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現代化以後の算数教科書における図形の包摂関係の扱い

 「正方形は長方形である」といった、三角形や四角形のあいだの包摂関係は、現代化の時代(1970年代)に、集合概念や、その関係を表す記号(⊂)やヴェン図を用いて、小学校で教えられた。


正方形が長方形の、正三角形が二等辺三角形の、長方形が平行四辺形の特殊な場合であることが教えられていたが、理解できない児童がかなりの割合でいた。

たとえば、読売小町の図形のトピにレスをした、赤熊(redbear)氏は、小4のときにクラスで勃発した、「長方形は平行四辺形である」問題について述懐している。そのとき、小学生の赤熊(redbear)氏だけは「長方形は平行四辺形だ」と主張したが、クラスの他の同級生はすべて、これに反対した、という。

翌日、その説明を考えてきた赤熊氏は、クラスでその理由を発表し、数学を専攻した教師によって、赤熊氏が正しいという裁定が下ったのだという。「長方形は平行四辺形である」と教えられていた現代化の時代なので、教師がそのような裁定を下したのは、当然である。私が注目したいのは、クラスで、赤熊氏以外の同級生たちが、それに同意しなかったことである。

現代化時代は、集合や位相などの、現代数学の抽象的な概念を採り入れられ、教える内容が形式化し、同時に、他の既存の学習項目が削られなかったために詰め込み主義ともなった。このため、算数の授業が理解できず、算数がきらにいなる児童が割合が増えた

このような過酷な現代化算数に対する反動と反省から、1980年代(ゆとり第1期)になると、基礎に帰ろうとする運動が鮮明になった。集合概念や記号やヴェン図は用いられなくなったが、しかし、図形の包摂関係については、教科書に「~は…の特別な場合である」などと、はっきり書かれていた。たとえば、「ひし形は、平行四辺形のうち、隣接2辺が等しい特別なもの」とされている。

そのことを納得させる方法として、東京書籍は、上の画像のように、色が違う合同な平行四辺形の形の紙をずらしていく直観的な方法を用いた。学校図書は同様に、長方形型の紙を封筒から少しずつ出して見せた。封筒から外に出た長さがその長方形の幅と同じになった瞬間に、長方形は正方形となる。


定義に訴える論理的な方法で納得させようとする、教育出版のような教科書もあった。

正三角形が二等辺三角形の、平行四辺形が台形の特別な場合であることは、次のような、巻末の穴埋め練習問題を通しても、教えられた。台形【のうち】、もう1組の対辺も平行であるという、条件が加わることで特殊化したものが、平行四辺形なのである。

だが、直観的な方法には、限界があった。というのも、長方形の紙を封筒から少しずつ出していく方法では、外に出た部分がちょうど正方形になる瞬間があるが、そのとき、それが依然としては長方形なのか、それとも、その瞬間だけ長方形をやめるのかが、不明である。

1990年代には、包摂関係は、直観的な仕方で示唆されることはあっても、「~は…の特別な場合である」という表現で、はっきり言われることがなくなった。

ただし、啓林館のように、平行四辺形を描くときに決める角度や長さの調整によっては、平行四辺形が、長方形やひし形になることを示す教科書はあった。学校図書も、平行四辺形を描かせる課題で、隣接2辺のあいだの角を90°にしたときの図形の名称を問うている。

2000年代(ゆとり第3期)は、東京書籍や日本文教を見るかぎり、示唆さえない。包摂関係は、まったく教えられていないようだ。

算数教育指導用語辞典(第3版)には、2000年代の教科書の規準となる「新学習指導要領(平成10年改訂)では,正方形と長方形とは別の形として指導するように決められ, 小学校では図形の包摂関係については取り扱われないことになった。」とある。

2010年代は、ゆとりに対する最初の反動であった。比の値や倍数、反比例、文字を使った式、場合の数などが、中学からふたたび戻ってきた。ただし、包摂関係は、わずかに示唆されるだけに留まっている。1990年代のレベルに戻ったと言える。

東京書籍は、1990年代の学校図書と同様に、平行四辺形を作図させる課題で、角度を90°にするとどんな四角形になるかを問うている。その答えは長方形であるが、その長方形が依然として平行四辺形なのか、それとも、もはやそうでないのかは、何も言われていない。だから、示唆に留まる。

