2019年5月5日日曜日

小数の筆算でゼロを消すことの意味




「姪っ子の小3算数テストの採点結果。.0の有効数字に意味があるというのに全く訳がわからない。」(kennel氏 2016/11/16 04:33)

2016年11月から翌年にかけて、3.9+5.1=9.0という小数の筆算で、9.0のゼロを斜線で消していないために減点するテストの採点が、ツイッターやブログなどで、激しい非難を浴びた。日本の算数教育がおかしくなっているのではないか、というのである。茂木健一郎氏のように、これを子どもに対する虐待だとして非難する者まで現れた(注1)。その発端が、上記のkennel氏のツイートである。

この答案は、さらに、テレビの「林先生が驚く初耳学」というテレビ番組(2016年12月25放送)でも、取り上げられた。算数教育がどうあるべきかという議論を、権威で解決しようとする林修氏のやり方が正しいかどうか、ということは、ここで措いておくことにしよう。林氏は、京都大のフィールズ賞受賞者でもある数学者の森重文氏を訪ね、こうした採点の仕方の妥当性をきいた。森氏の回答は、最初に「できるだけ簡潔な表現にせよ」という指示がないのであれば、自分の感覚では、減点はない、9.0で何が悪いのか、というものであった。

森氏が「できるだけ簡潔な表現にせよ」という指示がないならば」と条件を付つけて言っていることに注意すべきである。たしかに、kennel氏のアップした答案の問題文には、そのような指示か書かれていない。だが、できるだけ簡潔な表現にするのは、算数・数学では、それが問題文にいちいち書かれていないなくても、しばしば求められることである。「数字は10進法で書く」というのと同様に、あまりに自明なことなので、問題文にはいちいち書かれないのである。それは算数・数学における「書かれざる指示」の1つなのである。

だから、3+5×(9-3)のような計算問題で、=3+30で式を終わらせたら、バツにされてしまう。 =33まで書かなければならない。

3+5×(9-3) =3+5×6 =3+30 =33

3+5×(9-3)と3+30と33の3者は等しいのであるから、3+30でも答えは間違っていない、とは主張できない。その理屈がもし通るなら、
3+5×(9-3) = (9-3)×5+3
と書いても、たしかに等号は成り立っているので、正解だということになろう。3+30のままで終わらせたら、未だ計算が終わっていないと見なされるであろう。計算問題では、しばしば、単一の数値になるまで、式を短くすることが求められている。


分数の計算問題や分数の計算が必要な文章題では、式の最後に出てくる分数は、もうこれ以上約分できない既約分数にしておかなければならない。このことは実は教科書には書かれているが、計算問題の一問一問に、指示が書かれているわけではない。既約分数になっていないと、そのような指示に従えていない、または、約分できるのにそれに気づいていない、としてバツにされ、やり直しとなる。「できるだけ簡潔な表現にせよ」という指示は、実際には、存在するのである。



A)有効数字
kennel氏のツイートに戻ろう。kennel氏は、自分の姪の答案について、「.0の有効数字に意味があるというのに」と述べているが、これは2つの点で、間違っている。

第1に、有効数字は、中1で初めて学ぶのであり、この小3ではまだ学んでいない。このテストは小3の単元テストである。小3が、習っていない有効数字の処理を求められているはずはない。小3の授業やテストでは、有効数字の知識をもっていることは、そもそも、前提されていない。有効数字を理由としてバツにされることも、マルにされることもない。

有効数字では、小数点以下の位の数や数値が、精度を表しており、勝手に除去してはならない。しかし、ここでは、有効数字の処理は求められていない。求められていなくとも、中学で習う有効数字を先取り的に学んで、それを使って解答したなら、それは褒めてやるべきではないか、と言う人もいるだろう。

だが、それは、ありそうもないことである。kennel氏の姪は、別に有効数字を知っていて、それを適用して、斜線を引かなかったわけではない。

「姪っ子には親である弟が有効数字について説明し、この話はこれで終わりにしています。姪っ子本人はケロッと気にしていないそうなので皆さんご心配なく。」(kennel氏 2016/11/19 23:08)

と書かれていることからすれば、あとから親から教わったのである。有効数字を理解した上でケロッとしているのか、理解できないままケロッとしているのかはわからない。減点で「虐待」(茂木健一郎氏)を受けているのではないことは、確かである。ただ、彼女は斜線を引き忘れただけなのだ。kennel氏は、有効数字の処理に馴染んでいる大人の視点を、よく考えずに、算数のテスト問題の採点に対する評価に持ち込んでしまっている。

