演算とは、2つの数から、3つ目の数を作り出すこと生み出すことである。たとえば、4×3=12のかけ算は、4と3という2つの数から、12という3つ目の新しい数を生み出す。演算というのは、そのような、数に対する操作・処理である。たし算、ひき算、わり算、べき算も、同様に、演算である。
ポーランド記法、逆ポーランド記法のように、演算記号を演算の対象となる数よりも前ないし後に置くスタイルもあるが、数学教育で普通に使われているのは、+-×÷のような演算記号を、最初に与えられる2つの数字のあいだに置くものである。べき算のように、演算記号を使わない場合もある。
演算のなかには、最初に与えられる、演算記号を挟む2つの数字について、演算子の前後でその位置を交換しても、つまり、演算する順序を換えても、結果が変わらないものと、結果に影響を与えるものがある。前者の演算は可換(commutative)と呼ばれ、交換法則(commutative law)が成り立つと言われる。たし算やかけ算は可換な演算の例である。だが、後者は非可換と呼ばれる。引き算、わり算、べき算は非可換である。
可換
たし算 3+4=7, 4+3=7
かけ算 3×4=12, 4×3=12
非可換
ひき算 3-4=? (-1), 4-3=1
わり算 12÷3=4, 3÷12=1/4
べき算 4^3=64, 3^4=81
たとえば、わり算は非可換で、12を4で割ると3になるが、4を12で割ると、1/3となる。割られる数と割る数を取り違えると、答えが違ってきてしまう。演算の結果として出てくる3つ目の数、つまり商、が違ってきてしまう。これに対して、かけ算は可換であり、順序は結果に影響しない。同数累加でかけ算を定義した場合、4×3は4が3つで12、3×4は3が4つで12で、結果(和、積)は変わらない。ただし、かけ算でも、行列のかけ算は、不可換である。順序を換えると、結果が違ってくる。
このような例外はあるが、高校までに習うような、自然数や有理数、実数のあいだでのかけ算やたし算では、順序を換えても、結果は変わらない。つまり、足し算と掛け算は可換である。しかし、詳しく見ると、その可換性の内容は、あくまで、計算した結果が同じである、ということである。これを「計算結果同一性」と呼ぶことにすれば、可換性の基本的な意味は、①計算結果同一性のことなのである。
日本の算数では、かけ算の式が順序が逆を理由にバツにされる、ということから、「かけ算は不可換だと教えられている」と、勘違いしている人が多い。しかし、実際には、算数教育でも、かけ算の①計算結果同一性は、繰り返し教えられている。かけ算は小2ではじめて習うが、小2の段階ですでに、九九表に見られる規則性の1つとして、「被乗数と乗数を交換して計算しても、答えは同じ」と習うのである。これは、交換して計算した結果が同じ、つまり、①計算結果同一性である。かけ算の順序指導を行列やベクトル外積の不可換性を理由に正当化しようとする試みがあるが、それは、行列のかけ算や外積では成り立たない計算結果可能性(①)が、算数では成り立つとされている事実を、見落としている。
flute23432「交換法則の学習」(本ブログ)
しかし、あくまで、算数教科書の引用した箇所で言われているのは、①計算結果可能性だけである。この引用で注目すべきは、「いつでも自由に交換してもよい」とか、「順序はどうでもよい」、とは言われていないことである。だが、計算結果が同じならば、いつでも自由に交換してもいいし、順序はどうでもいい、と言えるのではないか。自由に交換してもよいというのを「自由可換性」、「順序はどうでもよい」というのを「順序任意性」と呼ぶならば、②自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、わざわざ帰結を引き出して見せる必要がないほど自明な、計算結果同一性に必然的に付随する帰結なのではないのか。
しかし、日本の算数教育では、かけ算の可換性は、①計算結果同一性としては間違いなく教えられているが、文章題の立式においては、その付随的な意味である②自由可換性・順序任意性が制限される。たとえば、「3つの袋のどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個必要?」という文章題では、日本の算数教育では、かけ算は〈1つ分×いくつ分〉の順に書く習慣なので、式は4×3であり、3×4と書くとバツにされる。算数において②の意味でかけ算が可換なら、4×3でも3×4でもどちらでもよいはずである。しかし、算数で習う交換法則は、②自由可換性・順序任意性を意味しないので、そのような採点方法は、小学校で習う交換法則に違反しない。だから、小学校のかけ算の問題を論ずるときに、交換法則の意味範囲の違い、つまり、①だけなのか、①②両方なのか、に注意しなければならない。
①「計算結果同一性」は、可換性の基本的な、核となる意味であるが、それに付随するもう1つの意味が、②自由可換性・順序任意性である。自由可換性・順序任意性は、計算結果同一性の当然の帰結であり、とくに言及に値しないと思う人もいるかもしれない。自由派の多くは、可換性ということで、この付随的な意味(②)を含めて、かけ算を可換だと考えている。現実との関係が捨象される抽象的なレベルで式が扱われる高等数学では、それでよいであろう。中学以降の数学では、数や式の抽象化が進んで、ただ数量的にのみ考察されるようになるので、意味の違いは無視される。だから、交換法則の意味には①に加えて、②の自由可換性・順序任意性を自然に含意する。3×4とあるところは、4×3と値が同じ12なので、いつでも自由に言い換えてよいのである。だから、かけ算もそれに応じて、対称的で、順序性がない〈因数×因数〉で定義される。
しかし、これは算数にはあてはまらない。たしかに、算数でも、計算問題や文章題の立式後の計算など、意味が重要ではなく、結果だけが重要なところは、自由に乗号の前後で数の位置を交換してよい。というより、交換法則やその他を使って、楽に計算する方法が、算数では、教えられている。つまり、計算では、②の自由可換性が通用する。
だが、文章題などの、意味が重要なところでは、この自由可換性が制限される。算数では、かけ算が、〈1つ分×いくつ分〉で学ばれている。一つ分は、同数グループが複数あったときの、各グループの構成員数で、いくつ分はグループの数である。算数では、3×4と4×3で意味が違うと言われるのだが、それは、対応する事物の配列の仕方が異なるからである。小学生は、ピアジェが言う具体的な操作期の時期におり、具体物や半具体物の変化や配置などから、演算を学んでいて、しかも、そこからしか演算を理解できない。小学生の頭のなかでは、式はまだ、事物の配列から独立していない。〈1つ分×いくつ分〉のかけ算は、このような事物のグループ分けのような具体的なものに依存しているので、3個のものが4つあるか、4個のものが3つあるかの違いが重要になってくる。このため、文章題の立式では、文章に描かれている事物の配列等によって、つまり、意味によって、②の自由可換性・順序任意性が制限されるのである。
この定義では、一つ分といくつ分では機能や意味が違うので、その意味の違いを、児童がそのつど注記せずともわかるように、位置の違いでも表している。つまり、かけ算の式は、いつも、〈1つ分×いくつ分〉の順で、教科書も板書も統一されている。
どちらが一つ分で、どちらがいくつ分であるかわかっていれば順序はどうでもよいではないか、というのは理屈であって、小学生が演算を教わり、そして学ぶような教育的な状況では、教育的に順序を固定することは、理にかなっている。2つの数のそれぞれの役割と両者の違いを学習する状況で、不規則・不埒に順序を変えたら、それは学習妨害とさえ言える。算数では、単に、教える側がかけ算の式の順序を統一するだけではない。児童が単元テストなどで文章題を解くときにも、教科書にあるような〈1つ分×いくつ分〉の順序で式を書くように求めるのである。教え方に対応した教わり方が求められている。この求めを満たせないときは、式がバツになるのである。
実は、数学でも、②自由可換性は、ある意味で、制限されている。ただし、算数のように、教育的な理由で制限されるのではなく、文字式の表記慣行のために、制限される。というのも、文字式では、「積は数字を前に、文字を後に書く」という表記ルールがあるからである。文字が表す内容ではなく、文字か数字かといった文字の種類を基準として、順序を決めている。もし、かけ算の順序がどうでもよい(②)なら、4aと書こうとa4と書こうと自由なはずであるが、実際には、デカルトが確立した文字式の表記ルールに基づき、4aと書く。②の自由交換性・順序任意性は、数学でも制限されているのである。自由派もこのような順序に従って文字式を書いているはずである。
算数でかけ算の式を〈1つ分×いくつ分〉の順に書くように求めること、そして、数学で文字式の積を数字・文字の順に書くことは、②の自由可換性・順序任意性を制限するものなのだが、しかし、それは書式や表記のレベルでの制限にすぎないし、①の計算結果同一性という交換法則の基本的意味は全然否定していないので、かけ算の可換性の根幹を揺るがすものではない。ところが、自由派は、自分たちで使う文字式の表記ルールがそのような制限があることに気づかず、なぜか、算数における書式上の順序固定にのみ、異を唱えるのである。
自由派は、算数では①の計算結果同一性は何ら否定されていないこと、ただ②の自由可換性・順序任意性だけが制限されていることに気づかず、そして、②の自由可換性・順序任意性を含めて理解された交換法則を、算数の確認テストの式に、そのまま持ち込んで適用する。その結果、②に対する教育的で書式上の制限を、かけ算の非可換性の主張、つまり、①計算結果同一の否定だと誤認する。彼らは、書式上の制限にすぎないかけ算の順序を原理レベルで理解してしまうのである。そうして、彼らは、「日本の算数教育では嘘が教えられている」と大騒ぎし、算数教育を非難する。
「算数教育の専門家が「掛け算に順序がある」という嘘出鱈目を言っていて、学校でもその嘘出鱈目が教えられているのです…」(定数氏 2020/04/23 22:19)
「掛け算の順序についてどう思いますか — 小学校で行われている掛け算順序に関するトンデモ教育の話ですか?「小学生に嘘を教えるな」以外に答えようがないですよね。」(鴨氏 2017/04/20 03:40PM)
「もちろん、掛算の順序は救いようの無い大嘘であり、業界が 100% 悪いですけどね。」(ゴルゴ氏 2018/11/19 11:14PM)
算数では、②は制限されるが、①という、可換性の基本的な意味は肯定され、教えられているのである。だから、かけ算を順序を固定して教える指導法に、とくに問題はない。小学校ではかけ算が不可換だと教えられているというのは、デマである。
まとめ
たし算、かけ算では①が成り立つので可換、わり算、ひき算は成り立たず不可換。かけ算でも、行列のかけ算やベクトル外積では、①は成り立たない。しかし、かけ算を順序固定して教える算数教育は①を肯定し、②を、計算では許容しつつ、文章から式への立ち上げに関わる、文章題の【立式】で制限する。
可換性の核は①にあり、算数教育はこれを否定しないので、かけ算の可換性を否定している、とは言えない。②を制限するので、可換性を否定しているように見えるだけである。また、①を肯定する順序教育を、否定する行列を理由に正当化しようとするのは、不適切。
2020年5月9日土曜日
2020年3月29日日曜日
式を状況に強力に関係づける
小学校低学年の児童は、論理的な思考が未発達なので、New Math時代に行われたように集合概念を使って、理論的に説明しても、演算や式のような抽象的なものを理解できない。