また、学校図書にだけは、必修ではない発展的な学習項目のコラムとしてであるが、現代化時代と同じ(ただし、洗練されたデザインの)、四角形の包摂関係を表すヴェン図が載っている。だが、それについての説明は何もなく、本文との関係も不明である。2020年代も同様の図が載っている。

2020年代(現行)は、2010年代よりも、さらに、示唆が増えたように思われる。画像は、頂点を円の中心に、底辺両端を円周上に置く二等辺三角形について、中心角の設定によっては、正三角形になることが示唆されている。直観的な仕方でだが、包摂関係が示唆されている。


しかし、1990年代と同様に、「正三角形は二等辺三角形の特別な場合である」というような書き方をしていない。

現在、算数では、包摂関係は、明確には教えられていないのである。では、正方形と長方形、正三角形と二等辺三角形の関係が排反的だと積極的に教えられているかというと、そういうわけでもない。生活世界では、「今度買うこたつの形は正方形がいい?それとも長方形?」という言い回しに見られるように、排反的に図形が分類されている。児童は、学校で図形を習う以前から、生活言語の使用を通じて、そのような、素朴な図形分類に従っており、小学校の教育は、とくに、それに手を加えることはないのである。

三角形間、四角形間の包摂関係を理解するには、定義に従って概念的に考える能力が必要だが、小学生は概念的思考が発展途上で、図形を定義からよりも、視覚的イメージで捉えようとする。包摂関係は中2で教わるので、急いで無理に教える必要はないと思われる。

図形については、他にも小学校で学ぶことが多数あって、それをしっかり習得できるように、指導すべきであろう。小学校算数では、封筒などを用いた直観的な方法による、示唆に留まる指導で十分であると思う。


(2025/02/23のtwitterの連ツイに基づく)

帯分数主義と仮分数主義の相克

A.変遷

小学校算数では、昔から、帯分数どうしのたし算・ひき算は、整数部分どうし、分数部分どうしを足し引きする(必要に応じて繰り上がり繰り下がり)、という計算方法が教えられてきた。


小学校算数は、伝統的には、帯分数主義なのである。だが、教科書をこの60年間くらい遡って調べると、それほど単純でないことがわかる。上の画像は1950年代の東京書籍の算数教科書から、下の画像は1960年代の啓林館教科書からのものだが、いずれも、帯分数のまま計算している。


ところが、現代化の時代(1970年代)になると、式に含まれる帯分数をすべて、最初にまず仮分数に言い換えてから、計算に入るという方法に、変わった。大日本図書の教科書には、仮分数にする方法のみで、従来の方法が載っていないのである。

啓林館も同様である。


しかも、(帯分数とは限らない)一般の分数どうしの計算でも、その最終結果を、仮分数のままにするのが標準になった。それどころか、そこには「1 2/3でもよい」(帯分数にしてもよい)という、(帯分数主義の伝統からすれば)ふざけた注釈が入っているのである。

分数の計算問題の結果を、帯分数で出して、ただし、「仮分数のままでもよい」と注記が入る、のではない。メインとサブが逆転していて、仮分数のままにするのが、メインになっているのである。これは帯分数主義からの大きな転換であった。

いな、大きな転換となる【はず】であった。というのも、集合概念や公理主義を無理に導入して、初等中等数学教育を高度化、形式化しようとする、現代化というこの無謀な試みは、早々と頓挫したからである。

児童・生徒の思考の発達に対する恐ろしい無知から、大量の算数嫌いと数学が苦手になった子どもたちの遺骸を校舎の暗い裏手に積み残して。

こうして、基礎と伝統への回帰が1980年代から始まった。1980年代の大日本教科書は、帯分数どうしのたし算・ひき算において、帯分数のままで計算する方法をメインとし、仮分数に変換する方法を、「することもできる」と追記するようになった。


現代化時代に追放された「帯分数のまま」の方法が復権し、成り上がっていた「まず仮分数に」の方法が、独裁者の地位から転落して、その従者に身を落としたのである。それどころか、同じ1980年代の東京書籍の教科書では、帯分数のままの方法しか書かれていない。

教育出版も、帯分数のままの方法のみである。


1980年代はゆとり第1期とすると、1990年代はゆとり第2期である。ゆとり第2期も、学校図書の教科書を見ると、帯分数のままで計算する伝統的な方法しか、載っていない。


ゆとり第3期の2000年代は、真正ゆとり期と呼べる時期であった。この時期には、小数の最初の単元が小3から小4に、分数のたし算ひき算が小4から小6に、5年で学ぶ倍数・約数が6年になど、学ぶ内容が上の学年に回された。