ツイッターなどで、算数の採点答案が問題視されるとき、その問題視は、より上の学年に獲得される概念を無意識に持ちこんでしまったことで、多くは起きている。

たとえば、かけ算の順序問題も、算数ではかけ算は〈一つ分×いくつ分〉という非対称図式で導入されるということに十分に配慮せずに、中高での、〈因数×因数〉の対称的な掛け算の学習を通じて養われる、〈順序のどうでもよさ〉の感覚を、算数教育に関する議論に、持ちこんでしまうことで、起きている。

ゼロを含む倍数概念も、同様である。高校や大学では、倍数は、ある整数(負の数、ゼロ、正の整数)について、その整数倍となる数である。倍数には、ゼロ倍のゼロや、〈負の整数〉倍も含まれる。そしてまた、〈負の整数〉やゼロについても、倍数を考える。だが、算数では、倍数にゼロは含まない。倍数は〈正の整数〉の〈正の整数〉倍なのである。たとえば、3の倍数は、1倍である3から始まり、2倍の6,3倍の9……と続く。

高校数学 3の倍数:... -6, -3, 0, 3, 6, 9, 12 ...
算数   3の倍数:3, 6, 9, 12, 15, 18 ...

算数では負の数を扱わないので、高校と同じ定義にすることは、もとより不可能である。それに、これはだいたい、定義なので、どちらが正しいというものではない。たしかに倍数のような基本的な概念は自己流に定義して使うのはまずいが、人々と意思疎通が可能な標準的な定義に従うべきであろう。そして、算数の倍数定義は、歴史的に見ても、常識的な定義である(注2)。高等数学で学ぶ倍数定義を、唯一正しい倍数の定義だとして無意識に考えてしまうために、それを外れている算数の倍数概念が不合理で非常識だと感じられるのである。

kennel氏のコメントも、既述のように、まさに、中学で習う有効数字の知識を、小学校の算数のテストの採点答案に対する評価のなかに持ちこんでしまっている。


第2の問題点は、有効数字の考えは、数学で扱われる数値には適用できないことである。算数・数学で使う多くの数値は、測定値ではなく厳密値なので、そもそも、かりに有効数字が既習であっても、適用できないのである。算数や数学で4.1cmとあったら、ぴったり4.1cmでおよそ4.1cmなのではない。算数や数学のテキストに現れる多くの数値は、誤差を含んでいない。


B)ゼロを消す

小学校の単元テストは、授業でやったこと、学んだことができるかどうかの確認のためのものである。授業で、小数点第1位までの小数どうしの足し算・引き算の筆算の際に、小数点以下のゼロを、斜線で消すことを習ったなら、ドリルやテストでも、それができるかどうかが試されるのである。そのゼロを消し忘れているから、減点されただけだと言える。



だが、どうして、算数では、小数点以下にゼロしかないときに、そのゼロを斜線で消すというような指導の仕方をするのであろうか。小学校の教師は、理由も必然性もなしに、そんなことを児童にさせているのであろうか。勝手なルールを作って、素直な小学生に従わせ、人を思い通りに動かす「独裁者」の感覚を楽しんでいるのであろうか。

そういうわけではない。小数点以下にゼロしかない数値のそのようなゼロを斜線を引いて消すのは、まず、1)そのゼロが不要だからであり、次に、2)既習の整数に関係づけるためである。ちなみに、その斜線が右上から左下にではなく、左上から右下に下ろす斜線であるのは、1などと取り違えないようにである。

1)有効数字が問題となりえない以上、小数点以下にゼロしかない数値のゼロは、省略可能である。もちろん、在ってももいいが、付けるだけ無駄なのである。9と9.0は数量的にはまったく等しいので、同じく等しいのなら、表現はできるだけ簡潔なほうがよい。だから、むしろ、消すべきである。数学で扱う数値は測定値ではなく、誤差をまったく含まない厳格値なので、小数点以下の桁数を気にする必要はない。

数値のなかに使われる数字のゼロには、省略が不可能なゼロとそうでないゼロとがある。省略できないゼロとは、たとえば、2005や9.03のなかのゼロである。これに対して、007や9.0、9.00000のゼロは、省略可能である。斜線を引いて消させているのは、児童がそうすることで、省略可能なゼロとそうでないゼロの区別を学ぶためである。

2)2つ目の理由は、既習の整数と関係づけるためである。kennel氏の答案は3年生の単元テストからのものである。小学生は3年生ではじめて小数を習う。小数を学び始めてから数週間後には、小数の足し算・引き算を習うのである。

その小数の導入の仕方であるが、それは「はした」という概念を使って行われる。「はした」というのは、「はんぱ」ということである。実際にある事物の、長さにしても重さにしても、単位となる基本的な量と等しかったりその倍数になったりすることは、稀である。ちょうど1m、ちょうど2mとは限らず、はんぱな長さや重さのものも多い。そのはんぱな長さや重さを数で表すには、どうしたらよいであろうか。そこで必要とされたのが、分数と小数である。