では、筆算のやり方のような手続きだけを教えれば、たしかに、できるようにはなるが、何をしているのかが本人にはわからないままとなり、計算ミスをしても、ミスであることに気づきにくくなる。心のなかにピザを切り分けるイメージをもっていないと、1/2+1/3 が1(丸1枚)を越えないことがわからない(注1)。また、計算の意味を教えないと、文章題ができなくなり(注2)、したがってまた、数学を生活や仕事に数学を応用する力がつかない。
だから、算数教育では、式のような抽象的なものを、子どもにも馴染みの日常的な具体的状況のタイプにあえて【強力に】関係づけて、教えるのである。状況タイプを表すお話し(ストーリー)や絵、ブロックの操作などに関係づけて、たし算を教えるのである。
実際、理解するとは、新しい知識や考え方を、既得の知識や能力に組み込むことであろう。ただ、児童の場合、既得の知識や能力が経験豊かな大人に比べて少ないというだけではなく、その性格も前論理的・物語的という点で違っている。
たとえば、たし算だったら、「アヒルが池に2羽あるところに、3羽がやってきた。今は何羽?」というお話し(例題である文章題)をもってくるのである。次に、これを2つのブロックに3つ追加する動作に対応づけることで、児童はアヒルの絵とブロックに共通する数の変化に注目するように、仕向けられる。
これは増加と呼ばれる状況タイプで、たし算が適用されるタイプには、他には、合併がある。合併の状況というのは、たとえば、1つの水槽に右から男の子が金魚を3匹、左から女の子が2匹入れること。引き算が適用される状況タイプのうち1年生がまず学ぶものには、求残と求差がある。求残は、「公園に7人いて3人帰ると何人?」、求差は「男の子7人、女の子3人、違いは何人?」。
その状況タイプというのは、習っている演算が使える典型的な状況で、解決(今何羽?)を要求しているようなものである。それは、配置であったり、行為であったり、変化であったりする。タイプ(類型)なので、求残に分類される状況や文章題は、無数にある。「公園に7人いて3人帰ると何人?」も「バスの乗客11人、3人降りて今何人?」も求残である。
実際に児童に提供されるのは、状況そのものではなく、たいていは、状況タイプに対応する例題(文章題)や絵である。ここから、たとえば、求残の文章題なら、減少という変化と、最初の量と減少分を表す数値を読み取り、尋ねられている残りの量を、引き算で求める。
式と状況のあいだを行き来できるようにするために、逆に、式が与えられて、式から文章題を作る(お話作り)という課題も立てられる。状況から式にだけでなく、式から状況に行く。もちろん、文章題としての出来不出来は重要ではない。かけ算の式が与えられたのに、たし算の文章題を作ってしまうのでなければよいのである。
状況タイプや例題(文章題)は、演算が適用される対象であるが、低学年生にとっては、それは同時に、演算の意味を理解する手段でもある。状況や文章題は、単なるサンプルや代入例ではなく、それなしには、児童が演算や式を理解できない何かなのである。
このことがわからない人たちが、たくさんいる。児童に演算を理解させるために、式を状況に【強力に】関係づけるこのような算数教育が、数学や式、数の抽象性を否定するものだと、勘違いの批判を展開する者たちがいるのである。式に意味などない、という極端な主張さえある。
「「数式に具体的な意味あり」派は、数式の凄い所を分かってんのかな。」(twitter 酢酸氏 2017/01/12 00:28)
「抽象化した数値演算だけでは具体的場面は消えています。」(twitter 大石氏 2013/01/02 05:08)
「数値と演算記号だけで抽象化することによって式を作ったのに、そこにもう一度個別の事情を持ち出すのはどうなの」(twitter 塚本氏 2019/03/13 21:32)
「#超算数 は、抽象化された式を、抽象的に捉えてはいけないという教義が潜んでいる」(twitter 卓氏 2020/03/05 05:37)
「場面を(情報量をそぎ落とし抽象化した)式で表現しようとするのがそもそも間違い」(twitter A犯氏 2019/10/2119:04)
「たとえば、「式の意味」というのに異様に拘り抽象化を否定するというのがあり、掛け算順序固定もそのひとつ」(twitter 定数氏 2014/08/22 05:59)
「数学的には等価な式に、見た目の違いで過剰な意味を持たせるのは、抽象化による利点という数学の本質に逆行しています。」(twitter 塩澤氏 2013/12/07 23:46)
式はたしかに、状況にくらべてずっと抽象的だが、しかし、小1が到達できる抽象性のレベルは、その後も続く抽象化の道程のほんの序の口にすぎないのに、あたかも、小学生が数式に触れたとたんに、高等数学並みの抽象性を獲得したかのような言いぶりなのである。
だが、こうした批判は、低学年の児童の物語的で絵画的な思考の特性を無視し、演算の学習を不可能にしかねないものである。
算数教育で式と状況(場面)との対応関係が強調されるのは、けっして、式が一般にそのように特定の状況に縛られている、ということを言おうとしているのではない。式と状況の対応は教育的な状況で求められていることであって、数式と現実の関係について一般的に何かを主張するものではない。ましてや、式と場面が一対一に対応するなどと主張するものではない。そうではなく、児童に演算の意味を理解させるのに、あえて状況に関係づける必要がある、ということなのである。
抽象化に向かって飛躍するには、助走距離を確保するために、後ろに十分に下がらなければならない。
演算は、それぞれの演算が適用される状況のタイプに、児童が理解しやすい形で、関係づけられる。まず、状況タイプの数が限定される。たとえば、かけ算が適用される状況にはさまざまなものがあるが、そのうち、〈同数グループ〉タイプは、低学年の児童にも理解しやすいものである。
だから、「A君の身長が105cmで、A君の弟の身長はその0.8倍です。弟の身長は何cm?」(倍)、「A君は男の子4人女の子3人のあいだで考えられるダンスペアは全部で何通り?」(直積)のような、低学年には難しい状況タイプは、さしあたり、無視されている。
次に、文章題の表現も、限定され単純化されている。たとえば、合併タイプのたし算文章題には、ほとんどの場合、「合わせて」という表現が、そのタイプの印であるかのように、用いられている。小1は、それを手がかりとして、引き算でなくたし算が適用できるケースだと認識する。
かけ算の文章題なら、「ずつ」という表現を手がかりして、一つ分の数を見つけることはできる。もちろん、「3つ袋があり、そのどれにも4つ詰めるとき、キャンディは全部で何個?」「厚みが同じ4cmの辞書を5冊積み上げると高さは何cm?」のように、「ずつ」を含まない文章題もそれなりに出てくるので、「ずつ」や他の表現を通して、最終的には、かけ算が適用できる数的関係・変化の認識にいたらなければならない。
「合わせて」や「ずつ」に注目するように教えることが、「無思考的・機械的なパターンマッチングだ、これが読解力の低下をもたらしている」と批判されることがあるのだが、この批判は、それが表現の表面に留らずに、表現【を通して】意味と構造に至ろうとするための手がかりにすぎないことを、見落としている。
注
注1
S・ドゥアンヌ『数覚とは何か?』(早川書房 2010年)p.255
「別の例を見てみよう。1/2+1/3の分数計算だ。分数について、心の中に直感的にパイのイメージを持っている子どもは、半分のパイに1/3のパイを足したなら、結果は1より少し少ないくらいだということは、すぐにわかる。……それとは対照的に、分数に直感的な意味を持てず、分数とは、水平な棒で区切られた二つの数字だとしか思えない子どもは、分子どうしと分母どうしを足してしまうという、古典的誤りに陥る可能性が高い。」
注2
古田優太郞ジャマ育.comからの引用
「子どもの文章問題のできなさは危機的状況です。それは、こういった計算の意味を理解するための指導がないからじゃないかなと考えています。」
https://fruta-math.com/what_is_subtraction/
「ジャマイカでは全くそういった指導はされていなくて、計算の意味と計算式がつながっておらず、それが文章問題の理解の低さにつながっているのかもしれません。」(2017/02/25)
https://fruta-math.com/2017-02-25-084901/
(2020/03/10 09:39 AM, 09:45 AMのツイートに基づく。)
かけ算で求める問題だとわかれば
下は、志村五郎(1930-2019)氏の『数学をいかに教えるか』(2014年)のなかの「3.掛け算の順序」からの引用である(p.45)。その章で、志村氏は〈かけ算の順序〉教育を批判しているのだが、そこには、いくつも、問題点がある。
引用箇所には、「その問題を示されたならば、これは掛け算の問題であるとすぐに認識する」と書かれている。その問題というのは、「3トンの砂を積んだトラックが5台ある.砂は全部で何トンか」である。
最初の問題点は、「すぐに認識する」という箇所。どのようにして、それがかけ算で解ける問題だとわかったのであろうか。たしかに、高学年小学生以上ならば、そのことは瞬間的にわかるが、しかし、それは訓練の結果であって、小学校低学年は、はじめて、それがどうして掛け算で解けるのかを習うのである。
それがかけ算で解けることを認識できるためには、文章から次の2つのことを読み取らなければならない。a)かけ算の文章題の文章中に、同量のものが複数あるという数的関係、b)、全体の砂の量(重量)を求めることが要求されていることである。
a)の複数の同量物だが、これは、3人班が5つのように、複数の同数グループでもよい。a)は2つに分けられる。
a1)その同量(同数グループ)というのが、どのくらいの量なのかということである。トラックの例で言えば、それはトラック1台あたりが積んでいる砂の重量3トン、班の例では各班の構成員数3人である。この3は、算数では「一つ分の数」ないしは「かけられる数」と呼ばれている。
a2)もう1つは、「複数の同量物」の「複数」がどのくらいか(グループの数)ということである。これは、トラックの文章題ではトラックの台数5、班の文章題では班の数5である。これは算数では「いくつ分」または「かける数」(乗数)と呼ばれている。
「掛け算の問題であるとすぐに認識する」と志村氏は言うことで、かけ算の仕組み・構造を、さっと通りすぎてしまっている。大人はそれでよいのだが、しかし、かけ算というのがどんな演算なのかを学んでいる小2には、通りすぎるこはできないし、通りすぎるべきではない。
ところが、志村氏は、「「乗数」「被乗数」という愚劣なこと」と言って、乗数/被除数(かけられる数/かける数)という概念を最初から否定してしまっている。だが、それでは小学生はかけ算を学べなくなってしまう。
なお、志村氏らは「1950年代に一部の教育家が「乗数」「被乗数」という愚劣なことを言い出したのが(〈かけ算の順序〉教育の)始まりらしい」と推測を述べているが、この推測は誤っている。
順序教育は日本では戦前からあるし、「被乗数」と「乗数」は、"multiplicand", "multiplier"(英語の場合)からの翻訳語で、西欧の算術書では、この概念は、何世紀も前から使われている伝統的な概念で、たとえば、ニュートンも使っている。
志村氏自身はかけ算をどう考えるかというと、冒頭の引用のなかに、そのヒントがある。「そして,ふたつの数がある.だからそのふたつの数を掛け合わせればよいので,頭の中にあるのは「ふたつの数の積」という概念だけであって,その順序は問題にならない.」