比の値や場合の数、反比例、文字式のような、小学校で学ぶことが中学に回された。この真正ゆとり期は、帯分数どうしの加減の点でも特異だ。というのも、整数±分数や整数-真分数は出てくるが、帯分数どうしのたし算・ひき算が、そもそも出てこないからである。

2010年代は、ゆとりに対する反動の最初の時期となった。帯分数どうしの加減の説明が回復された。同時に、しばらく追放されていた、まず仮分数にする方法が復権し、「帯分数のまま」と「まず仮分数に」が併記されるようになった。

大日本図書教科書も「両論併記」。

続く、2020年代現在は、現行の学習指導要領は現代化指導要領に次ぐ難しさと言われるが、現行の教科書でも、2つの方法が併記されている。これは東京書籍。


大日本図書。


以上のように、教科書の記述を年代順に追うと、伝統的には、小学校の算数教育は帯分数主義であったが、それほど単純ではなく、現代化のときに、仮分数主義が帯分数主義を、一気に一掃しようとしたものの、現代化の失敗で、仮分数主義が失墜し、帯分数主義が復活し、その後、ゆとりに対する反動のなかで、仮分数主義がぶり返し、今は、ほぼ対等に扱われている。


B.仮分数主義の台頭?

最近、帯分数主義の塾講師から、塾生たちが、5.2-3と1/3のような計算も、仮分数にして計算するので、手を焼いているが、これは、小学校の教師の誤った指導のせいではないか、という声があった(c_kun20august氏 twitter 2025/02/10 00:43PM)。

また、家庭教師のKabuTaro氏からは、入試では帯分数のまま計算したほうが楽な場合もあるので帯分数のままの方法を教えているが、教えなければ、ほとんどの子はまず仮分数に直して計算する、という。Kabu氏は、小学校では仮分数主義の方法しか教えられていないのではないかと疑っている。

だが、小学校算数の教科書は、このところ10年以上は「両論併記」なので、小学校で仮分数法しか教えていない、というのは、ありそうもないことである。教科書以外に、学習指導案やドリルの解答などを見ても、小学校で両方とも教えている事実は動かないようにみえる。

だが、こういうことはあるかもしれない。小学校では2つとも教えるが、どちらでもよいと教師から教わるので、児童がくり上がり繰り下がりがない、手順が単純な仮分数主義を圧倒的に好む、ということが。好んでよく使うから、仮分数法には習熟するが、逆に、ほとんど使わない帯分数法には、いつまでたっても慣れず、そのうち、やり方を忘れてしまうのである。

それに、帯分数のかけ算・わり算も、まずは仮分数に直すので、まずは仮分数で直す仮分数主義の方法のほうが、加減だけでなく乗除も含めた分数の計算の方法としては、一貫している。

加えて、最近は、計算結果が仮分数のままでもよいとされるようになったことが、これを後押しした可能性もある。以前は、分数の計算問題や分数を使う文章題では、最終的な答えは、仮分数のままにしてはならず、帯分数にしなければならなかった。


だが、今は、「帯分数は中学以降の数学では使わない」などの理由からか、それを言わなくなった。ドリルの解答でも、答えを帯分数に直したものと仮分数のままとが併記されるようになった(注1)。まずは帯分数を仮分数にして計算し、仮分数のまま計算を終えてもよいのである。「帯分数のままの方法には、仮分数を帯分数に直す手間がない」という利点があったが、それが失われた。

上で言及した塾講師(c_kun20august)氏は、「大手塾で……全て仮分数に直して通分、計算させる算数講師が増えてきて」いるせいだとも述べていた。だとすると、塾界で、仮分数主義が帯分数主義に対して、その支配域を拡げつつあるのかもしれない。今見てきたように、伝統的には帯分数主義の算数教育にも、全体の流れとして、同様の仮分数主義の台頭の傾向があり、仮分数主義が帯分数主義と相並ぶようになった。

分子が大きくなっても、計算力があるなら、手法が単純で例外がない仮分数主義のほうが受験には都合がよいのであろう。しかし、受験を目的とせず、基礎をしっかりと学ぶ小学校算数では、既習の整数との関係を示す帯分数主義をメインとする指導が適切だと思う。