簡単な分数は既習なので、まず、1の1/10となる量を考えて、それを0.1と小数で表すこととする。教科書では、このようにして、小数が導入される。そして、それがいくつ分あるかということで、半端な量を表そうというのである。たとえば、1Lと少しの水は、リットルという大きな単位ではうまく表せない。その少しはみ出た部分を、1Lの1/10である、0.1Lを考えて、それが2つ分に相当するのなら、1.2Lとするのである。

整数は、英語では、whole numberと呼ばれる。つまり、整数とは、完全な数なのである。ということは、小数や分数は不完全な数ということになる。少なくとも、歴史的には、整数に対して、小数や分数は不完全な数を表すための苦肉の策として考案された、ということが、言語的な表現から推測される。小数や分数は特殊な数なのである。

だが、小数や分数が整数に対して劣った、不自然で、不完全な数だとかいった感覚は、大人にはない。むしろ、逆に、有理数も実数も知っている大人にとって、整数こそが小数や分数の一種で、ただし、それはたまたま、小数点以下にゼロがずっと並ぶ、特別な小数なのである。分数だったら、分母がたまたま1である特別な場合なのである。整数は、切りがいい、とても稀で幸運な小数のことなのである。

しかし、整数しか知らず、小数を学び始めた小学生の感覚には、分数や小数は、不完全な数だという理解のほうがフィットするでのであろう。というのも、小3は、それまで学んできた整数に加えて、半端な量を表す小数を学び始めたところだからである。小数が導入された直後の小学生(小3)の認識では、はんぱが出る特別な場合だけ、小数が登場するべきなのだ。小学生の認識では、9.0は「はんぱ」がないので、小数表現のような苦肉の策を取る必要がなく、従来通り、9という完全な数として表現すればよいのである。その意味でも、9.0の0を消されるべきものである。こうして、9.0が既習の9と関係づけられる。


次の画像は、1985年の、3年ではなく4年の教科書からのものである。この時代には、小数の足し算・引き算の筆算は4年ではじめて学ぶものであった。0.70が0.7と等しいこと(7.0が7と等しいことではなく)に対する子どもの認識を表す挿絵である。大人にとっては、0.70が0.7と等しいことはわかりきったことである。



3.9+5.1の筆算では、まず、小数第1位について。0.9と0.1を足す。これは、一方に0.1が9つ、他方には0.1が1つあり、両者を合わせれば、の0.1が10こになる。0.1は1を10等分した量なので、それを10個集めれば、元の1に戻るはずである。元の「完全な」数に戻ったのである。不完全な数字に必要だった小数点がある数字が、完全になることで、不要になったので、消す必要があるのである。だから、ゼロを消して、整数にしたのである。

小数の筆算で、計算結果の数値が小数点以下にゼロしかない場合にゼロを斜線で消させるのは、このように、1)既習の整数である9と同じものであることを確認するため、である。整数は習っているが小数をこれから初めて学ぶという段階で、小数が既知の整数とどう関わるのかが問題になるのは、自然なことである。筆算の結果でてきた9.0は、これまで親しんできた、1, 2, 3,... 9の9と同じことなのだ、ということを学ぶためにこそ、斜線を引かせるのである。3年で0.1は、1の1/10として導入される。だから、0.1が10個集まると、馴染みの1に戻るのである。

ツイッターで、今の小学校では9.0≠9と教えられているのか、と反応した人がいた。小学校で小数がどのように学ばれているかを知らない者には、たしかに、kennen氏がアップしたあの答案画像は、そのように見えるかもしれない。9.0は9と等しいので=9.0でもよいのに、減点されたということは、日本の算数教育では、9.0と9は等しくないと考えられているから、というわけである。実際には、その減点は、小数点以下のゼロを消すという指示を守れていないからつけられた教育的な減点である。学校のテストの減点やバツには、このような教育的な減点・バツが珍しくないが、それが数学的・計算的な減点・バツと誤認されることで、こうした誤解が起こるのである。

実際には逆で、9.0は既習の9と等しいこと、つまり9.0=9、であることを、わかるようにするために、小数点以下の要らないゼロを斜線で消させているのである。9.0と9が違うものだと思っている児童は、斜線でゼロを抹消することはできない。数学的には9.0=9であることがわかっている大人には、このように斜線を引いて消す訓練は、もちろん、不要である。測定値でないのなら、好みや必要に応じて、9.0のままにしてもよいし、9と書いてもよい。