これは、〈被乗数×乗数〉のかけ算ではなく、中学以降の数学で学ぶ、因数×因数のかけ算である。〈1つ分×いくつ分〉や〈被乗数×乗数〉のかけ算と違い、ここでは、乗号の前後が同じ因数で、対称的なために、順序をそもそも設定できない。
3に4をかけるのでも、4に3をかけるのでもなく、3と4という2つの因数を掛け合わせて、12という積を構成する。算数では、3に4をかけて、その演算の遂行(計算)の結果としてはじめて12が出てくるが、〈因数×因数〉のかけ算では、3×4がそれ自身、12を表している。
因数分解というと、人は多項式の因数分解をまず連想するが、数の因数分解というのもあって、たとえば、12=3×4は12を3と4という2つの因数に分解している。そのどちらが被乗数で、どちらが乗数、ということはない。素因数分解は数の因数分解の特殊な場合である。
志村氏は、次の頁で、長方形の求積の例を出しているが、隣り合う2つの辺の長さから、長方形の面積という新しい次元の数を作り出すときに使われる掛け算は、本来は、〈因数×因数〉の掛け算である(注1)。
数学者や数学教師、高度な数学を使うエンジニアなどは、〈因数×因数〉でかけ算を考えるであろうが、このかけ算は、小学生低学年には、抽象的すぎる。もしこれでかけ算を導入するなら、かなりの小学生がかけ算の最初の理解に失敗してしまうでろう。
これに対して、〈被乗数×乗数〉や〈1つ分×いくつ分〉の非対称なかけ算は、3トントラック5台とか、6個入り卵4パックとか、いった日常的で具体的なもので例示でき、低学年でも理解できる。同数グループは低学年にも、アレイや直積に比べてとっつきやすい。
〈1つ分×いくつ分〉のような非対称なかけ算であっても、〈1つ分×いくつ分〉とも〈いくつ分×1つ分〉とも書けるという点では、順序はない。しかし、その非対称性ゆえに、順序と結びつきやすい。
一つ分といくつ分の概念を習っているときに、この2つの順序を混在させて提示するのは、子どもたちに混乱をもたらすだけなので、通常は、どちらかの順序で統一するであろう。日本の算数教育では、日本が明治期に近代教育制度を確立する際に参考にした19世紀の欧米の算術書に従って、〈被乗数×乗数〉の順序を採用した。〈基準量×倍〉〈1つ分×いくつ分〉はその後継である。
志村氏の批判の問題点は、志村氏に限られないが、対称的なかけ算を絶対視し、非対称なかけ算の教育的意義を無視していることにある。
補足
定数氏「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば、問題文に出ている数をただ書けるのは極めて合理的…1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」(2017/08/15 01:04 PM)
ここにも、同じ、見落としの構造が見られる。
「掛け算を求めればいいと言うことが分かれば」と、定数氏はさらりと書いているのだが、その文章題がかけ算で解ける問題であることは、どこから分かったのであろうか。文章題なのだから、文章を読まなくては、それが何算の問題かはわからないはず。
たしかに、かけ算の単元にある文章題なら、かけ算で解くのだとわかるが、〈かけ算の単元ならかけ算を、わり算の単元ならわり算を使う〉といったような、単純で浅薄な方略では、かけ算の文章題もわり算の文章題も混じっているような、少しでも応用的なプリントにさえ対応できない。算数では、文章題がどの演算で解く文章題なのかを、文章から読み取れるようにならなければならないが、小学生には大きな課題である。だから、教科書には、これを訓練するための「何算かな?」という単元もある。使う演算を特定できる能力がつかないと、高学年で学ぶ割合の文章題に対処できない。というのも、割合の問題は掛けることも割ることもあるから。
大人はその問題が掛け算の問題だと瞬間的にわかるが、低学年児童は文章解析力がまだ十分ではないので、すぐにはわからない。「ずつ」などの表現を手がかりとして、最終的には、そこに同数グループという、かけ算が適用できる数的関係を、直感的に見てとることができるようになるのである。
同数グループの各グループの構成員数が一つ分(被乗数)、グループの数がいくつ分(乗数)なのであるから、その文章題がかけ算で求まる問題だという認識には、一つ分といくつ分が使われているのである。非対称のかけ算を学ぶ小2のために作られた文章題を、小2が解くときは、文章中に一つ分の数といくつ分の数を認識することが求められている。「1つ分だのいくつ分だの、順序だの考えることこそ無駄で無意味」とする定数氏の言葉は、だから、教育的に、誤っている。
注
注1
算数で習うかけ算は、非対称なかけ算に限定されているのに、小学生が小4のときに学ぶ、長方形の面積の求める公式〈たて×よこ〉に使われるかけ算は、対称的である。これは一見、不整合であるが、この「不整合」は、ある工夫によって解消されている。つまり、長方形の面積は、1辺が1cmの単位正方形(1つ分=1cm^2)を考えて、それがいくつあるか(いくつ分)ということで、長方形の面積を求めているのである。だから、ここに使われているかけ算は、因数×因数ではなく、単位あたり量×いくつ分という非対称なかけ算なのである。
そして、その「いくつあるのか」(単位正方形の総個数)ということもまた、一つ分×いくつ分で求める。つまり、長方形の縦の個数だけ単位正方形を縦に積んでできた棒を、横の個数分だけそろえる。総個数は、同じ高さの単位正方形の棒が何本並んでいるか、で求めるのである。つまり、縦の個数×横の個数で総個数が求まるのであるが、これは、因数×因数ではなく、ふたたび、一つ分×いくつ分である。
(2020/03/26のflute23432ツイートに基づく。)
2019年5月5日日曜日
小数の筆算でゼロを消すことの意味
「姪っ子の小3算数テストの採点結果。.0の有効数字に意味があるというのに全く訳がわからない。」(kennel氏 2016/11/16 04:33)
2016年11月から翌年にかけて、3.9+5.1=9.0という小数の筆算で、9.0のゼロを斜線で消していないために減点するテストの採点が、ツイッターやブログなどで、激しい非難を浴びた。日本の算数教育がおかしくなっているのではないか、というのである。茂木健一郎氏のように、これを子どもに対する虐待だとして非難する者まで現れた(注1)。その発端が、上記のkennel氏のツイートである。
この答案は、さらに、テレビの「林先生が驚く初耳学」というテレビ番組(2016年12月25放送)でも、取り上げられた。算数教育がどうあるべきかという議論を、権威で解決しようとする林修氏のやり方が正しいかどうか、ということは、ここで措いておくことにしよう。林氏は、京都大のフィールズ賞受賞者でもある数学者の森重文氏を訪ね、こうした採点の仕方の妥当性をきいた。森氏の回答は、最初に「できるだけ簡潔な表現にせよ」という指示がないのであれば、自分の感覚では、減点はない、9.0で何が悪いのか、というものであった。
森氏が「できるだけ簡潔な表現にせよ」という指示がないならば」と条件を付つけて言っていることに注意すべきである。たしかに、kennel氏のアップした答案の問題文には、そのような指示か書かれていない。だが、できるだけ簡潔な表現にするのは、算数・数学では、それが問題文にいちいち書かれていないなくても、しばしば求められることである。「数字は10進法で書く」というのと同様に、あまりに自明なことなので、問題文にはいちいち書かれないのである。それは算数・数学における「書かれざる指示」の1つなのである。
だから、3+5×(9-3)のような計算問題で、=3+30で式を終わらせたら、バツにされてしまう。 =33まで書かなければならない。
3+5×(9-3) =3+5×6 =3+30 =33
3+5×(9-3)と3+30と33の3者は等しいのであるから、3+30でも答えは間違っていない、とは主張できない。その理屈がもし通るなら、
3+5×(9-3) = (9-3)×5+3
と書いても、たしかに等号は成り立っているので、正解だということになろう。3+30のままで終わらせたら、未だ計算が終わっていないと見なされるであろう。計算問題では、しばしば、単一の数値になるまで、式を短くすることが求められている。
分数の計算問題や分数の計算が必要な文章題では、式の最後に出てくる分数は、もうこれ以上約分できない既約分数にしておかなければならない。このことは実は教科書には書かれているが、計算問題の一問一問に、指示が書かれているわけではない。既約分数になっていないと、そのような指示に従えていない、または、約分できるのにそれに気づいていない、としてバツにされ、やり直しとなる。「できるだけ簡潔な表現にせよ」という指示は、実際には、存在するのである。
A)有効数字
kennel氏のツイートに戻ろう。kennel氏は、自分の姪の答案について、「.0の有効数字に意味があるというのに」と述べているが、これは2つの点で、間違っている。
第1に、有効数字は、中1で初めて学ぶのであり、この小3ではまだ学んでいない。このテストは小3の単元テストである。小3が、習っていない有効数字の処理を求められているはずはない。小3の授業やテストでは、有効数字の知識をもっていることは、そもそも、前提されていない。有効数字を理由としてバツにされることも、マルにされることもない。
有効数字では、小数点以下の位の数や数値が、精度を表しており、勝手に除去してはならない。しかし、ここでは、有効数字の処理は求められていない。求められていなくとも、中学で習う有効数字を先取り的に学んで、それを使って解答したなら、それは褒めてやるべきではないか、と言う人もいるだろう。
だが、それは、ありそうもないことである。kennel氏の姪は、別に有効数字を知っていて、それを適用して、斜線を引かなかったわけではない。
「姪っ子には親である弟が有効数字について説明し、この話はこれで終わりにしています。姪っ子本人はケロッと気にしていないそうなので皆さんご心配なく。」(kennel氏 2016/11/19 23:08)
と書かれていることからすれば、あとから親から教わったのである。有効数字を理解した上でケロッとしているのか、理解できないままケロッとしているのかはわからない。減点で「虐待」(茂木健一郎氏)を受けているのではないことは、確かである。ただ、彼女は斜線を引き忘れただけなのだ。kennel氏は、有効数字の処理に馴染んでいる大人の視点を、よく考えずに、算数のテスト問題の採点に対する評価に持ち込んでしまっている。
ツイッターなどで、算数の採点答案が問題視されるとき、その問題視は、より上の学年に獲得される概念を無意識に持ちこんでしまったことで、多くは起きている。
たとえば、かけ算の順序問題も、算数ではかけ算は〈一つ分×いくつ分〉という非対称図式で導入されるということに十分に配慮せずに、中高での、〈因数×因数〉の対称的な掛け算の学習を通じて養われる、〈順序のどうでもよさ〉の感覚を、算数教育に関する議論に、持ちこんでしまうことで、起きている。
ゼロを含む倍数概念も、同様である。高校や大学では、倍数は、ある整数(負の数、ゼロ、正の整数)について、その整数倍となる数である。倍数には、ゼロ倍のゼロや、〈負の整数〉倍も含まれる。そしてまた、〈負の整数〉やゼロについても、倍数を考える。だが、算数では、倍数にゼロは含まない。倍数は〈正の整数〉の〈正の整数〉倍なのである。たとえば、3の倍数は、1倍である3から始まり、2倍の6,3倍の9……と続く。
高校数学 3の倍数:... -6, -3, 0, 3, 6, 9, 12 ...
算数 3の倍数:3, 6, 9, 12, 15, 18 ...
