2019年3月18日月曜日

店内ルールとしての掛け算の順序

仙台市内の大学近くに1990年代末まであった、ゲームセンターの話である。このゲーセンでは、小銭を切らした客の依頼で店員が、紙幣を硬貨に両替するサービスを行っていた。両替機は店長が座る席のそばにあり、古くで操作に特別なコツが必要な年代物だったため、店長しか操作できない。客から両替を依頼された店員は、店長のところに行き両替を依頼すると、店長は、自分がいつも座る席の傍らにある古びた両替機で両替をするのであった。ときたま、動かなくなると、店長は両替機を開けて、貨幣を取り出している。

店員が店長に両替を依頼するときに書くメモで、50×100とただ書いたのでは、50円玉が100枚なのか、100円玉が50枚なのかわからない。たびたび、誤解が生じるので、店長があるとき、「店内両替メモでは、硬貨額面×枚数と書くこととする」という店内ルールを定めて、店内の掲示板に、このように掲示したとする。


 掛け算に表記上の順序を設定することで、誤解を防ごうとしたのである。順序は硬貨枚数×額面でもよかったが、店内ではどちかに統一しておくのが重要である。掲示されたルールが守られていれば、50×100は50円玉が100枚で、100×50のときは100円玉が50枚であることがわかる。もちろん、枚とか円とか単位・助数詞をつけても、誤解を避けることができるので、順序は解決法の1つにすぎないが、ともかく、店長は順序ルールを店内に敷いた。

これは、店長と店員のあいだの円滑な意思疎通(コミュニケーション)のために店内に設けられた、メモ表記上のルールである。だが、掛け算に表記上の順序を設定したからと言って、店長は、掛け算という演算に順序があるとか、かけ算は非可換であるとか、主張しようとしたわけではない。

あるとき、ゲーセンを利用した学生たちから噂を聞きつけた、近くの大学の世間知らずの数学者が、掛け算は可換であるのを理由に、「かけ算に順序などない、順序はどーでもいい!」「嘘を書くな! 数学的真理を否定するな!」と抗議しに乗り込んできた。これに対して、店長は、「あなたは、表記レベルの社会的ルールを、可換性のような原理的なレベルとごっちゃにしている」と反論すべきであろう。「ここはゲーセンであって、数学教室ではないのだ。」

「あんたは専門馬鹿で、世の中は数学だけで動いているのではない」と。50円玉100枚でも、100円玉50枚でも、合計は同じ5000円である。掛け算では被乗数と乗数を入れ替えても計算しても、答え(計算結果)は同じである。つまり、掛け算には交換法則が成り立つ。

店長も店員も、小学校のときに掛け算の交換法則は習っている。店長も店員も、合計が同じ5000円になることは当然わかっていて、可換性を否定するつもりは、毛頭ないのだ。掛け算の可換性は当たり前のこととして、そのうえで、店内での掛け算に表記上の順序を設定したのである。かけ算の順序は、かけ算の可換性と矛盾するものでは、もともと、ない。

もし、昨日から働き始めた学生アルバイト店員のK君が、100円玉×50枚のつもりで、50×100と書いたとしよう。店内ルールに反して、逆順式を書いてしまったのである。それを知らない店長は、ルールに従ってその式を解釈し、50円玉10枚を出した。新米のK君は自身も、意図した両替がなされたことにも気づかないまま、それを客のところに持っていき、客の怒りを呼ぶことになる。客の抗議を受けた店長は、アルバイトのK君を呼びつけ、掲示を指さして「この店では掛け算には順序がある」と言って、アルバイトに、書き直しを指示することになる。

日本の算数教育で、掛け算の順序を〈一つ分×いくつ分〉に設定しているのも、これと事情が似ている。足し算では、足されるものと足すものでは、同じく事物の個数で、同じ平面にあるが、掛け算では、かけられる数(被乗数)とかける数(乗数)は別の平面にある。

一つ分は、複数の同数グループがあったとき、各グループの構成員数であり、いくつ分はグループの数である。一つ分といくつ分、貨幣額面と枚数、は意味が違うので、その違いを位置の違いで表しているのである。
日本の算数では、いちいち注釈せずとも児童がわかるように、教科書や板書において掛け算の式を、一つ分×いくつ分の順で統一してある。一つ分×いくつ分の発展・派生形態である、単価×数量、基にする量×倍(割合)、速さ×時間、比例定数×xなどの式も、これに準じている。

それだけではない。児童がノートやテストで掛け算の式を書くときにも、この順序で書くことを求めている。教師は、児童がこのルールに従って式を書けているかで、一つ分×いくつ分の仕組みを押さえて、式を書いているかどうかを、チェックしているのである。

教育では、教えっぱなしではなく、教えたことができているかのチェック、つまりフィードバック、が必要になる。このため教育では、教師と児童のあいだで、絶えず、コミュニケーションが起きている。順序のルールは、一つ分といくつ分の理解という教育的な目的のために、教師と児童のあいだで設定された意思疎通のルールである。

児童がこの順序で式を書けていないと、答えは合っていても、式がバツになり、学生アルバイト同様、テスト直しで直してくるように指示される。ところが、バツにされた採点答案を、多くの人が誤解して、日本の算数では掛け算が非可換であると教えられている、と勘違いするのである。

この勘違いに基づいて、「日本の算数教育はトンデモ化している」「小学校の教師は、児童より数学ができない」と、算数教育批判を始めてしまう。その激しさは、在日特権を守る会のヘイトスピーチのレベルに達している。自分が言っていることが、TIMSSやPISAで日本人の小中学生が最上位クラスの成績を収めている事実と相いれないことが、わからないのであろうか。中には、にせ科学批判に掛け算の順序を持ちこんだり、文科大臣に順序教育を止めるように訴えたりする者まで、現れている。

異常というほかはない。

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注 ゲーセンのこの例は、ツイッターで日本の算数教育を「超算数」と呼んで非難している黒木氏が挙げていた例から拝借した。
「#超算数 例えば、ゲーセンの店長がバイトの子に
50×100
と書いたメモと5千円札を渡して両替を頼んだとしましょう。チョー算数スタイルの信者は「50円玉100個への両替」のことだと信じて疑わないかもしれない。しかし常識的にはそれと「50個の100円玉への両替」の両方の可能性を疑う必要がある。 続く」
「#超算数 これはまさに国語の問題であり、誤解されずにすむ意思伝達を実現するためには、チョー算数独自の非常識な掛算順序に頼るスタイルを廃して
50個の100円玉
とか
50円×100
のような誤解の恐れがない表現を使うべきなのです。」(黒木氏 2018/05/02 14:31)