイプのたし算文章題には、ほとんどの場合、「合わせて」という表現が、そのタイプの印であるかのように、用いられている。小1は、それを手がかりとして、引き算でなくたし算が適用できるケースだと認識する。

かけ算の文章題なら、「ずつ」という表現を手がかりして、一つ分の数を見つけることはできる。もちろん、「3つ袋があり、そのどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個?」「厚みが同じ4cmの辞書を5冊積み上げると高さは何cm?」のように、「ずつ」を含まない文章題もそれなりに出てくるので、「ずつ」や他の表現を通して、最終的には、かけ算が適用できる数的関係・変化の認識にいたらなければならない。

「合わせて」や「ずつ」に注目するように教えることが、「無思考的・機械的なパターンマッチングだ、これが読解力の低下をもたらしている」と批判されることがあるのだが、この批判は、それが表現の表面に留らずに、表現【を通して】意味と構造に至ろうとするための手がかりにすぎないことを、見落としている。




注1
S・ドゥアンヌ『数覚とは何か?』(早川書房 2010年)p.255
「別の例を見てみよう。1/2+1/3の分数計算だ。分数について、心の中に直感的にパイのイメージを持っている子どもは、半分のパイに1/3のパイを足したなら、結果は1より少し少ないくらいだということは、すぐにわかる。……それとは対照的に、分数に直感的な意味を持てず、分数とは、水平な棒で区切られた二つの数字だとしか思えない子どもは、分子どうしと分母どうしを足してしまうという、古典的誤りに陥る可能性が高い。」

注2
古田優太郞ジャマ育.comからの引用
「子どもの文章問題のできなさは危機的状況です。それは、こういった計算の意味を理解するための指導がないからじゃないかなと考えています。」
https://fruta-math.com/what_is_subtraction/
「ジャマイカでは全くそういった指導はされていなくて、計算の意味と計算式がつながっておらず、それが文章問題の理解の低さにつながっているのかもしれません。」(2017/02/25)
https://fruta-math.com/2017-02-25-084901/


(2020/03/10 09:39 AM, 09:45 AMのツイートに基づく。)