算数では負の数を扱わないので、高校と同じ定義にすることは、もとより不可能である。それに、これはだいたい、定義なので、どちらが正しいというものではない。たしかに倍数のような基本的な概念は自己流に定義して使うのはまずいが、人々と意思疎通が可能な標準的な定義に従うべきであろう。そして、算数の倍数定義は、歴史的に見ても、常識的な定義である(注2)。高等数学で学ぶ倍数定義を、唯一正しい倍数の定義だとして無意識に考えてしまうために、それを外れている算数の倍数概念が不合理で非常識だと感じられるのである。
kennel氏のコメントも、既述のように、まさに、中学で習う有効数字の知識を、小学校の算数のテストの採点答案に対する評価のなかに持ちこんでしまっている。
第2の問題点は、有効数字の考えは、数学で扱われる数値には適用できないことである。算数・数学で使う多くの数値は、測定値ではなく厳密値なので、そもそも、かりに有効数字が既習であっても、適用できないのである。算数や数学で4.1cmとあったら、ぴったり4.1cmでおよそ4.1cmなのではない。算数や数学のテキストに現れる多くの数値は、誤差を含んでいない。
B)ゼロを消す
小学校の単元テストは、授業でやったこと、学んだことができるかどうかの確認のためのものである。授業で、小数点第1位までの小数どうしの足し算・引き算の筆算の際に、小数点以下のゼロを、斜線で消すことを習ったなら、ドリルやテストでも、それができるかどうかが試されるのである。そのゼロを消し忘れているから、減点されただけだと言える。
だが、どうして、算数では、小数点以下にゼロしかないときに、そのゼロを斜線で消すというような指導の仕方をするのであろうか。小学校の教師は、理由も必然性もなしに、そんなことを児童にさせているのであろうか。勝手なルールを作って、素直な小学生に従わせ、人を思い通りに動かす「独裁者」の感覚を楽しんでいるのであろうか。
そういうわけではない。小数点以下にゼロしかない数値のそのようなゼロを斜線を引いて消すのは、まず、1)そのゼロが不要だからであり、次に、2)既習の整数に関係づけるためである。ちなみに、その斜線が右上から左下にではなく、左上から右下に下ろす斜線であるのは、1などと取り違えないようにである。
1)有効数字が問題となりえない以上、小数点以下にゼロしかない数値のゼロは、省略可能である。もちろん、在ってももいいが、付けるだけ無駄なのである。9と9.0は数量的にはまったく等しいので、同じく等しいのなら、表現はできるだけ簡潔なほうがよい。だから、むしろ、消すべきである。数学で扱う数値は測定値ではなく、誤差をまったく含まない厳格値なので、小数点以下の桁数を気にする必要はない。
数値のなかに使われる数字のゼロには、省略が不可能なゼロとそうでないゼロとがある。省略できないゼロとは、たとえば、2005や9.03のなかのゼロである。これに対して、007や9.0、9.00000のゼロは、省略可能である。斜線を引いて消させているのは、児童がそうすることで、省略可能なゼロとそうでないゼロの区別を学ぶためである。
2)2つ目の理由は、既習の整数と関係づけるためである。kennel氏の答案は3年生の単元テストからのものである。小学生は3年生ではじめて小数を習う。小数を学び始めてから数週間後には、小数の足し算・引き算を習うのである。
その小数の導入の仕方であるが、それは「はした」という概念を使って行われる。「はした」というのは、「はんぱ」ということである。実際にある事物の、長さにしても重さにしても、単位となる基本的な量と等しかったりその倍数になったりすることは、稀である。ちょうど1m、ちょうど2mとは限らず、はんぱな長さや重さのものも多い。そのはんぱな長さや重さを数で表すには、どうしたらよいであろうか。そこで必要とされたのが、分数と小数である。
簡単な分数は既習なので、まず、1の1/10となる量を考えて、それを0.1と小数で表すこととする。教科書では、このようにして、小数が導入される。そして、それがいくつ分あるかということで、半端な量を表そうというのである。たとえば、1Lと少しの水は、リットルという大きな単位ではうまく表せない。その少しはみ出た部分を、1Lの1/10である、0.1Lを考えて、それが2つ分に相当するのなら、1.2Lとするのである。
整数は、英語では、whole numberと呼ばれる。つまり、整数とは、完全な数なのである。ということは、小数や分数は不完全な数ということになる。少なくとも、歴史的には、整数に対して、小数や分数は不完全な数を表すための苦肉の策として考案された、ということが、言語的な表現から推測される。小数や分数は特殊な数なのである。
だが、小数や分数が整数に対して劣った、不自然で、不完全な数だとかいった感覚は、大人にはない。むしろ、逆に、有理数も実数も知っている大人にとって、整数こそが小数や分数の一種で、ただし、それはたまたま、小数点以下にゼロがずっと並ぶ、特別な小数なのである。分数だったら、分母がたまたま1である特別な場合なのである。整数は、切りがいい、とても稀で幸運な小数のことなのである。
しかし、整数しか知らず、小数を学び始めた小学生の感覚には、分数や小数は、不完全な数だという理解のほうがフィットするでのであろう。というのも、小3は、それまで学んできた整数に加えて、半端な量を表す小数を学び始めたところだからである。小数が導入された直後の小学生(小3)の認識では、はんぱが出る特別な場合だけ、小数が登場するべきなのだ。小学生の認識では、9.0は「はんぱ」がないので、小数表現のような苦肉の策を取る必要がなく、従来通り、9という完全な数として表現すればよいのである。その意味でも、9.0の0を消されるべきものである。こうして、9.0が既習の9と関係づけられる。
次の画像は、1985年の、3年ではなく4年の教科書からのものである。この時代には、小数の足し算・引き算の筆算は4年ではじめて学ぶものであった。0.70が0.7と等しいこと(7.0が7と等しいことではなく)に対する子どもの認識を表す挿絵である。大人にとっては、0.70が0.7と等しいことはわかりきったことである。
3.9+5.1の筆算では、まず、小数第1位について。0.9と0.1を足す。これは、一方に0.1が9つ、他方には0.1が1つあり、両者を合わせれば、の0.1が10こになる。0.1は1を10等分した量なので、それを10個集めれば、元の1に戻るはずである。元の「完全な」数に戻ったのである。不完全な数字に必要だった小数点がある数字が、完全になることで、不要になったので、消す必要があるのである。だから、ゼロを消して、整数にしたのである。
小数の筆算で、計算結果の数値が小数点以下にゼロしかない場合にゼロを斜線で消させるのは、このように、1)既習の整数である9と同じものであることを確認するため、である。整数は習っているが小数をこれから初めて学ぶという段階で、小数が既知の整数とどう関わるのかが問題になるのは、自然なことである。筆算の結果でてきた9.0は、これまで親しんできた、1, 2, 3,... 9の9と同じことなのだ、ということを学ぶためにこそ、斜線を引かせるのである。3年で0.1は、1の1/10として導入される。だから、0.1が10個集まると、馴染みの1に戻るのである。
ツイッターで、今の小学校では9.0≠9と教えられているのか、と反応した人がいた。小学校で小数がどのように学ばれているかを知らない者には、たしかに、kennen氏がアップしたあの答案画像は、そのように見えるかもしれない。9.0は9と等しいので=9.0でもよいのに、減点されたということは、日本の算数教育では、9.0と9は等しくないと考えられているから、というわけである。実際には、その減点は、小数点以下のゼロを消すという指示を守れていないからつけられた教育的な減点である。学校のテストの減点やバツには、このような教育的な減点・バツが珍しくないが、それが数学的・計算的な減点・バツと誤認されることで、こうした誤解が起こるのである。
実際には逆で、9.0は既習の9と等しいこと、つまり9.0=9、であることを、わかるようにするために、小数点以下の要らないゼロを斜線で消させているのである。9.0と9が違うものだと思っている児童は、斜線でゼロを抹消することはできない。数学的には9.0=9であることがわかっている大人には、このように斜線を引いて消す訓練は、もちろん、不要である。測定値でないのなら、好みや必要に応じて、9.0のままにしてもよいし、9と書いてもよい。
9.0が9と等しいことを学ぶために、ゼロを線を引いて消している、というこの教育的文脈は、答案がネットにアップされてしまうと、脱落してしまう。そして、教育的文脈を知らない大人たちによる誤解に晒されるのである。そして、最近の日本の算数教育はなんてひどいのだ、ということになってしまう。自分自身も、小学生の頃に小数点以下のゼロを斜線で消していたことをすっかり忘れて、そう思うのである(注3)。
C)ゼロを追加する
逆に、ゼロを追加したほうがいい場合もある。小数の足し算筆算の習い始めでは、小数を習い始めたばかりの小学生は、9+2.6という計算問題で、9と6を同じ列に書いてしまうことで、=3.5と、間違った答えを書いてしまいがちである。小数の足し算・引き算で、注意しなければならないのは、このように位をそろえることである。このときは、むしろ、逆に、9は9.0に直したほうが、こうしたミスを避けられる。もちろん、慣れてくれば、不要になることであろうが。
3.6+0.835 = 3.600+0.835 =4.435
3.6のあとに、要らないゼロを追加するのは、これは、0.855と桁を合わせるためである。追加することで、3.600+0.835という小数の足し算は、3600+835という既習の整数の足し算の筆算と同じようにできる、ということが、より容易に見てとれるようになるのである。整数として足し算の筆算を行い、小数点の処理は後からすればよい、というわけである。桁がそろっていない小数どうしの足し算・引き算は、既習の整数の足し算を土台にして行われる。
0.001のいくつ分という説明の仕方を使って言えば、3.600は0.001が3600個分、3.600は、0.001が835個分なので、2600+835という足し算の筆算でまず、4435を求める。しかし、これは本当は、4435なのではなく、0.1が4435個という意味なので、本当の答えは4.435になるのである。整数の筆算と同じようにできることを理解してもらうために、ゼロを追加するのである。
注
注1
茂木健一郎「小学校の算数にまかり通っている「奇習」は、子どもたちに対する「虐待」である」(2016/11/20)
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8305779.html
「昨日、小学校の算数のテストで、「3.9+5.1=9.0」と書いたら、減点されたというツイートが流れてきて、とてもびっくりした。これははっきり言って一種の子どもに対する「虐待」である。」
「小学校の算数で、そのような奇習がまかり通っていることは国の恥と言うべきことだろう。」
「奇妙な「正解」を押し付けるのは、子どもの精神に対する虐待であり、許されることではない。」
注2
本ブログの別記事「倍数はゼロを含む? 」(2019/05/02)を参照のこと。
http://flute23432.blogspot.com/2019/05/blog-post.html
注3
茂木氏はまた、上記(注1)に引用した文章において、「ふしぎに思うのは、ぼくが小学生の頃は、「小数点」「かけ算の順序」「たし算の順序」といった問題は経験した記憶がないということで、いつからそんな奇習が小学算数の一部に広がってしまったのだろう。」とも述べている。
彼が実際にどのように教わったかは、茂木氏が実際に小学校で受けた授業がどんなものだったかを再現できる資料がないとわからないが、かけ算の順序は、戦前から続くかけ算指導法であり、小数の筆算で不要なゼロを抹消線で消すのも、遅くとも1970年代から続いている教え方である。茂木氏が記憶が無いというのは、教わっていないから記憶が無いのではなく、そう習ったのに忘れているだけであろう。
これらは、斜線でゼロを引く教え方が昔からあることを示す証拠である。画像上は、①1971年、中は②1975年の4年の算数教科書から。茂木氏はこの時代に小学生だった。下は、③1929年の教科指南書から。①では、斜線ではなく横線になっている。③には斜線はないが、5.00のゼロは消すのが普通であることを教えておく必要がある、としている。啓林館の1973年の教科書も、同様に筆算ではゼロに斜線は引かないが、6.00は6とする、と書いてある(p.109)。小数の筆算で不要なゼロを抹消させる教え方は、最近の現象ではない。
抹消線でゼロを消すルールは、整数や小数の四則演算を学習中の児童のために、小数の筆算の導入時に教育的な意味で一時的に設定されるもので、中学生以上には求められない。それは学年が進めば乗り越えられ不要になるものだから、忘れるのは当然であり、忘れていること自体は、健全であると言える。
忘れているかもしれないということに対する自覚がまったくなくて、高等数学を学んだ自分の感覚を、子ども自体の頭のなかに投影して、虐待だと言うのは、しかし、不健全というほかはない。