注1

画像のように、帯分数の答えをメインにして、仮分数の答えが括弧内に書いてある。ところが、模範解答をこのような書き方にしたために、=帯分数でも=仮分数でもどちらでもよい、というのではなく、=帯分数(仮分数)のように、一方を括弧に入れて両方とも書かないとバツにされる、というような、ドリル・ワークの模範解答執筆者の意図をとらえ損なっていように見えるおかしな採点も、小学校では起きている。

だが、結果として、児童に、答えを帯分数と仮分数の両方で書かせることになっており、安易に仮分数主義に流れるのを防ぐ役割をはたしている、と言える。帯分数表記のほうが整数との関係が見えるので、出てきた答えがどのくらいの大きさなのかが、わかりやすい。とくに、分数が使われ分数で答えを出す文章題では、答えは是非とも帯分数で書くべきである。だから、児童が分数の概念とその四則演算を習い始める小学校算数では、帯分数の需要がどうしてもある。このような括弧付きの表記にしないとバツの採点は、その抑えきれない需要の結果なのではないか。


(2024/02/23のtwitterに基づく)

Y君は順序指導の被害者か?

 「支援教室でかけ算をできるようになっていたYちゃんが、小学校でかけ算順序固定強制指導を受けたせいでかけ算の問題を解けなくなってしまった。」(黒元氏 Twitter 2025/10/04 10:49AM)


黒元(genkuroki)氏が誤用する論文は

宮田佳緒里・蛯名正司・工藤与志文「かけ算の意味理解を促すための問題状況の図示の試み――学習支援教室に参加する児童への教授活動を事例として――」『教育ネットワークセンター年報』(東北大学大学院教育学研究科)11(2011年)pp.53-60

この論文は、2011年に発表され、黒元氏が翌年に取り上げて以来、順序指導がかけ算の理解を阻害することを示す論文として、自由派のあいだで、引き合いに出されてきた。だが、この論文に出てくるY君の学習支援は、本当に、順序指導の弊害を示しているのか。

「掛算の文章題を解けるようになっていた小2のYさんが自信を無くしていたのは、学校で「かけられる数とかける数」の順序を指導されたことが原因【らしい】。まさに掛算の順序強制の被害者。」(黒元氏 Twitter 2014/10/16 11:18AM)

「11月中旬には掛算に関する文章題も絵の問題もY君は解けていた。しかし12月になると意気消沈してしまう。その原因はどうも学校での掛順こだわり教育【らしい】。」(黒元氏 Twitter 2014/12/18 11:59PM)

2014年の段階では、正直に「原因は……【らしい】」「どうも……原因【らしい】」と言われていたが、「らしい」がのちに消滅して、断言に豹変していく(不都合な)事実に注意しよう。

「例のYちゃんは、支援教室ではかけ算の問題を解けるようになっていたのに、小学校でのかけ算順序固定強制指導のせいでかけ算の問題を解けなくなってしまった。」(Twitter 2023/12/18 01:13PM)

「支援教室のお陰でかけ算の問題を解けるようになっていたYちゃんが、小学校でのかけ算順序固定強制指導のせいで自信を無くして問題を解けなくなった件」(Twitter 2024/11/25 08:32PM)

論文は、仙台市内の小学校児童Y君が、市内の私立大で受けた学習支援に関する報告である。「支援」という言葉は使われているが、別に、Y君に学習障害や発達障害があるというわけではないようだ。

Y君が教室に通ったのは、2010年10月~2011年1月までの5回。

1回目(10月初旬)計算問題 正答
2回目(10月初旬)文章題 解けず
3回目(11月中旬)文章題・絵問題 できた
4回目(12月初旬)Y君「わからない」
5回目(1月初旬)発問I~IV 絵問題・文章題ほぼできた

Y君は、文章題を絵で表すことに抵抗があるY君の特性に合わせて作られたこの5回の支援プランによって、最終的には、〈かけ算の順序〉も含めて、かけ算の問題を解けるようになった。

著者によれば、5回目の発問IからIVにかけて、Y君は、式の順序とかけ算の意味との対応付けを確固とすることができた。学習支援は成功したのである。ただ、Yのその後は、続編となる論文で扱われている。続編では、今度は小3で学ぶわり算がテーマである。

宮田佳緒里・蛯名正司「わり算の式の意味理解を促す図示の試み――学習支援教室に参加する小学生への教授活動を事例として――」『教育ネットワークセンター年報』12(2012年)pp.37-45