9.0が9と等しいことを学ぶために、ゼロを線を引いて消している、というこの教育的文脈は、答案がネットにアップされてしまうと、脱落してしまう。そして、教育的文脈を知らない大人たちによる誤解に晒されるのである。そして、最近の日本の算数教育はなんてひどいのだ、ということになってしまう。自分自身も、小学生の頃に小数点以下のゼロを斜線で消していたことをすっかり忘れて、そう思うのである(注3)。




C)ゼロを追加する

逆に、ゼロを追加したほうがいい場合もある。小数の足し算筆算の習い始めでは、小数を習い始めたばかりの小学生は、9+2.6という計算問題で、9と6を同じ列に書いてしまうことで、=3.5と、間違った答えを書いてしまいがちである。小数の足し算・引き算で、注意しなければならないのは、このように位をそろえることである。このときは、むしろ、逆に、9は9.0に直したほうが、こうしたミスを避けられる。もちろん、慣れてくれば、不要になることであろうが。


3.6+0.835 = 3.600+0.835 =4.435
3.6のあとに、要らないゼロを追加するのは、これは、0.855と桁を合わせるためである。追加することで、3.600+0.835という小数の足し算は、3600+835という既習の整数の足し算の筆算と同じようにできる、ということが、より容易に見てとれるようになるのである。整数として足し算の筆算を行い、小数点の処理は後からすればよい、というわけである。桁がそろっていない小数どうしの足し算・引き算は、既習の整数の足し算を土台にして行われる。

0.001のいくつ分という説明の仕方を使って言えば、3.600は0.001が3600個分、3.600は、0.001が835個分なので、2600+835という足し算の筆算でまず、4435を求める。しかし、これは本当は、4435なのではなく、0.1が4435個という意味なので、本当の答えは4.435になるのである。整数の筆算と同じようにできることを理解してもらうために、ゼロを追加するのである。



注1
茂木健一郎「小学校の算数にまかり通っている「奇習」は、子どもたちに対する「虐待」である」(2016/11/20)
http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/8305779.html
「昨日、小学校の算数のテストで、「3.9+5.1=9.0」と書いたら、減点されたというツイートが流れてきて、とてもびっくりした。これははっきり言って一種の子どもに対する「虐待」である。」
「小学校の算数で、そのような奇習がまかり通っていることは国の恥と言うべきことだろう。」
「奇妙な「正解」を押し付けるのは、子どもの精神に対する虐待であり、許されることではない。」

注2
本ブログの別記事「倍数はゼロを含む? 」(2019/05/02)を参照のこと。
http://flute23432.blogspot.com/2019/05/blog-post.html

注3
茂木氏はまた、上記(注1)に引用した文章において、「ふしぎに思うのは、ぼくが小学生の頃は、「小数点」「かけ算の順序」「たし算の順序」といった問題は経験した記憶がないということで、いつからそんな奇習が小学算数の一部に広がってしまったのだろう。」とも述べている。

彼が実際にどのように教わったかは、茂木氏が実際に小学校で受けた授業がどんなものだったかを再現できる資料がないとわからないが、かけ算の順序は、戦前から続くかけ算指導法であり、小数の筆算で不要なゼロを抹消線で消すのも、遅くとも1970年代から続いている教え方である。茂木氏が記憶が無いというのは、教わっていないから記憶が無いのではなく、そう習ったのに忘れているだけであろう。




これらは、斜線でゼロを引く教え方が昔からあることを示す証拠である。画像上は、①1971年、中は②1975年の4年の算数教科書から。茂木氏はこの時代に小学生だった。下は、③1929年の教科指南書から。①では、斜線ではなく横線になっている。③には斜線はないが、5.00のゼロは消すのが普通であることを教えておく必要がある、としている。啓林館の1973年の教科書も、同様に筆算ではゼロに斜線は引かないが、6.00は6とする、と書いてある(p.109)。小数の筆算で不要なゼロを抹消させる教え方は、最近の現象ではない。

抹消線でゼロを消すルールは、整数や小数の四則演算を学習中の児童のために、小数の筆算の導入時に教育的な意味で一時的に設定されるもので、中学生以上には求められない。それは学年が進めば乗り越えられ不要になるものだから、忘れるのは当然であり、忘れていること自体は、健全であると言える。
忘れているかもしれないということに対する自覚がまったくなくて、高等数学を学んだ自分の感覚を、子ども自体の頭のなかに投影して、虐待だと言うのは、しかし、不健全というほかはない。



(※ すずすけ氏ブログ記事「小数の和と差の末尾のゼロに斜線を引かせる指導の根拠について調べてみた」(「パパ教員の戯れ言日記」2017/01/06)に対するコメント(2019/04/15)に基づく。)