(※ すずすけ氏ブログ記事「小数の和と差の末尾のゼロに斜線を引かせる指導の根拠について調べてみた」(「パパ教員の戯れ言日記」2017/01/06)に対するコメント(2019/04/15)に基づく。)
2019年4月20日土曜日
テストにおける書かれざる指示
学校の算数では、「長いすが7つあります。1つに6人ずつすわると、みなんで何人座れますか?」という掛け算の文章題では、7×8と式を立てると式がバツになる。
これは、学校の算数では、かけ算を
一つ分×いくつ分=全部の数
という図式で習うが、その一つ分といくつ分をそれぞれ正しく把握できているかを診るために、掛け算の式は一つ分×いくつ分(被乗数×乗数)の順に書くことが求められているからである。一つ分とは、同数グループがあったときの各グループの構成員数で、いくつ分とはグループの数のことである。これがわからない児童は、一つ分×いくつ分の順序で、式を書くようにという要求に応えられない。
これに対して、「もし順序を指示するのであったら、ちゃんと問題文に書くべきだ」「書いているなら、指示に従っておらずバツもやむをえない」と言う人もいる。
だが、そのような書かれざる指示というのは、無数にあり、書き尽くすことは、もともとできない相談なのである。試験(テスト)における、そのような書かれざる指示には、たとえば、次のようなものがある。
解答用紙の氏名欄には、先生の名前や好きなタレントの名前ではなく、自分の名前を書く
万年筆やボールペン、サインペン、毛筆、赤鉛筆ではなく、黒鉛筆を使って答案を書く
少なくとも読める程度に丁寧に書く
解答は(解答用紙の)対応する解答欄に書く
マークは1列に1箇所だけ
問題が解けなくても隣の人に協力を仰いだりスマホを検索したりしない
できてもできなくても、答案は提出する
記号を書きなさいとあったら、記号だけを解答用紙に書く、記号が円で囲まれているものであったら、その円も含めて書く
…
…
こうした指示は、センター入試や検定試験のように、書いてあることもあるが、書いていないことも多い。試験の前に、口頭で指示されることもある。
試験一般ではなく、その教科固有の暗黙の指示もある。
たとえば、国語のテスト問題に「30字以内にまとめなさい」とあったら、26~30字はいいが、18字ではまったく足りないと見なされ、内容にかかわらずバツにされる。20字ではなく30字と指定したのだから、そのくらいの分量の記述が求められている、18字ではその要求に応えられていない、ということなのだろう。18字でも、30字以内には変わりないだろうとも言えるのだが、それは学校のテストや入試でも通用しない理解である。
「書き抜きなさい」とあったら、リード文の該当箇所を、句読点も含めて、変更せずにそのまま引用しなければならない。漢字をひらがなに、平仮名を漢字に勝手に変えてはならない。「なぜですか」ときかれたら、理由を書いていることを明確にするために、「~[だ]から。」と「から」を文末に付けて、答えを書かなければならない。これは理科でも当てはまる。
理科や社会などでも、国語のテストでもないのに、漢字を間違ったり、漢字で書くべきところを平仮名で書いてあったりすれば、バツになる。社会では、「第二次世界大戦」は「第2次世界大戦」とアラビア数字を使うと、減点される。
算数や数学のテストでは、たとえば、次のようなことが、暗に求められている。
数字は漢数字やローマ数字でなくアラビア数字を用いる(漢数字とアラビア数字を言い換える問題を除く)
断りがない限り、問題用紙に書かれた数字は十進法で理解し、解答も十進法で書く
計算問題では、答えは単一の数値になるようにする(4×3=4×3や、4×3-2 =12-2で計算を終わらせない)、
分数の計算では、答えは既約分数にする
途中式はかならず書く
乗号には・ではなく×を用いる
高学年になったら等号=はそろえて書く
図形はテスト用紙が鼻水で歪んでも、曲面図形を習うまでは、曲面図形ではなく平面図形と見なす
…
…
求められていることに応えられていないと、バツにされる。
小学校の算数の授業内で、授業の一環として行われる、単元テストのようなテストでは、授業でやったことが習得できているかどうかをチェックするために、その種の書かれざる指示が、一般の試験に比べて、さらに多くなる。そのようなテストでは、その学校で、その授業で採用されている考え方や方法で解答を書くことが求められている。
細かく言うと、教員によってその指示は違っている。前回のテストで、数字を汚く書いている児童がたんさんいて、6と0のどちらがどちらだかがわからずに採点に困った教師は、テスト前に、「6と0は違いがわかるように書いてね」と言い、採点に際しては、とくにその点にこだわった採点をすることになる。
ところが、児童が答案を家に持ち帰ると、そのような、学校や授業での指示が脱落する、という現象が起きる。たいていの保護者は、そのような前提やら方法やらを知らずに、答案の採点結果だけを見るからである。このために、とんでもない誤解が生ずる。とくに、答案の一部がネットにアップされると、保護者を超えて、誤解が広がることになる。「脱文脈化効果」と勝手に呼んでいる。
順番が違うという理由で式がバツになっているかけ算の文章題の答案が、ネットにアップされると、「子供たちが算数・数学が嫌いになってしまう」、「日本の小学校では、かけ算は非可換という大嘘が教えられている」、「小学校の教師は掛け算の可換性も知らないバカだ」と、小学校の教育や教師が非難される、というのがその典型的な例である。
学校の単元テストでは、答えが計算問題ではなく文章題が示す問題状況に対する解決であることを意識するために、答え欄の答えには数値に、cmやLなどの単位、あるいは、「こ」「ほん」「ひき」「まい」などの助数詞を付ける、ということが求められている。書いていないと減点かバツである。何cmですかと尋ねているなら、単位はcmと決まっているので、書く必要はないとも言えるのに、である。
その他にも、次のような、書かれざる指示がある。
式欄に書く式は、28÷4ではなく、28÷4=7と、等号や答えも含めて書く
四捨五入や切り上げなどをして出てきた概数には、概数であることを明確に意識するために、その前に「約」を付ける
円周率はとくに書かれていなくても、3や3.141592653ではなく、3.14で計算する
仮分数と帯分数を言い換える練習も兼ねて、そしてまた、帯分数のほうがどのくらいの大きさを表しているかを把握しやすいので、分数の計算問題の答えは帯分数で書く
小数の筆算では、小数点以下がゼロしかない場合は、既習の整数と同じものであること(9.0がなじみの9と等しいこと)を意識するために、ゼロを斜線で消す
まっすぐな線を引くのが身体的に難しい低学年のうちは、分数や筆算の横線は定規で引いて、列や位置がずれて計算ミスを犯すのを防ぐ
……
小学生は4年次に、演算記号の種類や括弧による計算順序のルールを学ぶ。学んでいる間は、順序を明確に意識するために、そしてまた、ルールを習得できていない子がどこで躓いているかを診断するために、試験では要求しなくても、教科書の練習問題やドリルの問題をノートに解く場合は、色付下線とマル番号を付けて、順序を明確にすることが求められる。書いていなかったり、書いていても、適切でない場合は、やり直しである。バツになる。児童たちが、計算順序を間違わずに計算できるようになれば、それは求められなくなる。
授業では、繰り上がりがある足し算の計算問題を、さんらんぼを描いてやったのなら(さくらんぼ計算)、同じことを教科書等を見ずにできるかどうかが、単元テストでも試されている。だから、さくらんぼを描かないと、減点となることがある。こうした減点答案がネットにアップされると、授業やカリキュラムの文脈から切り取られて誤解され、「さくらんぼ計算を強制するな」という非難がネットで沸き起こることになる。
だが、さくらんぼ計算は、10進法位取り記数法の原理を、小1でも学ぶことができる、アメリカにも採り入れられた優れた、足し算の学習・教授方法である(Make a ten strategy と呼ばれる)。そして、さくらんぼ計算の学習のあとでは、カードで足し算九九の練習に入るので、さくらんぼ計算を使わない、足し算九九による方法が否定されているわけではない。どちらでも行うのである。それでも、足し算九九を学習する前に行われる単元テストでは、さくらんぼを描くことが求められるであろう。
三角形の面積を求める問題では、式は習った公式に従って、底辺×高さ÷2で書く。公式通りの式を求めるのは、とても、形式主義的で柔軟性がないように見えるが、高さがどれで底辺がどれかを正しく把握できているか、そしてまた、公式を覚えているかも、チェックされているのである。高さがいつも辺の長さだと思ってる児童は、この公式に従って立式することができない。
公式はただ覚えても使えるようにならないが、しかし、覚えるためのものであるというのも、依然として、真実である。小学生には、図形の面積はその周囲の長さを測ればわかると思う傾向がある。長方形の面積を、縦+横で求めてしまわないように、三角形の面積で÷2を忘れないように、求積公式を覚えておくことが重要である。
掛け算の式を、教科書に倣って、一つ分×いくつ分、単価×数量の順に書くこともまた、掛け算の文章題を解答するとき、暗に指示されていることなのである。もししそれに従えていない式はバツにされるが、それは、掛け算が非可換だからではなく、その書かれざる指示に従えていないから、である。
だから、掛け算の文章題で式が逆だからバツというのは、掛け算の可換性という原理の否定ではない。掛け算の順序は、原理でなく、書式・表記上のレベルで求められているもので、一つ分といくつ分をそれぞれ正しく把握させるという教育的な意味で、設定されているのである。
注
高校数学でも、「関数f(x)の最小値を求めよ」という問いで、f(x)を最小値すとするxの値を挙げていない、もしくは挙げていても全部を上げていないとき、減点する教師がかなりいる。不等式の証明では、しばしば、問題文に書かれていなくても、等号成立条件を書くことが求められている。(2019/04/17 ツイッターでの定数氏によるアンケート結果による。)
(2019/04/17 20:07などのツイートに基づく。)
これは、学校の算数では、かけ算を
一つ分×いくつ分=全部の数
という図式で習うが、その一つ分といくつ分をそれぞれ正しく把握できているかを診るために、掛け算の式は一つ分×いくつ分(被乗数×乗数)の順に書くことが求められているからである。一つ分とは、同数グループがあったときの各グループの構成員数で、いくつ分とはグループの数のことである。これがわからない児童は、一つ分×いくつ分の順序で、式を書くようにという要求に応えられない。
これに対して、「もし順序を指示するのであったら、ちゃんと問題文に書くべきだ」「書いているなら、指示に従っておらずバツもやむをえない」と言う人もいる。
だが、そのような書かれざる指示というのは、無数にあり、書き尽くすことは、もともとできない相談なのである。試験(テスト)における、そのような書かれざる指示には、たとえば、次のようなものがある。
解答用紙の氏名欄には、先生の名前や好きなタレントの名前ではなく、自分の名前を書く
万年筆やボールペン、サインペン、毛筆、赤鉛筆ではなく、黒鉛筆を使って答案を書く
少なくとも読める程度に丁寧に書く
解答は(解答用紙の)対応する解答欄に書く
マークは1列に1箇所だけ
問題が解けなくても隣の人に協力を仰いだりスマホを検索したりしない
できてもできなくても、答案は提出する
記号を書きなさいとあったら、記号だけを解答用紙に書く、記号が円で囲まれているものであったら、その円も含めて書く
…
…
こうした指示は、センター入試や検定試験のように、書いてあることもあるが、書いていないことも多い。試験の前に、口頭で指示されることもある。
試験一般ではなく、その教科固有の暗黙の指示もある。
たとえば、国語のテスト問題に「30字以内にまとめなさい」とあったら、26~30字はいいが、18字ではまったく足りないと見なされ、内容にかかわらずバツにされる。20字ではなく30字と指定したのだから、そのくらいの分量の記述が求められている、18字ではその要求に応えられていない、ということなのだろう。18字でも、30字以内には変わりないだろうとも言えるのだが、それは学校のテストや入試でも通用しない理解である。
「書き抜きなさい」とあったら、リード文の該当箇所を、句読点も含めて、変更せずにそのまま引用しなければならない。漢字をひらがなに、平仮名を漢字に勝手に変えてはならない。「なぜですか」ときかれたら、理由を書いていることを明確にするために、「~[だ]から。」と「から」を文末に付けて、答えを書かなければならない。これは理科でも当てはまる。
理科や社会などでも、国語のテストでもないのに、漢字を間違ったり、漢字で書くべきところを平仮名で書いてあったりすれば、バツになる。社会では、「第二次世界大戦」は「第2次世界大戦」とアラビア数字を使うと、減点される。
算数や数学のテストでは、たとえば、次のようなことが、暗に求められている。
数字は漢数字やローマ数字でなくアラビア数字を用いる(漢数字とアラビア数字を言い換える問題を除く)
断りがない限り、問題用紙に書かれた数字は十進法で理解し、解答も十進法で書く
計算問題では、答えは単一の数値になるようにする(4×3=4×3や、4×3-2 =12-2で計算を終わらせない)、
分数の計算では、答えは既約分数にする
途中式はかならず書く
乗号には・ではなく×を用いる