小学校の担任は、Y君の保護者によると、順序指導を徹底させる教師である。かけ算の単元は、年度の後半の初め(10月)から始まる。これに対して、学習支援教室では、順序を意識した支援は、5回目(1月)まではなかったと推測される。

Y君は、第1回目の計算問題は全問正解であったが、2回目の文章題がまったく解けなかった。計算はできるが、文章題ができない、というのは、よく見られる傾向である。式を与えられれば、計算できるが、文章題が描く状況から、その状況を解決する式を立てられない。

Y君が、学校でかけ算の学習が始まる10月初旬においてすでに、かけ算の計算問題を全問正解できたのは、九九を家ですでに学んでいたから、と考えられる。3回目(11月)では、Y君は文章題と絵問題を解けた。喜んで解いたと言う。

ところが、4回目(12月)になると、Y君が「わからない」と言って、問題を解けなくなった。保護者によると、「Yはかけられる数とかける数がわかっていないらしい」から、ということであった。

そこで、スタッフが、4回目までにY君が取り組んだ問題について、Y君が書いた式を支援スタッフが見直すと、問題文の登場順で式を立てていたことがわかる。これは、そのときまで、支援は、どちらかかけられる数かを意識せずに、行われていたことを意味する。

3回目は、Y君は問題を解けたが、ここではまだ、スタッフは、順序が逆でも「できた」、と判断していたと思われる。かけ算の意味の理解としては、Y君はまだ、不十分なレベルにいたのである。

ところが、4回目では、3回目では解けていたのに、Y君は急に「わからない」と言い始める。なぜそうなったのか。

保護者の「見立て」では、「「かけられる数とかける数」について、よく分かっていないらしい」から、というもの。支援スタッフも、4回目のこの後退は、式の順序とかけ算の意味の対応付けの段階で、一度つまずいたのだ、と考えた。

つまり、Y君は、かけ算の意味の理解に必要なものとして学校で求められていた、かけられる数とかける数(1つ分の数といくつ分)の理解が、まだ不十分であったである。

ところが、黒元氏は、10月からかけ算の学習が始まり、Y君が順序指導徹底派の教師から、順序指導を受けたせいだ、と考えたのである。Y君の理解の後退は、学校での順序指導が原因だと黒元氏は言う。ものはとりようである。

では、2回目の後退(Y君は文章題が解けなかった)はどうなるのか。同じ順序指導のせいではないのか。2回目では解けなかった文章題が、3回目で解けるようになったのは、順序指導のせいではないのか。

順序を意識した支援が行われた5回目には、Y君はふたたび問題が、順序を含めて、解けるようになった(これは順序指導のせいではないのか)。2回目と4回目にできなかったのは、一時的なものであった。

それは、新しいものを学び始めたときに、途上で起こりがちな理解の一時後退なのであろう。学習と理解は、いつでも、漸進的・直線的に進むわけではない。行きつ【戻】つりがあり、2回目と4回目はちょうど【戻】った時期だったのであろう。

5回目では、教師からの徹底した順序指導に加えて、順序を意識した学習支援もあり、Y君は、式の順序を含めて、かけ算の文章題や絵問題が解けるようになった。論文は、順序指導が最終的には成功したことを示しているのである。

この論文が扱う事例は、順序指導を受けると、児童が混乱して、かけ算が理解できなくなった例ではない。そこでは、Y君が、順序指導のもとで、小学校と支援教室で、小2で学ぶかけ算を理解するにいたるまでの経過が記述されている。

Y君は、たしかに、かけ算にとって基本的な、かけられる数とかける数の理解で、短期間つまづきはしたが、最終的には、かけ算の文章題を解けるようになったのである。Y君は、順序指導の被害者ではなく、受益者だったのである。

「かけ算順序固定強制指導を受けたせいでかけ算の問題を解けなくなってしまった」という黒元氏の表現は、つまづいて、その後もずっと解けていないかのような印象を与え、5回目にはY君が問題を解けるようになった事実から注意をそらそうとする、不適切で不当な表現である。

もとの論文を読まずに、【らしい】が脱落した黒元氏のポストだけを読んで悪影響を受けたチルドレンたちが、順序指導がかけ算の理解を阻む証拠として、黒元氏の赤字入りのこの論文文面をさかんに引用することで、デマと論文の誤用がますます拡散することになった。

自由派のデマに騙されないように注意しよう。


(2025/10/04のtwitterに基づく)