高学年になったら等号=はそろえて書く
図形はテスト用紙が鼻水で歪んでも、曲面図形を習うまでは、曲面図形ではなく平面図形と見なす
…
…
求められていることに応えられていないと、バツにされる。
小学校の算数の授業内で、授業の一環として行われる、単元テストのようなテストでは、授業でやったことが習得できているかどうかをチェックするために、その種の書かれざる指示が、一般の試験に比べて、さらに多くなる。そのようなテストでは、その学校で、その授業で採用されている考え方や方法で解答を書くことが求められている。
細かく言うと、教員によってその指示は違っている。前回のテストで、数字を汚く書いている児童がたんさんいて、6と0のどちらがどちらだかがわからずに採点に困った教師は、テスト前に、「6と0は違いがわかるように書いてね」と言い、採点に際しては、とくにその点にこだわった採点をすることになる。
ところが、児童が答案を家に持ち帰ると、そのような、学校や授業での指示が脱落する、という現象が起きる。たいていの保護者は、そのような前提やら方法やらを知らずに、答案の採点結果だけを見るからである。このために、とんでもない誤解が生ずる。とくに、答案の一部がネットにアップされると、保護者を超えて、誤解が広がることになる。「脱文脈化効果」と勝手に呼んでいる。
順番が違うという理由で式がバツになっているかけ算の文章題の答案が、ネットにアップされると、「子供たちが算数・数学が嫌いになってしまう」、「日本の小学校では、かけ算は非可換という大嘘が教えられている」、「小学校の教師は掛け算の可換性も知らないバカだ」と、小学校の教育や教師が非難される、というのがその典型的な例である。
学校の単元テストでは、答えが計算問題ではなく文章題が示す問題状況に対する解決であることを意識するために、答え欄の答えには数値に、cmやLなどの単位、あるいは、「こ」「ほん」「ひき」「まい」などの助数詞を付ける、ということが求められている。書いていないと減点かバツである。何cmですかと尋ねているなら、単位はcmと決まっているので、書く必要はないとも言えるのに、である。
その他にも、次のような、書かれざる指示がある。
式欄に書く式は、28÷4ではなく、28÷4=7と、等号や答えも含めて書く
四捨五入や切り上げなどをして出てきた概数には、概数であることを明確に意識するために、その前に「約」を付ける
円周率はとくに書かれていなくても、3や3.141592653ではなく、3.14で計算する
仮分数と帯分数を言い換える練習も兼ねて、そしてまた、帯分数のほうがどのくらいの大きさを表しているかを把握しやすいので、分数の計算問題の答えは帯分数で書く
小数の筆算では、小数点以下がゼロしかない場合は、既習の整数と同じものであること(9.0がなじみの9と等しいこと)を意識するために、ゼロを斜線で消す
まっすぐな線を引くのが身体的に難しい低学年のうちは、分数や筆算の横線は定規で引いて、列や位置がずれて計算ミスを犯すのを防ぐ
……
小学生は4年次に、演算記号の種類や括弧による計算順序のルールを学ぶ。学んでいる間は、順序を明確に意識するために、そしてまた、ルールを習得できていない子がどこで躓いているかを診断するために、試験では要求しなくても、教科書の練習問題やドリルの問題をノートに解く場合は、色付下線とマル番号を付けて、順序を明確にすることが求められる。書いていなかったり、書いていても、適切でない場合は、やり直しである。バツになる。児童たちが、計算順序を間違わずに計算できるようになれば、それは求められなくなる。
授業では、繰り上がりがある足し算の計算問題を、さんらんぼを描いてやったのなら(さくらんぼ計算)、同じことを教科書等を見ずにできるかどうかが、単元テストでも試されている。だから、さくらんぼを描かないと、減点となることがある。こうした減点答案がネットにアップされると、授業やカリキュラムの文脈から切り取られて誤解され、「さくらんぼ計算を強制するな」という非難がネットで沸き起こることになる。
だが、さくらんぼ計算は、10進法位取り記数法の原理を、小1でも学ぶことができる、アメリカにも採り入れられた優れた、足し算の学習・教授方法である(Make a ten strategy と呼ばれる)。そして、さくらんぼ計算の学習のあとでは、カードで足し算九九の練習に入るので、さくらんぼ計算を使わない、足し算九九による方法が否定されているわけではない。どちらでも行うのである。それでも、足し算九九を学習する前に行われる単元テストでは、さくらんぼを描くことが求められるであろう。
三角形の面積を求める問題では、式は習った公式に従って、底辺×高さ÷2で書く。公式通りの式を求めるのは、とても、形式主義的で柔軟性がないように見えるが、高さがどれで底辺がどれかを正しく把握できているか、そしてまた、公式を覚えているかも、チェックされているのである。高さがいつも辺の長さだと思ってる児童は、この公式に従って立式することができない。
公式はただ覚えても使えるようにならないが、しかし、覚えるためのものであるというのも、依然として、真実である。小学生には、図形の面積はその周囲の長さを測ればわかると思う傾向がある。長方形の面積を、縦+横で求めてしまわないように、三角形の面積で÷2を忘れないように、求積公式を覚えておくことが重要である。
掛け算の式を、教科書に倣って、一つ分×いくつ分、単価×数量の順に書くこともまた、掛け算の文章題を解答するとき、暗に指示されていることなのである。もししそれに従えていない式はバツにされるが、それは、掛け算が非可換だからではなく、その書かれざる指示に従えていないから、である。
だから、掛け算の文章題で式が逆だからバツというのは、掛け算の可換性という原理の否定ではない。掛け算の順序は、原理でなく、書式・表記上のレベルで求められているもので、一つ分といくつ分をそれぞれ正しく把握させるという教育的な意味で、設定されているのである。
注
高校数学でも、「関数f(x)の最小値を求めよ」という問いで、f(x)を最小値すとするxの値を挙げていない、もしくは挙げていても全部を上げていないとき、減点する教師がかなりいる。不等式の証明では、しばしば、問題文に書かれていなくても、等号成立条件を書くことが求められている。(2019/04/17 ツイッターでの定数氏によるアンケート結果による。)
(2019/04/17 20:07などのツイートに基づく。)
2019年3月19日火曜日
算数教科書における複数の考え方・解き方(不都合な真実)
同じ事柄には複数の見方があり、同じ問題には複数の考え方や解き方がある。
算数の同じ問題でも、考え方の違いにより複数の解決方法があり、それに従って式の立て方がある。同じ式でも、計算の工夫の仕方は複数あり、また、同じ数値でも、考えたの違いで異なる表現がある。たとえば、1 1/3Lと4/3Lは同じ量を表すが、しかし、前者の帯分数表現は、1Lには収まりきれずに、1/3だけ余計にあることを表すが、後者の仮分数表現は、1/3が4つあることを意味する。
日本の算数の教科書は、複数の人物を登場させて、吹き出しで異なる意見を言わせる、というスタイルで、問題の解決方法が1つではないことを、児童に教えている。複数の登場人物をつかった複数の考え方や式の提示は、外国の教科書にはあまり見られない、日本の教科書の特徴の1つだという。
もちろん、解き方や式が1つしか提示されないことも多いが、以下にみるように、複数の考え方や解き方、式が紹介されていることもまた、珍しくないのである。日本の算数教育では、そうしたやり方で、児童が様々な見方を養えるようになっている。
複数と言っても、もちろん、それは2つとか3つとか数が限定され、その学年の知識にふさわしいものが選ばれているのである。小学生に方程式や図形の包摂関係、微積分を教え込むといったような、無謀なことが行われているわけではない。
算数教育をツイッター上で「超算数」と呼んで非難し続ける黒木氏や定数氏は、何としても、日本の学校算数教育が、無思考的・機械的なパターンマッチングか、あるいは、単なる暗記主義に陥っている、と叙述したいらしい。彼らにとって、日本の算数教科書のこのようなスタイルは、不都合な真実だと言える。
例を挙げていこう。1)最初は2年上巻から。「こどもが10人遊んでいたが、そこに2人来て、また6人来た。子どもは何人?」という問題。
だいち君は、後から来て加わった子どもの数をそのつど足している。これに対して、ひなたさんは、加わった人数の合計を出してから、それを最初の10人に加えている。
2)考え方と式のこの違いは、4年教科書の、括弧の使い方に関する章へと発展していくものである。「1000円をもって行き、600円の本と360円のお菓子を買ったときの残額は?」という問題では、さくらさんは買い物をするごとに千円から引き、しょうた君は買ったものを合計してから、それを千円から引いている。
この段階までは、児童は括弧の使い方や、かけ算と引き算の混合式をまだ習っていない。しかし、まさにこの章で、それを学ぶので、1つの式にすることが可能になるのである。
1000-600-360 =40 40円
1000-(600+360) =40 40円
3)◯が、単純な長方形ではない形状で並んでいるとき、かけ算を使って、そのすべての◯を求める問題で、かけ算が適用できる長方形状の配列をどこに、いくつ見るかは、さまざまな可能性がある。◯を1つ1つ数えることは不可能ではないが、ここでは、かけ算を習った直後なので、あくまでかけ算を利用する。
ゆみさんは、一番上の横列の3個を、2列目の3個分空いている部分に移動させて、1つの長方形(縦4個横6個)を作って、1つのかけ算の式で全部の数を求めた。6×4=24 24個
たくみ君は、大きい単純な長方形から、その一部を占める小さな長方形を除去して求めた。
5×6 =30, 2×3=6, 30-6=24 24個
足して求める方法もあるに違いない。これは4年生のときにやる、変則的な長方形の面積の単元に役立つことになる。
3×3=9, 5×3=15, 9+15=24 24個
6×3=18, 3×2=6, 18+6=24 24個
4)九九は通常は、被乗数または乗数が1から9までであるが、被乗数を12にまで拡張したい。まず、九九は乗数が1つ増えると答えは被乗数分増えるという規則性を使って、4の段を×12まで拡張する。
4×9 =36
4×10 =36+4 =40
4×11 =40+4 =44
4×12 =44+4 =48
次に、12の段を作るが、しゅん君は、12×4は4×12と答えが同じというという性質(交換法則)を使って、48という答えを出す。ひなたさんは、被乗数分増えるという同じ規則を使って、
12×1=12
12×2=12+12=24
12×3=24+12=36…
と、1つ1つ計算していき、12の段を構成している。
5)校舎脇の木は、2mの雲梯の3倍の高さ、校舎は木の2倍の高さのとき、校舎の高さは?という問題では、基準数×倍の図式に従い、まず、2m×3=6mと木の高さを求め、次に、木の高さを2倍する。6×2=12m 答え12m。もし1つの式に書くなら、(2×3)×2 =6×2 =12 12mとなる。
だが、だいち君は、あるものを3倍してから2倍する、というのは、結局、6倍するということなので、雲梯の高さ2mを6倍して(2m×6)、12mと求めている。この方法は、結合法則や括弧を習うと、次の様に正当化できる。
(2×3)×2
=2×(3×2) ←結合法則
=2×6 括弧内を最初に計算する
つまり、あるものをa倍してからb倍することは、それをa×b倍するのと同じことなのである。
6)三角形の面積はどのようにして求められるのか。既習の、四角形や平行四辺形の面積の求め方を利用して、三角形の面積を求めるさまざまな考え方が提示されている。
ゆみさんは、三角形と高さを同じくし、三角形の底辺ともう一つの辺を共有する平行四辺形を考える。そのとき、三角形の面積は平行四辺形の半分である。言い換えれば、平行四辺形は1つの対角線で、2つの合同な三角形に分解できる。平行四辺形の面積は、底辺×高さで求められるので、三角形の面積は底辺×高さ÷2で求められることがわかる。
たくみ君は、頂点Aから底辺に下ろした垂線で三角形を2つの直角三角形に分割する。2つの直角三角形のそれぞれにおいて、直角で挟まれた2つの辺を縦と横の辺とする長方形を考える。この直角三角形は長方形を対角線で分割してできる2つの面積が等しい直角三角形の1つである。だから、この長方形の面積は、含まれる直角三角形の2倍である。したがって、2つの長方形の面積の和は、2つの直角三角形の面積の和の2倍である。だから、三角形の面積は、底辺×高さ÷2で、求められる。
みほさんは、縦の長さが高さの半分で、底辺を共有する横長の長方形を考える。もとの三角形と比較した場合、この横長の長方形と重ならない部分は、同じ面積である。この横長の長方形は横の長さが底辺と同じだが、縦は三角形の高さが半分である。ここから、高さの半分×底辺で、三角形の面積が得られる。最終的には、ゆみさんの考えが採用されて、三角形の面積を求める公式は、底辺×高さ÷2と定められる。
7)1mの値段が80円のリボンを2.3m購入したときの代金は何円? 基準量×倍の公式に従い、80×2.3という式が立てられるが、これはどう計算したらよいのか。小数×整数は理解しやすいが、80×2.3のように、乗数が小数の掛け算は、どう考えるべきなのか。
たくみ君はまず、被乗数を10で割り、0.1mあたりの値段を求めた。0.1mは1mの1/10なので、8円である。2.3は0.1mの23倍なので、8×23で求められる。被乗数にaを掛け、乗数をaで割っても、答えは変わらないという性質を使ったとも言える。
これに対して、みきさんは、乗数を10倍して、23m分の代金を求める。2.3mは23の1/10なので、出た答えを10で割る。こうした説明のあと、最終的には、小数を含む掛け算の筆算では、小数点の処理が後で必要になることを除いて、整数の場合と同じように行えることが、明らかにされる。
8)200÷5というわり算は、どう工夫して計算したらよいであろうか。あおいさんは、割られる数200と割る数25をともに5で割って、40÷5という簡単なわり算に還元して考え、しょうた君は両者をともに4倍して、800÷100にして、わり算をした。
あおいさんはもしょうた君も、わり算では、割られる数と割る数に同じ数を掛けても(割っても)、わり算の答えは同じである、という性質を使っている。
9)割合の問題。かずお君は8回シュートして、そのうち5回入ったが、ひろし君は10回やって6回入った。かずお君とひろし君でどちらがシュートがうまいかというとき、入った回数の絶対数では比較できない。
このことは、もっと極端な場合を考えてみれば、明瞭になる。4回シュートして4回とも入ったA君と、50回やって5回しか入らないB君では、A君のほうが、入った絶対回数は少ないが、シュートがうまいと言える。
かずお君とひろし君を公平に比較するには、シュート回数を揃(そろ)える必要がある。ななみさんは、シュート回数を最小公倍数で揃えようとした。だいき君は、同じ長さだが分割の仕方が異なる棒で図的に表現して較べようとした。ひろと君は、1回のシュートで入る回数で比較した。
最終的には、ひろと君のやり方が採用される。シュートの成功率は、入った回数をシュートの回数で割って求められるが、これは、シュート1回のときの入る回数を求めることと同じことである。ここから、割合=当該量÷基準量という公式が得られる(日本の算数教育は公式暗記主義だとする批判は誤り)。
10)最後は、速さの表し方について。だいち君のソーラーカーは3分間で60m走り、ひなさんのは2分間で48m走った。どちらのソーラーカーが速いか(速さ)についてこの2つを比較するときは、シュートの例の場合と同じく、距離か時間をそろえる必要がある。
だいち君は、距離でそろえた。すなわち、1mに走るのにかかる時間を考えて、かかる時間が短いひなさんのソーラーカーが自分のものより速い、という結論を得た。これは式では、3÷60, 2÷48となる。3分を60mで割ることで、1mあたりの時間を求められる。
ひなさんは、1分に走る距離で比較した。つまり、分速で比較したのである。これは時間をそろえたということである。式は、だいち君の式とは、割られる数と割る数の数値が逆になっている。割る数に時間(分)をもってくることで、1分に走る距離を求められる。
計算の結果、だいち君のソーラーカーは分速20m、ひなさんは分速24mであった。したがって、ひなさんのソーラーカーのほうが速い。当然のことながら、結論は同じである。通常、速さといえば、単位あたりの時間に走る距離で表すが、だいち君の方法でも、まったく問題なく比較できる。
(2019/03/17のツイート「複数の考え方・解き方1~4」に基づく。)
算数の同じ問題でも、考え方の違いにより複数の解決方法があり、それに従って式の立て方がある。同じ式でも、計算の工夫の仕方は複数あり、また、同じ数値でも、考えたの違いで異なる表現がある。たとえば、1 1/3Lと4/3Lは同じ量を表すが、しかし、前者の帯分数表現は、1Lには収まりきれずに、1/3だけ余計にあることを表すが、後者の仮分数表現は、1/3が4つあることを意味する。
日本の算数の教科書は、複数の人物を登場させて、吹き出しで異なる意見を言わせる、というスタイルで、問題の解決方法が1つではないことを、児童に教えている。複数の登場人物をつかった複数の考え方や式の提示は、外国の教科書にはあまり見られない、日本の教科書の特徴の1つだという。
もちろん、解き方や式が1つしか提示されないことも多いが、以下にみるように、複数の考え方や解き方、式が紹介されていることもまた、珍しくないのである。日本の算数教育では、そうしたやり方で、児童が様々な見方を養えるようになっている。
複数と言っても、もちろん、それは2つとか3つとか数が限定され、その学年の知識にふさわしいものが選ばれているのである。小学生に方程式や図形の包摂関係、微積分を教え込むといったような、無謀なことが行われているわけではない。
算数教育をツイッター上で「超算数」と呼んで非難し続ける黒木氏や定数氏は、何としても、日本の学校算数教育が、無思考的・機械的なパターンマッチングか、あるいは、単なる暗記主義に陥っている、と叙述したいらしい。彼らにとって、日本の算数教科書のこのようなスタイルは、不都合な真実だと言える。
例を挙げていこう。1)最初は2年上巻から。「こどもが10人遊んでいたが、そこに2人来て、また6人来た。子どもは何人?」という問題。
だいち君は、後から来て加わった子どもの数をそのつど足している。これに対して、ひなたさんは、加わった人数の合計を出してから、それを最初の10人に加えている。
2)考え方と式のこの違いは、4年教科書の、括弧の使い方に関する章へと発展していくものである。「1000円をもって行き、600円の本と360円のお菓子を買ったときの残額は?」という問題では、さくらさんは買い物をするごとに千円から引き、しょうた君は買ったものを合計してから、それを千円から引いている。
この段階までは、児童は括弧の使い方や、かけ算と引き算の混合式をまだ習っていない。しかし、まさにこの章で、それを学ぶので、1つの式にすることが可能になるのである。
1000-600-360 =40 40円
1000-(600+360) =40 40円
3)◯が、単純な長方形ではない形状で並んでいるとき、かけ算を使って、そのすべての◯を求める問題で、かけ算が適用できる長方形状の配列をどこに、いくつ見るかは、さまざまな可能性がある。◯を1つ1つ数えることは不可能ではないが、ここでは、かけ算を習った直後なので、あくまでかけ算を利用する。
ゆみさんは、一番上の横列の3個を、2列目の3個分空いている部分に移動させて、1つの長方形(縦4個横6個)を作って、1つのかけ算の式で全部の数を求めた。6×4=24 24個
たくみ君は、大きい単純な長方形から、その一部を占める小さな長方形を除去して求めた。
5×6 =30, 2×3=6, 30-6=24 24個
足して求める方法もあるに違いない。これは4年生のときにやる、変則的な長方形の面積の単元に役立つことになる。
3×3=9, 5×3=15, 9+15=24 24個
6×3=18, 3×2=6, 18+6=24 24個
4)九九は通常は、被乗数または乗数が1から9までであるが、被乗数を12にまで拡張したい。まず、九九は乗数が1つ増えると答えは被乗数分増えるという規則性を使って、4の段を×12まで拡張する。
4×9 =36
4×10 =36+4 =40
4×11 =40+4 =44
4×12 =44+4 =48
次に、12の段を作るが、しゅん君は、12×4は4×12と答えが同じというという性質(交換法則)を使って、48という答えを出す。ひなたさんは、被乗数分増えるという同じ規則を使って、
12×1=12
12×2=12+12=24
12×3=24+12=36…
と、1つ1つ計算していき、12の段を構成している。
5)校舎脇の木は、2mの雲梯の3倍の高さ、校舎は木の2倍の高さのとき、校舎の高さは?という問題では、基準数×倍の図式に従い、まず、2m×3=6mと木の高さを求め、次に、木の高さを2倍する。6×2=12m 答え12m。もし1つの式に書くなら、(2×3)×2 =6×2 =12 12mとなる。
だが、だいち君は、あるものを3倍してから2倍する、というのは、結局、6倍するということなので、雲梯の高さ2mを6倍して(2m×6)、12mと求めている。この方法は、結合法則や括弧を習うと、次の様に正当化できる。
(2×3)×2
=2×(3×2) ←結合法則
=2×6 括弧内を最初に計算する
つまり、あるものをa倍してからb倍することは、それをa×b倍するのと同じことなのである。
6)三角形の面積はどのようにして求められるのか。既習の、四角形や平行四辺形の面積の求め方を利用して、三角形の面積を求めるさまざまな考え方が提示されている。
ゆみさんは、三角形と高さを同じくし、三角形の底辺ともう一つの辺を共有する平行四辺形を考える。そのとき、三角形の面積は平行四辺形の半分である。言い換えれば、平行四辺形は1つの対角線で、2つの合同な三角形に分解できる。平行四辺形の面積は、底辺×高さで求められるので、三角形の面積は底辺×高さ÷2で求められることがわかる。
たくみ君は、頂点Aから底辺に下ろした垂線で三角形を2つの直角三角形に分割する。2つの直角三角形のそれぞれにおいて、直角で挟まれた2つの辺を縦と横の辺とする長方形を考える。この直角三角形は長方形を対角線で分割してできる2つの面積が等しい直角三角形の1つである。だから、この長方形の面積は、含まれる直角三角形の2倍である。したがって、2つの長方形の面積の和は、2つの直角三角形の面積の和の2倍である。だから、三角形の面積は、底辺×高さ÷2で、求められる。
みほさんは、縦の長さが高さの半分で、底辺を共有する横長の長方形を考える。もとの三角形と比較した場合、この横長の長方形と重ならない部分は、同じ面積である。この横長の長方形は横の長さが底辺と同じだが、縦は三角形の高さが半分である。ここから、高さの半分×底辺で、三角形の面積が得られる。最終的には、ゆみさんの考えが採用されて、三角形の面積を求める公式は、底辺×高さ÷2と定められる。
7)1mの値段が80円のリボンを2.3m購入したときの代金は何円? 基準量×倍の公式に従い、80×2.3という式が立てられるが、これはどう計算したらよいのか。小数×整数は理解しやすいが、80×2.3のように、乗数が小数の掛け算は、どう考えるべきなのか。
たくみ君はまず、被乗数を10で割り、0.1mあたりの値段を求めた。0.1mは1mの1/10なので、8円である。2.3は0.1mの23倍なので、8×23で求められる。被乗数にaを掛け、乗数をaで割っても、答えは変わらないという性質を使ったとも言える。
これに対して、みきさんは、乗数を10倍して、23m分の代金を求める。2.3mは23の1/10なので、出た答えを10で割る。こうした説明のあと、最終的には、小数を含む掛け算の筆算では、小数点の処理が後で必要になることを除いて、整数の場合と同じように行えることが、明らかにされる。
8)200÷5というわり算は、どう工夫して計算したらよいであろうか。あおいさんは、割られる数200と割る数25をともに5で割って、40÷5という簡単なわり算に還元して考え、しょうた君は両者をともに4倍して、800÷100にして、わり算をした。
あおいさんはもしょうた君も、わり算では、割られる数と割る数に同じ数を掛けても(割っても)、わり算の答えは同じである、という性質を使っている。
9)割合の問題。かずお君は8回シュートして、そのうち5回入ったが、ひろし君は10回やって6回入った。かずお君とひろし君でどちらがシュートがうまいかというとき、入った回数の絶対数では比較できない。
このことは、もっと極端な場合を考えてみれば、明瞭になる。4回シュートして4回とも入ったA君と、50回やって5回しか入らないB君では、A君のほうが、入った絶対回数は少ないが、シュートがうまいと言える。
かずお君とひろし君を公平に比較するには、シュート回数を揃(そろ)える必要がある。ななみさんは、シュート回数を最小公倍数で揃えようとした。だいき君は、同じ長さだが分割の仕方が異なる棒で図的に表現して較べようとした。ひろと君は、1回のシュートで入る回数で比較した。
最終的には、ひろと君のやり方が採用される。シュートの成功率は、入った回数をシュートの回数で割って求められるが、これは、シュート1回のときの入る回数を求めることと同じことである。ここから、割合=当該量÷基準量という公式が得られる(日本の算数教育は公式暗記主義だとする批判は誤り)。
10)最後は、速さの表し方について。だいち君のソーラーカーは3分間で60m走り、ひなさんのは2分間で48m走った。どちらのソーラーカーが速いか(速さ)についてこの2つを比較するときは、シュートの例の場合と同じく、距離か時間をそろえる必要がある。
だいち君は、距離でそろえた。すなわち、1mに走るのにかかる時間を考えて、かかる時間が短いひなさんのソーラーカーが自分のものより速い、という結論を得た。これは式では、3÷60, 2÷48となる。3分を60mで割ることで、1mあたりの時間を求められる。
ひなさんは、1分に走る距離で比較した。つまり、分速で比較したのである。これは時間をそろえたということである。式は、だいち君の式とは、割られる数と割る数の数値が逆になっている。割る数に時間(分)をもってくることで、1分に走る距離を求められる。
計算の結果、だいち君のソーラーカーは分速20m、ひなさんは分速24mであった。したがって、ひなさんのソーラーカーのほうが速い。当然のことながら、結論は同じである。通常、速さといえば、単位あたりの時間に走る距離で表すが、だいち君の方法でも、まったく問題なく比較できる。
(2019/03/17のツイート「複数の考え方・解き方1~4」に基づく。)
2019年3月18日月曜日
交換法則の学習
かけ算文章題のテストで式が逆でバツになっている答案がツイッターなどにアップされているのを見て、小学校ではまだ、かけ算の交換法則を教わっていないのか、と反応する人が多い。
しかし、これは間違っている。教科書を調べると、小学生は2年の秋頃に、かけ算の学習を開始する。そして、かけ算の学習を始めてほどなく、2年生のうちに、かけ算の可換性(交換法則)を学ぶのである。かけ算の章の数は教科書により違うが、2~3章あり、その最後の章で、かけ算の可換性が明らかにされる。
小2はまず、かけ算の仕組みを学び、九九を五の段、二の段、三の段……と覚えていき、九の段、一の段で九九の学習が終わる。九九表を完成させた後、九九表に見られる規則性(「決まり」と呼ばれている)を探す。その決まりの1つが、かけ算の可換性である。
「交換法則」という用語はまだ使われていないが、そこでは、「かけられる数とかける数を入れ替えて計算しても、答えは同じになります。7×8=8×7」と書かれている。7つキャンディーが入った袋が8つあるのと、8つずつで7袋では意味は違うが、キャンディの総数は同じである。かけ算では、被乗数と乗数の数値を交換しても計算結果は同じなのである。これが、小2で習う、かけ算の交換法則である。
九九表完成以前にも、実は、4×3と答えが同じ三の段の九九は何?といった問いがあって、交換法則に気づくように、教科書は設計されている。九九の学習は単なる九九の暗記・暗唱ではないのである。1)可換性以外にも、2)各段は乗数が1つ増えると答えは被乗数毎に増えるとか、3)七の段の答えは三の段と四の段の答えの合計、という「決まり」も学ぶ。
六の段のところでも、「6×4の答えは、4×6の答えと同じになっています。6×4=4×6」と書かれている。このように、交換法則の学習は、すでに九九学習中に、伏線として敷かれているのである。可換性の学習は、この意味では、かけ算の学習とともに始まると言ってよい。
2年の単元テストには、次のような、かけ算の可換性が分かっているかどうかを試す設問がある。
だが、2年生の段階では、可換性は、九九表という、被乗数も乗数も1~9のかけ算がもつ性質に留まっている。
3年生の初めには、2年の復習として、あらためて、交換法則を学ぶ。そして、3年では、かけ算は、ゼロとのかけ算や、2位数以上の整数(ゼロと正の数)にも拡張される。それに伴い、交換法則の範囲も拡張される。
かけ算文章題では意味が重要になるが、計算では、意味は重要ではないので、式を一つ分×いくつ分の順で書くことを求められることはない。それどころか、計算の工夫という題で、小学生は交換法則などを用いて、計算を楽にする方法を学ぶ。
4年生には、分配法則や結合法則とともに、○や△、□を用いた式で、交換法則を学ぶ。同時に4年では、交換法則は小数に拡張される。
分数のかけ算は6年で学ぶが、その際に、かけ算の交換法則が分数にも成り立つことを確認する。
中学に入ってからも、交換法則は学ぶ。ここで初めて、「交換法則」という名称が使われる。また、この段階で、交換法則は負の数にも拡張されるのである。
このように、小学校の算数では、かけ算の交換法則が、少しずつ対象範囲となる数の集合を広げながらであるが、ほぼかけ算の学び始めの時点から、繰り返し教えられている。〈かけ算の順序〉教育にもかかわらず、かけ算の交換法則は、ちゃんと教えられているのである。このことは、かけ算の式が一つ分×いくつ分の順序で書くことを求められていることと、どう両立するというのであろうか。
小学校で、かけ算の可換性を教えないから、あるいは、かけ算は可換でないと教わるから、かけ算が可換であることを知らないまま大人になってしまう、と主張する人たちがいる。〈かけ算の順序〉教育の弊害だ、というのである。そのような人が根拠として挙げるのが、読売オンラインの発言小町の次のトピである。
ドリル「算数の掛け算」(読売オンライン発言小町 2004/06/07 14:38)
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2004/0607/002209.htm?o=0&p=0
これは、トピ主のドリル氏が会社で、取引先から来た請求書に書かれた掛け算の式が、数量×単価の順で記載されていたのを見て、「…式間違ってます」と上司に言ったところ、上司は「どっちだっていいでしょう! 出る答えは同じなんだから」と切れた、というトピである。
ドリル氏によれば、正しくは、単価×数量だというのである。その根拠に挙げているのが、ドリル氏が受けた小学校での授業である。だが、これはドリル氏が小学校での順序教育のために、掛け算の交換法則を知らなかった、ということなのだろうか。
だが、ドリル氏は、「どっちだっていい」という、上司の発言に対して、ドリル氏は「そういう問題ではない」と反応している点に注意すべきである。ドリル氏は、掛け算は逆順しても答えは同じ、という交換法則はわかっているのである。だが、「そういう問題ではない」と反応しているので、問題はそこではない。掛け算が可換なのか可換でないのかが問題なのではない、というわけである。
では、何が問題かと言えば、それは、式の立て方、請求書における式の書式や単位の付け方として、どれが正しいか、なのである。たぶん、ドリル氏が勤める会社では、算数で教わったのとあまり違わない書式を使っているのであろう。ところが、その会社が取引しているが、別の書式を使っているその別の会社の請求書を、ある日、経験が乏しいドリル氏が見て、「計算式間違っています」と、上司に言ったのである。
だが、小学校の算数では、さまざまな業界で使われているいろいろな書式を教えてくれるわけではない。
次の画像は、画像は、2015年に実施された国際的なテストであるTIMSSの資料からの抜粋である。足し算とかけ算の可換性、引き算とわり算の非可換性に関する設問の正答率の国別順位を示している。
nを整数としたとき、どんなnについても、次のことは成り立つか?
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n×6 = 6×n true false
n÷7 = 7÷n true false
日本の中2は、平均の55より、18ポイント高い73で、7位だった。〈かけ算の順序教育〉がなされているからと言って、日本の中学生が、かけ算の可換性を理解していない、とは言えない。他の多くの国々より、かけ算の可換性のことがよく分かっているのである。かけ算の可換性を小2から繰り返し教わってきたのだから、そのくらいはできても、おかしくはない。かけ算の可換性がわからない小中学生をたくさん生む〈かけ算の順序教育〉の弊害、というのは、実際には、起きていない。
しかし、これは間違っている。教科書を調べると、小学生は2年の秋頃に、かけ算の学習を開始する。そして、かけ算の学習を始めてほどなく、2年生のうちに、かけ算の可換性(交換法則)を学ぶのである。かけ算の章の数は教科書により違うが、2~3章あり、その最後の章で、かけ算の可換性が明らかにされる。
小2はまず、かけ算の仕組みを学び、九九を五の段、二の段、三の段……と覚えていき、九の段、一の段で九九の学習が終わる。九九表を完成させた後、九九表に見られる規則性(「決まり」と呼ばれている)を探す。その決まりの1つが、かけ算の可換性である。
「交換法則」という用語はまだ使われていないが、そこでは、「かけられる数とかける数を入れ替えて計算しても、答えは同じになります。7×8=8×7」と書かれている。7つキャンディーが入った袋が8つあるのと、8つずつで7袋では意味は違うが、キャンディの総数は同じである。かけ算では、被乗数と乗数の数値を交換しても計算結果は同じなのである。これが、小2で習う、かけ算の交換法則である。
九九表完成以前にも、実は、4×3と答えが同じ三の段の九九は何?といった問いがあって、交換法則に気づくように、教科書は設計されている。九九の学習は単なる九九の暗記・暗唱ではないのである。1)可換性以外にも、2)各段は乗数が1つ増えると答えは被乗数毎に増えるとか、3)七の段の答えは三の段と四の段の答えの合計、という「決まり」も学ぶ。
六の段のところでも、「6×4の答えは、4×6の答えと同じになっています。6×4=4×6」と書かれている。このように、交換法則の学習は、すでに九九学習中に、伏線として敷かれているのである。可換性の学習は、この意味では、かけ算の学習とともに始まると言ってよい。
2年の単元テストには、次のような、かけ算の可換性が分かっているかどうかを試す設問がある。
だが、2年生の段階では、可換性は、九九表という、被乗数も乗数も1~9のかけ算がもつ性質に留まっている。
3年生の初めには、2年の復習として、あらためて、交換法則を学ぶ。そして、3年では、かけ算は、ゼロとのかけ算や、2位数以上の整数(ゼロと正の数)にも拡張される。それに伴い、交換法則の範囲も拡張される。
かけ算文章題では意味が重要になるが、計算では、意味は重要ではないので、式を一つ分×いくつ分の順で書くことを求められることはない。それどころか、計算の工夫という題で、小学生は交換法則などを用いて、計算を楽にする方法を学ぶ。
4年生には、分配法則や結合法則とともに、○や△、□を用いた式で、交換法則を学ぶ。同時に4年では、交換法則は小数に拡張される。
分数のかけ算は6年で学ぶが、その際に、かけ算の交換法則が分数にも成り立つことを確認する。
中学に入ってからも、交換法則は学ぶ。ここで初めて、「交換法則」という名称が使われる。また、この段階で、交換法則は負の数にも拡張されるのである。
このように、小学校の算数では、かけ算の交換法則が、少しずつ対象範囲となる数の集合を広げながらであるが、ほぼかけ算の学び始めの時点から、繰り返し教えられている。〈かけ算の順序〉教育にもかかわらず、かけ算の交換法則は、ちゃんと教えられているのである。このことは、かけ算の式が一つ分×いくつ分の順序で書くことを求められていることと、どう両立するというのであろうか。
小学校で、かけ算の可換性を教えないから、あるいは、かけ算は可換でないと教わるから、かけ算が可換であることを知らないまま大人になってしまう、と主張する人たちがいる。〈かけ算の順序〉教育の弊害だ、というのである。そのような人が根拠として挙げるのが、読売オンラインの発言小町の次のトピである。
ドリル「算数の掛け算」(読売オンライン発言小町 2004/06/07 14:38)
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2004/0607/002209.htm?o=0&p=0
これは、トピ主のドリル氏が会社で、取引先から来た請求書に書かれた掛け算の式が、数量×単価の順で記載されていたのを見て、「…式間違ってます」と上司に言ったところ、上司は「どっちだっていいでしょう! 出る答えは同じなんだから」と切れた、というトピである。
ドリル氏によれば、正しくは、単価×数量だというのである。その根拠に挙げているのが、ドリル氏が受けた小学校での授業である。だが、これはドリル氏が小学校での順序教育のために、掛け算の交換法則を知らなかった、ということなのだろうか。
だが、ドリル氏は、「どっちだっていい」という、上司の発言に対して、ドリル氏は「そういう問題ではない」と反応している点に注意すべきである。ドリル氏は、掛け算は逆順しても答えは同じ、という交換法則はわかっているのである。だが、「そういう問題ではない」と反応しているので、問題はそこではない。掛け算が可換なのか可換でないのかが問題なのではない、というわけである。
では、何が問題かと言えば、それは、式の立て方、請求書における式の書式や単位の付け方として、どれが正しいか、なのである。たぶん、ドリル氏が勤める会社では、算数で教わったのとあまり違わない書式を使っているのであろう。ところが、その会社が取引しているが、別の書式を使っているその別の会社の請求書を、ある日、経験が乏しいドリル氏が見て、「計算式間違っています」と、上司に言ったのである。
だが、小学校の算数では、さまざまな業界で使われているいろいろな書式を教えてくれるわけではない。
次の画像は、画像は、2015年に実施された国際的なテストであるTIMSSの資料からの抜粋である。足し算とかけ算の可換性、引き算とわり算の非可換性に関する設問の正答率の国別順位を示している。
nを整数としたとき、どんなnについても、次のことは成り立つか?
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日本の中2は、平均の55より、18ポイント高い73で、7位だった。〈かけ算の順序教育〉がなされているからと言って、日本の中学生が、かけ算の可換性を理解していない、とは言えない。他の多くの国々より、かけ算の可換性のことがよく分かっているのである。かけ算の可換性を小2から繰り返し教わってきたのだから、そのくらいはできても、おかしくはない。かけ算の可換性がわからない小中学生をたくさん生む〈かけ算の順序教育〉の弊害、というのは、実際には、起きていない。
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